Watering
暑い。
熱気と湿気がじとりと毛を濡らす。
肌を焦らすようにゆっくりと流れ落ちていく汗の滴を掌で拭い取るが、汗は次から次へとやむことなく湧き出てくる。
連日の猛暑で、珍しくライは朝から動く気になれず、ベッドの上にぐったりと横になっていた。
気候のせいだけではなく、体の不調はここのところ特に多くなっているような気がする。
全身を覆う倦怠感と疲労感……
まだ衰えを感じねばならぬほどの年ではない。
まだ十分に体力はある筈――だと、思っていた。
溜め息が漏れる。その息の熱さに我ながら驚く。
体の中に熱を溜め込んでいるようだ。
(――奴の、せいだ……)
あの馬鹿猫が毎晩のようにねだる、長く執拗な例の交わりのせいで、すっかり体力をそぎ取られているのだ。
しかし、拒みもせず、毎晩それを受け容れている方にも問題はある。
何やかや言いながら、結局は相手の欲求の強さに押し切られてしまっているのだ。
いや、本当は自分自身もそれを求めているから、拒みきれないのかもしれないが。
(俺も、馬鹿だな……)
ライは苦笑した。
すっかり、相手のペースに乗せられているなと感じながら、止められない、いや止めようともしていないのだから。
しかしそれにしても、いい加減にしておかないと、このままでは体がもたない。
どうしたものか、と考えに耽りかけた時、かたん、と床を踏む音がした。
「――ライ!」
満面に笑みを浮かべながら、アサトがひらりと窓枠から床に着地していた。
しかし、ベッドに横たわっている白猫の姿を見た途端、その表情が僅かに曇った。
「……まだ、具合、悪いのか」
「――ああ、気にするな。ちょっとした暑気あたりだ」
心配げに近付いてくる黒猫を牽制するように、ライは軽く手を振って答えた。
「……しょき、あたり……?」
きょとんとした表情を浮かべるアサトをちらと見て、ライは思わず笑ってしまった。
「……全く、おまえはちょっと言葉を変えると、わからなくなるんだな」
何の他意もなく返した言葉であったが、
「――すまない……俺……何もわからなくて……」
素直に恥じ入り、うなだれるアサトに、ライは余計なことを言ったことをすぐに後悔した。
自分の心の変化を押し隠すように、彼はわざと長い溜め息を吐いた。
「――くだらんことで謝るな。知らなければ、覚えればいいだけのことだ。……暑気あたりというのは、暑さのせいで気分が悪くなることを言うんだ」
「……そう、なのか」
アサトはベッドの傍にすとん、と座り込むと、神妙な面持ちで聞き入っていた。耳がぴんとそばだち、丸く見開かれた瞳が真っ直ぐにライを見つめる。
「……それ、治る、のか?」
「水分を取って、しばらく寝ていれば、そのうち、な」
「そう、か……」
ほっとした顔のアサトを見て、ライは思わず笑みを零した。
「……困った奴だな……。俺のことはいいから、おまえはもっと自分のことを考えろ。腹が減っているのだろう。早く下へ行ってバルドから食事をもらってこい」
「ライも、行くか?」
「俺は、後でいい」
そう言うと、ライは仰向けのまま、軽く目を閉じた。
首筋を、汗の滴が静かに伝い落ちていくが、彼はもはやそれを拭おうともしなかった。
「――ライ」
アサトの気配が近付いたかと思うと、止める間もなくその唇が首を舐め始めた。
「……ッ……おいっ、何してる――!」
慌てて身を離そうとするが、既にアサトの腕の中に体を捉えられていた。
「――や、め――……ん……――っ……!」
顎から上ってきた唇に、抗う言葉を封じられた。
そろそろと口内を弄る、ぎこちないくらい緩やかな舌の動きに、相手が自分を労わろうとしている気遣いや思いやりの心を感じた。
単に欲情に駆られているのでは、ない。
これが、アサトなりの精一杯の愛情表現なのだろう。
(……この、馬鹿猫……――っ……)
ライは舌を伸ばし、遠慮がちに伸縮する相手の舌を強引に絡め取った。
「………………っ、ん……!……っ――」
アサトの目が僅かに見開かれた。
瞬かれた青い瞳の奥に、戸惑いと不安、そして悦びと期待の入り混じった複雑な表情が垣間見える。
絡み合う舌の愛撫は、しかし、それ以上深まることはなかった。
緩やかに睦み合った後、唇はそっと離れた。
深く息を吐き出すと、脱力したように目を上げると、真上から見下ろすアサトと目が合った。
満足気に見えた瞳が、忽ち罰が悪そうに瞬き、やがてアサトは叱られるのを待つ仔猫のように項垂れた。
その様子を憐れむと同時にどことなく可笑しみを感じ、ライは思わず目を綻ばせた。
「……すまない……俺、また……」
「――だから、謝るなと言っている!」
ライは、わざと声を強めて遮った。
さっきのことで、体が思いのほか興奮してしまったことを相手に悟られたくなかった。
「……う、ん……」
アサトの耳がしゅんと垂れる。
「……全く――」
ライは、はあっと大きく息を吐いた。
「……腹が減っているのはわかったから、さっさと食堂へ行け。ここでおまえに食われるのは、真っ平だ」
「……食わない」
アサトは、ぽつりと吐いた。
その顔には拗ねた仔猫のような表情が浮かんでいた。
「――食ったら、ライがいなくなる。食べ物はまた出てくるけど、ライの代わりは、ない」
ライはぽかんと口を開けた。
「……当たり前だ。今言ったのは、喩えだろうが!」
「――食われる、と言った」
「……だから、食う、と言うのは――……」
そこまで言いかけて、もしかすると相手がわざと惚けているのではないかという疑いを持ち、ライは言葉を止め、まじまじと相手を見つめた。
「……交わる、ということか」
アサトは全く他意のない顔で、問い返した。
呆気に取られるより先に、その精悍で生き生きとした、若い雄の顔に、魅入られた。
ライは下肢がやや熱を帯びるのを感じてぎくりとした。
「……ライのここに、俺のを入れるということか」
無造作に伸びてきた手が、ライの股間から、さらに奥をまさぐろうとした。
ライは飛び上がりそうになった。
「……っ、おいっ、いきなりどこを触って――!……」
退けようとするライの手を、アサトは軽く弾くと同時に、伸ばしていた手をあっさりと引っ込めた。
「――大丈夫。今は、入れないから……」
「……当たり前だっ……」
ライは、唇を噛んだ。
心臓が飛び出しそうなくらい激しい鼓動を刻む。
自分は今、どんな顔をしているのかと思うと、思わず目を伏せたくなった。
そんな顔を食い入るように見つめているアサトの視線を強く感じ、ライは己の内の熱がさらに高まるのを感じた。
「……この、馬鹿猫が……何度言えば、わかる……」
零れ出た言葉には、思いのほか力が感じられなかった。
「――飯を食いに行け、と言っているだろうが……」
「――バルドの飯を食うより、ライを食う方が、美味い」
ストレートな物言いは今に始まったことではない。
しかし、今はそれが無性に気恥ずかしくて堪らなくなった。
「……俺を食っただけじゃ、腹は一杯にならんぞ」
疼く下肢を抑えながら、ライは力なく答えた。
「――ああ、けど、違うところがいっぱいになる」
アサトは満面の笑顔で、自分の胸を指さした。
「……俺のここ、いつも空っぽだったから」
そう言いながら、甘えるように頬を擦りつけてくる黒猫が、突然堪らなく愛おしく感じられ、ライは避けることも忘れ、その頭をそっと撫でた。
ライの手を取り、アサトは自分の胸に押しつけた。
掌から直接、とくん、とくん、と心臓の鼓動が伝わってくる。
「……ライといると、ここがいっぱいになる……」
ただ、触れ合っているだけで。
こうして、一緒にいるだけで。
それだけで、満たされる。
それは……
(――俺も、同じだ)
ライは、吐息を吐いた。
(俺の心も、空だった……)
冷え切った心を温めてくれるものは、手にかけた生き物の体から溢れ出る鮮血――ただそれだけのために、狩りをしていたあの頃……自分は自分以外のものを決して受け容れようとはしなかった。
(俺は、いつも独りだった)
独りでいることを当たり前だと思っていた。
――しかし、今は違う。
(今の俺は、もう、あの頃の俺ではない……)
もう、独りではいられない。
独りで、いたくない。
悔しいが、認めざるを得なかった。
(俺には、この猫が必要なんだ……)
自然に微笑みが広がる。
今の自分の顔は、さぞや腑抜けた面になっていることだろう。
だが、そんなことはもうどうでもよいことのように思えた。
「――もういい。わかった。取り敢えず、暑いから、離れろ」
アサトの頭をぐい、と押しやると、相手は渋々身を離した。
陽の月が落ち、陰の月が出る時刻だ。室内もすっかり薄暗くなっている。
窓から涼しい風が舞い込んできた。
汗ばんだ体がひんやりとした夜の風に触れると、ようやく楽に息がつけるようになった。
「……ライ、行こう」
アサトがねだるようにライの手を引いた。
「……俺は、ライと一緒に食いたい」
「――仕方ないな……」
ライは肩を竦めると、のろのろと身を起こした。
ちらとアサトを見て、小さく息を吐く。
「……俺も少し腹が減ったようだ」
「――そうか!じゃあ、一緒に食おう!」
アサトはぱっと顔を輝かせてライの手をさらに強く引いた。
「――おい、そんなに強く引っ張るな。この馬鹿猫が――……」
そんな風にぼやきながらも、ライはアサトに引かれるがまま、共に部屋を出て階下の食堂へ向かった。
この様子を見て、またバルドにからかわれるかと思うと少しうんざりしたが、喜んで先に降りて行く黒猫の意外に広く逞しい背を見ているうちに、それも構わないという気になっていた。
Fin <2012/08/28>
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