The Remnant (6)
甘い香りが、鼻孔をくすぐる。
何だろう。
この、懐かしい匂いは。
どこかで、同じような匂いを嗅いだことがあるような。
どこ、だったろう。
思い出そうとするが、どうしても、わからない。
いつか、どこかで、同じ体験をした。
蜜のように、甘く蕩けるような芳香。
体の奥まで、染み込んでくる。
心地良い、甘さ。
目を、開ける。
闇が広がっていた。
何も見えない空間の中に横たわっている。
(……ここは、どこ、だ……)
湿り気を帯びた地面。
冷たく、饐えた空気。
光の届かない、閉ざされた空間。
じっと横たわっていると、自分が生きているのか、死んでいるのかさえ、わからなくなる。
それでも……
怖れは感じなかった。
なぜなのか、わからない。
ただ、懐かしい空気を感じた。
怒り、恐怖、嫉妬、憎悪、悲哀……。
これまでに彼が味わってきた、それらの泥濘とした感情が、全てこの闇の中に、綺麗に溶け去ってしまったかのように。
純粋な、漆黒の空間の彼方に、一筋の光を見た。
彼は、身じろいだ。
ぐるるるる……。
微かに、響く声。
獣の唸る声。
警戒心は、微塵も生まれない。
むしろ、それにじっと聴き耳を立てている自分に気付く。
まるで、それを予期していたかのように。
それを迎え入れることを、心待ちにしているかのように。
闇が、震えた。
空気が、柔らかく振動した。
突然、それは目の前に姿を現した。
闇に融合するかのような、黒い獣。
光る双眸が、こちらをじっと見つめる。
その瞳に、微かに見覚えがあるような気がした。
「……おまえ……」
ライは、そっと語りかけた。
「……おまえは……何だ……」
――おまえは、俺を知っているのか。
答えない相手を前に、次から次へと問いだけが迸る。
――なぜ、俺を殺さない。
――俺は、おまえの餌になるだけの価値もないのか。
「……俺など、食っても美味くないか……」
彼は、自嘲気味に呟くと同時に、苦い溜め息を吐いた。
「……だがそれなら――こうして、俺をここに生かしておく意味は、ない……」
ことり、と何かが転がるような音がした。
ライの横たわるすぐ傍まで、それはころころと転がってきて、ぴたりと止まった。
目をやると、それは小さな木の実だった。
クィムの実だ。
はっ、と驚きの目を上げた瞬間、獣の瞳と目が合った。
――あ……
衝動に駆られ、思わずライは、身を起こそうとした。
這い上がりかけた途端に、体がぐらりと前へ傾いだ。
思った以上に、自分が弱っていることを実感した。
踏ん張る力が、全く入らない。
無理に起き上がった体は再び、力を失い、地に沈んでいく。
地面にぶつかる前に、獣の毛が触れた。
考える間もなく、彼は獣に抱かれて、再び地面に寝かされていた。
温かい毛の感触に、相手の内に息づく生命の鼓動を感じた。
同じ、生き物なのだ。
こいつも、俺も……。
ライは、ほっと息を吐くと、すぐ間近から見下ろす獣の姿を、目の中に映した。
醜い異形の姿。
しかし、なぜか嫌悪感や忌避感は微塵も湧いてこなかった。
ぐる、る、る、る……
獣の喉の奥から引きずり出される唸り声は、苦悶の声にも聞こえた。
「……苦しいのか」
瞳が揺れる。
頷いているようにも、見えた。
「――獣であるおまえが、なぜ苦しむ必要がある……」
息遣いが荒くなる。
獣の顔が接近した。
およそ感情というものが読み取れない異形の面がすぐ目と鼻の先に迫る。
獣は、大きく口を開いた。
食われるのか、と身構えたライの前で、獣はべろんと赤い舌を差し出し、頬を舐めた。
ねっとりとした舌が頬を撫でると、その熱く濡れた感触に、ライは体の芯が奇妙に疼くのを感じた。 そんな自分のはしたない反応に、ぎくりとした。
――獣相手に、俺は、何を……?
「――……や、めろ……っ……!」
ライがもがくと、不意に獣は体を離した。
「……あ………」
地面に横たえられた体は、彼自身の意志に反して中途半端に熱を燻らせる。
「……う……――」
情けなくなり、思わず両手で火照る顔を覆う。
「……く、そ……――っ……!」
ゆっくりと開いた瞳の中に、獣の昏い双眸が映った。
ふと――
暗い眼窩の奥に、青い光が閃くのが見えた気がした。
はっ、とライは小さく息を呑んだ。
深く、濃い、青。
強く、鮮やかに――
それは、確かな生命力を湛え……。
見る者の心を揺さぶらずにはおれない――
――ライ……
「……俺の、名を……」
――呼んだの、か。
幻を見たように、茫然と黒い獣を見つめる。
「……今、俺の名を呼んだのは、おまえか……?」
相手は、身じろぎひとつせず、そこにいた。
闇に溶ける、黒。
どんな顔をしているのか。
表情すら、窺えない。
ただ、二つの青い光が、こちらを見つめている。
なぜか、それだけはわかった。
「……おまえは、俺を知っているんだな……」
じりじりと、胸を焼く思い。
燻っていた熱が、全身に広がる。
何だろう。
思い出せそうで、思い出せない。
これは、何だ。
この、感覚。
この、既視感。
俺は、どこかおかしい。
おかしくなっている。
或いは今この場所にいるという――このこと自体が何かの罠なのか。
俺は、幻の中に取り込まれているだけなのか。
これは、全てまやかしなのか。
だとすれば、本当の俺は、どこにいる。
軽い混乱に陥り、ライは頭を押さえた。
「……頼む。答えてくれ。おまえは……誰なんだ」
――それを取り戻さなければならないのは、自分の方なのに、敢えて相手に問いかけずにはいられなかった。
失った、もの。
この喪失感を埋めるもの。
それは……
――この、目の前の獣の中に、ある。
わかっている。
わかっているのに……。
「……………っ………!――」
もどかしさに、地面を掻いた爪先に、こつ、と木の実の殻が当たった。
一つ。また、一つ。
気付かないうちに、幾つもの木の実が地面に集められていた。
そして――
ひらり。
白い花弁が、薄闇の中を、舞う。
(……何、だ……?)
思わず、目で追う。
その先に、同じような花びらが、雪のようにちらついていた。
ゆっくりと、目を上げる。
暗い闇を照らす、仄かな光があちらこちらに瞬く。
いつの、間に……?
どこ、から……
遥か頭上に、目を凝らす。
(あ――……)
ふわりと、それが瞼の上を掠めていった瞬間、思わず目瞬いた。
開いた瞳の前を、別の白片が優雅に通り過ぎていく。
音も立てず、次から、次へと。
白い泡雪のような、花びらが。
軽やかにゆらめき、時に戸惑うようにあちらこちらと行き先を変えながら、舞い降りてくる。
幻想的な風景に、声もなく、ただ見惚れていた。
その時、獣が、悦びの声を上げた。
黒い毛の上に、ふわりと白い花弁が落ちると、獣はそれを不器用な爪先でそっと剥がし、目の前にかざした。
その上からさらに別の花びらが舞い落ちる。
獣は嬉しそうに、鈍重な身をぎこちなく動かした。
まるで、花びらと共に、踊ろうとしているかのように見えた。
そのどこか滑稽な動作に、思わずライの唇は綻んだ。
すると、それがさらに獣を喜ばせたのか、獣の動きは先程よりもずっと軽やかになった。
くるくると、回り、跳ねる。
闇の中でも、その動きは手に取るようにわかる。
やがて、獣は両腕を伸ばし、天へ向かって一声咆哮を放った。
恐ろしい獣の唸り声ではなく、どこかそれは音楽の響きにも似ていた。
不思議な余韻が残る。
(……………………?)
背後の気配に、はっと我に返った時には、既に獣の腕の中に捕われていた。
(――ライ……)
懐かしい声が耳元で囁くのが、今度ははっきりとわかった。
「……おまえ……」
電流に打たれたようなショックを感じて、ライは茫然と呟いた。
「……やはり、俺を……」
――いや。
彼は頭を振った。
酩酊の中で、軽い混乱が彼の頭を鈍らせる。
それでも、彼は目を凝らした。
今、ここで逃せば、一生取り戻すことは叶わないかもしれないのだ。
そう思いながら、彼は頭の奥に浮かび上がったその一瞬の残像に、必死で縋りついた。
霧の向こうに、佇む影。
少しずつ、近付く。
失われた、記憶。
その、断片が……。
少しずつ、少しずつ……
はっきりとした、輪郭を形づくる。
俺も、おまえを……。
知って、いる……。
漆黒の毛。褐色の肌。
不屈の魂が宿る、深青の瞳。
背中に残る、傷痕……。
――生きろ。
凛とした声が、頭の中を駆け抜けた。
それは、他ならぬ自分自身の声だった。
――運命は、己自身の手で切り開くものだ。
――顔を上げて、前を見ろ。
――闘え。闘って、おまえ自身の手で、それを勝ち取れ。
(――いつか、おまえは、俺にそう言った……)
そう言われて、ライは、ふ、と笑みを漏らした。
「――そうだな。俺は、確かにそんなことを、言ったかもしれない……」
なぜ、忘れていたのだろう。
なぜ、俺は……――
「……おまえは、闘っているのだな……」
涙が、零れた。
止める間もなく、気付けばそれは静かに頬を濡らしていた。
「……悪かった」
体を包む黒い毛を、指先でそっと撫でた。
「――気付けなくて……」
それどころか、もう少しで俺は……。
――俺は、自分の闘いを投げ出すところだった……。
消えかけていた魂の火が、再び音を立てて燃え上がろうとしているのを、感じた。
「……おまえを、必ず、元に戻す……」
温もりを、抱き締める。
黒い獣の中には、まだ『彼』がいる。
よく知っている、『彼』の魂が……。
「……待っていろ。必ず……」
軽い唸り声と、興奮した息遣いを項に感じた。
体の奥が、疼く。
痛みと、悦びと……。
「――だから、行かせてくれ」
胸を切り裂くような、痛み。
ここを離れるということは、新たな苦しみへの旅路が始まるということだ。
ここで終わりにすれば、ずっと楽だったかもしれない。
一切の煩悶に決着が着く。
悩み苦しむこともないだろう。
全てが無に帰す。
リセットされた魂は、永遠の時間と空間を彷徨う。
それで、良かったのではないか。
それを、なぜ、わざわざ、捨て去ろうとする。
――おまえは、愚かだ。
突然頭の中に響いてきた悪魔の哄笑は、挑むようであり、それでいてそこからは、僅かな苛立ちと焦りが混じっているようにも思われた。
(何とでも言えばいい)
ライは、笑った。
久し振りに、胸のつかえが下りたような気がした。
「――地獄に落ちようが、俺は命がある限り、この生を生きる」
俺は、貴様が思うほど、弱くも脆くもない。
獣の腕が緩み、彼をそっと手の内から離した。
彼は、自由になった。
天を見上げ、息を吸う。
祈るように、目を閉じた。
荒ぶる呼気。
血と体液の混じった生臭い獣の匂い。
生き物の蠢く気配が、徐々に遠ざかる。
咆哮が、風に運ばれていく。
それが完全に消えるまで、彼はじっと待った。
やがて――
吐息が唇から零れた。
頬に乾く涙の跡を、指先で軽く払う。
……本当に、良かったのか。
自問自答する。
足に、何かが当たった。
木の実だった。
拾い上げ、それを指先で弄ぶ。
「……生きろ、……か……」
自分は、生きる、という選択をした。
生きて、あいつをもう一度、元の姿に戻すという、重大な選択を……。
「……アサト……」
その名を呟くと、彼の目の前の霧が突然全て綺麗に晴れたような気がした。
――アサト……か。
懐かしい笑顔を心の中に思い浮かべると、彼は無性にせつない気持ちになった。
先程まで、彼を包んでいた、あの温もり。
あれは、アサトのものだった。
アサトの魂は、あの獣の中に、まだ、生きているのだ。
取り戻したい。
どうしても……。
――そうだ。
まだ、間に合う。
まだ、今なら……。
(……取り戻せる……!)
それは、生まれて初めて、彼がそんなにも焦がれ、執着したものだった。
「……待って、いろ……」
木の実を、齧る。
森の香が、口内に広がった。
ものを食す、ということは生を繋ぐということだと実感する。心地良い。体の底から、力が湧いてくるような気がした。
岩に、手をかけた。
掴んだ感触は、思ったほど頼りなくはない。
一度は雌猫以下に落ちてしまった体力が、少しずつ戻り始めている。
その手応えを、感じた。
そうして、何かに導かれるように、彼は上へ向かって急な岩場をよじ登っていった。
( to be continued...) <2011/09/25>
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