The Soup Is Not Good Enough
ぴちゃ、ぴちゃと汁の撥ねる音がする。
ベッドのすぐ傍に膝をつき、シーツの上に肘をついたまま、皿を持ち上げ一生懸命スープを飲んでいるアサトの黒い頭を、ライはぼんやりと眺めていた。
「美味い」
やがて満足そうに顔を上げると、アサトはとても嬉しそうににこりと笑った。
口の端からこぼれかけた汁を、赤い舌がぺろりと器用に舐め取った。
こんなに大きな体をしているくせに、仕草はまるで仔猫のように幼い。
ベッドの上に半身を起こしたまま、ずっとその様子を見ていたライはその一言を聞くと思わず苦笑した。
「そんなに、美味いか」
そう問いかけると、アサトはこくりと頷き、
「ライも、飲め」
ライに、スープ皿を差し出した。
「俺は、もういい」
「ちょっとしか、飲んでなかった」
「あれで、十分だ」
「駄目だ。これは、ライの分だ。もっと、飲め」
突き出された皿を前に、ライは溜め息を吐いた。
皿にはスープがまだ少量残っている。
アサトは自分の分もとうに飲み終わっていたが、ライは自分の分も半分飲むように促した。
アサトは素直にそれに従ってライが飲んだ後の残りをこくこくと飲み始めた。
しかし、どうもライがあまり飲んでいないということが気になっているらしい。そして今、途中で飲むのを止めて、もっと飲めと皿を突き返してきたのだ。
この猫は結構強情なので、いったんそう言い出したら、てこでも動かない。
やれやれと皿を手に取ると、舌を伸ばした。
冷めてからも、美味そうな匂いは鼻腔を刺激する。
ぴちゃぴちゃ、と舌がとろりとした汁を掬い舐めた。
甘くてクリーム状の汁を美味そうに喉の奥に流し込んだ。
確かに、美味い。
ひと舐めすると、もう少し欲しくなる。
そっと舌を伸ばした。
そこで、ふと気付いた。
すぐ横から、じっと見つめる視線に。
「……おい」
ライは、ベッドに乗り上げてすぐ傍まで顔を近づけていた黒猫を、鬱陶しそうに睨みつけた。
「そんなに、近づくな」
落ち着かない。どうして、この猫はすぐに体をくっつけたがるのか。
「――美味いかな、と思って」
アサトは照れたように、ぽつりと言った。
「確かめたかったから」
自分が無理をして飲んでいないか心配だったらしい。
どういうことか、よくわからないが、取り敢えずこの猫なりの気遣いなのかもしれない。
「……美味い」
ライは仕方なく答えた。
実を言うと、こんな風に正直に自分の気持ちをいちいち相手に伝えるのは、苦手だ。しかし、そう言わないと、いつまでもくっついていられそうで、煩わしかった。
「――だから、もう少し離れろ。気になって飲んでいる気がしない」
「わかった」
アサトは素直に体を離した。
それでも視線はずっとライの顔に注いだままだ。
気になりながらも、残りのスープを飲む。
要らない、と言っていたのに、気付けば全部飲み干してしまっていた。
「ほら」
最後にぺろりと舌で口の周りを舐め上げて、皿を渡した。
「全部飲んだ。――満足か?」
アサトは空の皿を受け取ると、嬉しそうに笑った。
「美味かったろう」
「……ああ」
「良かった」
まるで自分が作ったかのように、満足げに頷く。
持っていた皿をじっと見ると、急に顔を近づけた。
何をするのか、と驚いて見ているうちに、アサトは皿を舌でぺろぺろと舐め始めた。
皿に付いていたスープの残滓を残らず舌で掬い取っている。
いぎたないことをするな、と言おうとしたとき、急に相手が皿から上げた顔を近づけてきた。
「お、おい……?」
逃げようとする体を掴まれ、引き寄せられる。
何をするつもりなのか……と思ったときには、既に唇が重なっていた。
こじ開けられるように、舌が侵入してくると同時に、とろりとした液体が口の中いっぱいに広がっていた。
「……んぅ……っ……!」
舌が、口内をちろちろと舐める。
舐められるたびに、クリームの甘い味が摺り込まれていくかのようだ。
(さっきの……)
さらったスープの残滓を全て注ぎ込まれていく。
美味かった、と言ったからか、と少し後悔した。
スープの残りと唾液が絡まって喉を流れ落ちていく。
汁がなくなっても、舌先の優しい愛撫は続いた。
ようやく唇を離した後も、アサトの舌はライの顔から離れようとはしなかった。
唇の周りから、頬や鼻、瞼といった風に遠慮のない舌先は顔を隈なく舐め続ける。
「よせ。気持ち悪い……」
そう言いながらも、その感触は少しくすぐったいだけで、実際にはさほど不快でもない。
むしろ柔らかで温かい舌先に優しく愛撫されているうちに、いつしか蕩けるような心地よさを感じていことに、自分でも戸惑うほどだった。
「は……――」
相手の呼吸を、感じる。
息遣いと、熱い体温。
心臓の、鼓動さえも……。
ぴったりと体を密着させている。
いつのまにか、また怪しい状況になりかけていることに気付いて、どきりとした。
「よ、せ……」
力ない言葉が漏れた唇に、柔らかな舌が吸いついた。
「……い、や、だ……」
唇を舐めながら、合間に囁かれた。
「……気持ち、いい……」
アサトが言うと、ライはああ、と目を閉じた。
それは、自分も同じだった。
こうしているのは気持ちいい。
手が、肌に触れるのを感じた。
(あ……)
「や、め……――」
「ちょっと、だけ……」
そういう相手の呼吸が弾み、息遣いが激しくなっている。
相手が興奮しているのがわかる。
何が、ちょっとだけだ。ちょっとで済むわけがない。
危機感に襲われ、ライは相手の体を離そうともがいた。
「だ、めだ。もう、今夜は……――」
さっき体を拭いたばかりなのに。
これでは何もならないではないか。
全く……スープだけでは足りないというのか。
体の奥がむず痒くなってくる。
まずい。
このままでは、こちらまでおかしくなってくる。
(この、発情猫が……っ!)
駄目だ。
もう一回、なんて、絶対に……。
第一……もうじき、コノエが帰ってくる……!
そう思うと、頭の中がかっと熱くなった。
――コノエ……
こんなところを、見られたら……。
「は、なれろ……っ……!」
ライは渾身の力を振るって覆いかぶさってくる相手の体を力いっぱい押しのけた。
ベッドが酷い音を立てて軋んだ。
突き飛ばされたアサトの体が床に落ちていく。
何かが思いきりぶつかる音。振動がベッドの上にまで響いた。
鈍い呻き声が響く。
「……あ……」
ベッドの上で呆然とその様子を見ていたライはやがてはっと我に返った。
床に転がったアサトは、ぴくりとも動こうとはしない。
どうやら落ちたときに、床に頭を強くぶつけてしまったようだ。
「……お、い……っ」
荒い呼吸のまま、ライはベッドの上から這いずるように床に下りた。
床に倒れたアサトの体のすぐ横に膝をつき、肩を揺すった。
「アサト……っ!」
頬を何回か叩いているうちに、うう……と小さく呻きながら、アサトはようやく意識を取り戻し、ライはほっと安堵の息を吐いた。
「……あ……ラ、イ……?」
目の前にライの顔を見た途端、アサトはぼんやりと微笑んだ。
「馬鹿、猫がっ……!」
いきなり発情するからだ。
そう胸の中で毒づきながらも、急にたまらなく切ない気持ちになった。
この猫が動かない。
そう思ったとき、急に怖くなった。
何かを失ってしまうことへの、怖れ。
胸の中が空っぽになる。
軽いパニックが、襲った。
息をしているということがわかったとき、心から安堵した。
どう、して……。
こんな風に、自分はこの猫の中に捉われていく。
不思議だった。
理由もわからない。
でも、こうなってしまったのだから、仕方がない。
自分は、この猫を……。
(くそっ……!)
ライは、きょとんと無防備に見つめる黒猫の顔に、自分の頬を摺り寄せた。
背中をそっと抱くように起こす。
「馬鹿、猫……」
ひっそりと呟く。
そうしながら、なぜ自分はこんな風にこの猫を抱き締めているのだろう、と半ば不思議に思った。
――馬鹿猫は、自分だ。
煩わしいと思うなら、放っておけばよいのに。
早く部屋から追い出したら、よいものを。
それができないから、こんなことになる。
首筋に暖かいものが触れて、びくっとすると、アサトに舐められているのがわかった。
「……もう、しない……」
ぺろぺろと舐めながら、アサトはぽつりとそう言った。
「嫌なら、しない……」
返事ができず、戸惑っている間に、ぎゅっ、と逆に抱え込まれた。
力強い腕が、己と同じくらい大きな体を思いきり掻き抱く。
「何も、しない。――でも、少しだけ……」
痛いほど、抱き締められる。
体温が、伝わる。
驚くほど、熱い。
熱でもあるのだろうか。
自分の熱が、移ったのではないか、と不安になる。
しかし黒猫はそんなことには全く構わない様子で、満足げに息を吐いた。
「こうしているだけなら、いい、か……?」
心臓の鼓動が、重なる。
自分と同じ命の鼓動を感じる。
「こうしているのが、いい……」
切々と訴える猫が、いじらしくなった。
(――独りは、嫌だ――)
それは、自分も同じ、なのだ。
本当は……。
自分も、それを求めている。
求めても、求めても、得られない、何か。
それが、今、ここにある。
ほんの小さな満足感。
自分は誰かのものだ。
そして、自分にも、そんな誰かが与えられている。
自分を温かくしてくれる、もの。
自分を永遠の孤独から救い出してくれる、何か。
それが……。
この猫――なのだろうか……。
本当に、そうなのだろうか……。
しかし、今はそれもどうでもよい。
ただ、今満たされるものがあれば……。
それがこの猫であるのなら……。
諦めの吐息か満足の吐息なのかわからぬような、小さな吐息が零れる。
「……好きに、しろ」
耳元に低く囁くと、仔猫が戯れるように、褐色の首筋に優しく噛みついてみた。
(Fin)
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