いい匂いがする。
匂いに引かれてふらふらとそちらへ近づいた。
店先に並べられた焼きたての美味そうな肉。
突き刺さった焼き串から熱い肉汁が吹き出しているのを見ると、ごくりと喉が鳴った。
そういえば、朝から何も食べていない。
(腹、減ったな)
急に耐え難い空腹感が襲う。
美味そうだ……。
そう思ったら既に手が伸びていた。
A Little Taste
「ああ、お兄さん、美味いよ!食うかい?」
店の主の中年猫がにこにこと愛想笑いを振り撒きながら、アサトの手が届くより早く一本掴むと、
「ほらよ」
ひょい、と差し出す。
「熱いから、気を付けな」
「ああ……すまない」
アサトもにっこり笑って串を受け取る。
双方笑って顔を見合わせ……。
「ありがとう」
そう言うと同時にがぶりと肉に食いついた。
一口齧ると、美味そうに嚥下し、唇の端から滴り落ちる肉汁をぺろりと舌で拭う。
「美味い……」
無邪気に微笑むアサトを見て、主は笑いながら、片手を差し出した。
「おいおい、お兄さん、食う前にお代がまだだぜ」
にっこり笑う顔が心なしか、貪欲に歪む。
「………?」
目の前に手を突き出されたアサトは主が何を言っているのかわからず、きょとんとした表情で油で汚れた手のひらを黙って見つめた。
そんなアサトの様子を見て、主は焦れたように差し出した手を揺らした。
「おいおい。金だよ、金!まだ払ってねーだろ?」
「……か……ね……?」
アサトは何のことかわからぬげに、首を振った。
「何だ、それは?」
と、その瞬間、主の顔色がさっと変わった。
「てっめえ……ふざけてんのか?」
声が険しくなり、ぎらぎらとした目がアサトを睨みつけた。
「…………!」
その憎しみに満ちた視線を見て、アサトははっと身を強張らせた。それは……覚えのある、瞳だった。
(忌み子だ……)
(魔物め……)
(おまえなど、消えてしまえ……!)
(この、呪われた――……)
頭の中で、憎々しげな声がこだまする。
胸を突き刺すような、言葉の棘。
……また、だ。
もう慣れていたはずなのに……。どうしてこんなに苦しくなるのか。
苦しみは一気に怒りの奔流となり、うねるように激しく全身を打ちつけていく。
ぐるるる……と喉の奥から唸り声が洩れた。
全身の毛が逆立つ。
敵だ。
自分を傷つける、敵がいる。
「……なん、だ。おまえ……!――」
唸るような低音を吐き出しながら、ぐっと睨みつけると、相手は小さく息を飲んだ。醜い憎悪の視線に、僅かな恐怖が混じる。
「……ふ、ふざけんじゃねーよっ!食い逃げようったって、そうはいかねーぞっ!」
主は突き出した手をそのままアサトの方へ伸ばすと、襟を掴んで引き寄せようとした。
「何を、するっ!」
アサトは唸りながら、その手を片手で払いのけようとした。
少し力を加えただけで、相手の体は呆気なく弾け飛んだ。
「……うわっ!」
主の体が地面に叩きつけられると同時に、その振動で狭い店の陳列台の上に並んだ商品がばらばらと崩れ落ちる。一瞬で店の中はひどい有様になった。
地面に叩きつけられた主は怒りで顔を真っ赤にしながら、よろよろと起き上がった。
去っていこうとするアサトを見て、主は目を怒らせた。
「おいこらっ、食い逃げする気か!待ちやがれっ!」
大声を出して怒鳴り立てる主に、アサトは一瞬足を止めて振り返ると、鬱陶しそうな視線を向けた。その口はしっかりと肉を咥えたままだ。
既に何事かと周囲には、猫たちの輪ができ始めていた。
「この泥棒猫めっ、金払いやがれっ!」
主の怒鳴り声に、アサトはふーっと毛を逆立てる。
険悪な顔で睨み合いながら対峙する二匹の周りを他の猫たちが物見高そうに囲んでいる。野次を飛ばして面白がったり、不安そうに顔を歪めたり、周囲の猫たちの表情も様々だ。
「アサトっ……!」
そのとき、猫たちを掻き分けるようにして前へ出てきた猫が鋭く声をかけた。その声にアサトは振り返り、少し驚いた様子で声の主を見た。
「コノエ!」
口から肉を離したアサトに向かい合うなり、コノエはきつい視線を投げてくる。
「……な……に、やってんだ……よ……っ……!」
コノエは力なく呟くと、アサトが握り締める肉に目を向けた。
「それ……」
コノエの視線に気付いて、アサトはああ、と持っていた焼き串を目の前に出した。
「美味そう、だったから」
ぎこちなく、説明する。
コノエの咎めるような視線を感じて、アサトは少しうなだれた。
(何でだ。俺は何も悪いこと、してない)
「で、金払ったのか?」
「……か、ね……?」
コノエの問いに、アサトはきょとんとした表情でその言葉を繰り返す。
『かね』を払う……?
そういえば、さっきこいつもそう言わなかったか。
視界の隅に捉えた店の主の怒った顔に、ふと先程の会話を思い出す。
(かね、って何なんだ……?)
アサトには全くわからない、魔法のような言葉だった。
「――おっ、おい、ちょっと、あんたっ!」
その途端、店の主がコノエに向かって叫んだ。
「あんた、こいつの知り合いか!」
「……あ――はっ、はい……」
もごもごと答えるコノエに、店の主の怒りのこもった視線が集中する。
「なら、責任取ってくれっ!……食い逃げしようとするわ、それを止めようとすりゃあ、いきなり暴れやがってこの有様だ。……こいつのせいで店の中はもうめちゃくちゃなんだよっ!」
「コノエに怒鳴るな!コノエは何も関係ない」
アサトが睨みつけると、主人は一瞬びくんと怯えたように後退った。
「アサト!」
コノエは再び噛みつこうとするアサトを目で止める。
それを見て、アサトは渋々引き下がった。
「……すみません……」
コノエが慌てて提げていた麻袋から硬貨の入った小袋を引っ張り出して、丸い石を何枚か店主に手渡すのを、アサトは不満そうに見つめていた。
コノエが店主に頭を下げて、すみませんと繰り返すのを見て、何でコノエはあんなにあいつに謝るのだろうと腹立たしくなった。だが、コノエが何も言うなと言う以上、仕方がない。
「……ったく、そんな凶暴な奴は、どっかに縛り付けといてくれ!」
吐き捨てるように言うと、店主はさっさと店に戻って行った。
同時に店の周りを囲んでいた猫の輪も崩れた。緊張した空気は緩み、周囲には再び祭の喧騒が戻る。
「あいつが、先に怒鳴りつけてきた。手を出してきたのも、あいつだ。あいつが悪い。コノエは謝らなくても――」
コノエの傍に近寄りながら、憤慨した口調で言い始めたアサトを、コノエは軽く睨んだ。
「悪いのは、アサトだろ」
まともに咎められて、アサトは目を見開く。
荒々しい口調には、苛立ちが滲み出ている。
やっぱり、コノエは……怒っている。
耳がしゅんとうなだれた。
(おまえが、悪い……)
俺が、悪いのか。
(おまえなど……)
耳の奥で何かがぶんぶんと唸る。
これまでも何度も何度も言われ続けてきた言葉。
(おまえは……呪われている……)
何だか妙に胸が苦しくなった。
何で……と言おうとして、口を閉じた。
そんなこと、聞いても仕方ない。俺が悪いのだから。
叱られた小さな子供のようにうなだれたアサトを見て、コノエは表情を緩めた。
「――買い方、わからなかったのか?」
声が、和らいだ。
あれ?もう、怒っていないのだろうか。
「……かい、かた……?」
でも、コノエの言うことがわからない。
目を瞬く。
「『かう』、ってどうするんだ……?」
そう言うと、相手が目を丸くするのがわかった。
自分は、何か変なことを言ったらしい。そう思うと何となく落ち着かなくなった。
戸惑った表情のアサトを見て、コノエは小さく息を吐いた。
それでもコノエがゆっくりと、噛み砕くように説明してくれたお陰で、何となく『お金』というものとそれを使って『買う』という行為の意味がわかった。
そして、アサトは自分がひどく馬鹿なことをしでかしたのだということにようやく気付いた。
「……そう、なのか……」
何だか心が沈む。視線が地面に落ちた。
「すまない。迷惑をかけた」
コノエに、恥をかかせた。コノエは、さぞや呆れていることだろう。そして、こんな猫と付き合っていることに愛想を尽かしてしまうのではないか。
悲しくなった。
「いいよ。知らなかったんだから」
コノエの声は優しかった。
その声が、心に響く。
(コノエ……)
目を、上げた。
暖かい光を湛えた、優しい瞳と目が合った。
「わからなかったら、聞けばいいし、欲しいものがあれば俺に言ってくれればいい」
「……わかった」
そう答えながらも、コノエに対して申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
コノエは、優しい。
こんなに、優しい。
でも、俺にはそんな風に優しくされる資格はない。
(俺は、忌み子だ……)
吉良の村で蔑まれ、刷り込まれた記憶が、彼の心を曇らせる。
そんなアサトを見て、コノエは困った顔をした。
「気にしてるのか」
「……………」
「間違いなんか誰にでもあることだろ」
気にするなよ、と慰めるコノエを前に、アサトはますます唇を引き結び、頑なに目線を落としたままだ。
コノエに、悪いことをした。
そんな思いが消えない。
罪悪感……。
いや、違う。
そう考えて、ふと気付いた。
(……あれ)
なぜだろう。
今までは誰にどう思われようが、そんなこと、どうでもいいと思っていた。
なのに、こんなにも、今……。
他の誰かを気にするようになっている自分がいる。
コノエ。
コノエには、嫌われたくない。
嫌われたくない、から……。
「――じゃあ、わかった」
突然、コノエが声の調子を変える。
「それ、食いたかったんだろう?」
コノエはそう言うと、アサトが握り締めたままの鶏肉を指差した。
「あっ、ああ……」
少しの間忘れていた存在に目が止まる。
(こんなもののために、俺はコノエに迷惑をかけてしまった)
そう思ったとき、突然コノエの手が肉を掴んだ。
「俺が半分もらう」
「え……」
「俺とおまえで肉を半分ずつ買ったってことにする。それでこの話は終わりだ。いいな?」
「あ、でも……」
躊躇うアサトを無視して、取り上げた鶏肉にコノエはがぶりと食いついた。
あっという間に肉を美味そうに食べているコノエを、アサトはぽかんとした様子で見守っていた。
「コノエ……」
「美味いよ、これ」
まだもぐもぐと口を動かしながら、コノエは半分に引きちぎった肉をアサトに返した。
「ほら、おまえも食えよ」
おずおずと肉を受け取るアサトを見て、コノエは微笑んだ。
「それ食い終わったら、他のところも見て回ろう。せっかくの祭なんだからな」
何だろう。
アサトは声も出ず、ただ黙ってこくりと頷いた。
目の奥が少し熱い。
目をぎゅっと固く閉じて、肉に思いきり噛りついた。
香ばしい匂い。肉汁の味が口の中いっぱいに広がる。
「美味いだろ?」
コノエの声に、何度も頷いた。
美味い。
こんな美味い肉、初めてだ。
――暖かく満たされていく腹が心地よい。
口を動かしながら、ふと生きていることを実感する。
「……美味いな」
誰かと一緒に生きていられる幸せというのは、こんなものなのかな、と思う。
美味いものを一緒に食べて、美味いな、と言い合えるような誰かが傍にいる。
アサトにとっては、初めての経験だった。
美味いのは、肉なのか。それともコノエと一緒に食べられたから、美味いと思えるのか。よくわからない。
でも……。
今、自分はこんなにも生きていることが、嬉しく思える。
そして……ひょっとしたらこれからも、もっと嬉しいことと出会えるかもしれない。
満ち足りた気持ちで、彼は口の中から最後の一片がなくなった後もなお、いとおしむように何度も何度もその味を舌で味わい続けた。
(Fin)
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