Dancing Into Flowers
朝の気配に、目覚めた。
ぴりっとした肌寒い空気に、ぶるっと震える。
窓が、開けっ放しであることに気付いた。
乱れたシーツの皺を目の隅に入れながら、ゆっくりと重い体を引き上げた。
朝の光が、目に眩しい。
向かい側のベッドの上で、こんもりと緩やかな山を描くシーツの塊に視線を当てた。
突き出た耳の先が時々ひくひくと動き、そこに生きた猫が寝ているのだということを示している。
「……コノエ……」
その名を唇に乗せた瞬間、少しずつ昨夜の記憶が甦ってきた。
――ああ、そう、だった……。
ライは乾いた唇を舌でさらりと舐めた。
この、唇を求められて……。
昨夜、さかんに交尾をねだってくるつがいに、自分は結局最後まで応じられなかった。コノエが嫌になったとか、そういうことではない。ただ体がついていかなかったのだ。
何度求めても一向に反応を示さないライに痺れを切らしたのか、とうとうコノエは諦めて自分のベッドに戻った。
あんなことは、初めてだったかもしれない。
ライは自分でも少し驚いていた。
いつもは、自分の方が有無をいわさずコノエを抱いていた。
こんな、中途半端にやりかけたまま、終わらせるなどということはなかった。しかも、コノエの方からあんなに求めてきたのに……。
そう考えたとき、ライは改めてその事実に愕然となった。
――コノエに、反応しなかったなんて……。
反対側のベッドにもう一度目を向ける。
コノエは……怒っているだろうか。
何となく落ち着かない気分だったが、かといって今寝ている相手に声をかけるのも躊躇われた。
ベッドから下りると素足の裏に何となくこそばゆい感触が走った。
足を上げてそこについたものを取ってみると、それは一片の花弁だった。
(あ……)
見渡すと、床一面に乾いた花びらが散らばっていた。
もうひとつの記憶が呼び起こされ、ライはああ、と切ない吐息を吐いた。
黒い毛と片言の囁きが耳を擽る。
相手の体と自分の体がぴたりと合わさる、熱い感触と息遣い。鼻腔を掠める花の香。甘くて強い……あの全てを忘れさせてくれるような心地よい陶酔感。
記憶が、体を揺さぶる。
ライは、眩暈のしそうな強いフラッシュバックに襲われ、一瞬その場に崩れ落ちそうになった。
何とか踏みとどまるが、胸の鼓動が異常に速くなっている。
(く……――!)
歯を喰いしばって、漏れそうになった嬌声をすんでのところで抑えた。
――そう、だ。あいつは……?
不意に焦燥に駆られた。
体に残る、ほんのりとしたこの温みと、甘い残り香はあの猫のものだ。
(アサト……?)
いつの間にか、いなくなっていた猫。
どこへ、行ったのか。
まだ、近くにいるのだろうか。
どうしてこんなに、気になるのだろう。
コノエを起こさないように、静かに身支度を整えると、ライは部屋を抜け出した。
「……おい」
階段を下りてカウンターの傍を通るときに、横から声をかけられた。
カウンターの中の椅子に座ったバルドがふんぞり返ってこちらを見つめている。
「――何だ」
返事をするつもりはなかったのに、気付いたら声が出ていた。あまり認めたくないが、バルドの前では時々不意に仔猫の頃の自分に戻ってしまう瞬間がある。
バルドに声をかけられて、無視しきれないのはそのせいかもしれない。
自分で返事をしたことに気付いて、ちっと舌を打つ。
そんなライを見て、バルドは苦笑した。
「そんなに睨むなよ。爽やかな一日の始まりだぜ」
「…………」
「体は、もういいのか?」
何も返さないライに、バルドはふふん、と意地の悪い笑みを投げた。
「…………?」
不審気な視線を返すライを、バルドはからかうように見た。
「――何とか修羅場は避けられたようだな」
「何のことだ」
ライは忽ちむっとした顔をした。
「だから、コノエにばれなくて良かったな、ってことさ」
ライは怒ったように目を見開いたが、すぐには何も言い返そうとはしなかった。
「なあ、だけど戯れも一夜限りにしておけよ。でないと、どうなっても俺は知らんぞ」
「……………」
ライは不機嫌な顔のまま、黙って通り過ぎようとした。
その背後に、バルドはさらに声をかけた。
「あーそれから、アサトなら明け方までそこで寝てたみたいだぞ。俺が扉を開けに出たときには、もういなくなってたがな!」
ほんの少し背中が反応を示したのを、バルドは見逃さなかった。
「どこへ行くんだ?コノエはまだ部屋にいるんだろ。放っておいて、いいのか?」
投げつけられる問いを無視して出て行くライの後ろ姿を見送りながら、バルドは小さく溜め息を吐いた。
さりげなく視線を階上に注ぐ。
コノエは、まだ寝ているのだろうか。
ライとアサトのことを、コノエは本当に気付かなかったのか。それとも……。
――しかし、俺も馬鹿だな。
自分が気にかけることもない筈なのに、とバルドはいつの間にかお節介な老猫のようにあれこれ気を回している自分の姿に思わず苦笑した。
朝の通りはまだ行き交う猫の姿もまばらで、閑散とした静けさを保っていた。
当てもなく歩きながら、自分は何をしているのだろうとライはふとおかしくなった。
つがいの猫を放り出してまで、自分は一体何を追いかけているのか。
なぜ、それがいないことが気になるのか。
昨日まで、それがなくても大丈夫だった筈なのに。
自分の中で何かが変容してしまった。
それが怖ろしい。けれど、もはや止められない。
何か悪い病気にでもかかってしまったかのように。
自分の意志の力だけではどうにもならない。体が、動く。勝手にそれを求めている。どうすれば、いいのか。
……風が、吹いた。
土埃が舞う。
ライは一瞬足を止めた。
風が、それを運んできた。
鼻腔を擦り抜けていく、ほんのりと甘い空気を吸い込むと、待ち侘びていたかのように、忽ち全身の毛が悦びに震え立つ。
――奴の、匂いだ。
優しく包み込むような甘さを伴う、それでいてほろ苦い切なさを帯びた、あの芳香。
こっちだよ、と教えてくれるかのように空気が僅かに動く。
そのほんの微かな花の香に導かれて――。
意識するより先に、自然に足が動いていた。
ついて行けば、そこに奴はいる。
きっと、いる。
不思議なほどの確信に満ちて、ライはただひたすらにそこへ向かって歩いた。
鬱蒼とした樹木を抜けた途端に、目の前に鮮やかな色彩が広がる。
新鮮な朝の空気の中を駆け抜けるような、鼻を衝く濃厚な露草と花の香りに圧倒される。
ライは、呆然と花畑の中に立ち尽くしていた。
いつの間にか、何を求めてここまできたのか、その目的すら忘れていた。
ただ、花の香に包まれてその場に埋もれてしまいそうになる。
(あ……――)
目を閉じて、空気を肺に思いきり吸い込んだ。
麻薬のように全身に染み渡る匂いに、そのまま崩折れそうになった。
花の中に溶け込んでしまう。
何もかも忘れ、ただ鮮やかな色彩と濃い香りの空間の中に自らを埋めてしまう。それも、いいかもしれない。
ゆらゆらと数歩、前へ進んだ。
膝を埋める花の気配。
こちらにおいで、と手を伸ばす茎と葉の感触を敏感に感じながら、進んだ。
しばらく進んで、不意に目を開けた。
遥か目の先に、揺れる黒い姿。
――ああ……。
ライはほっと息を吐いた。
やはり、いた。
奴は、ここにいる。
そう思った途端、体の奥から込み上げてくる喜びの波に呑み込まれて、何も見えなくなった。
(……アサト……!)
声にならない声が全身を貫く。
興奮を抑えるように、深く息を吸い込んだ。
口を大きく開くと、今度は声に出して思いきり叫んだ。
「……アサト――ッ……!」
遠目でも黒い毛がぴくりと反応するのが見えた。
振り返る横顔から、青い目が驚いたようにこちらを見つめ返してくる。
「……………?」
アサトはきょとんとした表情で立ち尽くしていた。
その手からはらはらと色とりどりの草花が零れ落ちていく。
また、花を摘んでいたのだろう。
今度は誰のために?
ライの胸をほろ苦い思いが通り抜けていく。
何を自分はこだわっているのだろう、とおかしくなった。
けれど、なぜか笑えなかった。
零れた花は風にふわりと舞い上がり、くるくると彼の体の周りを漂った。
「アサト……!」
花の間を走ろうとするが、足がもつれてなかなか前へ進めない。
風が吹くたびに、花々がざわめいた。
――嫌だ。嫌だ。行かないで。もっと私たちと遊んでよ。
まるでそんな風に一斉に抗議して、ライの足を引き止めようとするかのように、意地悪げに絡みつく。
(駄目だ)
――今はおまえたちの相手をしている暇はない。
ライは我儘な花たちにやんわりと拒絶の言葉を投げながら、目指すものへ向かって進んだ。
近づくにつれ、相手の姿がはっきりと像を結ぶようになる。
黒い毛並みに褐色の肌。濃紺の大きく見開いた瞳。
ライが来るのを待っている。
その表情が驚きから、微笑みへと変わる。
愛しさに満ちた、懐かしい笑顔。
あいつは、あんな顔をしていただろうか。
あれは、本当に自分の知っている黒猫だったろうか。
こんなに狂おしいほど求めるもの。
あれが、自分の欲しているものの正体。
すぐ近くまで迫ったとき、ライはふと立ち止まった。
空間が揺れる。
本当に、それは実体を持っているのだろうか。ただの、幻ではなかろうか。
不意に襲う不安に、ライは近づくのを躊躇った。
躊躇いながら、そっと手を伸ばす。
アサトはぴくりとも動かなかった。
彼は動かないまま、ただライの指先が自分の肩に触れるのを待っているようだった。
そしてそれが触れた瞬間――
「ライ……」
アサトはようやく口を開くと、相手の名を呼んだ。
「何で、来た……?」
素朴な疑問を口に乗せると、濃紺の瞳がライを吸い込むように覗き込む。
「……知るか……」
素っ気ない言い草でありながら、そう言った後、ライの口元は自然に解れていた。
自分でも気付かぬうちに、彼はふ、と安堵したように微笑っていた。
不意に黒猫の体が覆いかぶさるように迫った。
視界が引っくり返る。
あっと声を出す間もなく、花の匂いが強く立ち込める草むらの中に、背中から押し倒されていた。
柔らかな草花がクッションとなり、痛みはない。ただ、草花の湿った感触や噎せるような強い香を一気に吸い込んで、一瞬意識が飛んでいきそうになった。
花の声がからかうように、一斉に囁き始める。
(ほら、見てよ)
(黒い猫と白い猫が)
(楽しそうに遊んでいるよ)
(いいな、いいな)
(ねえ、私たちとも遊んでよ)
(一緒に、一緒に。ねえ)
うるさい奴らめ、と最初は煩わしく思いながらも、次第に体を駆け巡り始めた焼けるような刺激に気を取られ、すぐにそんなことはもうどうでもよくなっていた。
剥ぎ取られたシャツの下から現れた白い肌の上に、褐色の指が滑る。
摘まれた乳首から走る痛みは、いつしか甘い刺激となってライの口から熱い吐息と嬌声を上げさせていた。
くすくす、と花たちが笑う。
(可愛い猫さんだね)
(柔らかい、綺麗な肌)
(毛並みも艶々して、ほらこんなに光ってるよ)
(甘くていい匂いがする)
花たちの戯言に、羞恥心が募る。
自分が突然小さな仔猫に戻ってしまったような気がした。
恥ずかしい……。
小さなライが頬を赤く染め、ぎゅっと目を瞑る。
花たちの声を聞くことを拒むように、両の耳を手のひらでぺたりと抑えつけた。
(……いや、だ……)
――見る、な……!
頬が熱くなる。
それでも、花たちの興奮を抑えることはできない。
さわさわ、と甘やかな刺激が駆け抜ける。
肌に触れる、花びら。
ほんのりと湿った草の感触が、肌に纏わりつく。
猫と交わりながら、本当は花に犯されているのではないかという錯覚にすら陥った。
両足を掲げられ、後ろの孔が弄られ出すと、もう高い喘ぎ声と熱い吐息が止まらなくなった。
涙が頬を濡らし、それをちゅくちゅくと吸う花びらの笑う声がすぐ耳元で聞こえるような気がした。
入り込んできた熱いものが体の真ん中を貫き、そこで暴発すると、もう頭の中が真っ白に弾け飛んで、何もわからなくなった。
相手と繋がったまま、花の海に沈んでいく。
自分自身も我慢できなくなり、爆発した。
白い花びらがぱあっと舞い散ると、頭上から再びはらはらと雪のように降りかかってくる。
ああ、このまま……。
自分はここで果ててしまうのか。
いっそ、その方がいい。
相手の腕に自分の腕を絡ませ、引き寄せる。
体が密着した。
心臓の音を確かめる。
とくん、とくん、とくん……。
終わりなく、打ち続ける鼓動。
黒い耳朶を舐めるように、噛んだ。
柔らかくて、暖かい。弾力のある歯触りに、吸いつくように甘噛みした。
気持ちが良い。
愛しさが、満ちる。
……す……
……す、き……だ……
潮騒のように言葉が打ち寄せた。
衝撃に、体が射抜かれるようだった。
体が大きく反り返る。
吐く息が、荒くなった。
叫びたいのに、声が出ない。
でも、言葉は確かに自分の中から飛び出しているのがはっきりとわかる。相手にそれが響き、伝わっていくのも、わかる。
言葉に、こんなに強い力が宿ることがあるなど、思ってもみなかった。
こんなに強い思いを込めた言葉を発することができるなんて。
……初めて、だった。
初めての、思い。
初めての、自分の本当の思いを伝える言葉。
……好き、だ……!
「……好き、だ……」
最後に聞いたのは、自分の声ではなく、繋がっているもう一匹の喉が発した声、だった。
(Fin)
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