While The Soup Is Hot
―スープが冷めぬ間に・・・―
「よう」
黒猫の頭が上からひょいと覗くと、バルドは早速入ってくるように手招きした。
「大丈夫だったか?」
そう声をかけながら、するりと窓から入ってきたアサトを、しげしげと眺めた。
「さっきは、いきなり唸って飛び出してくから、驚いたぞ」
もっとも、どこへ行ったのかすぐに察しがついたのだが。
つい今しがた見た光景を思い出して、バルドは苦笑を浮かべた。
あの後――
慌てて追いかけて行き、部屋の扉を開けると、アサトの腕の中で全裸のままぐったりと抱きかかえられているライの姿が目に入り、バルドは軽いショックを受けた。
何が何だかわからぬまま、どうしたのかと声をかけると、途端に振り返ったライに凄まじい眼で睨みつけられた。
それだけでライが無事であることがわかり、ほっとしたものの、出て行けという無言の強い圧力に押されてやむなくそれ以上の説明を求めることを諦めて、退散した。
事情はよくわからなかったが、二匹が怪しい交わりをしている場面に出くわさなかっただけ、幸いだと思わねばならなかった。
(しかし……なあ……)
それでも二匹の間に何か特別な空気が流れていたことは、はっきりとわかった。
明らかにバルドが知っていた、これまでの二匹の関係とは、違う。
バルドの胸に複雑な思いが広がった。
――さて……どうしたものか。
いよいよ、困った。
あの二匹が、まさかそんな関係を結んでしまうことになろうとは。
(あのライが……誰かの腕に抱かれる姿を見るなんて、なあ……)
小さかった仔猫の柔らかな産毛の感触を思い出して、バルドは溜め息を吐いた。
あの猫を腕に抱いたことのあるものは、この自分くらいだと思っていたが。
しかもそれさえ、ずっと昔のことだ。なのに……。
さっきのライは、何だか不思議なことに、その頃の小さな仔猫に戻ってしまったかのように見えた。
……不安に全身の毛を震わせながら、泣きそうな目でこちらをじっと見つめていた、あの白い仔猫だった。
バルドは幻影を振り払うように軽く頭を振った。
――いや、そんなこと、ある筈がない。
ライは、もうあの頃の仔猫ではないのだ。
そのときふとあることを思いついて、バルドは話題を変えた。
「――ああ、そうだ。さっきも言ってたが、残り物のスープがあるんだ。ちょっとだけでも腹に入れろよ。ライも今日は何も食ってない筈だから、何ならあいつにも持って行ってやればいい」
「……ライに……?」
アサトがぴくりと耳を立てる。
「朝見たときも顔色悪いな、と思ってたんだが、それから部屋にこもったきり、食事にも降りてこないし。一度様子を見に行ったんだが、放っておけと言ってきかなくてなあ……」
バルドはお手上げといった調子で肩を竦めた。
「ああいう性格だから、まあ仕方ないがな。……で、ここに置いとくから、後で持って行ってやってくれ」
「そうなのか。じゃあ、今――」
「今じゃ駄目だ」
バルドは笑って軽く打ち消した。
「まだ、スープが熱いだろ。冷めないうちは、絶対あいつ、飲まないからな。今持って行っても、要らないって突っ返されるだけだろうよ」
バルドの言葉を聞きながら、彼は不意に思い出した。
そういえば、あの白い猫は熱いものを口に入れるのが苦手だったのだ、ということを。
これまでも、同じテーブルで出くわしたとき、湯気を立てているスープ皿をむっつりと睨みつけている光景を目にしたような気がする。
「……ああ……そう、いえば――」
「だろ?」
バルドは片目を瞑った。
「………………」
アサトは少し戸惑ったように、瞬いた。
(何だろう……)
あまりいい気分ではない。
ライのことなら何でもお見通しといったような相手の言動が何となく気に入らないのだ。
バルドに対してこんな嫌な気持ちを抱いたことなど今まで一度もなかったのに。
アサトはもやもやとする心を持て余しながら、バルドからふいと目を背けた。
「……ん、どうした?」
不意に黙り込んだアサトを気遣ってか、バルドがそっと覗き込んでくる。
「……何でも、ない」
顔を近づけてこられるのが鬱陶しくてぷいと顔を背けると、相手はおかしそうに口元を緩めた。
「……何だよ、おかしな奴だなあ……」
ぽんと軽く頭をはたかれる。
むっとして、その手を突き返すと、不意に立ち上がった。
「アサト?」
スープ皿を持ち上げたアサトを見て、バルドが目を眇めた。
「だから、それは――」
「いいんだ!」
無愛想にはねつけると、アサトはさっさと歩き出した。
慎重な手つきで湯気を上げた皿を持ちながら、ゆっくりと、今度は窓からではなく、扉を抜けて行く。
「おーい、おまえの分どーすんだよ!」
テーブルに残ったままのもう一つの皿を見て、バルドが声をかけるが、既にその後ろ姿は見えなくなっていた。
「……何だよ。せっかくあっためてやったのに。冷めちまうじゃないか」
バルドはやれやれと頭を掻くと、椅子にどっかりと腰を下ろした。
「……ったく――自分の分先に飲んで、奴のは冷めた頃に持って行きゃーいいのに」
――馬鹿猫。
思わず胸の内でそう呟いた自分がおかしくなって、バルドはふっと唇の端を緩めた。
ライの口癖だ。
確かに、馬鹿猫と言いたくもなるか。
(しかしなあ……)
スープ皿を一生懸命運んでいく黒猫を見ているといじらしくて、馬鹿などと言うと可哀想に思える。
――アサトとライ……か。
まだ不思議な気分だった。
(どうなっちまうんだよ、一体……)
バルドは困ったように天井を見上げた。
(コノエは……どう思うかな)
そういえば、コノエは朝出かけたきり、なかなか帰って来ない。
(ったく、何してんだよ。こんなときに……)
奴がさっさと帰って来ないものだから、ますます事態がややこしくなっているのではないかとさえ思い、バルドは鼻息を荒げた。
ライはぼんやりとベッドの上に腰かけていた。
何とか下着を着けたものの、湿った肌に纏わりつくシャツの布地が少し気持ち悪い。
やはり体を拭きに行った方がいいかと思うが、下まで降りて行くほどの気力が湧いてこなかった。
体のだるさは相変わらずだ。座っていると大丈夫かなと思って立ち上がってみると、数歩歩いただけでふらついてしまい驚いた。
(何だろうな)
まだ熱が引いていないのか。
元々今朝から体調は良くなかった。
それでも少し熱っぽいかなという程度で、しばらく寝ていれば治るものと高を括っていた。
それがどうも甘かったようだ。
というより……。
(くそっ……)
ライは忌々しげに舌打ちをした。
――というより、奴のせいではないか。
アサト……。
あいつは、一体何をしに来たのか。
どうしてこの俺が、あの馬鹿猫と睦み合わねばならなかったのか。
じくじくとまだ疼く下半身を抱え込んで、ライは憂鬱な吐息を吐いた。
腹の中が空っぽで、何となく気持ちが悪い。
そういえば、今日は全く何も腹に入れていないということに気付いた。
別に何か食べたいというわけでもないが、意志に反して体は正直な声を上げている。
水でも飲んだ方がいいかもしれない。
そう思って重い体を引き上げようとしたとき、扉が開いた。
コノエかと思い、目を向けた先に立っていた黒猫の姿に、ライは思わず息を呑んだ。
意識したくないのに、奴の顔を見ただけでなぜか胸の鼓動が速まるような気がした。
「……またおまえ、か」
わざと素っ気なく、視線を逸らす。
「――何の用だ」
もう十分相手はしてやった筈だが、という意味を込めて無愛想に呟いた。
「寝てなくて、いいのか」
そう言いながらライの前をすり抜けると、アサトはベッドの脇の小卓の上にことりとスープ皿を置いた。
「何だ、それは」
ライはまだ湯気を上げているスープの入った皿を見て、露骨に顔を顰めた。
「バルドが、何か腹に入れた方がいいと言っていた」
「――なるほど。また、奴のお節介か」
ライは、肩を竦めた。
「おまえ、今朝から何も食べてないって」
「……要らん」
にべもなく言い放つなり、ぷいと顔を背けてしまう。
「腹は空いてない」
実際は空っぽの腹を意識したところだった。
しかし、これ以上この猫と関わっていたくない。気のせいか、何かと理由をつけてはこの部屋に戻ってくる。そして彼を見るたびに、落ち着かなくなる自分自身にも困惑してしまう。
本当にもうたくさんだ。頼むから早く出て行ってくれと心の中で祈った。
しかも、あの湯気を立てた皿を見ると、さらにうんざりした。熱いものは苦手だ。
そんな思考を読み取ったかのように、
「冷めたら、飲むのか」
アサトは純粋な疑問符を投げた。
「――だっ、誰がそんなことを言った!」
ぎくりとしながらも、ライは昂然と叫んだ。
「何も要らんと言ってるだろうが。いいから、さっさと持って行け」
それより今は体を拭いてさっぱりしたい。
こいつが出て行かないのなら、こっちから出て行くまでだ。
そう思って立ち上がり、扉へ向かって歩こうとした。
どうしてこうも力が出ないのかと忌々しく思いながら、何とか床を踏みしめて歩く。
と――
「危ない!」
つんのめった瞬間、褐色の腕がさっと差し出された。
「……どこへ、行くんだ?」
「貴様には、関係ない!」
ライはアサトの腕を振り払ったが、支えがなくなるとまた足元が覚束なくなり、結局床にずるずると蹲ってしまった。
我ながらみっともない姿だと思ったが、体が言うことをきいてくれないので、仕方がない。
「……ライ……」
アサトはその背後で途方に暮れたように突っ立ったまま、白猫を見下ろしていた。
「……から、だ……」
俯いたまま、ライはぼそりと呟いた。
「うん?」
アサトは忽ち耳をそばだてる。
「……体が……湿って、気持ち悪い。――貴様のせいだぞ!」
ライは一気にそう吐き出してしまうと、恨みがましい目で背後のアサトを睨みつけた。
「……………?」
アサトはきょとんとした表情で首を傾げた。
何のことかさっぱりわからない、といった顔を見上げて、ライは、はーっ、と長い溜め息を吐いた。
* * *
『何してるの。さっさと食べなさい』
母親から促されて、慌てて口をつけたスープはとんでもなく熱かった。
それでも熱いと言えず、涙目でふうふう息を吐きながら最後まで飲み終えた。
やけどした舌を、後でこっそりと水汲み場で冷やした。
空に浮かんだ陰の月が哀れむように、肩を震わせる小さな猫を淡い光で包み込んだ。
『――馬鹿だねえ……』
月は呆れたように呟いた。
『……嫌なことは、嫌だと言えばいいのに。――何で、我慢するんだい?』
白い仔猫は唇を噛んだ。
『……言えないよ。そんなこと……』
だって、せっかくお母さんが作ってくれたスープなのに。
『変な仔だね、おまえは』
クククと月は鈴のなるような笑い声を立てた。
『もっと、素直に自分の気持ちを伝えればいいのに、何でできないのかねえ……』
月の冷やかす声を背に受けながら、彼は水で顔を洗った。
――どうして……。
そんなこと、わかってる。
でも、駄目なんだからしようがないじゃないか。
ばしゃばしゃと顔に水をかけながら、小さな仔猫はちょっぴり悲しくて、泣いた。
そしてそんな自分が情けなくなって、目をごしごしと擦った。
どうして、いつもこうなのかな、と思う。
もっと、素直になりたい。
自分の気持ちを、わかってもらえるように。
本当の僕は、こうなんだよ。
本当は、僕は今、こんな風に思ってるんだよ、と。
どうして、言えないのか。
……自分でも、わからなかった。
* * *
水汲み場で青白い光を背に受け、汗ばんだ体を水で濡らした布で拭かれている間、なぜかそんなことを思い出した。
じわりと濡れた体に、夜風が冷たく触れる。
そんなに寒くない筈なのに、なぜか震えた。
「大丈夫か?」
背後から、気がかりそうな声がかかる。
「ん……」
軽く頷いた。
そうしている間も、首筋から背中を丁寧に拭われていくのがわかる。少し水を多めに浸した布で撫でるように拭いてから、雫が垂れ落ちてしまう前に、乾いた布でさらにそれを拭き取る。そうして、マッサージするようにゆっくりと幾度か肌を優しく擦っていく感触が、とても心地良くて何だかそのまま眠ってしまいそうだった。
――あれから結局、アサトにおぶわれて、窓から外へ出た。
大柄な自分の体を苦もなく背負い上げた黒猫の背中は思っていた以上に広く逞しかった。
自分が小さくなったのか。
それとも相手が大きくなったのか。
アサトが自分を背負い上げようとしたとき、さすがに抵抗した。しかし相手は有無を言わさず、彼の体を自分の背に引っ張り上げた。その強引さに対抗するだけの力も残っていなかったため、最後には仕方なく為されるがままに任せた。
意外にも心配は杞憂に終わり、アサトは息を上げることもなく、ライを背負ったまま、柱を伝ってあっという間に地面に降り立った。
――そうして二匹は今、ここにいる。
なぜかアサトにシャツを脱がされ、こんな風に体を拭かれて……。
要らんと言いながら、結局アサトにかいがいしく世話を焼かれるはめになっている自分の今のこの状況は、一体どうしたものだろう。
ライは吐息を吐いた。
(こんな筈ではなかったのに……)
――どうして、自分を放っておいてくれない?
だが困ったことには、実を言うと、自分はそれを心から嫌だと思っているわけでもないのだ。そしてそれがわかっているからこそ、余計に苛立つ。
そう思っている間にも、アサトは器用な手つきでライの体をゆっくりと丁寧に拭っていった。
最初は戸惑っていたものの、じきに慣れた。
しかし背中だけでなく、前まで拭われようとしたとき、自分でできると言って断わろうとしたが、アサトはそれを許さなかった。
そして、ライはとうとう諦めた。
渋々相手のしたいようにさせてやる。
それでもあまりに気持ちが良いので、不機嫌もそう長くは続かなかった。
胸。腹。手を持ち上げて、肩から腕へと優しく揉まれているうちに、いつのまにか瞼が下がり、気持ち良さにごろごろと喉を鳴らしていた。
「慣れたものだな」
感心したように呟くと、
「――昔から、俺の仕事だった」
アサトは、さらりと返した。
「吉良で、か」
「ああ」
「……こんな風に他の猫の体を拭くことが、おまえの仕事だったのか」
ライはうっすらと瞳を開けた。
目の前に黒い髪が揺れていた。
嫌味のつもりではなかった。
だが、他の猫の体を拭く……つまりそれは他の猫の下にかしずくいわば召使のような仕事ではないか。彼がそんなことを平然と自分の仕事だと公言したことに、少なからず驚いた。
「……それだけじゃあ、ないけど。――でも、俺は厄介者だったから」
アサトは特に気を損じた様子も見せずに、淡々と答える。
「……………」
「俺みたいなのは、そういう仕事を進んでやらないと、村にいられなくなる」
――厄介者、か。
吉良の猫たちから、彼が受けた仕打ちは恐らく、彼が語る以上に酷いものだったのだろうということは、容易に想像がついた。
この猫は、自分の生まれ育った村にさえ、居場所が与えられていなかったのだ。
黙々と他の猫が嫌がる仕事をこなしながら、それでもなお疎まれるがゆえに、自身の存在をかき消すように、何も見えず聞かない振りで、口を閉ざしたまま、ひっそりと生きてきた猫が、たまらなく哀れに思えた。
ライは喉の奥で少し唸った。無性に怒りが募る。
「……貴様は……腹が立たないのか」
「……ん?」
驚いたようにアサトがちらと眼を上げた。
「何に、だ?」
「吉良の奴らに、だ!」
おまえを蔑み、冷遇してきた村の奴らを憎んでも当然だというのに、どうしてそんなに平気で話せる?
ライは腹立たしく思わずにはいられなかった。
吉良の猫たちに対しては無論のこと、それ以上に自分が受けた扱いの不当さを意識することすらせず、ただ目を白黒させてこちらを見つめ返してくる、この愚かな黒猫自身にも。
「……何で、だ?」
本当にわからない様子で、アサトは首を僅かに傾げた。
「……おまえ……――」
ライは小さく息を吐いた。
剥きになっている自分が馬鹿らしくなった。
「……わからなければ、いい」
――ったく、馬鹿猫め。
胸の内で吐き捨てる。
馬鹿な猫だ。そんなだから、いいように利用される。
一方のアサトは気にもかけずに暢気に手を動かし続けた。
「――いっぱい仕事、やったから、お陰でいろんなことを、覚えられた」
そう言ったとき、ちょうどアサトの手はライの下腹部に押し当てられたところだった。そのまま手を下へ滑り込ませる。
「あっ、おい……っ……」
相手の意向がわかると忽ちライは慌ててその手を止めようとした。
「どうか、したのか」
アサトは不思議そうに目を上げて、戸惑うライを見た。
「ここも、汚れてる――」
「そっ、そこは自分で……」
自分でするからやめろと言おうとしたときには、既に遅かった。
「ばっ、馬鹿、そこはいい……って、あ……っ……」
アサトは何の躊躇いもなくライの下肢を丹念に拭い出していた。
微かに熱い頬を意識しながら、ライは目を固く閉じた。
とんでもないことをやらせている。
(くそ……こんな、ことまで……)
どうして、この猫にこんなことをさせているのか。
情けないが、これも止むを得ないことと思わねばならなかった。
なぜ、どうして?という問いはもう意味がない。
偶然が必然になっていく。
交尾でべたついた部分が綺麗に拭われていくのは、正直気持ちが良かった。
――もう、どうでもいい。
恥ずかしささえ我慢すれば、どうということはない。
しかし一夜明ければ、アサトの顔を見ることはできなくなりそうだ。
「――もう、冷めてる」
ライがさっぱりとした体に、シャツを着け始めたとき、アサトはぽつりとそう言った。
「…………………」
まだ、さっきのスープのことを指して言っているのだと気付いたとき、ライは何と答えればよいのか迷った。
あくまでスープを飲めというのか。
自分は要らないと言った筈なのに。
しかし……
同じ問答を繰り返すのも鬱陶しい。
それに体がすっきりした今はスープを飲むのも悪くない、と思った。
「……俺は……」
アサトは少し恥ずかしそうに俯いた。
「……俺は、温かいスープなど、飲んだことはなかった」
アサトの言葉をライはただ黙って聞いた。
「だから……冷めると、勿体無い、と思ってしまう」
「……あいにく、俺は冷めたスープがいい」
むっつりとライは言い放った。
吉良の村で、小さな小屋の片隅に蹲っている黒い仔猫。その前に置かれた冷めたスープ皿。
そんな寂しい光景が頭の奥をよぎると、切なくなった。
嫌なことを嫌だと言えず、満たされた振りをする猫。
嫌も好きも関係なく、ただひっそりと蹲っているしかない、猫。
どちらも、孤独で不幸せであることに変わりはない。
「――俺は、やっぱり温かいのがいい。……けど……」
不意にアサトは振り返った。
少しはにかんだ瞳と視線がぶつかる。
「……スープが冷めるまで待っていれば、いいこともあるんだな」
そう言った瞬間、アサトの顔に屈託のない笑みが広がった。
ライは呆然とそれを見つめた。
(何、なんだ……)
不思議な感情が去来する。
この猫の言うことは今ひとつ掴めないことが多いが、今が特にそうだった。
そのくせ、この笑顔を見ていると、自ずと不機嫌な心を溶かされてしまう。
おかしな、奴だ。
――よくわからんが、まあ……
「……冷めていても、俺は一皿も飲めんぞ」
「じゃあ、俺も飲む」
アサトがすかさず割り込んできた。
少し頑なな口調で、繰り返す。
「俺も、半分飲む」
「――勝手にしろ」
呆れたように言うと、ライはアサトの顔を見ないようにして、ゆっくりと草の上を歩いた。
後ろから、慎重についてくる足音を聞くと、苦笑いが込み上げる。
(全く……)
いつ何が起こっても、奴がいる限り大丈夫というわけだ。
――俺も落ちたもんだな。これじゃよぼよぼの老猫扱いだ。
そう自嘲しながらも、案外悪い気分ではなかった。
(Fin)
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