Light Possession 6






(……は……――)
 何だか酷く疲れを感じた。
 悪魔とのやり取りで、思った以上に神経を磨耗していた。
 くったりと力が抜け、アサトの腕から抜け出そうというだけの気力も湧かない。
 正直不本意であるものの、この猫のされるがままになっている。
 ……とはいうものの――
「……ッ……髪を撫でるのは、やめろ……っ、気色悪い!」
 そう怒鳴ると、前髪にかかった手を鬱陶しげに振り払った。
「――いや、か?」
 きょとんとした濃紺の瞳が目の前で不思議そうに瞬いている。
「抱いてたときは、気持ち良さそうだったのに……」
「…………ッ……!」
 のうのうとそんな台詞を吐く黒猫を前に、かっと全身が羞恥に火照る。
 ――なっ、何が『抱いてた』時、だ……っ……!
 さりげない言葉のニュアンスに敏感に反応してしまう。
 急にいたたまれなくなり、アサトの胸を押しのけて床に身を投げ出した。勢い余って木の床板に胸を強く打ちつけて、少し呻いた。
「……どうしたんだ?」
 背後から肩を掴んで引き起こされようとするのを、余計なお世話とばかりに肘で振り払った。
「いいから、俺に触るなっ!」
「起こしてやろうとしているだけだ」
「一人で起きられるから、いい」
 頑なに助けを拒むライを、アサトは途方に暮れたように眺めたが、それ以上手を触れようとはしなかった。
 その間に、ライはゆっくりと手をついて起き上がると、下着を取り、ベッドの縁に腰を下ろした。
 まだふらふらするが、取り敢えず先程からの交尾で粘ついたこの体を何とかしたかった。この時間でも水汲み場で軽く体を拭くくらいなら、できるだろう。
 それにこの格好のままだと、またこの黒猫に欲情されそうで、それもわずらわしいことだった。
(全く、無節操な猫めが……!)
 若い、というだけでは済まされない。
 あんな奴と交わっていれば、精気も何もすぐに吸い取られてしまうだろう。
 何度やっても、きりがない。やればやるほど、もっともっとと無邪気に求めてくるから始末が悪い。
 一晩に何回勃たせる気なのか、とその凄まじい精力をこれだけ目の前で見せつけられると、もはや驚嘆するというより恐ろしくなってくる。
 怪物か、こいつは……。
 半分以上呆れていた。
 いや、元々自分たちはこんな風に繋がってしまうような関係ではなかった筈で……。
 一体どうしてこんなことになったのか、と思わずがっくりと頭が下がる。
「まだ、朝になってないぞ」
 だから寝ろといわんばかりにアサトは、床に胡坐をかいたまま、ベッドの上のライを見上げた。
「そんなこと、貴様に言われなくてもわかってる」
 窓を顎で示して、ライはぴしゃりと返した。
「だが、これだけいろんなことがあると、ゆっくり寝てもいられなくなるだろう」
 むっつりと言うと、アサトは不思議そうに首を傾げてみせた。
「そう、か」
 他猫事(たにんごと)のように呟く猫を見て、ライは内心深い溜め息を吐いた。
 ――馬鹿猫には、通じてないか。
 ただでさえ、気分が悪かったのに。
 もう心身ともにぼろぼろだ。
 誰のせいでこんな風になっているのか、奴にはまるで自覚がない。

 少し前までの自分が懐かしくなってくるような情けない気分だった。
 たった、数時間のことなのに。
 何かが……変わった。
 どうして、この猫が今、ここにいる?
 しかも、俺が呼んだからだと言った。
 本当に、そうだったのか。
 俺が……呼んだのか?
 この、猫を……。
 コノエを好きだと言って、自分の顔を見るたびにぐるぐると歯を剥いて唸っていたこの馬鹿猫を。
 自分を天敵のように睨みつけていた、この猫を。
 嘘だろう……と、大きな声で笑い出したくなる。
 何で、一体どこをどう引っくり返せば、そんなことになる?
 しかし、現実は、そうなった……。
 だから、この猫はここにいて、こんな目で自分を見つめている。
 こんな、目で……。
(……あ……)
 見つめられていることに、不意に耐えられなくなった。
 そうだ。どうして、こいつはこんな目で見るのか。
 濃紺の瞳を僅かに潤ませて。
 どことなく嬉しそうに、そして何かもっと求めてくるかのように。
 目を合わせてしまうと、忽ち落ち着かない気持ちになった。
 さりげなく視線を落とすと、少し咳払いをした。
「……もう、しないからなっ!」
 一応念を押してみる。
「何を?」
 とぼけた顔で問い返す黒猫を見ているうちに、無性に腹が立った。
 それが何に向けられる怒りなのかはわからなかった。アサトを憎んだり、恨んだりしたいわけではない。それでも、苛立ちを抑えることができなかった。
 何も言わない方が良いかもしれないのに、わざと駄目押しの言葉を口にしなければならない気持ちに駆られた。
「俺と貴様の間で、あんなことは、二度とない。だから全部、忘れろ」
「……………」
 アサトは一瞬目を大きく見開いた。
 ライの言っている言葉の意味を一生懸命理解しようとしている子供のような幼さが、その表情に現れていた。
「……俺の言う意味が、わかるか?」
 理解の遅い子供に噛み砕いて言うかのように、ライは少し言葉尻を弱めた。
「……俺とおまえは、そういう関係にはなり得ない。おまえは俺が嫌いだし、俺もおまえが……」
 そこで、ライはほんの一瞬、躊躇った。
 なぜだろう。
 胸がちくり、と痛む。
 その言葉を吐き出すのが、苦しかった。
 しかし、言わねばならない。
「……俺も、おまえが嫌いだ」
「………………」
 アサトの目が僅かに瞬く。
 傷ついた表情が見える。
 ずきり。
 胸の痛みが続く。
 何だろう。この鬱陶しい気持ちは。
 振り払えない、心の靄は。
「……嫌いな者同士が、くっつくなんて、あり得ないだろう」
 気の迷いか。何かの悪戯に引っかかっただけなのか。
 ただ、本能的な欲情に動かされただけで。
 そう、思いたかった。
 そう、思い込もうとしていた。
「……おまえはコノエが好きで、俺もコノエを愛しいと思っている。俺がコノエを取ったから、おまえは俺を憎んでいる。俺とおまえはいわば敵同士だ。そんな俺とおまえが仲良くなるなんて絶対にあり得ないことだ。わかるな?」
 畳みかけるように、ライはそう言うなり、ふいと顔を背けた。
「だから、忘れた方がいい。それが、お互いのためだ」
 そう、言い切ってシャツを被った。
(全てなかったことにしてしまおう……)
「――忘れる、のか……」
 ぽつりと、声が聞こえた。
 シャツから顔を出して前を見ると、アサトが床に蹲ったまま、しょんぼりと俯いていた。
「……そうだ。忘れろ」
 ライはそう言うと、立ち上がった。
 耳がだらりと垂れ下がった黒猫を、頭から見下ろした。
「おまえは、コノエが好きだと言っていたろう」
 ライは床に散らばったままの花束の残骸の中から、まだ美しい色合いを保ったままの一本を見つけてそっと拾い上げた。
 黄色い花弁が優しく見つめ返す。
 いずれは萎れて、全て抜け落ちてしまうだろう花びらが、手の中でささやかな命を瞬かせる。
 その花びらとほんのりと匂う香に、愛しさと切なさが満ちた。
「……ほら。コノエのために、摘んできたんだろう」
 アサトの鼻先に突き出した。
「……う、ん……」
 アサトの手がぎこちなく伸びて、差し出された茎に触れた。
 指と指が触れ合う。
 ――あ……。
 触れた瞬間、胸が疼いた。
 僅かな指先の温かさが、全身に沁み入ってくるかのようだ。
 花が、落ちた。
 拒む間もなく、掴まれた指先に湿った暖かい感触が伝わった。
「……あ……ッ……」
 唇からちろちろと顔を出す舌先が丁寧に、指先を舐める。
 とろけそうな、優しい愛撫だった。
 やめろ、と振り解くことができない。
 僅かな時間。
 ライは目を閉じた。
 体の中に広がる暖かい感覚に、心を沈める。
 どうしても、離せなかった。
 離したくない。
 離されたくない。
 軽く指が、引かれる。
 引かれるまま、床に膝をついて相手と向き合っていた。
 ごくり、と喉が鳴った。
 心臓の鼓動が速まる。
 ――ああ、駄目だ。
 どうしても……。
 吸引力が働くように、どちらからともなく、体を寄せ合っていた。
 気付けば、触れそうなくらい、すぐ鼻先に褐色の肌が見えた。
 舌で頬に触れた。
 暖かい。
「……ちが、う……」
 最後の抵抗を試みると、相手がぎゅっと体を締めつけてきた。
「……違わ、ない」
 ――違う。
 ――これは、全部、間違いだ。
「違わない……」
 怒ったような黒猫の声が全てを打ち消した。
 舌が絡み合う。
 それ以上反論することはできなかった。
 くちづけだけで、溶けていく。
 これが最後に交わすくちづけなのか、それとも未来に続く始まりのくちづけとなるのか。
 それは、どちらにもわからないことだった。
                                       (Fin)


<<index      >>next