The Fragment







 ぶたれた頬が、熱い。
 熱くて、疼くように痛む。

 でも、そんなことはどうでもよい。
 それ以上に、惨めで情けない気分だった。

 
 
 手伝いを、さぼった。
 さぼるつもりはなかった。
 穏やかな日差し。鳥たちの囀りに、ほんの少し耳を傾けてしまったのが、いけなかった。
 うとうととまどろんでいたら、突然怒った父さんの声が地鳴りのように鼓膜を打った。
 驚いて飛び起きた。
 でも、そのときには既に遅かった。
 父さんは、ほんの僅かな言い訳すら聞いてくれなかった。
 
 
 泣くのが悔しいから、ただ唇を引き結んで俯いていた。
 何を言っても、聞いてはもらえない。
 父さんの怒っている声が遠くなる。
 聞きたくない。何も聞いてやるものか。
 聞こえてくるものの全てを締め出すように、目を固く閉じた。
 
 
 父さんなんか。
 父さんなんか……
 嫌いだ。
 大っ嫌いだ!
 
 顔を見たくない。口も聞きたくない。
 もう、こんなところにいるのは、嫌だ。
 父さんは、全然わかってくれない。
 父さんは、いつも理由も聞かずに怒るだけだ。
 怒って、手を上げて、自分を黙らせる。
 でも、もう、こんなのは嫌だ。
 父さんも、母さんも……誰もいないところへ、行く。
 
 誰も、いないところへ。
 
 そう思って、走った。
 走って、走って、息ができないくらい……それでも、足は止まらなかった。
 目の前の風景が、ぼやけた。
 足元が、崩れた。
(……あ……?)
 体が宙に浮く。
 後は……
 覚えていない。
 
 
 
 
 
(近づくな)
(向こうへ、行け)
(忌まわしい)
 
 
 魔物の血を受けた……
 ――呪われた、猫。
 
 
 自分を憎み、拒絶するものたち。
 自分を痛めつけることに、残酷な喜びを見出だす悪意の群れ。
 
 
 惨めだった。
 悲しい。
 涙すら、出てこないほど。
 乾ききった心が、きしきしと音のない悲鳴を上げている。
 心の中にぽっかりと穿たれた空白。
 自分は、何で生まれてきたんだろう。
 みんなからこんなにも憎まれ、疎まれて……
 父さんの顔も知らない。母さんの顔も覚えていない。
 自分は、どこからやってきたのか。
 たぶん、自分は、生まれてくるべきものではなかったのだろう。
 なのに……
 これは、自分の意志では、ない。
 このまま、自分の存在が消えてなくなってしまえばいいのに。
 そんな風に思って、行く当てもなく、歩いた。
 誰もいないところへ、行きたい。
 誰の目にも触れない。
 どんな憎しみも、悪意も届かないところ。
 一匹(ひとり)だけでいられるところへ。
 
 
 
 
 風が、吹く。
 頬を優しい空気が撫でた。
 突然、意識が戻った。
 目を、開く。
 目の前には、知らない風景が広がっていた。
 
 どこ、だろう。
 知らないところ。
 こんなところ、来たことがない。
 
 見知らぬ森の中に、佇んでいた。
 立ち並ぶ木々が幾重にも頭上に枝を重ねる。 その間から差し込む光がうっすらと周囲を照らし出していた。
 昼なのか夜なのかさえわからない。
 うっすらと靄が立ち込める。
 現実か、非現実か。そんな区分さえつかないくらい。
 不思議なさざめきが、胸を騒がせた。
 
 
 かさ――
 足音と、生き物の気配を感じる。
 全身に緊張感が走った。
 
 ――誰か……いる……?
 
 目を凝らして前方の木々の間を透かし見る。
 黒い影が見え隠れした。
 黒い耳。
 黒い毛。
 どことなく頼りない、怯えた瞳がこちらを瞬きもせず見つめ返す。
 それは、見たこともないような黒い毛並みの小さな猫、だった。
 
 
 
 
 
 白い、猫だった。
 銀と白が混じり合った、綺麗な毛並み。
 その瞳は、空の色と同じだった。
 思わず、見惚れる。
 誰、だろう。
 見たこともない、猫だ。
 こんなに綺麗な毛並みの猫を見たのは初めてだった。
 最初は不安と怯えに萎縮していた瞳が、やがて驚いたように大きく見開かれる。
 疑惑と不審は綺麗に消え去り、そこには、既に感嘆と賞賛の色しかない。
 
 
 木の間から姿を現した黒猫は、不意に立ち止まった。
 二匹の仔猫は向かい合ったまま、黙って互いの姿を、珍しいものを見るように、不思議そうに眺め続けた。
 
 
「だれ、だ……」
「おまえ、こそ――」
 声を発したのは、白い猫が先だった。
 黒い猫の喉がくるると鳴った。
 濃紺の目が、興味ぶかげに瞬いた。
「……おまえみたいな猫、見たことがない」
 そろそろと近づく。
 白い猫は警戒するように、身を竦めた。
「どこから、来た?」
 距離が狭まった。
 小さな猫だな、と白猫はほっと息を吐いた。
 こんな小さな仔猫に一瞬たりともびくついた自分が馬鹿らしくなった。
 それに……
 白猫は目を細めた。
 ずいぶん薄汚れたなりをしている。
 擦り切れた衣服。汚れた顔と手足。
 蔑むべき容姿だが、不思議と目が離せない。
 それが、濃紺の瞳に宿る光の強さのせいだということに気付いたのは、相手の顔がすぐ間近まで迫って来たときだった。
「よせ」
 白猫はぶっきらぼうに言うと、伸ばしてきた相手の手を邪険に振り払った。
「汚れた手で、触るな」
 そう言われて、黒猫は払われた自分の手をじっと見つめる。
 そしておもむろに口を近づけると、ぺろぺろと掌を舐め始めた。
 綺麗に汚れを舐め取ると、改めて手を伸ばす。
 振り払う間もなく、頭から耳、頬を撫で回される。
 頬に、ねっとりとした湿気が纏わりついた。
 これなら汚れたままの手の方が、よかったな、と少し後悔した。
「よせったら」
 白猫はようやくそう言うと、相手の手首を掴み、頬を撫でる手を、引き剥がした。
「白くて、柔らかくて、ふわふわだった」
 黒猫は気を悪くした風もなく、無邪気に感想を述べると、尾を振った。
「気持ち、良かった」
 大きな瞳が覗き込んでくる。
 濃紺の瞳。
 また――
 どきり、とした。
 動けなくなる。
 目の奥に宿る、不思議な強い力を感じた。
 これまで、自分をこんな目で、見たものはいない。父親でさえも……。
「おまえ――」
 言葉が喉から出かかったとき、不意に相手が飛びついてくるのが見えた。よける暇もない。
「何を……っ……!」
 自分より小柄な体とはいえ、不意打ちのように飛びかかってこられれば、たまらない。全体重を乗せられ、足元がよろめく。あ、と思ったときには黒い猫を腕に抱え込んだ格好で、どしん、と地面に尻餅をついていた。
 黒い猫はなおも尾を振って、顔を摺り寄せてくる。
「ぶたれた、のか?」
 腫れた頬に触れた唇が、そんな問いを投げかけた。
「関係、ない」
 憮然と答えるが、何だかきまりが悪くなって、頬が熱くなるのを感じた。
 父さんにぶたれたんだ、などと口が裂けても言いたくなかった。
 尻が痛い。でも、動けない。
 するとしがみつかれたまま、いきなりぺろ、ぺろ、と頬を舐められて、飛び上がりそうになった。
 どうしたんだ、この猫は。
 何を、興奮しているのだろう。
 濡れた熱い生き物の感触が、頬をなぞる。
 気持ち、悪い。――と、思ったのは一瞬だった。
 すぐに、その感触に慣れた。
 小さな舌の優しい愛撫に、痛みが和らいでいく。
 痛みとは違う……。
 体の奥に、妙な疼きを感じた。
 そんな自分の反応に、困惑した。
 困惑は、微かな苛立ちに変わる。

 
 鬱陶しい。
 何だ、こいつ。
 
 そう、思いながら、引き離すこともできない。
 そんな自分に呆れた。

 そのうち……
 苛立ちも、薄れていく。
 満たされていく、ほんのりとした心地良さ。
 
 
 ――あたた、かい……
 
 
 目を閉じて、生き物の温もりに心を委ねる。
 とても、不思議な気分になった。
 こんな、見知らぬ薄汚れた猫と。
 自分は、何をしている。
 でも……。
 
 
 ふと、気付いた。黒い猫の首筋に走る赤い傷跡は、まだ真新しい。それをきっかけに、そっと背中に手を伸ばし、衣服を引っ張り、その下を覗き込むと、傷はそれ一つどころか、さらに無数の生々しい傷跡が縦横無尽に仔猫の背中に痛々しい地図を描いている。
 ずきん、と胸に痛みが走った。
「……おまえも……」
 切なさに、震えた。
 この猫がどこかで受けてきた仕打ちは、相当酷いものだったのだろう。
 痛みと悲しみが、溢れ込んでくる。耐えられなかった。
 顔を離す。
 黒猫がきょとんとした顔で見つめてくる。
「もう、いい」
 白猫は、初めて微笑んだ。
 顔を黒猫の肩に埋める。
 相手がぴくぴくと体を震わせるのがわかった。
「お返しだ」
 そう囁くと、首筋に舌を這わせ、優しく舐め始めた。
 この傷が、早く癒えるように。
 少しでも、痛みが消えるように。
 そう願いながら。
 
 
 
 風が、吹く。
 ふわりと包み込むような、優しい風の手に身を任せる。
 
 
 ここは、どこだろう。
 どうして、ここに来たのだろう。
 わからない。
 これが、本当にあったことなのか。
 それとも、自分たちは、ただ夢を見ていただけなのだろうか。
 こんな不思議な、偶然があるのだろうか。
 こんな出会いが、本当にあったのだろうか……。
 
 
 
 

「……う……ん――……」
 目が、覚めた。
 見慣れた天井。
 ほのかに揺れる黒い耳が、視界の淵に入る。
「――どう、した?」
 ぼんやりと視線を泳がせていると、すぐ傍から声がかかった。
 黒い耳が立ち上がり、ぬ、と目の前に褐色の顔が覆い被さるように覗き込んでくる。
「……別に」
 そう言っても、相手は目を離さない。
 ライは、ち、と内心軽く舌を打った。
 この猫は、時に相手の心の動揺や感情の変化に驚くほど敏感になることがある。
「……夢を、見ていた」
 観念して、そう告白した。
「うん?」
「小さい頃の、自分に戻っていた」
 ライは吐息を吐いた。
 過去を語るとき、自分はとても口が重くなる。臆病になる。
 でも……今は、構わない。
 なぜなら、これはただの夢なのだから。
「……おまえみたいな、黒い猫と、出会った夢だ」
 アサトの目がびっくりしたように大きく見開かれた。
「……俺、みたいな?」
「――ああ」
 小さな、黒い仔猫。
 背中に無数の傷を負った……。
 そこで、はっと気付いた。
 アサトの背中の、傷跡……。
 確か……。
「……そう、か」
 アサトは、不思議な微笑を浮かべて、ライを見返した。
「……ただの、夢だ」
 目を背けようとするライの頬を、熱い舌が舐めた。
 どきっとする。
「アサ、ト……?」
 驚いた。
 同じ、だ。
 夢の中で感じたのと、同じ……。
 そのとき、ふと思った。
 もし……。
 もしも、あれが本当にあったことだとしたら……。
 あのとき、感じた暖かさ。
 小さな肌から伝わる温度。
 心地良い、温もり。
 
 ――あたた、かい……。
 
 満たされていく悦びを口ずさむ唇の動きを思い出す。
 自分の中で、いつまでもリフレインする。
 あの温もりを、覚えておけばよかった。
 そうすれば、自分は……。
 あんなにも大きな代償を払わずに済んだのかもしれない。
「……俺、も……」
 アサトの掠れた囁きが、鼓膜を打つ。はっと我に返った。
 アサトの濃紺の瞳が、瞬きもせず、熱心に自分を見つめている。
 それだけで、心臓の鼓動が高鳴った。

「……たぶん、同じ、夢、だった……」
 衝動に駆られ、首筋に顔を埋める。
 強く、抱き締めた。
 乗りかかってくる体重は、ずしりと重い。
 仔猫とは、まるで違う。
 喘ぎながら、それでもくちづけた。
 傷跡の感触を舌先で、感じた。
 
 
 あれ、は……。
 夢だったのか。
 幻だったのか。
 もう、どちらでもよくなっていた。
 
 
 映像は、鮮やかに記憶に残る。
 ただの夢であっても。
 幻であっても。
 
 今、こうして手に抱くものが、現実でさえあるならば。
 
 不思議な酩酊感に酔いながら、小さな仔猫の頃にかえったように、二匹は無心にじゃれ合うような愛撫を続けた。
 
                                        (Fin)


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