Feeling
暗闇の中で、ふとライは目覚めた。
寒い。
夜気の冷たさに、震える。
毛布を引っ張ろうとしたとき……
肘がその柔らかで温かいものに触れて、驚いた。
(……………?)
猫が、いる。
毛布をそっと捲って確かめる。
小さく華奢な体に、ひくひくと先端が震える尾っぽは、少し変わった鉤型だ。
暗闇に慣れた目が、ようやくその全貌を捉え、隣りで丸くなって眠り込んでいる猫を確認すると、ライはほっと息を吐いた。
そうだった。
自分は、この猫と……。
夢では、ない。
(――全て、見せてみろ。……コノエ)
自分たちのしたことを思い出して、ライの胸に微かな興奮の波が甦る。
(コノエ……)
その名をもう一度胸の内で呟くと、じわりと不思議な感覚が広がった。
――あ……?
彼は訝しげに首を傾げた。
どうしたというのだろう。違和感がある。
(……そうか)
すぐに理由がわかった。
そういえば……自分は知り合ってからこれまで、この猫の名前をまともに呼んだことがなかったのだ。
呼びかけるとき、彼が口にしていたのはいつも「馬鹿猫」か、せいぜい「おい」くらいだ。
「コ、ノ、エ……」
今度はそっと唇の先で音を紡いだ。
くすぐったい感覚が、全身に広がっていく。
しかし、不快ではなかった。
それどころか、この安堵感。満ち足りた気持ちは、どうしたものだろう。
これまで、味わったことのないような、何とも不思議で甘やかな感情が胸を満たしていく。
(不思議なものだな)
いとおしい。
尾を撫でた。
コノエが、コンプレックスを抱いている鉤型の尾。
触れられた尾が、ぴくり、と小さく震えた。
んん……と、コノエは僅かに身じろいだが、眠りから覚める様子はない。
くうくうと寝息を零す艶やかな唇……。
この唇に、自分の性器を咥えられていたのかと思うと、全身がざわっと波立つ。
(全く、どこで覚えたのか。あんなことを……)
無邪気な寝顔を見ながら、ライは苦笑混じりの溜め息を吐いた。
――この、淫乱猫が。
濡れた唇に軽く触れると、指先が僅かに湿った。
むずむずと、体の奥が疼いて、気付いたときには唇を舌でそっと舐めていた。
そんな自分の行動に半ば呆れた。
さんざん舐め尽くした筈なのに……。
まだ、足りないのか?
自制するように、いったん唇を離す。
唇を舐められても、やはりコノエは目覚めぬまま、ただ何となく気持ちよさげに、ふ……と小さく息を吐くと、くすぐったげに顎を動かした。
その仕草が妙に可愛く見えて、ライはふとその眼差しを緩めた。
どれだけ、体を重ねてもまだ足りないような気がした。
自分の中でどんどん高まっていく欲情の激しい波を感じて、自分自身驚く。
どうして、自分はこんなにこの猫が欲しくてたまらなくなっているのか。
まだ知り合ってそんなに間もない。
以前の自分なら、他の猫とこんなにべったりと一緒の空間で過ごすことがあるなど、想像すらしなかっただろう。ましてや、これほどまでに欲情を滾らせ、他の誰かを求める自分の姿など……。
ちっ、と軽く舌打ちをする。
この、俺が……。
自分自身の変化に戸惑う。
全て、この猫と出会ってしまったせいだ。
(――馬鹿猫……)
この、どうしようもなく馬鹿で強情ではねっ返りの雄猫にはずいぶん手を煩わされる。考えなしの行動や子供っぽい言動に苛立ち、黙らせようと怒鳴りつけてやっても、相手も負けじと言い返してくる。無視すると、また突っかかってくる。全く、生意気な猫だ。扱い辛い。
他の猫と接することの少なかったライにとっては、この猫をどう扱えばよいか、時に戸惑うことも多い。
言葉を上手く紡げない分、相手に自分の気持ちを伝えることはやはり面倒なことだな、とも思う。
それでも自分はどうしてもこの猫を手放せないままに、ここまで来た。
理由は……。
無論、彼の類稀なる賛牙としての才能、だ。
馬鹿猫だが、賛牙だ。
(こいつは、大切な俺の賛牙だ)
だから、自分には必要なのだ。自分が強くなるために、必要な道具。それ以外の理由が、どこにある?
そう、思っていた。
少なくとも最初は……それだけ、だった。
それが……。
いつからだったのだろう。自分の中で何かが変わっていったのは。
いつのまにか、この馬鹿猫から目が離せなくなっていた。
それは彼が賛牙だから、というだけではなくて……。
違う。もっと、別の……自分の心の奥底から滲み出るような、何か。気が付けば、狂おしいほどに、この猫を求めていた。
この熱く昂ぶる感情は、何なのか。
たとえば……いつから自分は一人でいることに落ち着かなさを感じるようになったのか。前は、いつも一人だった筈なのに。一人きりでいることが、普通だった筈なのに。
なのに今は……少しでもその姿が見えないと落ち着かない気分になる。常に傍にその存在を感じていたい。声を聞いていたい。
――その体に、触れたい。
尾から今度は耳へ手を伸ばす。
ひくひくと僅かに震える耳は、呪いのために未だ黒かったが、そんなことも気にならぬほど、心地よい感触だった。
(まだ、足りない)
もっと、もっとと囁きかける自分の飽くことのない欲望に呆れながらも、それをもはや理性で制御することもできない。いや、もうしようとも思わなかった。
黒いのに、それでもほんのりと赤みの差す柔らかそうな毛並みを見ていると無性に噛みたくなって、耳に唇を寄せた。
それでもコノエは起きる気配はない。
それをいいことに、そのままそっと舐めた。
先程よりも時間をかけて、ぺろぺろと丹念に舐める。
ほんの少しだけ、と思って舐めかけたものの、柔らかさと温かさが心地よくて、舌を離すことができなくなった。
――温かい。
肌の下で息づく生命の鼓動を感じて、興奮する。
この、温かさ。
自分が求める、温もり。
かつて、最初の狩りで、獲物から流れ出すその温かい血流に、何ともいえぬ高揚と喜悦を感じた。
その温度を得ることが、彼のこの世での生きている目的の全てになった。今、この瞬間も――
柔らかな肌だ。温かい。
肌を突き破り、その下に流れる赤く波打つ脈動をこの手に直に感じたい。
不意に……その抗いがたい衝動に駆られて、彼はコノエの首筋に牙を突き立てていた。
もう少しで肌を食い破ろうとしたとき。
「ん……あ……」
コノエの唇から漏れた音が、彼を正気に戻らせた。
――また……だ。
(お……れ、は……?……)
もう少しでこの猫にしようとしていたことの怖ろしさに、彼は震えた。
――ああ、やはり……。
ライは己自身に対する嫌悪感でぐるると小さく唸った。
何度自分は同じことを繰り返せば気がすむのか。
この猫を傷つけようとしてしまう。
コノエは、何でもないと言うが、自分が彼につけた生々しい傷を見るたび、実際にはそんなものではなかったことを思い知らされる。凶暴な魔物に変貌してしまう自分を、恐怖と嫌悪の目で見つめるコノエの姿を想像すると、ライの心は重く沈んだ。
狂気が徐々に蝕んでいく己の姿を心の底からおぞましく思う。
大切だと思うものを、壊してしまう前に、離れた方が良いのか。
しかし……。
――離れたく、ないのだ。
自分は、この馬鹿猫を放したくない、と思っている。
「コノエ……」
睦み合っていたときに思わず零れ出たものの、そうでなかったらこれからもめったに呼ばないであろうその愛しい名を、もう一度ゆっくりと呟く。大切な壊れ物を扱うかのように、優しく吐き出す息にそっと乗せる。
そのとき、コノエの手がもぞもぞと動いた。ライの存在を確かめるかのように、指先が肌に触れると、全身にびり、と軽い電流が走ったかのようだった。
ライは目を瞠った。
「……な……んだ……?」
わからない。
コノエの手の動きの示す意味が、最初彼にはわからなかった。
なぜなら、そんな風に触れられたことなど一度もなかったからだ。
他の誰かが、自分を求めて手を差し伸ばしてくることなど……。今までそんなことは、一度もなかった。
何だかひどく興奮する。
自分は、こいつの中でどんな存在になっているのだろう。
(知りたい)
衝動が駆け抜ける。
(こいつのことを、もっと知りたい)
いつも冷たくて凍りつきそうだった心が、今はほんのりと暖かくなっている。
牙を立てそうになった白い首筋を、今度は舌でゆっくりと愛撫するように舐めた。
相手の心臓の鼓動が静かに伝わってくる。
赤い血への欲望と、手の中の生き物をいとおしむ気持ちとの狭間で、ライは立ち竦んでいた。
いつか、この葛藤から抜け出せるときが、くるのだろうか。
瞳に僅かな翳が差す。
それでも――大切なものを、守りたい。
そんな強い思いが、自分の心の奥に潜む、黒い衝動に勝てるのだろうか。
わからない。
しかし、この思いがある限り……自分は強くありたい。
自分の心を蝕む邪悪な影に負けぬよう……。
(それでも、もし駄目なときは……)
――こいつが、俺の息の根を止めてくれる。
自分が彼を傷つける前に。
(――俺が、片をつけるから……)
つがいの猫として、自分が片をつける。
真っ直ぐに見つめ返して、そう言い切った猫の、あの真摯な強い光を放つ瞳を思い出して、ライは息を吐いた。
そこには何の迷いもなかった。強い意志の力と、相手への溢れんばかりの思いを、ひたむきにぶつけてくる。……息を呑むほど美しく、強い瞳だった。
きっと、この猫は約束を果たしてくれるだろう。
(――ライ……)
自分の名を呼ぶコノエの声が聞こえたような気がして、どきりとした。
抱き合っていたとき、コノエ、と呼んだ自分に合わせるように、ライ、と呼び返した猫の声に、思わず全身に鳥肌が立つほど興奮したことを思い起こす。
今……また、それを聞いた。
確かに、聞いた。
自分の腕に触れるコノエの手を掴み、引き寄せる。
「……ん……」
寝ぼけ眼の『馬鹿猫』を胸の中に包むように抱き締めた。
(――この、思いが……)
俺とこの猫を守る……。
そう、信じたい。
「コノエ……」
――おまえは、俺の大切な賛牙……
――俺だけの……
ライはその温もりを抱き締めたまま、安堵するように夜明けまでの僅かな眠りに落ちていった。
(Fin)
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