If You're Melting Like Snow...







「――あ……」

 黒い耳がぴくん、と震えた。
 白い花びらが落ちてきた、と思ったら、鼻先でそれはふっと溶けるように消えた。
 肌の産毛が冷たさに粟立つ。
 ――つめ、たい。
(けど、気持ち、いい)
 目を閉じて、僅かに顔を上げながら舌先を突き出した。
 なかなか舌に触れてこないそれに、痺れを切らして目を開ける。
 ふわ。ふわ。
 じれったいほどゆっくりと、あちらこちらに寄り道しながら降りてくる花びらたちに、両手を伸ばして早くしろと催促した。
 花びらたちは少しずつその数を増し、次から次へと絶え間なく空から落ちてくる。なのに、わざと自分の周りだけを避けているように思える。そんな彼らの意地の悪さに憤慨して、アサトはますます剥きになって花びらたちを追いかけた。
「――おい」
 ようやく舌先に捕まえた白い花びらをこくりと喉の奥に転がして満足げに微笑んだ黒猫に、突然背後から声がかかる。
 ぴくん、と耳を立てて反応すると同時に、黒猫は振り返った。
 渋い顔で立っている白い猫を見るなり、その顔がぱっと明るくなる。
「ライ」
 アサトは、人懐っこい笑みを浮かべたまま、佇む白猫を嬉しそうに眺めた。
「何を、している」
 むっつりとライが問いかけると、アサトは無邪気に空を仰いだ。
「白い花が、落ちてくる」
 ひらひらと舞い降りてくる雪の欠片を掌に受け、じわりと溶け去るのをじっと見つめる。溶けてしまうと、今度はそれをぺろりと舌で舐めて、満足げな息を吐いた。
「冷たくて、気持ちいい」
 そう言っている間にも、雪はどんどん舞い落ちてくる。
 ライの髪や顔にも雪の粉が降りかかり、彼は無造作にそれを手で払った。
「――馬鹿か、貴様は」
 ライは舌打ちをした。吐く息が白い。気温の低さに、全身の毛がぶるっと震えた。厚めのマントを着けていても、寒さが堪える。
 目の前の猫の姿を見ると、肩まで露出したいつもの軽装で、あまりの薄着にこちらまで体が震えそうになる。
「馬鹿、じゃない」
 アサトは唇を尖らせた。黒い毛は既にうっすらと雪の白い粉を被り始めていたが、それを払いのけようともせず、このままずっと激しくなる雪の中にいればそのうち全身雪だるまになってしまうのではないかと思われた。
「馬鹿猫だ、貴様は」
 ライは容赦なく繰り返した。
 アサトの傍へ近づくと、不承不承といった風に手を伸ばし、黒い頭をはたいた。雪の粉が軽く舞う。
「何、する――」
 文句を言う黒猫の腕を掴んだ。
(……っ……!)
 掴んだ瞬間、あまりの冷たさに、ライは軽く目を瞠った。
「ほらみろ。こんなに、冷たくなっている」
 アサトは口をぽかんと開けたまま、ライを見つめた。
「何だ」
「――暖かい」
 驚いたように呟くアサトに、ライは苛立ちを込めて掴んだ腕を引っ張った。
「貴様が冷たすぎるんだ!」
 こんな寒い場所で、肌を剥き出しのままその身を長時間晒していれば、体温が下がるのも当然だろう。
 こんなに冷たくなるまで、どうして……。
 半ば呆れながら厳しい視線を向けてみても、相手は素知らぬ顔で、相変わらず無心に雪と戯れることを止めようとしない。
 一体何がそんなに面白いのか、と相手と同じように落ちてくる雪をしばらく眺めてみる。
 顔を上げると、忽ち綿のような雪が落ちてきて、じわりと肌に沁み込んだ。冷たさにぶるっと震えて手の甲で顔を拭った。
 目の前をちらちらとなおも舞い落ちてくる雪片を見て、吐息を吐いた。
(冷たい……)
 確かに冷たい。
 けれど……。
 冷たくて、気持ち、いい……だと?
 ライは首を振った。
 冷たい。凍えるほど、冷たい。体の芯まで凍えそうだ。とても気持ちが良い、などという次元ではない。
 ――くそっ、馬鹿猫が!
 いちいち世話が焼ける。
 放っておけば、この猫はいつまでもこうして雪の中で遊んでいるのだろう。凍えて動けなくなるまで。いつまでも、いつまでも……。
「ほら、さっさと中に入れ。凍え死ぬぞ」
 白い吐息を吐き出して歩き出そうとしたとき、不意に掴んでいた腕を振り放されたかと思うと、後ろから勢いよく抱きつかれた。
 いきなり冷たい体にしがみつかれて、ライは思わずひっと喉から声を上げた。
「……おいっ、よせっ!つっ……冷たいだろうがっ……!」
「ライの体は、暖かい……」
 ぎゅ、と両腕を回して体を押しつけてくると、アサトはライの髪の中に顔を埋めた。髪を掻き分けて、やがてその唇が首筋に触れる。
 唇は、ほんのりと温かい。
 逆に熱とあらぬ刺激をもらったようで、ライは、あ、と小さく喘いだ。
「……やめ、ろ……」
 こんなところで、まさか……。
 ――発情、しているのか。この猫は?
「……あた、た、かい……」
 囁く唇が、肌をくすぐる。
「馬鹿、こんなところで――」
 ずず、と体を引かれ、そのまま木の幹に、押しつけられた。すぐ間近で荒い息遣いが聞こえた途端、まずい、と思った。
「ここは、駄目だ……」
「ちょっと、だけだ」
「ちょっとでも、何でも、駄目なものは駄目だっ!」
「ライ……!」
 顔を背け、唇を噛む白い猫の頬を、冷たい掌がそっと撫でる。
 その冷たさにはっと息を飲んだ。
「冷たい――」
 ひやりと頬を濡らす凍えた手を取った。
 払いのけるつもりが、なぜか離せなくなり、その手をゆっくりと頬から唇へとずらした。なぜこんなことをしているのか自分でもよくわからないまま、気付いたときには唇が自然に動いていた。
 何だか、変だ。
 こんなに寒い気温の中にいるのに、頬がほんのりと熱を帯びている。
 体の中心で、何か熱いものが蠢き始めている。
 どうしてこんな風になったのか。
 この猫が誘いかけたせいか。
 わからない。
 
 
 
 冷えた掌をぎこちない舌先が舐め始めると、アサトはぴくんと肩を震わせた。
 舌先の温度が、包帯ごと冷え切った肌をほんのりとした温みで包み込んでいく。
(……あたたかい)
 熱い溜め息が零れた。
 何という、暖かさだろう。
 全身を心地良く満たしていく。
 驚きに見開かれた瞳が、とろりとした心地良さにその瞼を少しずつ落としていった。
 軽い吐息を吐きながら、アサトは目を閉じた。
 冷たいのが、気持ちいい、と思っていたのに。
 この猫の体温に触れた途端、自分がどれほどその温度を欲していたのかがわかった。
 こんな風に、冷たくなった体を温めてくれるものが傍にいるというのは、いいものだな、とアサトは嬉しくなって思わず微笑んだ。
 ずっとこうしていたい、と思った。
 ライは離れたがっているのに。
 自分はそれでも、今、この温もりを離したくなくて、まだ必死でしがみついている。
 そんな自分は疎ましいと思われているだろうか。
 そう思うと少し不安になった。
「……ライ……?」
 不意に手を離そうとすると、ぎゅっと手を引き戻されて、肩越しに怒った目で睨みつけられた。

「――勝手に、離すな。馬鹿」
 そう吐き捨てるように言うと、引っ張り戻した手を、頬に押しつけた。
「……もう少し、分けてやる」
 ライの体温が、伝わる。
 どんどん、冷えた体が温かくなっていく。
 それはとても心地良くて、嬉しかったけれど、その分ライの体温を奪っているのではないかと思い至って、急に不安に駆られた。
「……もう、いい」
「まだ、冷たい」
「いい、から……!」
 いつの間にか、立場が逆転していた。
 先刻は、一瞬の欲情に駆られて思わず抱き締めてしまった。それが今は必死で離れようとしている。なのに、離してもらえない。
「ライが、冷たくなる……!」
 そう叫んだ直後、掌に鋭い痛みが走った。
「……う……あ――っ!」
 びっくりして小さく声を上げたアサトの前に怒った顔のライがぐるると牙を剥いていた。肌を突き破るほどではないが、痛くて声を上げる程度の強さで噛みつかれたらしいとわかった。
「……う……ラ、イ……っ……?」
「くだらんことを心配するな、馬鹿猫!」
 怒っている。
 でも、その瞳は真っ直ぐに、自分にだけ向けられている。
 ライの心に存在しているのは、今自分だけなのだ。そう、確信する。
 そうだ。……この怒りは負の感情ではない。
 ライは……。
 ライは、俺を、嫌ってはいない。
 そう思いながらも、少し拗ねてみたくなる。

「馬鹿、馬鹿、って……言うな」
 噛まれた掌を引こうとすると、また引き戻される。
「ライが、冷たくなるのは、嫌だ」
「大丈夫だと言っているだろうがっ!」
「――嫌、だっ!」
 しまいに引っ張り合いになった。
「……アサトっ!」
 がりっ、と腕に爪がかかった。
「……っ……!」
 凄まじい痛み。
 今度は、先程とは比べ物にならない。
 かなり深く喰い込んだ感触だった。
「――言うことを、聞け」
 静かな口調には、怒気はこもっていない。
 喰い込んだ爪が抜けていく気配がしたが、痛みは引かなかった。ちらと視線を投げると、さっきまで掴まれていた右上腕部の剥き出しの肌からみるみる赤い血の筋が広がっていくのが見えた。その下の包帯までうっすらと赤く染まりかかっている。
「……おまえは、馬鹿だ」
 呆けて力を失ったアサトの腕をいったん払いのけると、ライはゆっくりと向きを変えた。木の幹を背に、アサトと向き合う。そうして再びアサトの傷ついた腕を手に取った。
「――だが、愚かではない」
「……ちが、う、のか」
 ライの言っている意味が理解できず、アサトはきょとんと見つめ返した。
 ライは唇を歪めた。自嘲するような笑みが僅かに浮かぶ。
「違うな。馬鹿猫は、無知なだけだ。何も知らないのと、知っていてするのとでは、まるで違う」
 傷口を、優しく舌が舐めた。
 忽ち痛みが和らいでいくような気がして、不思議だった。
「――俺は、愚かだ」
 ライは、血のついた唇をいったん離すと、ぽつりと呟いた。
「知っていて、おまえを傷つける……」
 ――こんな風に……。
 気のせいだろうか。
 瞳が、揺れる。
 空と水を連想する。透明感のある、綺麗な薄青の色。
 色素の薄い瞳の色が、儚げに揺れさざめき、今にも雪のように溶けていくような錯覚に捉われて、アサトは目を瞬いた。
「あ……――」
 思わず、両手でライの肩を掴んだ。
「……俺、は……っ……!」
 言葉に詰まった。
 言いたい言葉が見つからない。
 どう言えば、伝わるのか。
 この、強くて、綺麗で、傲慢で……。
 それなのに、突然こんなに儚げで脆い存在になる……。
 この、猫が。
 自分には――
 自分には、こんなにも大切で……。
「……濡れるぞ、ほら」
 しんしんと舞い落ちてくる雪が、アサトの黒い毛、耳、背中に積もり始めている。
 ライは雪から庇うように、ぼんやりと佇むアサトを木の幹へと引き寄せた。再びアサトの体から雪を払ってやると、今度は体をくっつけて並んで降る雪を眺める。
「血は、止まったか」
「あ……」
 腕を見ると、もう出血は止まっていた。
「――悪かった」
「いや……」
 何とも思っていない、と言うつもりで軽く頭を振った。
 雪の花びらを目で追いながら、ぼんやりと傍らの猫の銀色の毛を撫でた。
 雪のような、白銀の色。
 どちらも、綺麗だ。
 そんなアサトの心の声を聞いて嫉妬したかのように、白い花びらが突然こちらに向かって吹きつけてきた。
 冷たい空気が顔の前をよぎり、一瞬息ができなくなる。
 視界を白い粉塵で遮られ、我慢できずに目を閉じた。
「大丈夫か」
 手首を引かれて、我に返る。
 すぐ横に、銀色の毛に白い粉を同化させた猫が、おかしそうにこちらを見つめていた。

 怒っていない。
 笑っている。
 雪の花びらを纏った毛はいっそう白さを増していて、とても綺麗に映った。
「……う、ん……」
 笑顔が消えないうちに、その体に抱きついた。
 相手は驚いたようだったが、抗いはしなかった。

 何も言わない。
 でも、わかる。
 頬と頬を合わせて……体温を分け合った。

 そして、唇を重ねては、ついばむような戯れを繰り返した。
 冷たいのに、暖かくて……そんな心地良さを、不思議に思った。
 
                                        (Fin)


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