It Grows and Goes...
--Intermission--
「もう、行くのか……」
不満げな囁きに後ろ髪を引かれながらも、ライは敢えて相手から顔を背けた。
「もう十分しただろうが」
まだ火照る体を意識しながら、ライはぼそりと呟いた。
そう言いながらも、ここを離れることを誰よりも惜しんでいるのは、本当は自分自身なのだということを、自覚していた。
何もかも……夢のようだった。
夢のように心地良い空間に身を浸し、何も考えずただ貪るように相手を求めていた。
満たされていた。
ただ満たされる心地良さに、酔った。
そうして……この花畑で延々と交わり続けた。
一体どれだけ長い間、体を繋げていたのだろう。
時の流れなど、お構いなしに……まるで、この場所だけ時が止まってしまっているかのようだった。
ただ、あるのは貪欲に求め合う二つの体。そして、それを囲むように咲き乱れる色とりどりの無数の花の群れ。
ここにいると、自分が何もので、そもそも何のために存在しているのかということすら、忘れてしまいそうだった。
現実からかけ離れた空間。
ここは、まるで異世界だった。
このまま、ここにいればどうなってしまうのか、不安になる。
しかし一方で――永遠に黒猫に抱かれながら異次元を浮遊する自分の姿を思い描くと、それは不安というよりむしろ甘い誘惑となって自分の心の奥にある欲望をひそかにくすぐった。
(馬鹿げている)
ライは首を振った。
自分は、どうかしているのだ。
手に触れる花びらを振り払うと同時に頭の中から余計な思念を追い払おうとした。
自分には、つがいの猫がいる。
それなのに、そのつがいを放り出して、こんなところで別の猫と交わっているなんて。
どう考えてもおかしい。
ここにいると、自分はどんどんおかしくなる。
どうして、こんなところに来てしまったのか。
どうして、この猫を追ってきてしまったのか。
黒い猫に抱かれていると、何もわからなくなる。
この、奇妙なまでの陶酔感と安堵感にすべての感覚が麻痺してしまうのだ。
ライは黒猫から顔を背けたまま、立ち上がろうとした。
目で自分の衣服を探す。裸でいることが、どうしようもなく恥ずかしい。早く何か身に着けたかった。
突然、尻尾に痛みが走った。
「……っ……!」
立ち上がりかけた体がよろめく。
尻尾を掴まれたとわかって、軽い怒りが込みあがる。
どんな猫でも、いきなり尻尾を掴まれて平気でいる猫はいない。一番感じやすいこともあるが、特にふさふさとした大きな尾を自慢にしていたライにとって、それは侮辱にも等しい行為だった。
ぐるるる……と、警告にも似た唸り声を発すると、ライは振り返り、自分の尻尾を捉えた当の猫を睨みつけた。
「……は、な、せ……ッ……!」
「いやだ」
アサトは怯みもせず、きっぱりと拒絶した。
「もっと、欲しい……」
尻尾を掴んだまま、ねだるように見つめる濃紺の瞳を、ライは呆れたように見返した。
「いい加減に、しろ。きりがない――」
「いや、だ」
アサトは頑なに繰り返した。
「まだ、放したくない……」
そう言うと、アサトは離れようとするライの尻尾を強く引っ張った。
起き上がりかけた体は、簡単に引き戻され、ライは再び黒猫の傍に転がっていた。
「……こら……っ!……」
悪戯を咎めようと文句を言いかけた唇を、忽ち相手の舌がぴちゃぴちゃと舐める。
「………………!」
ライは口を閉じ、それ以上一音も発することができなくなった。
舌の濃厚な愛撫と焼けつくような熱い吐息で、唇が溶けてしまいそうだった。
やめろと言おうと再び開きかけた唇のその僅かな隙間からすかさず無遠慮な舌が入り込み、今度は口内をじっくりと舐め回された。口の内膜の筋を撫でるように滑っていく、その暖かく柔らかな感触に、翻弄される。
粘液と粘液が絡まり、唇の端から零れ落ちていこうとするのを、勿体ないとばかりに時折素早く拭うように舐め取る舌のちろちろと出入りする動きがやけに艶かしく映り、霞む視界の隅を掠めるたびに、喉の奥からあえかな吐息が漏れた。
くちづけだけで、充分達してしまいそうだった。
一片の花びらが目の先を舞う。
くるくると漂うように空中を踊りながら、冷やかすように通り過ぎて行くのを見送る水色の瞳に、ほんのりと羞恥の色が宿った。
しかしそれも長くは続かなかった。
熱を帯びた雄が彼の中へ入る扉をじれったげに突き出し、もう一度そこへ入りたがっている気配を感じたとき、彼は息を止めた。
(は、あ……――)
逃れようとする体は、否応なく引き寄せられ、褐色の肌に白い肌が溶け合うように密着する。
全身を焦がすような熱を帯び、じっとりと汗ばむ肌。
ほんのりと匂う汗に花の強い香が混じり、鼻腔からそれをまともに吸い込んだ途端、痺れるような衝撃に全身を貫かれた。
仰け反る体は微かに痙攣し、そのまま意識が遠のきそうになった。
相手を受け容れる痛みと悦びが、彼を現実に引き戻す。
背後から挿入され、突き上げられるたびに涙混じりの瞳を虚空に投げ、狂ったような嬌声を発した。
相手が自分の中に熱を放つと同時に自分も達した。花の匂いと生臭い雄の匂いが混じり、鼻腔を強く刺激する。
充分いった筈なのに、まだ足りないといわんばかりに、それはなかなか自分の中から出ていこうとしない。もぞもぞと蠢くたびに、ライ自身の欲望まで、再び掻き立てられそうになる。
今度こそ、これで終わりだ。
そう思うたびに、裏切られる。
誘惑する相手に、そしてそれを拒みきれない自分の弱い意志に呻吟しながらも、結局は屈してしまう。
(この馬鹿猫め……)
唇を噛み締めて、思うようにはさせまいと耐えるが、その自制も長くは続かなかった。
背後で嬉しそうに喉を鳴らす相手の熱い息を肌に感じながら、それを許してしまう自分自身にも半ば呆れた。
いや、結局は自分も悦んでそれを受け容れているのだ。
心地が、良いから……。
ライは笑った。
これではまるでただの淫乱猫だ。
しかし、それももうどうでもよいことだった。
淫乱猫と呼ばれても、構うものか。
突き上げてくる衝動には、逆らえない。
開き直ってしまうと、気持ちが楽になった。
ぐん、と再び波が突き抜ける。
喘ぎながら、腰を揺らした。
もっと深く呑み込もうとするかのように、貪欲な入り口がひくひくと収縮を繰り返す。
前で屹立する股間を、アサトの手が軽く擦った。
「……ぁ……!」
途端にはしたなく、それは腹の前で震えながら踊った。
じゅくじゅくと先端から蜜を零す自身を視界の隅におさめながら、荒い息を弾ませる。
じっとしていられないほど、興奮が高まった。
繋がったまま、ごろごろと転がった。
その間も体中の毛を舐め尽くされるのではないかと思うほど、舌先の愛撫が絶え間なく続く。
振動が、体の熱を増す。
痛みと同時に駆け上るその快感に、完全に捉われていた。
繋がったままの相手の熱と質感が全神経をかき乱していく。
自分が酷い嬌態を見せているということを自覚しながら、もはやそれも気にならなくなっていた。
ここでは、全てのモラルが抜け落ちていく。
自分たちの欲望と快感だけが時間を紡いでいく。
(しようがない、猫さんたちだ)
(いつまで、遊んでいるんだろうね)
くすくすと、笑う声が耳元を掠める。
花たちの柔らかな嘲笑を浴びながらも、いつしかそれすらも心地良いリズムとなって交わる体を刺激する。
自分たちはただ素のまま、交わっているただの二匹の猫にすぎない。相変わらず遠くで聞こえる花たちの笑い声だけが、少し耳障りだったが、それももうどうでもいい。
もうこのまま意識を沈めてしまいたいとさえ思った。
与えられる快感に、酔っていた。
ライは体を揺らしながら、自分の喉が発する高く艶かしい喘ぎ声を、他人事のようにぼんやりと聞いていた。
--Recession--
……いない。
向かい合うベッドの上にいる筈の、つがいの猫の気配は微塵も感じられない。
朝の光に包まれながら、それでも背骨からぞくりと駆け上ってくる、その氷のような冷たい感覚に、全身を震わせる。
目を開いたコノエは、部屋の静けさの中に自分自身の気配すら消してしまったまま、じっとベッドの上で蹲っていた。
――ライが、いない。
自分を置いて、どこかへ行ってしまった。
こんなに朝早くから、どこへ……。
たいしたことではないのかもしれない。用があって、出かけただけなのだろう。
そう自分に言い聞かせながらも、なぜかコノエには今ライがいないことが、悲しかった。
自分が目覚める前に出かけて行かねばならないほどの、大切な用事なのか。
第一体は、もう大丈夫なのだろうか。
自分を抱くことができぬほど、弱っていたライの昨夜の様子を思い出して、コノエは考え込んだ。
拒絶。
止むを得ぬ状況だったとはいえ……それは、つがいになって初めてのライから受けた拒絶、だった。
コノエは唇を噛んだ。
何かが、おかしい。
つがいの猫との間に感じる歪み。
なぜ、こんなに不安なのだろう。
何かが、引っかかる。
心を覆う霧が一向に晴れない。
苛立つ心を鎮めるように、爪を噛んだ。
(ライ……)
なぜ、ここにいない?
自分の傍に、いない?
ベッドの上に立てた両足を抱え込むように丸くなって、目を閉じた。
目の奥に、白銀の毛並みを艶やかに波打たせる美しい猫の姿を思い浮かべる。
あんなにも、強く気高く、そして美しい猫が他にいるだろうか。
真っ直ぐな青い一粒の瞳がこちらを見つめるだけで、心臓の鼓動が早鐘を打った。
ライは、自分の憧れであり、誇りでもあった。
ライに愛されていると思うだけで、全身の毛が逆立つほどの喜びを感じる。ライがつがいであることが嬉しい。同時にそれはコノエの誇りでもあった。
確かにライのことを全てわかっていたわけではない。
いくらつがいとはいえ、他の猫の全てを自分のものにできるなど、傲慢な考えだろう。
そんなことは望んではいない。
でも……。
昨夜のライは、変だった。
――ライが、わからない。
コノエは初めて見えない不安に胸をかき回される苦しみを味わった。
何か、妙なことが起こり始めている。
コノエは、直感的にそれを嗅ぎ取っていた。
それは、止められないことなのだろうか。
自分たちの力ではどうしようもない、何か強い意志の力が働いているのではないかとさえ疑いたくなった。
見えない力に対する恐怖。
コノエはぶるっと身を震わせた。
自分の内に入り込んだあの呪いの恐怖が再び甦るかのようだった。
運命、という言葉を信じたくはない。
リークスと対決したときに、嫌というほど聞かされた言葉だ。運命という言葉の圧力に、何度も挫かれそうになった。しかし、それでも最後には彼はそれを自分の意志の力で乗り越えた。運命は、変えられるものなのだ、と確信した。その、筈だった。
――違う。
コノエは心の中で、きっぱりと否定した。
(そんなこと、ある筈がない)
自分とライは……。
確信が、揺らぐ。
見えない亀裂。
不穏な考えを、必死ではねつける。
そんなこと、あるわけがない、と。
(…………)
突然――
閉じた眼の前で光が揺らぐ感覚に、軽い目眩を覚えた。
同時にゆらり、と空気の不自然な流れを感じた。
その気配がした。
「……………!」
コノエは全身の毛を逆立てた。
恐怖に捉われながらも、目を開けずにはいられない。
こわごわと、瞼を上げる。
部屋の中は、どことなく暗ずんでいた。。
差し込む光の明度が落ちている。
気のせいか、と目を瞬いたが、情景は変わらなかった。
「……誰、だ……」
震える声音が自分の心の怯えをそのまま表しているようで、コノエはそう言った瞬間、声を出したことを後悔した。
気持ち悪さに、思わず部屋から出て行こうかとベッドから足を下ろしかけたとき。
(――ぼくだよ、仔猫ちゃん)
ずん、と頭の奥から響く声。
粘着質な、少し高い声音には、どこか覚えがあった。
コノエは周囲を見回した。
誰も、いない。
いないが、気配だけは感じられる。
どこだ。
どこにいるのか。
きょろきょろと落ち着きなく視線を彷徨わせる。
(――目を閉じてごらん)
声が命じる。
「……目、を……」
信じられぬように、コノエは呟いた。
(――そうだよ。そうすれば、ぼくの姿が見える筈だ)
しばし迷った後、半信半疑で彼は再び目を閉じた。
映像は、ぼおっとしていた。
砂のようにざらざらとした画像。
それがだんだんと、はっきりとしたものに変化する。
暗闇の中にゆらめく焔。
緑色の……。
覚えのある光景に、どきりとする。
これ、は……。
(……あ……!)
恐怖が彼を捉えた。
呪いを受けたときの、あの光景……。
悪魔たちとの、忌まわしい取引きを交わした光景が甦る。
(――目を開けるな!)
思わず目を開けそうになったコノエを、声が鋭く制止した。
命令に従わねばならぬいわれもないのに、なぜかコノエはその声に素直に従っている自分に気付いた。
(――そのまま……目を開けないで……)
声は今度は慰撫するように、甘い声音で囁く。
緑色の焔がからかうように大きく揺らめいた。
そこで、はっきりと気付いた。
目の前の焔。囁きかける声の主の正体を。
焔の向こう側にはっきりとした映像が浮かぶ。
尖って突き出た不気味な角。
閉ざされ、縫い付けられた両目。
常に人を嘲笑するような、薄く緩んだ唇。
緑色の悪魔。
それは……喜悦の悪魔の姿だった。
(フラウド……)
(――そうだよ。ぼくだ)
にやりと笑って、フラウドは答えた。
死んだ筈の悪魔がなぜここにいる?
コノエは混乱していた。
確か奴は、ライが倒した筈では……。
(――残念ながら、ぼくはまだここにいる)
コノエの思考を読んだように、声は答えた。
(――ぼくには、まだ存在理由があるのさ)
(存在、理由……)
コノエは不思議そうにその言葉を繰り返した。
何の、ために……?
その答えを直接相手の口から引き出すことはできなかった。
ただ、次に相手が言った言葉は、彼が全く予測もしなかったことだった。
(――取り引き、しないか)
(――取り引き……?)
コノエは突然の申し出に、首を傾げた。
相手がくすくすと笑う声が聞こえた。
(――だいぶ、困っているようだから、ね)
(何の、ことを言って――)
わかっていても、相手の言葉をそのまま受け止めることには抵抗があった。
(――捕まえた、と思ったら、するりと手の中から逃げて行く……本当、厄介だよねえ……)
――白猫ちゃんは、気まぐれだから……と、フラウドはころころと耳障りな笑い声を立てた。
揶揄するような響きに、コノエはむっとした。
(……うるさい。黙れよ!)
(――ああ、気に障ったかな。ごめんごめん。冗談はこれくらいにして――)
悪魔はおかしそうに謝ると、すぐに口調を改めた。
(――繋ぎ止める方法を、教えてあげようか)
ひっそりと囁く。
コノエの心臓がどきん、と大きく波打った。
(……何、だよ。それ……)
(――取り引き、するかい?)
(だから、どういうことかって……)
どきん、どきん、と心臓が激しい鼓動を続ける。
(――ぼくと取り引きするなら、教えてあげるよ。白猫ちゃんをきみだけのものにする方法を……)
フラウドの声からはもはや冗談や揶揄は微塵も感じられなかった。
コノエは困惑した。
(……内容もわからずに、取り引きなんか、できるわけないだろう――)
(――何を怖がっているんだい)
悪魔はほくそえんだ。
(――そんなことじゃ、白猫ちゃんを取られちゃうよ。例えばどこかの黒い野良猫くん、なんかにね……)
(……なっ……何――!)
爆弾を投げつけられたようだった。
――黒い猫……。
フラウドの示唆は、コノエが心の外へわざと追いやっていたものを、再び呼び戻した。
――そんな、こと……。
あるわけがない、と思いながら……。昨夜の情景が目の奥に浮かぶとそんな自信もどことなく揺らいでしまう。
眠るライの下でじっと蹲っていた黒い猫。
まるで、主を守り従おうとするかのように……。
不思議な光景だった。
ある筈もない、光景だった。
それが……。
(……いや、だ……)
考えたくもない。
アサトと、ライが……?
(――早くしないと、そうなるよ)
誘うように、悪魔が囁く。
(――今なら、まだ間に合う)
甘美な誘惑。
悪魔の甘言になど、騙されてはいけない。
そんなこと、わかりきっている筈のことなのに。
今は、悪魔の言葉にどうしようもなく、心が揺れる。
離れていく猫。
手を伸ばして、大きな声で名前を呼んで……。
戻って来て、と力いっぱい叫ぶ。
(行くなよ……!)
自分にはまだ、必要なのに。
なぜ、行ってしまう……。
(駄目だ。戻って……!)
――ここに、いて……!
そんな声もいつしか届かなくなる。
だんだん姿が見えなくなって……自分の元へは二度と戻ってはこない。
(……そんな……)
――そんなのは、いやだ……!
悪魔が、笑っている。それも当然だろう。
悪魔にとっては、猫の不幸は蜜以上の味になるのだから。
忌々しい。自分の不幸が悪魔の滋養になるなど、考えるだけで反吐が出そうになる。
しかし、まだ手遅れではない。
コノエは大きく息を吸い込んだ。
まだ、間に合う。
まだ、取り戻せるのなら……。
相手が悪魔であろうと何であろうと、構うものか。
(……どうすれば、いいんだ)
彼は自分の払わねばならない代価について、冷静に問いかけた。
(Fin)
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