Something You've Never Lost







「……っ……あ……!」
 堪えきれずに噛み締めた唇の隙間から声が漏れる。
 中心まで何度も突き上げられる。いいところを擦られるたび、全身を貫く痛みと快感の混じった刺激に、もはや悲鳴を抑えられなくなっていた。
「――今の、良かったかい?」
 一番最後に大きく突き上げてから、思う存分中で吐出した後、相手はようやく繋ぎ止めていた楔を抜いた。
 荒い呼吸が汗ばんだ肌を舐めた。
「もっと、いい声出しなよ。我慢なんてしないでさ」
「……う……――」
 銀色の長い髪を梳くように掻き上げると、白い肌がぴく、と震えた。
「綺麗な、髪だね……」
 手で何回も梳き上げては、目の前でさらさらと零れ落ちていく銀糸の一本一本の流麗な動きを感嘆するように眺めた。
「それにこの肌……」
 背に唇をつけると、その肌触りの心地良さに何度もくちづけを繰り返した。そのたびに腕の下の体がぴくぴくと小刻みに震えるその振動を感じるのも、また欲情をそそられる原因となった。
「――俺さ、雄猫抱いたの、初めてなんだけど、結構イケるもんだね。何か、癖になりそうだよ」
 笑うと顔に纏わる黒い毛が揺れた。
 何の反応もない相手に不安になったのか、黒猫は唇を耳根に寄せた。
「……酷くしてなかった?俺は気持ち良かったんだけど、お兄さん、苦しそうだったから……」
 囁く声は、知っている声とはまるで違う。
 瞬く間に夢から醒めた。
(だから、声を出すなと言ったのに)
 腹立たしくなり、シーツを爪で引っ掻いた。
「どうしたんだよ?何か俺、嫌なことした?」
 体をまさぐろうとする手を、撥ねつける。
「――もう、いい」
「いい、って……」
 相手はライの突然の拒絶に戸惑いながらも、敢えて逆らうこともせず、渋々体から身を離した。
 重い腰を引き上げるように、ライもゆっくりと身を起こす。
 ちら、と背後に視線を投げると、相手の姿を改めて観察した。
 まだ若い猫だった。
 こんなに若かったのか、と彼は内心ぎょっと驚いた。
 昨晩……酒場で見たときは、照明の暗さも手伝ってか、そこまでつぶさに顔を確かめることができなかった。
 ただ、そこに立っていたのが黒い猫だ、というだけで。
 ただ、それだけの理由で、その猫に近づいていた。
 黒い毛並みに、褐色の肌。澄んだ青い瞳。幼さの残る表情。
 似ている。
 無論ここにいるのは、『彼』では、ない。
 しかし、容貌はよく似ている。
 そして……それだけで、自分は興奮し、欲情した。
 ライは小さく吐息を吐いた。
 己のしていることが、いかにくだらないことか、承知していながら、ひとときの幻想に溺れた。
 以前の自分なら考えられない愚昧な行為だ。
 こんなことをするくらいなら、娼妓楼にでも行った方がましだったかもしれない。
 ――本当に、なぜこんなことを……。
 黒猫を宿に連れ込み、自分を抱かせた。
 相手は最初戸惑っているようだったが、自分が誘導すると、後は本能の赴くまま、むしろ彼が驚くほど積極的に激しく求めてきた。最後の方では、疲弊したライが拒もうとしても、もはや相手が許してくれなかった。
 一晩中、繋がったまま、何度も何度も中に出された。
 よくもこれだけ続けざまにできるものだと思いながら、ふとそんな風に何度も何度も求めてきた猫の面影が目の前をよぎり、切なくなった。
 いつの間にか、あんなに体を火照らせていた熱も消え失せ、やけに部屋の空気が寒く感じられた。
 ライは寝台の下に脱ぎ捨てていた上着を取った。
「もう、おしまいか?」
 背後から名残り惜しそうな声がかかる。
「当たり前だ」
 ライが冷たく言い放つと同時に、銀色に光る硬貨が数枚、シーツの上を転がった。
「――なに?」
「取っておけ」
「ふーん……」
 相手が素直に銀貨を手に取っている気配が伝わると、なぜかほっとした。
(ライ……)
 もっと、もっと、としがみついてくる指は、ない。
 そんな関係は二度と作りたくは、ない。
 胸の中にぽっかりと空いた空間を埋める方法は、どこにもないのだ。
 どこかの行きずりの猫と、こんな風に交わったとしても、無論この交わり自体に、それ以上の意味はない。
 金を払って、自分の中に溜まる欲望を処理する相手を求めた。ただ、それだけのことだ。

「なあ。アサト、って誰?」
 突然問いかけられて、驚いた。
 思わず服を着る手を止めて、振り返る。
「――なぜ……」
 その名がどうして相手の口から出るのかわけがわからなかった。
 自分の言葉が十分相手の注意を引いたことに満足したのか、黒猫は忌々しいくらい嬉しそうな顔をした。
「……あんたが、途中でそう言ったから」
「俺、が……?」
 交尾の途中で知らず知らず口にしていたのか。
 全く覚えがない。急に冷水を浴びせられたような気がした。
 心臓が少し鼓動を速めていることを、相手に気付かれたくなくて、平然とそっぽを向いた。
「そんなことを言ったのか。覚えていない」
「――ひょっとして、俺のこと、『アサト』だと思った?」
 黒猫はなおも興味津々に聞いてくる。
「……………」
 ライは返事をしなかった。
「やっぱりそうだ。……なあ、『アサト』ってどんな猫?俺に似てる?」
 ちょっとは空気を読め、と舌打ちしながらも、うるさく問い続ける猫を無視しきれなくなった。
「おまえには、関係ない」
「関係ないことないよ。お兄さんから誘ってきたくせに、さ。……なあ、教えてくれよ」
「さっさと金を持って失せろ」
「嫌だ」
 意外な抵抗に、目を瞠った。
 黒猫の瞳が異様な輝きを見せていることに、危機感を抱いたその瞬間、逃げる間もなく、突然勢いよく相手の体が覆い被さってきた。
 服を着かけていた、その手を押さえつけられ、取っ組み合いながら再び二匹は寝台の上に転がった。
 力では、ライの方が上だ。
 その、はずだった。
 なのに、執拗に絡みついてくる相手の手をどうしても振り解くことができない。
「――やめろっ!」
 もう、終わりだと言ったのに。
 発情する若い雄猫の馬鹿力が、ライの抵抗を容易に抑え込んでしまう。
 こんなもの。
 普段の自分なら容易に振り払えるはずなのに。
 振り払えないのは、自分に本当にはその気がないからだ。
 寂しい胸が、まだ何かを求めてやまない。
 手に入る望みもない、何かを執拗に求めて……。
「お金なんて、要らないから……」
 そう囁く黒い猫の顔が、再び違う顔になった。
「――もう少し、抱かせてよ」
 ――お兄さんも、抱かれたいんだろう。
 心の中を読み取られたような気がした。
「……馬鹿、猫……」
 ぼそりと低く呟かれた言葉は、相手の耳に届いたかどうか。
 できうるものなら、聞かれなかったことにしておきたい。
 自分がそんな風に呼びかける猫は、この世界にたった二匹だけしかいないのだから。
 もっとも、そのどちらも今は自分の傍からいなくなってしまったのだが。

 一匹は、自分の手で敢えて絆を断ち切った。

 そしてもう一匹は……。
 ふ……と、自嘲の笑みが零れる。
 こんなことがいつまで慰めになるだろうか。
 いつ、まで……。
(アサ、ト……)
 手を伸ばしても、届かない。
 いくら呼んでも、返事は返ってくることはない。
 大きな澄んだ、青い瞳で覗き込まれることも、ない。
 わかって、いるのに。
 諦められない。
 差し伸べる手が、宙を掻く。
 失ったものの大きさに気付きながら、わざと目を背け、かりそめの安楽に身を委ね……。
 いや……。
 失っては、いない。
 失った、はずがない。
 ライは、目を閉じた。
 目を閉じて、交尾の感触だけに集中し、そこで彼は自分を悩ませる思考を止めた。

                                 ( FIN )  <2009/01/11>


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