The Blunt --7







 何が起こったのか、わからなかった。
 鼓膜を打ち破るようなその凄まじい咆哮に何もかも、呑み込まれていく。
 体を締めつける力が緩んだ。
「――ぐ……ぅ……」
 すぐ傍で、悪魔が怒りもあらわに歯噛みするのがわかった。歯の間から漏れる低い呻き声が次第に凄まじい憤りのこもった吼え声へと変化する。
 ぐおおおおおおおおおおおーーーーーーーーーーーーーっ!
 唸り声が幾重にも重なって、耳が裂けてしまいそうだった。
 獣と獣が牙を剥き、闘っているのだ。
 凄まじい殺気と、空気を切り裂くような振動と突風。
 目を開けていられなかった。
 全身の毛がそばだち、その毛先が僅かに震える。
 小さな仔猫のように、両手を膝に回し、その間に頭を埋め、身を庇うように蹲った。
 轟音と振動が暫く続いた後、急に周囲が静かになった。
 ぽた。
 ぽた。
 頭上から、何かが降ってくる。
 ぽた。
 ぽた。
 ぽた。
 髪に、首筋に、背に、腕に……。
 肌に触れると、染み入るように広がっていく。
 とくん、と心臓の鼓動が速まった。
 この、温み。
 満たされていく、感覚。
 自分はこれをよく知っている。
(これ、は……)
 かつて、自分があんなにも渇望してやまなかったもの。
 
 
 ……あたたかい。
 
 
 ……あたたかい、のに……
 
 
 ……哀しい。
 胸を締めつける。
 このやるせないほどの哀しみは、どこからくる……。
 
 
 うっすらと瞳を開く。
 顔を上げると、黒い毛が見えた。
 一瞬、自分のよく知る猫かと思って声を上げそうになった。
 が、それは猫ではなかった。
 驚きに、息を飲む。
 それは……
 猫ではない。
 猫とは似ても似つかぬ異形のもの。
 くぐもった唸り声が耳に障る。
 毛の間からどろどろと噴き出す鮮血が、ぽたり、ぽたりと落ちてくる。
 頬に、生暖かい雫が触れた。
 今度こそ、芯から体が震えた。
 
 
 これは……なん、だ……
 
 
(……ラ……イ……)
 
 
 名前を呼ばれたような気がして、どきりとする。
 ――今……確かに……?
 
「貴様あああ―――――――!」
 突然背後で再び咆哮が湧き上がった。
「その猫はこの私のおおおおおおお―――――――……!」
 巨躯が伸びる。
 ずぶっ、ずぶっと肉を切り裂く音が交差した。
 悶絶するような悲鳴が空間いっぱいにこだまする。
 あまりにも凄まじい血の匂いが周囲に満ち、気が遠くなりそうだった。
 不安定に揺らぐ視界。
 闇が溶け、空間が崩壊しかけている気配を感じた。
 ぬらり。
 突然肌に触れてきたものに、びくん、と体が撥ね上がった。
 べったりと体に密着する生き物の気配が、ライの身を竦ませる。頭上から覆い被さってくる巨躯。
 生き物の手から逃れ出ようと軽く身悶えすると、ぎゅ、と締めつけられ、息苦しさに喘いだ。
 生き物の触手が肌を撫でる。
(い、やだ……あ……っ……!)
 未知の生物に対する嫌悪と恐怖に体が震えた。
 無駄だとわかっていても、抗わずにはいられない。
 体に巻きついてくる赤黒い触手が視界に入ると、そのグロテスクさに一層嫌悪感が募る。
「……やめろ……っ……」
 ――放、せ……。
「……は、な……――っ……!」
 声が、途切れる。
 口を塞がれたせいだ。
「……ん……っ……んっ……う――……」
 ざらざらとした剛毛が、頬に痛いほど擦れる。
 貪るように蠢く長い舌に、口腔から喉の奥まで隈なく舐め尽くされた。
 あまりの苦しさに涙の溜まった眼をうっすら開くと、真っ黒な毛で覆われた醜い異形の顔の中に、二つの見覚えのある青い光が瞬いているのが見えた。
 その、瞬間――
 ふ、と体にかかった負荷が緩んだような気がした。
 触手の動きが、滑らかになる。
 さっきまでの苦痛が嘘のように引いていく。
 
 ――あ……
 
 化け物、ではない。
 これは……
 
 ――ああ……
 
 なぜ、こんな姿になって……。
 
 くちづけが、甘くなる。
 不思議だ。
 相手を認めた途端……。
 こんなに、体が楽になる。
 奴の、匂い。
 
(……ア、サ、ト……)
 
 気持ちが悪いと思っていた触手の動きが、なぜかさほど気にならなくなっていた。
 逆に、体がそれを受け容れようとしている。
 ぬるぬると蠕動する幾つもの触手の先端が、下肢を過ぎ、前に巻きつくと同時に、後ろの孔をも貪るように探り始めていた。
 全身の血が脈動を高める。
 暖かくて、熱い……。
 別の触手が太腿を持ち上げ、忽ち真ん中を大きく割り広げた。
 抗うすべもなく、むしろそれを待ち望んでいる自分がいることが不思議だった。
(ふ……)
 長い間唇を塞がれたまま、呼吸もままならぬ息苦しさに侵されながら……それでも、もう、苦痛は感じない。
 気を失いそうになりながら、それでも最後の正気を保っているのは、この思いがまだ自分の中で残っているからだ。
 誰かを強く求める、思い。
 誰かと共にいたいと願う、この強い思いが。
 
 こんな姿になっていても。
 自分には、わかる。
 おまえが、本当は何ものであるかが。
 だから、構わない。
 たとえ、おまえに傷つけられようとも。
 このまま、おまえの欲望に焼き尽くされて、この世界から跡形もなく消え失せてしまうことになるとしても。
 
(……俺には……他に生きる理由が、ない……)
 
 ふと同じような声が、聞こえたような気がした。
 
 ――おまえが、いなければ。
 ――おまえのいない世界ならば……。
 
 いつの間にか、その思念が自分のものであるのか、別の――もう一匹の猫のものであるのかさえ、定かでなくなっていた。
 
(……おまえに、触れたい……)
(……こうしていると、気持ち、いい……)
(……あたたかくて、気持ち、いい……)
 
 
 下肢の間から入り込んでくる生き物たちの手を感じる。
 窄まりを押し広げながら、奥深く突き上げてくる。
 痛みは、全く感じなかった。
 交尾のときに得る快感とも、違う。
 心の中は静かで、こんなにも満たされている。
 
 ――あたたかい。
 
 緩やかな刺激が、体の中をじんわりと温めていく。
 塞がれていた唇がほんの僅かに緩んだかと思うと、少し間をあけて、今度は啄ばむような優しいくちづけを何度も何度も繰り返した。
 
 ――だい、じょう、ぶだ……。
 ――俺は、おまえを、傷つけない……。

 
 アサト。
 アサ……ト……
 ア……サ……
 
 花の香。
 懐かしい、匂い。
 
 アサト……
 
 唇が、離れる。
 喘ぐ息遣いの下で、遠ざかる異形の顔を必死で追う。
 青い光が語りかけてくる瞬間を、見逃さぬように。
 
「……アサト……っ……」
 
「グ……ル……ルルル……」
 獣の低い唸り声が断続的に耳朶を打つ。
 だんだんそれはか細く、力を失っていくように感じられた。
 視界が、揺らぐ。
 目を瞬いた。
 どうしたのか。
 急に、世界が不安定になる。
 戸惑いながら、軽くなった両腕を前へ伸ばした。
 消えていこうとする何かを、自分の元へ引き戻そうとするかかのように。
 しかしそんな自分の腕の輪郭さえも、視界の中で薄らいでいくのを見て、ぞっとした。
 消えて、いく……。
 何もかも、なくなってしまう。
 アサトは……?
 遠い映像の中に、映る影。
 漆黒の獣の姿が闇に呑まれていく。
(ま、て……)
 追いかけようとした。
 止めなければ。
 奴が……。
 アサトが、行ってしまう。
 狂ったように両手を伸ばす。
 もはや両腕は実体をもたないものとなっていた。
 目の前には、何もない。
 自分の存在すら……。
 はっと見下ろして、戦慄に凍りついた。
 自分の体すら、ない。
 何も、見えない。
 自分は、ここに、存在していないのか?
 嘘、だ。
 虚無の、空間の中に、ただ己の思念だけが浮遊している。
 そうしている間にも……。
 獣の姿は、遠くなっていく。
 深く濃い闇が、獣を呑み込んでいく……。
 取り戻せない、場所へ……。
 
 ――ア、サト―――――――ッ!……………
 
 
 
 
 
 頭上でちっ、と舌打ちする音がした。
 ライは、はっと身を竦ませた。
 覚えのある、気配。
 憎しみと嫌悪の感情に、毛が逆立つ。
 ねっとりとした感覚が体内に広がる。
 気持ちが、悪い。
 何度も、全身を犯された。
 心も、体も……奴にいいように嬲られた。
 屈辱感が甦る。
 ――喜悦、の……。
 左目の奥が、疼いた。
 ――まさ、か……まだ……?
 崩れる闇の中で、確かに断末魔の悲鳴を聞いた、と思った。
 あれきり、気配が消えた。
 だから、ずっとその存在を失念していた。
 なのにまだ、ここに……。こんなすぐ傍に、いたというのか。
(……可哀想に……)
 哀れむような、声。
 間違いなく、悪魔のものだ。
(……こんなところにまで追いかけてくるなんて、正気の沙汰じゃないねえ……)
(……きさ、ま……っ……!)
 心が波立つ。
 不安が高まった。
 相手が何のことを言っているのかすぐにわかった。
 こいつは、知っている。
 全て、知っていて、仕組んだのだ。
(……アサトを、どう、した……っ……)
 頭の中で思念が炸裂した。自分の感情が極限まで高まっているのがわかった。しかし、止められなかった。止めようという気もなかった。
 アサト……。
 やはり、あれはアサトだったのだ。
 アサトは、一体どこへ行った……?
(……さあ、ね。どこへ行ったんだろうねえ……)
 とぼけた口調に、ライの怒りが増幅される。
(ふざけるなっ!)
(本当に知らないんだよ。ぼくにも、わからない。何せ、彼はもう猫ではなくなってしまったんだから……。悪魔にだって踏み込めないような世界が、この世にはまだまだたくさん存在するんだよ。彼の属する世界が、どこにあるのか、ぼくにだってわからない……)
(……な、んだと……)
 ライは愕然と呟いた。
 そんなライの弱々しい応えに、悪魔はくすりと忍び笑いを洩らした。しかしすぐに笑いは冷たい怒りに変わった。
(……忌々しい猫さ。お陰でぼくは、ようやく捕えたきみをまた手放さなければならなくなった。せっかく、きみを素晴らしいこの闇の檻の中に閉じ込めることができたと思ったのに。……しかし、馬鹿な猫だ。その代償に、今度は自分がもっと深い闇に落ちていったんだから……。もう、戻ってこれるかどうかもわからないような、世界にね……。いい気味さ)
 悪魔の言葉を、呆然と受け取る。
 何も、考えられない。
 思考が、止まった。
(……残念なことに、もうぼくにはきみをこれ以上捉えておくだけの力は残っていない。今のところはね。ふ、ふ、そう。今のところは……退いてやるさ。だが、これで終わると思ったら大間違いだ。覚えておくがいい……)
 毒々しい、悪魔の哄笑が響く。
 
 ――おまえは、ぼくのものだ。ぼくだけの……
 
(……諦めないよ)
 悪魔の思念がさらに悪意と嘲りの色も露わに、激しい勢いで流れ込んでくる。
(……ぼくは、諦めない。おまえは、このぼくから、決して逃れることは、できないのさ……)
(……悪魔は永劫の時間と、永遠の生を生きる。決して滅びることはない。くくく……)
(……だから、待っているがいい……)
(……ぼくには、まだまだ時間がある。おまえたち猫に与えられた時間はどれくらいか、わかるかい……)
 笑い声が、高くなる。
 頭が、痛い。
 割れるように、痛い。
 目を閉じ、耳を塞ぐ。
 注がれる悪意から我が身を守ろうとするかのように。
 それが、無駄な行為だとわかっていても。
 聞きたく、ない。
 これ以上、悪魔の言葉に耳を傾けたくは、ない。
 それなのに、意図を無視するように、声はますます増幅され、わんわんと反響しながら否応なしに脳内を侵していく。

(……最後におまえを手に入れるのは……)
 勝ち誇ったような声が、高らかに最後の言葉を放った。
 
(……この、ぼくだ……!……)
 
 
 
 
 
「……ライ」
 呼びかけられて、突然目を開く。
「ライ!」
 びっくりした声につられて目を上げると、コノエの泣き笑いのような顔が真上から食い入るように自分を見つめていた。
 体を、軽く揺すられる。
「ラッ、ライ……本当に、大、丈夫なのか……?」
 半信半疑といった風に顔を寄せてくるコノエの顔を見て、ライは思わず失笑した。
「……どうした?なぜ、そんな変な顔をしている」
 声が、空気にのる。現実の声音、だった。
 風が、流れた。
 冷たい風に、ぶるっと身震いして、よく見ると自分が全裸であることに気付いて忽ち羞恥に駆られる。
 一体、自分は……。
 むっくりと起き上がる。
 コノエが差し出す腕を軽く払った。
 病人ではない。大丈夫だ、という気持ちでしたことだったが、コノエは少し傷ついた顔をした。
 その表情に、どきりとした。
 自分は、何かこの猫の気分を害するようなことをしたのだろうか。
 記憶が曖昧で、よく思い出せない。
 大体、なぜ……。
 陰の月が消えかかっている。
 夜明けが、近い。
 花と露草の匂いが、鼻をつく。
 
 ――どう、して……?
 
 見回してみて、愕然とした。
 なぜ、自分が今、ここにいるのかわからない。
 
 ――なぜ、俺は、こんなところに、いる?
 
 この、場所は……。
 忽ち、コノエに対して目を向けられなくなった。
 まさか、自分は……。
 まさか……。
 
 
 それでいて、ひそかに目は違うものを探していた。
 
(……どう、したんだ……)
 
 
 俺は花畑(ここ)にいるのに。
 なぜ、あいつは、いない。
 
 
「……誰を、探しているんだ」
 遠慮がちな声が、囁いた。
 鉤型の尻尾が揺れる。
 花びらが、ざわりと蠢いた。
 ライは、こくりと唾を飲んだ。
 すぐには、答えられなかった。
 
「……アサトなら、いないよ……」
「……あ……?……」
 風が、吹いた。
 花びらが、舞い上がる。
 夢の中にいるかのようだった。
 ――いな、い……。
 ここにいない、というだけのことに、それ以上の意味をなぜ求めるのか、我ながら不思議だった。しかし、胸騒ぎが止まらない。
 
 
 ――闇の、向こうの、さらに深い漆黒の闇の、谷間に……。
 
 
 何だろう。このフレーズは。
 毛先が震える。
 吹き過ぎる風と、空気の冷たさのせいだけでは、ない。
 ……思い出した。
 そうだ。
 あれが、全てただの悪夢でないとすれば。
 全て、本当に起こったことであったのだとすれば……。
 彼は……
 
 
「――アサトは……いない。もう、どこにもいないんだ、ライ……」
 コノエの声が、ライの胸を冷たく射抜く。
 
 
(……ラ、イ……)
 
 
 鼻先を掠めた黄色い花びらが、手の中にはらりと舞い落ちた。
 ライは一音も発せぬまま、いつまでもそれを見つめていた。
 
                                      (...to be continued)


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