いつの頃からか……。
気になっていた。
あいつの、瞳。
瞬きもせず、真っ直ぐにこちらを見返してくる。
――見られている。
いつも……。
たまたま顔を向けたとき。
振り返った視線の先。
背を向けているときでさえ……。
その視線を意識するようになった。
気のせいでは、ない。
――見られている。
緑色の瞳が、絶えず自分の姿を追いかける。
いつ、どこにいても、その視線を感じた。
感じるたび、背中がむず痒く、軽い苛立ちを覚えた。
(何だ、こいつ……)
どういうつもりなのか。
なぜ、俺を……?
くそっ!そのうち、怒鳴りつけてやる。
拳を握り締める。
鬱陶しい。
何なんだ、こいつ……。
(誰なんだよ。こいつは……!)
怒りながら、まだ名前すら知らない相手のことを、突然知りたいと思うようになった。
あいつの、名前は?
年は?出身地は?
彼は、気付いていただろうか。
いつしか苛立ちが、純粋な好奇心へと変わっていたことに。
自分に向けられるその深い緑色の硝子の向こう側にあるものを確かめたい、と思うようになっていたことに。
気付いていただろうか。
――その出会いが、彼らの運命の分岐点だったということに。
The Spark
「――アスラン・ザラ」
その名が耳に飛び込んできた途端、イザークの肩がぴくりと震えた。コンピュータのキイを叩く指が一瞬、止まる。
「……何だ?」
「この間のシミュレーションで、トップ取った奴の名前」
イザークの顔色が変わるのを面白そうに見ると、ディアッカは相手を焦らすように、わざと長く間をもたせた。
ほんの数日前のことだった。
アカデミーへ入学してから初めて経験した公のシミュレーション終了後。残り数秒というところで自分を抜いていった少年の背中を、イザークが燃えるような凄まじい眼差しで睨みつけていたのをディアッカは知っている。
これまで、負けを知らなかったプライドの高いお坊ちゃまには大変な打撃であり、それまで味わったことのない屈辱だっただろう。
とばっちりがくることを怖れながらも、普段威張り返っているこの少年が慌てて青くなったり赤くなったりするさまを見ることに意地悪な悦びを感じてしまう。
(からかいがいがあるんだよな。こういうときのイザークって)
そう思うと、ディアッカはイザークに見られないようにひそかににやりと笑みを零した。
イザークの子供っぽい感情の動きを見ていると、あまりの単純さに吹き出しそうになる。こんなにわかりやすい奴もいないよなあ、とそれが面白くてますますからかってやりたくなるのだ。
「聞こえた?」
わかっていて、さらにそんな風にとぼけた問いを投げると、イザークは鼻白んだ様子で、いかにも不機嫌そうにディアッカをじろりと睨みつけた。
「……それが、何だ」
案の定、平静を装いながらも、その声には微かな怒気がこもっていた。
「知りたかったろ?」
「ふん」
イザークはぷいと顔をそむけた。さも何もなかったかのように、視線がコンピュータ画面に集中する。
「別に。どうでもいいことだ」
静かな室内に、再びキイを叩く音だけが、単調に響いていく。
「あ、そ」
ディアッカは笑いを堪えながら、真面目な顔を相手に向けた。
「まあ、もっと知りたくなったら、このデータファイル見てよ。ここ、置いとくからさ」
コンピュータの横にそれとなく小さなファイルを置いた。
ふん、と目を逸らす振りをしながらも、実はそれをしっかり横目で捉えているのが感じ取れた。
(……ったく、意地っ張りだな)
気になって気になって仕方ないくせに。
ディアッカはふう、と吐息を吐いた。
(イザークが、ねえ……)
こいつがこんなに関心を持った奴なんて、これまでは誰もいなかった。――少なくとも自分が知る限りでは。
呆れるほどプライドばっかり高くて、いつも貴公子然として肩をそびやかしている。自分以外目に入っていない、まさに絵に描いたような高慢ちきで自分勝手なこの王子様が、こんなに自分以外の誰かのことを意識しているなんて。
ずっと付き合ってきた自称『お守り役』の身としては、何となく複雑な気分だった。
イザークの中に突然入り込んできた新たな存在。
(アスラン・ザラ……か)
どんな奴なんだろうな。
黙ってコンピュータに向かったままのイザークを尻目に、ディアッカはベッドの上にごろんと寝転ぶと、天井を眺めながら、考え込むように僅かに眉間に皺を寄せた。
「くそっ!」
撃ち出される弾丸はどれも的の中心を僅かに外れていった。
イザークはちっと舌打ちすると、叩きつけるように銃を目の前の射撃台の上に置いた。
集中できない。
彼は台に思いきり拳を打ちつけると、悔しそうに俯いた。
これくらいの射程距離で中心を穿てないとは……。彼はどうしようもなく苛立った。
そのとき、すぐ傍らに人の立つ気配がした。
はっと目を上げて横を見た瞬間、息を飲んだ。
(あ……!)
プロテクターを当てていたままだったせいか、至近距離になるまで気付かなかった。
――あまりに突然で、声も出なかった。大きく見開かれた瞳が、愕然とその姿を捉える。
艶のある紫紺の髪におとなびた翡翠の瞳。比の打ち所のないいかにも優等生然とした、あの小面憎いほどに取り澄ました横顔。一度見たら決して忘れられない。
目を離せなかった。
「ア……」
覚えたばかりのその名を口に出す前に、緑色の瞳がきらりと鋭い閃きを放ち、手の先の銃から弾丸が飛び出した。
射撃場いっぱいに銃声が響いた。
一発だけで十分だった。
その一発の弾丸が、見事に的の中心を射抜いていた。
「…………ッ!」
イザークは一瞬目を瞠ったが、忽ちその顔は相手への羨望と嫉妬で醜く歪んだ。彼は屈辱と怒りでわななく唇を血の出るほど強く噛みしめた。
「……アスラン・ザラ……ッ……」
苦々しくその名を呟く声は、僅かに掠れていた。
アスラン・ザラは銃を台に戻し、イヤープロテクターを取ると、何事もなかったように静かに首を回して傍にいるイザークと視線を合わせた。
穏やかな瞳が、にっこりと微笑む。
混じりけのない微笑に、イザークは少したじろいだ。
開きかけた唇を見て、自然に彼もプロテクターをはずし、まじまじと相手を見返した。
「……俺の名前、覚えててくれたんだ」
大人びた笑顔。悠然としたその語調が、イザークの神経をなおさら苛立たせる。背は自分の方が高い。だから当然こちらが見下ろす位置にいる筈なのに、なぜか相手の方が逆に自分より上位に立っているような気分になってくる。妙だ。なぜこんな風に感じるのか。
苛々する心を宥め、何とか冷静を装おうと努めた。皮肉な笑みを浮かべ、精一杯相手に高圧的な視線を送る。
「……あのパトリック・ザラの息子だといえば、いやでも覚えるさ」
パトリック・ザラといえば、プラント最高評議会のメンバーの中でも現議長のシーゲル・クラインに次いで実質的にナンバー2に位置していると専ら噂されている実力者だ。
あの母でさえ、一目置いている……。
ディアッカが置いていったデータをこっそりと見たとき、イザークは思わず吐息を吐いた。ただの優等生、ではなかった。よりにもよって父親があのパトリック・ザラとは。
……ほとほと忌々しい、と思った。
「……きみも、同じようなものだろう」
くすりと笑ってアスラン・ザラはそう返した。
「イザーク・ジュール。マティウス市出身。きみの母上は、あのエザリア・ジュール議員なんだろう」
「……っ、きっさまっ……!」
さらりと相手の口から出た自分のプロフィールに茫然とした。あっという間に冷静な仮面は剥がれ落ちた。
「……なっ、何でそんなこと……っ!」
戸惑う声がやや上ずっていた。はっとそれに気付いて口を噤んだときには遅かった。相手は慌てるこちらの様子を楽しげに眺めながら、くすくすと笑っていた。
「学内のデータを盗み見ることができるのが、まさか自分だけだなんて思ってないよな」
少し馬鹿にしたような語調を敏感に感じ取り、イザークの目が険しさを増す。実はそれをやったのはディアッカで自分ではないのだが、そんなことすら忘れてしまうほど、相手に対する忌々しさと苛立ちでどうしようもなく胸の中がむかむかしていた。
「……母上って、綺麗な方だよな。何度か近くで擦れ違ったことがある。華があるっていうか……颯爽と歩いて行かれる姿なんてそこいらの男よりずっと格好良くってさ。凛として、それでいてしなやかで……」
――輝くような銀色の髪に、理知的な青い瞳がよく映えて。そう……ちょうど、目の前の彼のように。
母譲りの怜悧で美しい容貌を備えた、そのすらりとした長身にいつしかうっとりとした眼差しが注がれていた。
「きみもよく似てるよな。母上そっくりだ……」
――いや、もしかすると、母上以上に……。
相手の熱い視線を意識した途端に、イザークの心臓がびくんと大きく跳ね上がった。
「――き……貴様っ!」
イザークはかっとなって怒鳴りつけた。胸の内が焼けるような怒りで煮えたぎる。
(何なんだ、こいつはッ……!)
怒りながらも、その反面湧き上がる羞恥心からか、顔がやけに熱くなっていくのがわかった。頬が赤くなっていないか少し心配になりながらも、そんな心の動揺を気取られまいとわざと声を荒げた。
「――こんなところで、母上の話はやめろっ!」
激しく睨みつけるイザークに、アスランは苦笑した。
「……何でそんなに怒ってるんだよ。別に悪いこと言ってないだろ」
「母のことは、言われたくない!特に知らない奴から、そんな風に……っ!」
唇を噛みしめる。いつしか握り締めていた拳の先が興奮で僅かに震えていた。
「人のプライベートにいきなりずかずかと踏み込んできやがって……貴様のように生意気で厚かましい口をきく奴は初めてだっ!とっ、年下のくせにっ……!」
「何だよ。それを言うなら、先に言い出したのはそっちの方だろう。――それにここでは俺たちは同期生なんだから、上下関係はない筈だぞ」
そう切り返すアスランの表情からは、既に穏やかな笑みは消えていた。代わりに、刺すような冷ややかな緑の瞳が、真っ直ぐにイザークを射抜く。
「大体プライベートって、何だよ。――それなら俺だって、こんなところで父の名を出されたくない!」
「――なっ……!」
思いがけぬ相手の反撃に圧され、イザークは一瞬言葉に詰まった。
(――正論、だ)
奴は、正しい。
理路整然と、相手の不条理な言い分を指摘し、自らの正当性を主張する。
冷静な眼差し。理知的な瞳の色。
イザークは悔しかった。
自分の負けだということがわかっていたから。頭ではそう理解しても、暴走する感情はそうはいかない。
(そんなこと、認めたくはない!絶対に、認めない。……認めてたまるかっ!)
怒りと屈辱に、体がわななく。
言葉を途切れさせたまま、二人はしばし睨み合った。
(アスラン・ザラ……ッ……!)
嫌な、奴だ。
心の底から、嫌悪感が湧き上がる。
こんな奴……っ!
(貴様など……貴様など……っ……!)
――なのに……。
ふ――と、微かな吐息が零れる。
緑色の瞳を見つめているうちに……なぜか目が離せなくなっていた。
鮮やかな緑が次第に濃度を深め、その色合いを微妙に変化させていく。
(……貴様は……誰、だ……?)
先ほどまで見ていた人間ではない。
こんな瞳の色は、見たことがない。
いつしか、捉えられていた。
瞳を合わせながら、相手の誘うその不思議な空間に吸い込まれていくような、奇妙な感覚に陥った。
――あの、感覚だ。
最近感じていた、あの視線。
いつも自分をどこからか見つめていた、あの視線が……。
それに気付いたとき、愕然とした。しかし、引き返すにはもう遅かった。
完全に、捉えられた。
相手の瞳の中に……。アスラン・ザラの中に映る自分の姿がはっきりと見えた。
――繋がれてしまった運命の糸を、感じた。
(嘘だ……)
否定しようとする心が、さざめく曖昧な感情の波を持て余していた。
アスランは、動けなかった。
全身を強く打たれたように、その場に釘付けになっていた。
その瞳が少し驚いたように見開かれ、目の前の怒った顔をまじまじと凝視する。
元々白く整ったその少女のような容貌が、上気した頬とあいまって、ますます可憐に美しく見える。
唇の端から小さな吐息が零れる。
(――綺麗、だな)
ずっと、そう思っていた。
アカデミーの入学式で初めて見かけたときから、忘れられなかった。イザークは気付いていなかったかもしれないが、自分にとってはかなり衝撃的な出会いだった、と思っている。
桜の散る光景。
花びらに囲まれて、佇む背の高い姿。銀色の光を零す髪が、微風に揺れて……。
それは、あまりに絵になりすぎていた。息もできぬほど、見惚れていた。そのときから、ずっと気にしていた。誰だろう。何という名前なんだろう、と。友達になれたら……という夢は、接触を繰り返すたびに、どんどん薄くなり、先日のシミュレーションで戦ったときに、遂に儚く潰えた。
シミュレーションルームを出た瞬間、燃えるような瞳で睨みつけてきた相手のその凄まじい形相を見て、アスランは忽ち自分がイザークの憎しみの標的となってしまったことを悟った。
自分はそんなつもりはなかったのに。ただ、自分はいつも勝負には全力で挑む。誰にも負けたくない。それは相手が誰であっても決して変わらなかった。だから、イザークにも負けたくなかった。それだけだったのに。まさかそれがこれほどまでに相手のプライドを傷つけ、憎しみをかってしまうことになるとは、思いもしなかった。
イザークに嫌われるのは不本意だったが、だからといってどんな勝負にも手加減する気など毛頭なかったし(第一そんなことをしても、相手にわかればさらにその怒りに火を注ぐだけだということはわかっていた)、これからも相手がイザークであろうが、誰であろうが絶対に勝ちを譲る気はない。それが、彼自身のプライドだった。
仕方がないな、と思う。……どうしようもない。
最初に見たときから、ひそかに焦がれていたあの憧れの麗人がこんなに子供っぽい奴だったなんて、とアスランは内心深い吐息を吐いた。
どこかのメロドラマに出てくる意地悪なお嬢様のような、綺麗だけれど明らかな嘲笑を含んだその棘のある視線が、ちくちくと全身に突き刺さる。あんなに年上ぶった顔で偉そうに見下ろしてくるくせに、その思考回路はまるきり自分本位の我が儘な子供に過ぎない。
それでも……なぜか憎めない。
どころか、そんな相手が何だかとても愛しく見えるのはなぜなのか。
その真っ直ぐな瞳が。そこから染み込んでくるような、その青い空と海の色が……。
「……イザーク」
吐息が零れる。
衝動に押された。
気が付くと、相手の腕を掴み、引き寄せていた。
驚く相手の唇の上に、自分の唇を重ねる。
冷たい唇だった。
電流に触れたように震えると、唇は一瞬で離れた。
ぱしっ、と手を打ち払う音がした。
手の甲に鋭い痛みが、走った。
イザークの体が滑るように腕の中から抜けていく。身を引き、こちらを信じられぬような目で見つめるイザークの顔は、微かに青ざめ強張っていた。
「き……さま……いま、な……にを……した……っ……」
ゆっくりと吐き出されるイザークの声は、掠れてよく聞き取れなかった。
「……な、に、を……っ……!」
怒りの中に、泣きそうなもうひとつの顔が覗き見えた気がして、それを見た刹那、アスランは自分の取った行為を激しく後悔した。
(俺……今、何を……?)
「……ご……めん……」
弱々しく、呟く。
どうしていいか、わからなくなった。
この場をどう取り繕ったらよいものか。
「……俺……そんな、つもり……」
どう言っても、今しがた自分が取った行為の言い訳にはならないことはわかっていた。それでも、何か言わねば、と思って必死で口を開いた。
「……イザーク……」
「――気安く俺の名を呼ぶなっ!」
怒鳴りつけるなり、相手はくるっと背を向けた。
「……貴様とは、二度と口を聞きたくない!」
最後に吐き捨てられた台詞が、いつまでも耳の奥に反響していた。
(くそっ、くそっ、くそっ……!)
イザークは荒々しく床を踏みしめながら大股に廊下を歩いていた。
胸の中に大きな漣が立っている。それは射撃場を出てからも、一向におさまる気配はない。
(こんな……!)
心臓が破れそうなほど、全身を強く打ちつける鼓動。走ってもいないのに、息が上がる。呼吸が苦しくて仕方ない。
(こんな屈辱は、初めてだ……!)
動揺していた。
頬が熱くて、どうにかなりそうだ。
――男と、キスをした。
しかも、よりにもよってあの自分を叩きのめした憎むべき奴と……。
突然、何の予告もなしに。
(あいつは、なぜあんなことをしたんだ……!)
忌々しく思う。
――そして、俺は……。
一番忌々しいのは、一瞬のくちづけをいつまでも反芻しているこの体に擦り込まれた記憶だった。
軽く唇を合わせただけだったが、あの一瞬の感触は、忘れがたいものとなって体の中に焼きつけられたような気がする。
思い出すだけで、ぞくぞくっと体の芯が震えるような奇妙な興奮と刺戟が走る。
(俺は、どうしちまったんだ……)
わけのわからないそんな突然の自分の体の変化に、彼は戸惑うと同時に怖れをも感じていた。
(俺は、あいつが嫌いだ……!)
言い聞かせるように、何度も胸の内で繰り返す。
――あんな、奴……!
動き出そうとしている運命を、頭から否定しようとするかのように。
――そんな、筈がない。
歩きながら、唇に手の甲を強く押し当て、荒々しく擦る。
先ほど触れたばかりのあの生々しい感触を全て拭い去ってしまおうとした。
しかし、擦っても擦っても、それはしつこく唇に残った。
――絶対に、違う。
彼は、繰り返す。
――そんなこと、絶対に……。
震えながら、繰り返す。
アスラン・ザラの顔が脳裏に焼きついて、離れない。
――そんな、こと……。
(――あるわけが、ない……)
・・・・・・・・・to
be continued to "The Blade"
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