Damage
人の気配がする。
誰か……。
誰か、いるのか。
重い瞼を必死で上げようとする。
――アスラン……
自分の名を呟く声が聞こえたような気がした。
幻聴か。
いや……
そうでは、ない。
確かに、ここにいる。
この声の主を、俺はよく知っている……
不思議なほどの確信が胸を満たし、彼はゆっくりと瞳を開けた。
そして――
覗き込む瞳と否応なしに視線が重なった。
あっ――と見開かれた瞳の奥に揺らめく焔に焼かれた瞬間、アスランは反射的に利き手を伸ばしていた。
「…………っ……!」
引き止められた腕を振りほどくこともなく、彼はその場に立ち竦んでいた。
銀色の髪は、窓から差し込む夕陽に映えて、薄紅の色を帯びていた。
しかしその瞳の色は、変わらない。
強い光を放つ、青。
澄み通るような、濁りのない色。
宝石の輝きだ、と思った。
「――イザーク……」
唇から零れたその名が、何ともいえぬ情感を伴い、胸にじわりと広がった。
自分の中で、この少年の存在感が、これほど強く感じられたことはない。
大切なものを、次々に失っていく中で――
(イザーク……)
まだ、おまえは、ここにいる……。
生きた手の温もりを、全身で抱き締めるように。
掴んだ手に、思わず力がこもった。
ここにいる彼の存在を感じているうちは、自分はまだ生きていられるような気がする。
守りたい大切な命が、まだここに――残っているのだ。
「――アスラン、貴様……」
小さく呟かれた声には、微かな戸惑いが感じられた。
一瞬の沈黙の後、相手がふっと息を緩める気配がした。
何か言おうとした言葉を、不意に飲み込んだような感じだった。
「手――」
「あ……」
途切れかけた言葉を最後まで言わせる前に、彼は名残惜しげに掴んだ手を離した。
「……出て行かれる前に、話したいと思ったから……ごめん」
「――謝るな」
イザークはむっつりと答えた。
「……それより、具合はいいのか」
「ああ……腕が使えないのが面倒だが、ずっと寝てなければならないほどの傷じゃない」
顔を見た瞬間、どの面下げて……!と、怒鳴りつけられたことを思い出して、今こんな風に殊勝に体の具合を聞いてくる相手が意外で、アスランは内心落ち着かなかった。
自分のことを心配してくれているのか。
それとも――
本当は……
ストライク……
頭の中を、その一語が暗い思念とともに通り過ぎる。
(ストライクは、討ったさ……)
再会した途端、そう言った自分に、彼は何も答えなかった。
動かない彼の前を通り過ぎたとき、微かな溜息が聞こえたような気がしたのは、気のせいだったろうか。
ストライク……。
そして、そのパイロットは……。
キラ・ヤマトは……。
イザークが言いたいことは、本当はそこにあるのではないかという気がした。
「あいつは……」
そんな思念を読み取ったかのような相手の声に、アスランははっと我に返った。
僅かに背けられた顔の表情は、見えない。
見えないことが幸いであるように思えた。
心臓が早鐘を打った。
「……あいつは……どう、なった」
銀色の頭がそよぐように動いた。
次の瞬間、射竦めるような青い瞳と目が合った。
逃れられない強い眼差しが、答えを強要していた。
アスランは、軽く唾を飲み込んだ。
触れられたくない話題だった。
しかし、触れられずには済まないことも、覚悟していたことではあった。
「……ストライク、は……」
「――パイロットだ」
今度ははっきりとした声音だった。
「ストライクの『パイロット』はどうなったか、と聞いている」
「そんな、こと……」
アスランは、俯くと、ぎり、と奥歯を噛みしめた。
責められている。
言外に、そう感じたのは自分の罪悪感ゆえか。
言われるまでも、ない。
自分は、友を殺した。
自分自身の意志で、幼い頃からずっと一緒だった、あの懐かしく大切な友を――
この手で……
避けようもない、その残酷な事実が、再び胸を抉る。
わかっている。
殺したくない、などと言いながら、結局俺は……。
「……きまっているだろう……あれで生きていれば、奇跡だ」
相手から瞳を逸らしたまま、彼は吐き捨てるようにそう言い放った。
(キラは、死んだ。俺がこの手で、殺した)
――そして、俺は、生き残った。
自嘲の笑みが彼の端整な顔を僅かに歪ませた。
(何で俺は、あのとき脱出ポットのスイッチを押してしまったんだろうな)
何度も何度も繰り返してきた問いだった。
なぜ、自分だけ、生き残ったのか。
相打ちになって、死んでいた方が、こんなに苦しまずに済んだものを。
「……奇跡、か。――そうだな。奇跡が起こり得るならば……まだ、あいつが生きている可能性はある、ということだな」
思いもよらぬ言葉に、アスランは呆然と目を見開いた。
「――何、言ってる……。奇跡なんて、そう簡単に起こるものか」
「貴様が生きて戻ったことは、奇跡ではないのか」
「俺は……っ!」
違う、と言いかけて、彼は思わず口を噤んだ。
責められているのだ、と思っていた。
自分が『彼』を殺したのだ、という事実に追い打ちをかけるような言葉を押しつけてくる相手に対して構えていた心の緊張が突然解れた。
イザークの楽観的な考えは、少し彼らしからぬ気もしたが、いや、やはりこれはイザークらしい慰め方なのかもしれない、とも思った。
もっとも、戦場において、奇跡など信じるものは、誰もいないだろう。
だが、信じたい、と思う気持ちが全くないとは言い切れない。
何より、オーブの艦の中で聞いた話では、ストライクのコクピットは丸焼けだったにも関わらず、パイロットのものと思われる遺骸はまだ一片も見つかっていないというではないか。
「……確かに、俺は……そう、だな」
アスランは溜め息を吐くと、ほんのりと苦笑した。
意外な展開に、困惑していた。
なぜ、だ。
俺を慰めようとしているのか。
本当、に?
それだけ、か。
不意に、オノゴロ島での一件が、脳裏を過った。
(――キラ・ヤマト……)
ストライクでは、なく。
生身の人間と出会うことによって、何かが――
何かが、変わった。
あのとき、何かが――
ひやりとしたものを胸の底で感じながら、アスランはそんな自分の思考に愕然とした。
――こんなときに、俺は、何を考えている?
「俺は生き延びた。だが、あいつは……」
爆発の瞬間、気を失った。
自分も死んだのだと思った。
ところが実際には、自分はベッドの上で目を覚ました。
彼にも同じことが起こっていないとは、言いきれない。
しかし――
「――おまえは、『敵』が生きていることを望むのか」
アスランはゆっくりと問いかけた。
イザークの瞳を、瞬きもせずに見つめる。
青い瞳が、逡巡と動揺の色を映し出す、その一瞬の間をも、見逃さぬように。
しかしそこには、彼が予想するようなものは何も見出すことはできなかった。
青い瞳の色は、澄み渡る空の色を湛えたままだった。
そこには何の濁りもない。
ただ、その濁りのなさが非現実的すぎて、彼の心に微かな鳥肌を立てた。
「……俺の望みは、『ストライク』を討つ――ただ、それだけだった」
イザークの声は、恐ろしいほど静かだった。
「――だが、それももう、終わりか」
「………………」
アスランは、何も答えることができなかった。
(この、静けさは、何だ……)
相手を見た時に感じた暖かな感情が、潮が引くように一気に冷めていくような気がした。
「……人の獲物を奪っておいて、悲劇の英雄気取りか。いい気なものだな、貴様は」
「――イザーク……俺は……」
何か言わなければならないと思った。
だが、それ以上何を言えばよいのか、彼にはわからなかった。
「……ストライクを討ち取った貴様の功績は大きい。――すぐに本国から通達がくる筈だ。そうすれば、こんなところで寝ている暇はなくなる」
「な――……」
「後はクルーゼ隊長から、聞けよ」
イザークはそう言うと、背を向けた。
毒を帯びた言葉も、なぜかアスランには機械のように流れていく音声の羅列にしか聞こえなかった。
何か……何かがおかしい。
このままでは、いけない。
そんな気がした。
しかし何を言えばよいのか、わからない。
「……イザーク!」
立ち去ろうとする背中に必死に呼びかける。
――行くな。
――行かないで、くれ。
そう、叫びたい気持ちが高まる一方で、実際には言葉は喉元で凍りついたように出てこなかった。
別れの予感がした。
どうすることもできない。
これは、おそらく、定められたことなのだ。
抗いようのない、運命の手――
扉の前で、足が止まった。
アスランは、凝然と相手の背を見つめた。
「――まだ戦争は終わってはいない。……まだ、何も終わってはいなんだ。覚えておけよ、アスラン・ザラ……」
最後に素早く言い放つと、一瞬後には既に銀色の頭は扉の向こうに消えていた。
(10/07/19)
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