Your Heart Will Never...







 扉が開く。
 入ってくる気配に、わざと目を瞑ったまま、動かなかった。
 暗い部屋の中を、歩く足音。
 ライ。
 目を開けなくても、わかる。
 コノエは唇を噛んだ。
 ――どこへ、行っていた?
 すぐにでも問いかけたい気持ちを抑えて、そのまま眠った振りを続けた。
 近づいてくる足音に耳をそばだてる。
 すぐ近くでそれが止まった瞬間、今にも触れてくるであろう指先を予感して、甘い期待と不安の混じった微かな緊張を覚えた。
(……………?)
 吐息が、空気の流れを変えた。
 離れていく、気配。
  軽い失望を覚える。
 今すぐ起きて、相手を捕まえにいきたい衝動に駆られながら、それを敢えて押し殺した。
(――我慢強いね)
 くすり、と漏れる忍び笑い。
(――まだ、可愛い仔猫ちゃんでいたいんだ)
 からかうような声が、コノエの神経を苛立たせた。
(――うるさい!)
 ――黙れよ。
 自分の中のどこかに潜むその小憎らしい気配に向かって、軽い怒りの気をぶつけた。
 不快な笑いの響きを残したまま、それは瞬く間に頭の片隅に消えた。
 かさりと物が擦れる音に、はっと我に返る。
 薄目を開けてみると、薄緑色の淡い光にぼんやりと照らし出された室内の様子が映る。
 ライは、最近ではコノエがいるいないに関わらず、ずっと道しるべの葉の明かりを用いるようになっていた。最初は火を怖がるコノエへのほんの僅かな気遣いだったのが、いつの間にかそれがまるでライ自身の習慣にまでなってしまったかのように。
 唇から漏れる、軽い溜め息の音。
 尻尾の揺れる動き。
 どうして、こんなにつぶさに相手の動きがわかるのか。
 不思議なくらいに、研ぎ澄まされた己の聴覚に、自分自身驚いていた。
 ――『つがい』だから。
 そんな理由付けをしてみて、逆に虚しさを覚える。
 『つがい』なのに。
 昨夜から、急にライの心が見えなくなった。
 これは、一体どうしたことだろう。
 ――抱いて……。
 あんなにはっきりと意思表示をしたのに、それを拒まれた。
 ショックだった。
 どんな理由があるにしろ、やはり『つがい』から直接受ける拒絶は、辛い。
 相手から見向きもされず、こんな風に放りっぱなしにされている、自分。
 今ほど相手との間に距離を感じたことはない。
 手を伸ばせば届く距離にいる筈なのに。
 暗い思いが自分を変えていく。
 心が、重くなる。
 自分自身で支えきれなくなるほど、それはどんどん重くなって……。
 堕ちていく。
 這い上がれぬ地の底まで、堕ちて、沈んで、二度と浮き上がれなくなってしまう。このまま、自分はそんな風に――。
 闇に、呑まれていく。
 心が、闇に侵食されていく。
(ふふ……)
 奴の笑い声が、微かに聞こえる。
 待っていたかのようにもぞもぞと蠢く気配に、ぞっとした。
 しかし……。
 それを、止めることはできなかった。
 もはや、それは止まることは、ない。
 そう思うと、慄く体を両腕の中にそっと抱きしめた。
 ――後悔、しているのか。
 自分自身に問いかける。
 ……わからない。
 闇に蹲りながら、彼は頭を両手で覆い、目を瞑った。
 こうなってしまうことは、最初からわかっていたことだ。
 それでも、失いたくなかった。
 ただ、それだけだ……。
 ただ、それだけのために……。
 思考は、瞬く間に闇に呑まれた。
 
 
 
 ……水。
 喉が、渇いてたまらない。
 ライは壁際の棚に置いてあった水の入った小甕に手を伸ばした。
 水甕には、幸い水がたっぷり入っていた。
 ほっ、と息を吐いて、そのまま口をつける。。
 ひんやりとした水滴が唇を潤した瞬間、さらに酷い渇きを感じた。そのままごくごくと、一気に飲み干した。
 喉を下りていく冷たい水の流れを感じ、全身が生き返るような心地良さに包まれた。
 指の間から零れる雫が顎を伝って落ちていくのを、手のひらで拭い、最後の一滴まで綺麗に舐めた。
 それでも、まだ足りないような気がした。
 舌が口内を探り、絡みつく唾液を集めて喉の奥へ落とす。
 こくり、と喉が小さな音を立てた。
 まだ、足りない。
 吐き出す息が、熱を帯びる。
 何だか余計体が火照り初めたようだった。
 交尾の名残りが、いつまでも抜けない。
 思い出すと、ライは軽い羞恥を覚え、目を閉じた。
 花の香と草の匂いがまた鼻腔に甦ってくるかのようだ。
 繋がった体。汗と喘ぐような息遣い。
 呼吸が、乱れる。
 まだ、繋がっているような錯覚に捉われて、ライは慌てて目を開き、意識を現実に引き戻した。
 このままでは、本当におかしくなってしまう。
 ライは忌々しげに首を振った。
(それにしても……)
 無性に喉が渇く。
 面倒だが、階下まで水を取りに行くしかない。
 それか、いっそ下で水を飲んでくればよいのだ。
 そう思うと、ライは扉へ向かって歩き出した。
 歩くと、少しふらついた。
 気のせいか、と思ったが、数歩行くとますますおかしくなる。
 床を踏んでいる感覚が、ない。
 何だか空中を泳いでいるような感じだ。
 まさか……と思ったときには、兆候はさらに強くなっていた。
 空気が、揺れる。
 酔ったように、目の前の光景が何重にもぶれた。
(………?)
 手の甲で、片目を擦る。
 目の前の光景がぐるり、と回ったかと思うと、足元から崩れていくように、体が沈んでいった。
 
 
 
 耳を舐める舌の感触で、目が覚めた。
「……アサ、ト……?」
 掠れた声が弱々しい音を発した途端、耳に鋭い痛みが走り、ライは小さく呻いた。
「う……――!」
 耳を噛み切られたのではないかと思うほど、全身に走るような激しい痛みだった。
 重い瞼を開くと、霞む視界の中に見慣れた顔がぼんやりと映った。
 怒っている。
 頬を紅潮させ、耳をぴん、と鋭く突き上げて、見開かれた飴色の瞳がぎらぎらと鈍い焔を燃え立たせている。
 可愛いと思ってきた顔が、今はなぜか醜く気持ちが悪いほどグロテスクに映るのは、なぜか。
 その理由は、すぐにわかった。
 唇から滴り落ちる赤い雫。
 牙に引っかかったまま、垂れ下がる小さな肉片。
 口元を真っ赤に染めて、憤怒を滾らせながら、こちらを睨みつける小さな悪魔。
 あれは、本当に自分のつがいなのか。
 悪夢を見ているような気がした。
 これが、現実である筈がない。
 目を瞬く。
 目の前の光景は、変わらない。
 おそるおそる耳に触れた手が、ぬるりとした異様な感触を得た。食い千切られそうになった耳から噴き出す鮮血で、それは真っ赤に染まっていた。
 痛いのに、その色を見ているとやはり興奮する。
 白い肌を赤く染め上げていく血潮。
 鮮烈な赤が、それに見入る瞳を熱く焼く。
 激しく打ちつける心臓の鼓動。
 全身を流れる血液が一気に沸騰するかのようだ。
(どうして……)
 何かが――
 
 何かが、変だった。
 
 動けない。
 鉛のように重く、自由のきかない肉体。
 そのくせ、ざわざわと波立ちながら、体の内側をくすぐるよな、この怪しい疼きは……。
「ライ」
 初めてコノエの口が開いた。
 自分の名を呼んでいる。
 名を呼びながら、その顔がにやりと笑ったように見えた。
 それを見た瞬間、ぞくりと悪寒が走った。
 
 ち、が、う……
 
 コノエの、顔。
 それは……コノエの顔、ではない。
 それに気付いたとき、冷たい恐怖が駆け抜けた。
 コノエでは、ない?
 では、今、目の前にいる、このコノエの顔をした猫は、一体何だというのだ。
(そう、いえば――)
 ふと、思い出す。
 いつかも、そんなことが、あったではないか。
 コノエの顔をしているのに、コノエではない。
 コノエの体を乗っ取っていたものが、甘い声と手管で彼を篭絡しようとしたことが、かつてあった。
 そのときと、似ている。
 いや……。
 ライは、頭を振った。
 違う。
 似ているが、違う。
 何が違うのか。
 それは……。
 次第に考える力がなくなってきた。
 コノエの顔が近づいてくる。
 目を細め、口の端を緩めて……嫌な笑みだ。
 誰かに似ている。
 誰か……。
 ライは、突然気付いた。
(……奴、か……!)
 笑う、声。
 くす、くすと嘲るように。柔らかでありながら、ねっとりと糸を引くような笑い声。
 コノエの声なのに、違う声が重なっていた。
 それを、彼は遠い意識の片隅で、はっきりと聴き取っていた。
 そして、慄然と目を見開いた。
 目の前の、顔。
 愛しい、つがいの猫の顔。それが……
 変わっていく。
 もうひとつの、自分のよく知る顔に……。
 ――馬鹿な……っ……
 弱々しく呟く声は、音にならずに胸中にひっそりと消えた。
 信じたくない。
 そんな、馬鹿なこと。
 しかし、どんどん目の前の幻は広がる。
(気付くのが、遅いなあ……)
 コノエの顔をした悪魔が、ねっとりと喜悦に満ちた笑みを浮かべて、見下ろしていた。
(――きさ、ま……!)
 ライは、目を見開いた。
 焼けつくような熱波と氷のような恐怖がせめぎ合う。
 ただその存在から逃れたくて、必死で身を動かそうとするが、押さえつけられた体はぴたりと床に縫いつけられてしまったかのようだった。
 身動きできない体の上に覆い被さってくるつがいの猫の顔が迫ると、ライは思わず喉の奥で唸った。
 
 ――コノエでは、ない。
 
「俺に……さわ、る、な……っ……!」
 威嚇の唸り声を交えながら、警告を発する。
「――触って欲しいくせに」
 くすり、と笑う小悪魔が、舌を伸ばした。
 ぺろり、と頬を舐められただけで、電流が走ったような刺激を感じた。
「――ああ……ッ……!」
 意図に反して、思わず声が出る。

「気持ち、いいだろ?」
 ――いつもより、ずっと、ずっと……。
 うっとりと、問いかける相手の瞳が淫靡な色を映す。
 こんなに、色めいたコノエの顔を見るのは初めてで、ライはその変貌に驚きを隠せなかった。
 舌がさわさわと顔の上を動いていく。
 同時に手が着衣の下へ無遠慮に入り込んでくるのが感じられたが、それをどかそうとする力すら、なかった。
 そんな風に触られるだけで、勃起するような気がした。そして、実際そうなった。
 いやらしい手の動きはどんどん大胆になって、ライの体を検査するようにくまなく触り撫で回していく。
 やめろ、と呟きながら、それ以上に全身を走る刺激に耐え切れず、触れられているだけで呼吸は乱れ、全身はひくひくとひっきりなしに痙攣を繰り返す。
 そのうち唇から漏れるのは抗う言葉ではなく、いやらしく相手を誘いかけるような高く甘い嬌声へと変わっていた。

 気付いたときには、衣服を脱がされ、ライは真っ裸でコノエの下に組み敷かれていた。
「う……よ、せ……コノエ……ッ……!」
 自分よりずっと小柄な体躯の猫。コノエを振り切ることなど、たやすい筈なのに。
 なぜ、こんなにコノエの体が重いのか。
 床に縫いとめられた自分は、完全に相手の力に屈してしまっている。
 ライはまるで自分が急に非力な仔猫にでもなってしまったかのように感じた。
「『魔法の水』を、飲んだだろう?」
 体を密着させたコノエが、耳元にそっと囁く。
「あれ、全部飲んだよね……」
 コノエの声では、なかった。
 緑色の悪魔の顔が、目の前でぼんやりと揺らめいた。
(強くて賢い振りをしているけど、そうやってきみはたやすく騙される……)
 くくく、と笑う声はフラウドのものに他ならない。
(お馬鹿な、可愛いぼくの白い猫……)
 ライは、呆然と目を瞠った。
 ――まさか……。
「怖がらなくて、いいよ。時間はたっぷりあるんだ。これからゆっくりと、気持ち良くさせてあげる」
「……ふ……ああっ……ん――」
 雄を掴まれ、ひと撫でされた、それだけで凄まじい刺戟が走る。
「やっ……」
「やめないよ」
 止めて欲しくないだろう、とコノエの顔をした悪魔が優しげに微笑む。
 舌なめずりをする、その欲情に濡れた顔を見ていることに耐えられなくなって、ライは自ずと瞳を閉じた。
 たまらない、嫌悪感。
 なのに、意志に反して体は過剰なほど、反応する。
 指先が性器の奥の深い場所を弄り始めるとライはひっと小さな悲鳴を上げた。既に下半身が熱く疼き、穴の中へ入ってくる異物を貪欲に飲み込もうとする。
 それが単に『魔法の水』を飲まされたせいだというだけではなく、いつの間にか自分の体自身がそんな風につくり変えられていたのだ、ということに、彼は今さらながらに気付いた。
 そして彼の体の中の、そんな微細な変貌を誘引する原因(もと)となったのは……。
 不意に、自分がかつてないほどに強く焦がれ、求めているものの存在をはっきりと感じた。
 理由など、どうでもよい。
 嫌だ。
 奴以外のものに、抱かれるのは……。
 
 ――嫌、だ。
 
 体を揺する。
 逃れようと、抵抗を試みる。
 無駄とわかっていても、せずにはいられない。

(俺は……)
 あいつの、ものだ。
 そして、あいつは俺の、もので……。
 ここにはいない存在を、狂おしいほど、求めずにはおれない。
「いつまでそうやってるつもりだよ。本当は欲しくて欲しくて仕方ないくせに……。自分の体見てて、そんなこともわからないのかよ……」
 コノエの口調が、変わった。
「全くどこまで、馬鹿な猫なんだ。あんたは……」
 コノエの赤い唇が、乾いた血で凄惨に染まった魔物のようなその唇が、冷ややかに言い放つ。
 ――馬鹿な、猫……。
 ライは愕然と、相手を見返した。
 それは、いつもなら自分が相手に向かって言っていた台詞だ。
 それを、たった今、相手から返された。
 そんな皮肉さを、滑稽だと笑って済ましたいところなのに、とてもそんな気分にはなれなかった。
 それどころか……
 見たこともないような、残酷さを湛えた、冷えた瞳。
 これは、彼の意思なのか。
 それとも、彼の体の中に潜むその魔物が言わせているだけなのか。
 コノエではないが、コノエの顔をしている、この魔物に、自分は犯されようとしているのだ、と絶望的な気持ちで考えた。
「先にいかせてやろうかと思ったけど、やめた」
 そう言うと、酷薄な笑みとともに、コノエの手がライの性器の根元を締め上げた。
 声にならぬ悲鳴を、ライは押し殺した。
 それをにやりと一瞥すると、コノエは自ら挿入したそれの律動を強め、さらに深く突き上げた。
「……いっ……ああ……ッ……!」
 悲鳴は、次第にあえかな喘ぎに変わっていく。
「……んっ、は……あん……っ……」
 艶を帯びた嬌声が、ひっきりなしに漏れた。
「そんな顔、するんだ……。初めて見た。ライ……」
 コノエはライの顔を引き寄せると、いきなり強くくちづけた。
 ねっとりと絡みつく舌。唾液に幾らか鉄分の味が混じる。それが自分の血の味だということを、おぼろげながらライは感じていた。
 そうしてくちづけたまま、相手は中に精を解き放った。
「……ん……んっ……!」
 自分の張り詰めた性器も限界に達する。
 こんな強姦に近い交尾でも、自分が興奮して勃起していることが不思議で、また厭わしく思われた。
 いつまでも達することができない苦しみに焦れるライの目元に溜まる涙が堪えきれずに頬を濡らしていく。
 それをコノエはぺろりと舌で舐め取った。
「そんなに苦しいんだ。可哀想に……じゃあ、いかせてあげる」
 性器を掴んだ手を緩める。
 途端に、ライの頭は真っ白になった。
 解放された性器から、弾け飛ぶ白い飛沫。
 ぶるぶると余韻に震える性器の先を、コノエはそっと口に含んだ。
(可愛い、ぼくの、白い猫……)
 ぼんやりとした頭の奥からそんな声が聞こえてくる。
「――フラ、ウド……」
 禁忌の名を呟くと、相手が嬉しそうに息を吐くのがわかった。
(もう、ずっとぼくのものだよ……)
 ――きみは、ぼくだけの、もの……
 悪魔の声を繰り返し聞きながら、朦朧とした意識の片隅で、彼はもはや逃れられない罠に嵌まった後の自分の運命を、予感した。

                                       (Fin)


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