Flowers of The Wind







 風を、感じた。
 ほんのりと暖かい微風に、移りゆく季節を感じる。
 冷たく暗い冬は、終わろうとしている。
 土の中に眠っていた生き物が、目覚める気配を感じる。
 息を吹き返した木々の幹から、脈打つ生の鼓動が伝わってくる。
「……また、花が、咲く……」
 アサトは満足げに呟くと、吹き過ぎる風を鼻孔に軽く吸い込んだ。
 花畑に行けば、また、眠りから覚めたあの愛らしい花たちに会うことができると思うと、それだけで心が浮き立った。
 もうすぐ、だ……。

 ――待って、いて。

 最後の花弁を散らす寸前に、花たちが残した言葉を、アサトは昨日のことのように覚えていた。

 ――また、会えるから。
 ――もっと、もっと、綺麗になって、戻ってくるから。
 ――だから、ほんのしばらくの間だけ、サヨナラ……

 会えなくなるのは、辛い。
 でも、必ず戻ってくる、と約束してくれた。
 花たちは、決して約束を違えない。
 だから、我慢して待っていることが、できる。
 長い冬の季節を、待った。
 灯のともらない小さな小屋の片隅で、ひとり蹲り、寒さと打たれた痛みに耐えながら。
 何度も何度も、そんな季節を、繰り返してきた。
 だから、もう平気だ。
 冬が終わり、新たな季節が訪れる。
 変わることのない、約束事。
「また、戻ってくる……」
 花たちと戯れるのは、楽しい。
 時の経つのも忘れて、いつまでも花畑に寝転がっていると、自分が忌まわしい呪いを背負って生まれてきた存在であることも、村中で忌み嫌われる厄介者であることも、それゆえに受ける不条理な痛みや苦しみ、寂しさや辛さ、悲しさも、何もかも、みんな――みんな忘れてしまう。
 自分が、猫であることさえも……。
 どうでもいいことに思えてくる。
 花たちは自分をからかいはするけれど、決して仲間外れにはしない。
 蔑んだり、忌み嫌ったりは、しない。
 ――猫さん、一緒に遊びましょう。
 花たちは、そんな風にいつも無邪気に微笑みかけてくれる。
 いっそ、自分も花になれたら、よいのに……。
 そうすれば、いつも彼らと一緒にいられるのに……。
 幼い頃から、ひそかに抱いてきた叶うべくもない望み。
 自分の黒い毛と、暗い土色の肌を見ては、溜め息を吐いてきた。
(俺は、こんなにも醜い……)
 色とりどりに美しく咲き誇る花々の姿と比較すると、そんな自分の容姿がことさら醜悪に見えて、ひどく落ち込むこともあった。
(なぜ、俺はこんな姿に生まれてきた……?)
 いや、そもそも自分の生自体が望まれないものであったのだ。
 何度も周りの猫たちから聞かされてきた。
 忌み子。
 禁忌を破って生を受けた、呪われた猫。
 災いと呪いを一身に背負って、この世に生まれ出でた。
 みんなから疎ましがられるのも、仕方がない。
 わかっていても、切なくなる。
 こんな風に生まれてきたかったわけではない。
 自分が望んだわけではないのに……。
 この命が無性に煩わしい。

 こんな命なら……
 いっそ……

 はら、と白い粉が目の前を過った。
 それを見た瞬間、気をそがれた。
 ――あれ……?
 アサトは瞬いた。
 はら、はらと白い粉が風に舞う。
 見たことのある、光景だ。
 天から降る、真っ白な花びら。
 冷たくて、静謐な空間の中で、淡々と音もなく降り続けるそれは、まるで凍りついた世界を動かす唯一の生命の存在を表しているかのようだった。
 たとえそれが地面にたどり着くまでの間の儚い生命であったとしても。
 すぐに溶けて見えなくなってしまうであろうそれを、ただ夢中で追いかけた。
 悦びと哀しさにせっつかれるような、不思議な気持ちのまま、いつまでも、いつまでも、時間を忘れたかのように、天から降り落ちてくる白い花びらの群れと戯れ続けた。
 しかし――と、アサトは首を傾げた。
 あのときとは、少し違うようだ。
 肌に触れる空気が、優しい。
 鳥の囀る声。木々の芽吹く音。流れる水の穏やかなせせらぎ。
 世界は、いろいろな音に溢れている。
 あのときのような、音のしない世界では、ない。
 胸が、どきどきする。じっとしていられない。
 動き出したくなるような、わくわくするような生命の躍動感を、自らの胸のうちで感じ始めている。
 あのときとは、違う。
 なのに、白い花が降ってくる。
 これは、何なのだろう……?
 手を差し伸べる。ちょうど目の前を落ちていこうとしたそれが、指先に触れた。

 冷たく、ない。
 泡のように溶けて消えてしまうことも、ない。
 指先にかろうじて引っかかったままの白いそれを目の前に近づけてよく見ると、それは薄くて白い一片の花弁だった。
「花、か……?」
 どこから……と頭を巡らせてみると、川辺の向こうに一本の大きな樹が立っているのが見えた。
「……あ、あ……」
 アサトは目を大きく見開いた。
 白い花、だろうか。
 ほんのりと薄紅色の混じった、白い花が満開に咲き誇っているのが遠目からもはっきりとわかる。
 風に枝がそよぐたび、花弁が吹き散らされてしまうのか、樹の周りはさながら雪が舞い散っているかのようだった。
 対岸のこんな場所にまで、風に乗って小さな白い花びらが次々と漂い流れてくる。
 くるくるとせわしなく宙を舞い、優雅な動きで旋回しながらやがて地面に落ちていく、鼻先を行き過ぎる花弁の後に漂うほんのりと甘酸っぱい匂いにつられるように、アサトはくんくんと鼻を蠢かした。
「いい、匂いだ……」
 いつも遊ぶ花たちとは、また違う。
 やさしく、仄かに香る。
 再び、目を凝らす。
 白い花吹雪が舞い散る幻想的な光景に、目が釘付けになった。
 まるで異世界の風景を見ているかのようだ。
「きれい、だ……」
 美しい。
 でも、散っていく花びらは、二度と戻ってはこないのだろう。
 あの木で育ち、花を咲かせた無数の命の欠片が……。
 風に乗って四散していく白い花粉は、美しいが、一瞬で消えていく命の儚さをも代弁している。
 木の根元に、蹲っている白い姿に気付いた。
 白い毛の猫、だった。覚えのある姿にどきりとする。
「……ラ、イ……?」
 ライ、だ……。
 いつから、あそこにいたのだろう。
 美しい白猫の姿は、満開の花の木の下で、絵に描いたようにしっくりと溶け込んでいる。
 急に、胸がどきどきと波打った。
 髪の毛先から、尾の先まで全身の毛が興奮で逆立つようだった。
「ライ……!」
 思わず、声に出して叫ぶ。
 向こう岸にいる猫には届かないだろうと思いきや、その瞬間、ふと相手が顔を動かすのが見えた。
 剣呑な瞳。
 あの宝石のような、青い透明な瞳が、こちらを見つめている。
 そう思ったら、もうたまらなくなった。
「ライ――!」
 アサトは笑いながら、駆け出した。
 夢中で川を渡り、岸によじ登る。
 ずぶ濡れになっても、構わなかった。
 心地良い風が濡れた髪や頬を撫でる。
 少し体温の上昇した体には、ちょうど良い。
 泳ぐのは嫌いだが、今はそれさえも厭わなかった。
 はあはあ、と喘ぎながら、ようやく大木の傍まで辿り着くと、白い猫は幹の根元に片膝を立てて座ったまま、呆れたように濡れそぼった黒い猫の姿を見上げた。
「……何をしている」
「……ライを、見かけたから」
 返事になっているのかいないのかわからないような言葉を吐き出したアサトの全身からは、まだ水がぼとぼとと垂れそぼっていた。
 ライの視線がじろりと相手の体を一瞥する。
「濡れているぞ」
「川、渡ってきたから」
「そんなことは、わかっている。――濡れた体で近づくな、と言ってるんだ」
「見ているだけだから」
 ライの棘のある言葉も一向に頓着せず、アサトはにこりと微笑んだ。
 ライは、小さく溜め息を吐いた。
「……馬鹿猫が」
「――う、わあ……」
 アサトはライの言葉も聞こえなかったように、木を見上げて感嘆の声を上げた。
 はらはらと落ち続ける白い花びらを両手に受け取ろうとする。
 濡れた体に降り落ちてくる花弁が貼りついた。
 頬にぴたりとついた白い花弁を引き剥がすと、不思議なものを見るように、アサトはじっとそれに視線を注いだ。
 次いで地面を見ると、下は花びらの絨毯で埋め尽くされていた。
 ライの膝の上にも髪の間にも、白い花びらが纏いついている。
 しかし彼はそれを振り払おうともしなかった。
「美しい、か……」
 ライは、ぽつりと呟いた。
「――すぐに死ぬために、生まれてきたような奴らが」
 降り落ちてくる花びらを掌に受け止める。
 花びらはからかうように、彼の掌をひらりと避けて通り過ぎていった。
「――でも、きれい、だ」
 アサトは受け止めた花びらを顔に擦り付けた。
 こんなに綺麗に生まれたなら、すぐに死んでも後悔しないのかもしれない。
 醜く生まれてきた己の生と比較して、彼はそんなことをふと思った。
「……俺なら、すぐに死んでも、構わない」
 それだけ言ったアサトの心の内を、ライは理解したのだろうか。
「――馬鹿が」
 ライはふいと顔を背けた。
「……せっかく生まれてきたのに、すぐに散ってしまっては、意味がないだろう」
 指先についた花びらが、風に吹かれて再び離れていく様を、彼はじっと眺めていた。
「……だから、俺は花が嫌いなんだ」
 嫌いなら、どうしてここにいるのか、と問いかけたい気持ちをアサトはそっと抑えた。
 ライが単に花のことを言っているのではないということが、わかったからだ。
「俺は……好きだ」
 いとおしい。
 この、美しくてすぐに消えてしまう儚い存在が。
 白い花びらにくちづける。
 たとえ一瞬の命でも。
 こんな風に誰かからいとおしまれ、愛されるならば。
 生まれ出た意味は、ある。
 誰からも愛されず、疎まれながら、それでも命を永らえなければならないものと比べれば……。
「――一瞬では、生きる意味がない」
「そんなことは、ない!」
 アサトは剥きになって言い返した。
「そんなことは、ない……」
 繰り返す言葉は、弱々しい呟きとなった。
 唇が、僅かに震える。
 泣きたいような、やるせなくて、切ない気持ちが溢れた。
「――強く生きる奴が、俺は好きだ」
 ライは淡々と言った。
「己の運命を嘆き、呪い、過去に縛られたまま、屍のように生きていて、それで何になる……?」
 それが自分のことを指していることを悟り、アサトはうなだれた。
「……おまえは、強い……」
 肉体も、精神も……。
 強靭な肉体以上に、強い意志の輝きを示すその青い瞳が、何よりもそれをはっきりと物語っている。
 羨ましい、と思う。
 悔しいが、自分はまだこの猫には遥かに及びもしない。
 それを思い知らされる瞬間だった。
「……俺、は……おまえほど、強く、ない……」
 アサトがそう言ったとき、ライの頭が動いた。
 青い瞳が真っ直ぐにアサトを射抜く。
「――強く、なればいい」
 力のこもった瞳に圧倒された。
「……なれるだろう?」
 ――なれなければ、本当に貴様は、馬鹿猫だ。
 そんな声にならない声が聞こえたような気がした。
(ライ……)
 この、猫は……
 青い瞳には、怒りも蔑みも、哀れみも……何も、ない。
 ただ、生きろ、と言っている。
 強く、生きろ、と。
 魂に、灯がともった。
 充足感が、満ちる。
 ぽっかりと穴の開いた心が、満たされていくような、不思議な気分だった。
「……う、ん……」
 アサトは曖昧に頷いた。
 瞳を閉じると、そこに溜まっていた何かが、ほろりと溢れ出そうだった。
 彼は頭を軽く振り、目を擦った。
 目の前を降り落ちる白い花弁はだいぶ数が少なくなっている。
 風が、止んでいた。
 暖かい空気が体を包み込む。
 不意に、触れたくなった。
 手を伸ばして、銀色の髪を掬い取る。
 柔らかくて細い毛が、さらさらと指の間から零れた。
「……おい!」
 ライは邪険にアサトの手を払いのけると、怒った瞳で睨みつけた。
「――触るな、と言っただろう」
「……ああ」
 アサトは手を離し、吐息を吐いた。
 突然生じたその激しい衝動を、抑えきれなくなった。
「――少しだけ……」
「なに?」
「少しだけ、だ」
 傍に、いたい。
 蹲ると、ライの髪に顔を埋めた。
「貴様、やめ、ろ……っ……」
 振り放そうとしても、アサトは今度はしつこく食い下がった。
「あ――……っ……」
 背中越しにぎゅう、と抱きつかれて、ライは身動きが取れなくなった。
 白い花びらたちが、笑うように二匹の周りを通り過ぎていく。
「くそ……冷、たい……」
 ライが低く呟く声が聞こえた。冷えた猫の体に、自らの体温を持っていかれるかのように感じているのかもしれない。
 しかし、しばらくそんな風にしているうち、無理に引き離そうとする気も失せたのか、彼はもうそれ以上抗おうとはしなくなった。
 相手が力を抜くと同時に、そのまま一緒に横倒しになった。
 瞳を閉じる。
 互いの体温と、鼓動が交じり合う。
 白い花びらに埋もれながら、こんな風に静かに横たわっているのも、悪くはない。
「何も、しないから……」
 アサトは、悪びれもせずに、囁いた。
「――当たり前、だっ……」
 ライの忌々しげな声すら、花の香りに包まれていると、脳の奥まで甘美に響く。
 満ち足りた気持ちで、アサトは静かに意識を手放していった。

                                       (Fin)


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