Flowers Into Your Heart








「コノエ!」
 店の中に一歩入った瞬間、待っていたように屈託のない笑顔がコノエを出迎えた。
 明るい水色の瞳が、変わらぬ親しみを込めて、微笑みかける。
 ひと目見ただけで、全ての憂いを忘れた。
 火楼の村にいた頃に戻ったようだ。
 辛くて寂しいことも多かったが、彼と友だちになれたことだけが唯一の喜びだった。
 もっとも、トキノは火楼に棲んでいたわけではない。
 たまたま村を訪れた行商の父についてきていたその明るいオレンジ色の頭が、背後からひょいと飛び出して目が合ったあの瞬間を、コノエは今でも忘れることができない。
 目がくるくると動いてびっくりするほど大きくなったかと思うと、忽ちにこっと弾けるような笑みが満面に広がった。
 つられるようにコノエも思わず笑って、二匹はその瞬間から『友だち』になった。
 初めての、『友だち』。
 そして、コノエにとっては、後にも先にも彼だけが唯一の大切な『友だち』と呼べる存在になったのだ。
「久し振り!元気だった?」
「ああ。トキノも」
 会えたことが嬉しくて、尻尾が揺れた。
 ライと一緒に行動するようになってからも、藍閃に戻るといつも必ず一番にトキノの店に向かう。
 たとえ少しの間でも、彼と会って話していると、懐かしくて心から寛いだ時間を過ごせる。
 さっき宿を出る時も、少しライの調子が悪そうだったから心配だったが、それ以上にトキノに会いたい気持ちが勝ってしまった。
 こんな自分は我儘で薄情な猫なのかな、とも思うが、トキノの顔を見た瞬間、そんな仄かな罪悪感もどこかへ吹っ飛んだ。
「今日はゆっくりしていけるの?」
 トキノはそう問いかけると、伺うようにコノエを見た。
 つがいの猫のことを気にしているのだ。
 ライと一緒になってから、トキノは変に遠慮したり、それまでには見せたこともないような細かな気を遣うようになった。
 トキノの優しさだと理解しながらも、それがどうもコノエには煩わしくて嫌だった。
「ああ」
 コノエは頷くと、そんなもやもやした気持ちを埋めるように、トキノと軽く額を合わせた。
「今日はゆっくりしていくから」
 額と額を僅かに離した距離で、相手の瞳を覗き込むように見つめると、相手が少し照れたように頬を染めるのがわかった。
(……あれ……?)
 コノエは少し戸惑いを感じた。
 トキノの顔がいつもと少し違うような気がしたのだ。
 まるで――そう、初心な雌猫のように頬を赤らめて。
 俯き加減の瞼から零れ落ちそうな睫毛が少し震えて。
 ――こんな顔、するんだ。
 どきっとした瞬間、慌てて目線を逸らせた。
 と同時に、
「何だよ、もう……!」
 トキノがとん、とコノエの胸を軽く突き返して、二匹はようやく離れた。
「店の中でじゃれついてたら、恥ずかしいじゃないか」
「久し振りなんだから、いいだろ」
 わざと口を尖らせてそう言うと、コノエはトキノの耳を引っ張った。
「痛ッ……なっ、何すんだよ、コノエ!本気で怒るぞ」
 ふくれっ面で抗議しながらも、トキノの目は優しかった。
 幼い頃に返ったかのようなやり取りに、自然と心が和む。
 額と額を合わせたり、耳を引っ張ったり、尻尾を絡ませたり……そんな他愛もない接触だけでも、どうしようもないくらい胸が弾んだ。
 
 
 
 どくん、どくん、と胸の鼓動が速まる。
 顔から今にも火が出るのではないかと心配になるほど、頬が熱く燃えるようだった。
 頭の中が煮え立って、思考がうまく回らない。
(どうしよう……)
 トキノは泣き出したいような情けない気持ちになっていた。
 だって、あんなに急にコノエの顔がすぐ近くに迫って。
 額と額が触れ合ったとき、相手の息遣いまで一呼吸一呼吸手に取るようにわかった。
 温かい吐息を鼻の中に吸い込んだら、懐かしいコノエの匂いがした。
 どうしようもないくらい、どきどきして、頭の中が真っ白になった。
 ――どうしよう。ばれる……。
 コノエに、わかってしまう。
 こんなに胸の鼓動が激しく鳴り止まないのなら。
 こんなに顔を真っ赤にしているなら。
 そのうち、相手に全部わかってしまうだろう。
 そんなことになったら……。
 どうしたら、いい?
 
 
 
 いつからだったろう。
 この気持ちに気付いたのは。
 自分の心の奥に燻っていた、曖昧な感情の鬱積が、一気に表に飛び出してしまったのは、あの時――
 コノエが泊まっていた宿の玄関に入ったとき。
 片隅に見つけた、あの青い花の色に目が留まったときだった。
(――コノエが置いて行ったんだ。大切に飾っておいてくれ、ってな)
 宿主の縞猫が、そう説明してくれた。
 それは、コノエと白い猫が出て行った後だった。
 コノエは……花冠を自分の代わりに置いて行ったのだ。
 それを見たとき、ただ胸が詰まって、呆然とその場に立ち尽くしていた。
 ――コノエは、行ってしまった。
 自分が、コノエに作ったこの花冠を残して。
 この街を去っていったのだ。
 つがいの猫と共に。
 自分を残して、行ってしまった。
(コノエ……)
 トキノは、その花冠に手を触れた。
 指先に触れた乾いた花びらが、はらり、と一片零れた。
 そのとき、自分の気持ちがわかった。
 床に落ちていく花びらから、コノエ、と呼んでいる声が聞こえたような気がして、それをそっと拾い上げたとき、一筋の水滴が頬を濡らした。
 
 
 
「……トキノ?」
 コノエはトキノの背に呼びかけた。
「……ん?」
 トキノははっと我に返ったように振り向いた。
 笑顔に、どこかぎこちなさを感じるのは気のせいだろうか。
「どうしたんだよ、ぼーっとして」
「あ?ぼーっとしてた?」
「自覚ないのか?重症だな」
 コノエは笑った。
「……うん……そういえば、最近父さんにもそう言われることあるな。ここのところ、ちょっとよく眠れなかったから……だから特にそうなのかな」
 トキノはぼんやりとした目をごしごしと手の甲で擦った。
「大丈夫か。……仕事、忙しいのか」
「あの店見て、忙しいって思う?」
 心配そうに眉をしかめるコノエを見て、トキノは笑った。
「大丈夫だよ。心配しないで。原因は……これ、かな」
 そう言うと、トキノは部屋の隅に置いてあった籠を手に取った。
「……何だよ、それ」
「……へへ」
 トキノは照れたような笑みを浮かべると、籠から出したものをコノエの方へ差し出した。
「――これ……」
 コノエは目を丸くして差し出されたものを手に取った。
 目に鮮やかなオレンジと黄色の花びらと緑の茎で編まれた花の冠。
「ちょっと、派手かもしんないけど、綺麗だったから……作ってみたんだ」
「すごいな……」
 以前、トキノから青いネイガンでできた花冠を手渡されたことがあった。
 その時も、幼友達の意外なまでの器用さに驚いたものだが、この花冠はそれよりもさらに細かい編み込みで、色合いも美しく精巧な仕上がりになっている。
「とても上手くできてる。腕が上がったんじゃないか。……なあ、店で売ってみたら?」
 コノエが感想を述べると、トキノは嬉しそうに微笑んだ。
「う……ん……」
「きっと、売れるって」
「そう……かな……」
「ああ、俺が保証する!」
 コノエは力強く請け合った。
 花冠が手の中で揺れる。
 トキノの手がふいと冠に触れた。
「コノエ……」
 コノエの手から冠を取って、それを相手の頭に載せた。
「トキノ?」
 コノエは驚いたように目を瞠る。
「やっぱり、似合う」
 トキノは満足そうに目を細めた。
「ちょっ……こういうの、恥ずかしいからやめろって前も言ったろ」
 慌てて冠を頭から取ろうとした手を、トキノの手が阻んだ。
「駄目。もう少し、被ってて」
 トキノは静かに命じた。
「こういうの、俺苦手なんだよ」
「家の中だから、いいだろ。誰も見てないよ」
「そ、そりゃそうだけど……」
 トキノの目が、コノエを宥めるように見る。
 コノエはなぜか逆らえなくなって、そのまま動きを止めた。
 静かだった。
 不思議なほどの静寂が、部屋を包み込んでいる。
「コノエのために、作ったんだ」
 トキノの声が静謐な空間の中を、心地よく響く。
「……きっと、似合うと思って」
 鮮やかなこの美しい花の色を見たとき、そう思った。
 もう一度、コノエの頭の上に花冠を載せてみたい。
「とても、似合ってる」
 トキノはどうしてこんなに優しい声で話すのだろう。
 コノエはぼんやりとそう思った。
 自分を見つめる水色の瞳が透けるようで、とても綺麗だ。
「コノエの頭の上に載せてみたかったんだ。それだけで、よかった」
「……そう、なのか……」
「うん。……だから、もういいよ。見られただけで満足なんだから。――ごめんな。恥ずかしい思いさせて」
 冠を取ろうとする手を、不意にコノエの手が掴んだ。
「コノエ……?」
 トキノはびっくりしたように目を瞬かせる。
 少し見開かれた水色の瞳が少し震えているように見えた。
「……その……あり、がとう……」
 コノエはゆっくりと言葉を引き出した。
「……確かにこれ頭に載せるのってちょっと恥ずかしいけど、それよりトキノがこれを俺のために作ってくれたっていうのが、嬉しいんだ。ほんとに、ほんとに嬉しい。ありがとうな」
 心の底から礼を言うと、トキノは弾けるような笑みを浮かべた。
「良かった」
 コノエの嬉しいという言葉が心に沁みた。
 眠る間も惜しんで、一生懸命作ったかいがあった。
 ――コノエ……。
 コノエのために、何かできる。
 コノエが喜んでくれる。
 それだけで、こんなに満ち足りた気持ちになる。
 そして……。
 今、コノエとこうして一緒にいられるということが、こんなにも嬉しい。嬉しくて、嬉しくてたまらない。
「コノエ……」
 好きだよ。
 大好きだ。
 そう、言いたい気持ちを抑えるのは辛い。
 でも、言えない。言ってはいけないということは、わかっている。
 コノエにはつがいの猫がいるのだから。
 コノエは優しいから、自分がそんなことを言えば、苦しむだけだろう。
 コノエが悩んだり苦しんだりする顔を見るのは嫌だ。
 だから、このままそっと自分の心の片隅に置いておく。
 それだけで、いい。
「トキノ……どうした?」
 自分はいつの間にか泣きそうな顔をしていたのに違いない。
 コノエが心配そうに覗き込んでくる。
「……ん、何でもないよ」
 トキノは笑って首を振った。
 近づいてくる唇。
 花の匂い。
 目の前に、コノエの瞳が揺れている。
 あれ……。
 何か、変だ。
 世界がぶれる。
 音が、消える。
 匂い。
 花の匂いだけを吸い込む。
 柔らかい、濡れた感触が唇を包む。
 目を、閉じた。
 拒むことはできなかった。
 重なった唇を、震える舌でそっと、舐めた。
 ぴくっ、と電流が走ったようだった。
 背中の毛がそばだった。
(あ……)
 何が、起こったのか。
 こんな……
 思いもかけない接触に動転して、どう対処してよいのかわからない。
 それ以上触れ合うことを怖れるかのように、突然、唇を離した。
 目を開く。
 近づいてこようとするもうひとつの唇から逃れるように顔を背ける。
 ぱさ……。
 目の前を花びらがひらりと舞った。
 冠が、二匹の猫の間を阻むように、床へ落ちていく。
 夢から覚めたように……。
 曖昧な景色が、突然現実に戻った。
「あ――」
 何が起こったのかわからないといった風に、呆然とした瞳でこちらを見つめているコノエの顔が、そこにある。
「……コノ、エ……」
 震える声が、ようやく音を発した。
「――冠が、落ちたよ」
 無理に笑った。
 ――何でもなかったんだ。
 自分自身を落ち着かせようとする。
 少しの間、幻を見ていただけで……。 曖昧な記憶はすぐに抜け落ちていく。
 すぐに、忘れてしまうだろう。
「ほら……」
 冠を拾い上げ、微笑んだ。
 コノエ。
 目の前に佇む相手を見つめる。
 コノエはどうして、そんなに変な顔をしているんだろう。
 いや、もしかすると、自分も相手から見るとそんな顔をしているのだろうか。
「どうしたんだよ、コノエ」
 トキノは震える指先で、そっと花を撫でた。
 何もなかったよな、と花に向かって確かめるかのように。
 彼は花冠を胸に抱くと、ゆっくりとコノエに背を向けた。
 ――もう、何も言わないで欲しい。
 胸の内でひそかにそう願いながら、目を閉じた。

                                       (Fin)


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