The Blunt --8







「ライ……」
 寝台がぎし、と軋む。
 シーツ越しに、生き物の体温を感じた。
 目を開くと、寝台の淵に腰かけてこちらを見下ろすコノエの姿が見えた。手には皿を持っている。そこからふわりと何か良い匂いが漂ってきた。
「何か食べろよ」
「………………」
 答えようとするのに、乾いた喉からは何の音も発せられず、ただ吐息だけが零れた。
 それをどう受け取ったのか、コノエは形のいい眉を僅かに顰めた。
「――ずっとろくなもの、口にしてないだろ。そんなんじゃ、いつまで経っても起きられないぞ。…… 今日は朝から時間かけて凝ったもん作った、ってバルドが自慢してた。俺も食ったけど、ほんと美味かったんだ。だから、一口でいいからさ、ライも食ってみなよ。な?ほら、起きて」
 皿を近づけ、起きることを促すコノエから、顔をそむける。
「いい……」
 確かに美味そうな匂いだった。それでも、食欲は出ない。
 普通なら、その匂いだけで食欲をそそるだろうバルドの特製料理も、自分にはどうも効を奏しないようだった。
 食べる、ということが自分とはまるで無関係なことのように思えて、むしろ不思議な気がした。
 最後にものを口に入れたときはいつで、一体どんなものを食べたのか。そんなことすら記憶に残っていない。
「……食べる気が、しない……」
 正直な言葉が出た途端、
「ライっ!」
 声を荒立てたコノエに、ライは困った顔を向けた。
 あの奇妙な事件が起こってから、何日が過ぎようとしているのか。宿に戻ってから、殆どこの部屋を出ていない。しかも寝台の上で横になったり、起きていてもぼんやりしていることが多く、いつのまにか時間感覚というものに無頓着になっていた。
 自分は、本当に生きているのだろうか。
 そんなことすら、危うくなる。
 ただわかっているのは、自分には自ら進んで体を動かそうとする意志や気力というものが全く枯渇しているということだ。
 花畑から、コノエに引きずられるようにしてバルドの宿まで戻ったことまでは覚えている。
 しかし、二階の部屋に入って寝台に横になった途端、自分の意識は途絶えた。
 そうして目を開けたとき、今にも泣き出しそうなコノエの顔を見て、自分が相当酷い状態に陥っていたことを初めて知った。
 高熱が下がらず、薬草も効かない中で、意識が戻らない状態が3日以上続いていたらしい。
 心配をかけたことはわかっている。
 コノエ……。
 ライは吐息を吐いた。
 こんな風になってしまった後でも、まだ自分の心配をしてくれる。目の前の猫が自分に向けてくる真摯な眼差しの中に、仄かな愛情の残滓を感じる。
 ――お節介な猫め。
 内心苦笑しながらも、仄かな罪の意識が彼を苛む。
 一度は、つがいとして選んだ猫。
 それを自分は、最悪の形で裏切った。
 縋りついてくる猫を、冷たく突き放した。
 その結果、喜悦の悪魔につけ入る隙を与えた。
 あんなにも容易く悪魔の罠に陥ち、魂を永劫の闇の空間に繋がれて……二度と、戻ってこれなくなるところだった。
 それでも、仕方がないと思っていた。
 悪魔を呼び戻したのは、誰でもない、この自分自身だ。
 全ては、自分の犯した行為の報いなのだ、と。
 それなのに……。
 ライは、ぎり、と歯を噛み締めた。
(――どうして、助けた……)
 凶々しい異形の姿となって、地の底まで追いかけてきた。
 自分を助けた、その代わりに、今度は奴が……。
 残ったのは、あのとき手のひらの中に舞い落ちてきた、あの小さな花びらだけだった。
 いつまでも色褪せず、不思議な香を放ち続けるその花びらの中に、アサトがこの世に存在した証とその記憶が、残っているような気がした。
 だからどうしても手から放すことができず、小さな袋の中に入れてひそかに胸の下に忍ばせた。
 たぶん、コノエは気付いているだろう。
 それでも彼は何も言わなかった。それどころか、その唇からはアサトの名前すら出てくることはなかった。
 故意に、だろうか。
 ライは敢えて考えないようにした。
 コノエを、苦しめたくはない。
 自分とアサトのことに触れると、コノエを深く傷つけることになる。それがわかっているがゆえに、ライは口を閉ざした。
 それでも、焦燥と、それを求める気持ちは止められない。
 目を閉じれば、すぐにその姿が現れる。
 何より先に、あいつのことを考える。
 忘れようとしても、忘れられない、暖かくて、強い生命の息吹きが、この体の中を駆け巡った瞬間の悦びと満足感……。
 あのとき、自分は満たされた。
 初めて、満たされた、と感じた。
 自分の中の空白が、埋められた、瞬間を……。
 忘れようとしても、無理だ。
 ライは頭を抱えた。

 どう、して……。
(どうして、自分はここへ戻ってきてしまったのだろう……)
 もし……
 もし、本当に『奴』を失ったのだと、すれば……
 
 奴がいない世界ならば……。
 ここに、自分がいる意味は、ない。
 
 ――自分は、戻ってくるべきでは、なかった……。
 
「ライ……ライっ!」
 コノエの鋭い声が、耳朶を打った。
 両肩を掴まれ、強く揺すぶられる。
 我に返ったときには、自分の体の上に馬乗りになったコノエの顔が間近まで迫っていた。
「ライっ!」
「……ノ、エ……?」
 驚きに目を見開く。
「なに、考えてた?」
「………………」
 答えることが、できなかった。
 答えを、相手は知っている。
 知っていて、わざと問いかけている。
「……ライ……」
 瞬きもせず真っ直ぐに見つめる飴色の瞳が熱を帯びる。
 柔らかな唇の感触に、思わず目を閉じる。
 重なった唇の間から、先に入り込んできたのは相手の舌だった。戸惑う相手の舌先をあっという間に捕え、吸い寄せる。
 かつてないような強引で情熱的な愛撫に、ライは驚きながらも完全に相手のペースに呑まれている自分を意識した。
 どうしたのだろう。
 コノエらしくない。
「……っ!……コ、ノエ……っ……!」
 ようやく唇が離れると、息を上げたまま、ライは責めるように相手を見た。しかし、目が合った途端、次の言葉は飲み込まれた。
「……コ……ノ、エ……?」
 もはや問いかけても、答えは返ってこないだろうとわかっていた。
 熱に浮かされたように蕩けた、それでいて、怖いほどぎらぎらと欲情を滾らせる瞳はまるで別猫だった。
 どうしたのか。一体この猫に何が起こったのだろう。
 思わず体の芯がぞくりと震える。
 発情期でも、コノエはこんな顔を見せたことはない。
「……コノエ、おまえ――」
「抱かせて――くれ、よ」
 ライの耳に熱い息がかかる。
 ――抱かせて、くれ?
 聞き間違いかと思った。
 この猫は、自分を抱きたい、とそう、言っている。
 ぴく、と肩を動かそうとすると、それを強い力で押しつけられた。
「それで、終わりにするから」
「……終わりに、するのか」
 繰り返す言葉が虚しく響く。
 わかっている。
 そう言わせているのは、ほかならぬ自分だ。
 この猫に罪はない。悪いのは全部、自分だ。
 自己嫌悪が募った。
「――おまえに、俺が抱けるのか……?」
 からかうような声が、なぜか震えた。
 本当は、自分は知っている。
 この猫に、それができることを……。
 この猫に潜む雄としての支配力とその強さを……。
「……あんたを抱きたい……」
 絡みついてくる柔らかな手。
「――抱かせて……」
 覆い被さってくる体の温もり。
 それは本当は違うものだと、わかっている。
 細い手足が絡みついてくる。
「……よせ……」
 本気じゃない、だろう。
「本気、だよ。俺は……」
 声に出していないのに、相手はそう囁くと抵抗を封じ込めるようにぐっと全身の体重をかけてきた。ぐ、と一瞬息が詰まった。
 体重が、こんなに増えていたのか。
 日々成長しているコノエの雄としての体を実感する。
 力の緩んだ手首をすかさずシーツの上に縫い付けられた。
 柔らかくて、一見華奢な四肢が意外にも強靭であるということを思い知らされた。
 それでもまだ、本気を出せば、払いのけられるだろう。
 そう高を括りながらも、実際にそれができないのは、自分の気力がそれほど弱っているからなのか。それとも、このままコノエの望む通りにさせてやってもよいと思っているからなのか。自分でもよくわからなかった。
 与えられる愛撫に正直に反応する体に、羞恥と苛立ちの感情が萌芽する。
 これは、別の猫によって開花させられたものだ。
「……く、……っ、コ、ノエ……っ……あ……っ……!」
 両足が上がる。自分の意志ではない。相手に持ち上げられているのだ。
 次にくるものを予期して、ライは体を強張らせた。
 逃れることは、できない。
 それでいて、入り口は僅かな怖れと期待に震える。
 そこは……。
 黒い猫の息遣いが耳元に甦ってくる。
 一瞬、自分を捉えているのが、別の猫であるような錯覚にすら陥った。
 熱い。熱くて疼くような何かが、体の奥からざわざわと蠢きながら立ち上がり、それが急速に全身へ広がっていくような感覚。
「……んっ……あ、……はあっ、あ……っ……!」
 余裕もなく、ただ喘ぎながら目を開くと、飴色の瞳が覗き込んでいた。
 目が合った途端、かっと羞恥に頬が火照った。
 この猫の前でこのような姿を晒したくない。
 急に抗う気持ちが強くなり、彼は体を振り解こうともがき始めた。
 しかし、相手からは想像もできなかったような強い力がそれをにべもなく抑えつけた。
 驚きに目を瞠る。
 相手は瞬きもせず、怖いほど熱のこもった眼差しでこちらを凝視している。
(コノエ……?)
 そんな、筈がない。
 コノエが、こんな……。
 しかし目の前にいるのは、紛れもなくこの間まで自分のつがいだった猫だ。
 ただ、その目の表情からは、以前自分が知っていた猫の面影はない。
「……コノ、エ……っ……や……あ――……!」
 自分の窄まりに押し入ってくる相手の熱い塊を受け容れながら、後はもう無我夢中で何も考えられなくなった。
「……ライ、ライ……ライ……っ……!」
 荒々しい調子で吐き出される、その泣いているような、怒っているような掠れた声が、何度も耳元を打ちつけるのに、痛みと快感に溺れた頭にはもうその音が自分の名であることすら認識することができなくなっていた。
 
 
 
 
 
 長い、長い時間が過ぎたような気がした。
 しかし、実際にはそれほど時間は経っていない。
 ゆっくりと体を起こしながら、横で泣き濡れた頬を晒したまま、蹲る猫の毛をそっと撫でてみる。
 ひく、と体が震えたが、猫は眠りから覚めなかった。
 ライは、小さく息を吐いた。
 さっきまで、あんなに荒々しく迸る欲情をぶつけながら、自分を抱いていた猫とは思えない。
 仔猫のように、頼りなく弱々しい泣き顔だった。
 自分の中で何度も果てた後、コノエは震えるような顔を隠しながら、泣きじゃくっていた。最後の方は朦朧としていたものの、それだけは最後まで覚えている。手を伸ばし、何か声をかけようとしたが、そうするまで意識がもたなかった。そして混沌とした眠りに陥った。
 あの後、コノエはどうしていたのだろう。泣きながら、眠ってしまったのだろうか。
 こんなにも自分を慕い、縋りつこうとする猫を、自分はむげに振り払ったのだ。
(ライ……ライ……好き、だ……)
 ――頼む、から……。
 ――俺だけを、見て……。
 ――このままずっと、俺と一緒に……。
 そんな悲痛な叫びを、自分はわざと無視した。
 聞こえない振りを、した。応えなかったのだ。
 コノエは何度も激しく自分を揺さぶり、貫いた。
 それは、ある意味、拷問に等しい行為だった。
 好きだ。好きだ……。好き……。
 愛を囁きながら、それでいて凄まじいまでの怒りと憎しみの奔流が流れ込んでくるのを感じながら、彼はただひたすらそれに耐えた。
 肉体は、いつしか意識から遊離した。
 痛みも、快感も……彼の中には何も残らなくなった。
 彼は何も感じなくなったまま、コノエと体を繋ぎ続けた。
 思い出すと、体がぞくりと震える。
 どうしてあんなことができたのだろう。
 自分はどうしてあれを受け容れたのだろう。
 確かにそれを強く望んだのは、コノエだ。しかし、コノエのせいだけでは、ない。自分は……なぜ、あんな……。自分の残酷さに、毛が粟立った。
 突然コノエに対する憐憫の情が溢れ、ライは泣きたい気分になった。
(コノエ……)
(すまない、コノエ……)
 いっそ、この猫のように泣いてしまうことができれば、楽になれるだろうに。
 自分は、泣くこともできない。
 乾いた眼は、瞬きすら拒む。
 愛しい、猫。
 ずっと傍にいて、守ってやりたいと思った、猫。
 この猫の歌に、何度助けられたかしれない。
 でも、自分はもうこの猫の気持ちに応えることができなくなっている。
 酷いことをしている、と思う。しかし、それだけは否めない事実だった。
 自分には……。
(俺には、しなければならないことがある)
「……いいよ」
 不意に、声が聞こえた。
 ライははっと声の聞こえてきた方向へ目を動かした。
 背後で眠っている筈の猫の唇が、微かに動いている。
「……いいんだ、もう……」
 唇は笑っているようにも見えた。
「――行けよ、ライ……あいつを、探しに……」
 啓示のように、その言葉がライの胸を明瞭な響きで貫いた。
「……きっと、見つかる……」
 それが、運命だというのなら。
 それが、この世界にいる理由になるというのならば。
「……ああ……」
 ライは、微笑った。
 そう、か。
 それが、はっきりとわかった。
 不思議、だった。
 今、自分は動ける。
 動くだけの力が、ある。
 寝台から下りて、床を踏んだ。
(これで、終わりにする……)
 コノエの言葉を思い出すと、苦笑した。
(終わり、か……)
 終わりでは、ない。
 目を閉じて、浮かび上がるあの黒い猫の姿を、追う。
 
 ――まだ、終わっては、いない。 

 そうだ。まだ、何も終わってはいないのだ。むしろ……。
 それは、始まりでしかない。
 何かが終わるとき、何かが始まる。
 今、ようやくそれが始まろうとしているのだ。
 まだ、自分には時間がある。
 それを取り戻すための、時間が……。
(……どこまでも、追いかけてやる)
 自分から去ってしまった、あの温もりを再び取り戻すために。
 ライは、深い息を吐いた。
(待っていろ……必ず、見つけ出してやる)
 どんなに深い闇の底であったとしても。
 どんなに遠い地の果てであっても。
 どこまでも、俺は追っていくだろう。
 おまえがどんな姿になっていたとしても。
 自分には、きっとわかる。
 どこからか漂ってくる微かな花の香を、吸い込んだ。
 不思議な力が満ちてくる。
 大丈夫だ、と何かが囁く声がする。
 きっと……きっと、大丈夫だ……。
 その声に励まされるように。
 ライの心に、揺るぎない決意が生まれた。
 
(必ず、俺はおまえを見つけ出す……アサト……)
 
                                       ( FIN )



 ・・・というわけで、「Light Possession」から続いてきましたアサトとライのお話はこれでいったん終了と致します。^^;
 次は第2部として、タイトルも新たに、ライがアサトを求めて旅をする話を考えております。
 たぶん舞台は吉良あたりへ移行するかと・・・。
 実は、次回は長くお時間を頂き(既に更新は止まってましたが)、できれば秋頃にまた改めてスタートしたいと思っております。ただ、軽めのSS(短編)やイラスト等は更新すると思いますので、サイト自体は動きます。ヨロシクお願いします。m(_ _)m
 ここまでお読み頂き、コメント等たくさん頂いたことに心より感謝いたします。
 実はこの猫サイドは何度か閉鎖しようと思ったことがあるのですが、コメント等が励ましとなり、自分自身も本当にアサトとライの二匹が大好きで・・・もう少し描き続けたいな、と思いここまで続けることができました。読んで下さる(少数の)方々のお陰です。本当にありがとうございました!
 ですので、まだ猫サイドはまったりながら続けたいと思っています。オフではもし余力があれば出したいと以前から思っているのですが、現在のところはそこまで力及ばなそうです。(苦笑) 
 もしご質問、ご感想(ご要望)等あればいつものごとく、WEB拍手かメール等で、お願いします。^^
 もちろんぽちりだけでも励みになりますのでとっても嬉しいですw 
 ではでは、ここまでお読み頂き、ありがとうございました!!(*´∇`)
 れもん 拝 2008/04/26



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