The Deprived (21)





(……おまえは、自由だ……)
 
 その言葉が耳を浸した瞬間――
 自分を縛りつけていた戒めが、ぷつんと切れる音が聞こえたような気がした。
 全身に張りつめていた緊張感が解け、体から力が抜けていく。
 
(ギ……ル……)
 
 ギルバートというその絶対的な存在が、消えていく。
 
 ――俺は、何をしようとしていたのか……
 
 誰かの腕が自分を抱いている。
 この力強いぬくもりは……。

(俺が、おまえを守ってやるから)

 ――そうだった。
 確かにあのとき、あいつは笑ってそう言ったのだ。
 明るいオレンジ色の髪に、こぼれる笑顔が眩しくて……。
 あんな風に笑う奴を、他に知らない。

「……ハ……イ……ネ……」

(ハイネ・ヴェステンフルス……)
(それが、俺だ)
(俺の名を、呼べよ……)
(イザーク……)

 抱く腕が不意に緩んだ。
「イザーク……?」
 自分の名を囁く声に、イザークははっと我に返った。
 ゆっくりと、振り返る。
 覗き込んでくる明るい翠の瞳に打たれ、思わず目を瞬いた。
 びくん、と身じろぎかけたその体を、ハイネの腕が軽く力を込めて押さえつけた。
「――だめだ」
 ハイネは優しく命じた。
「まだ、目を離すなよ」
 ――まだだ。
 唇の先をほんの僅かに触れ合わせる。
 躊躇うように薄く開きかけた相手の唇を、愛しげに見つめた。
 寂しげな瞳の色が、切ないほどに揺れていた。
 ――わかっている。
 たとえ、ギルがおまえを解放したとしても――
 ……それでも、おまえは俺のものにはならない。
 おまえをこのまま、永久に……この腕の中に抱いていることなど、できはしない。
 おまえは、誰のものでもない。
 おまえはいずれこの腕の中から離れ、自由に羽ばたいていく。
 おまえは……そういう奴だ。
 たとえ、あのアスラン・ザラだって……。
 そうさ。彼にだって、おまえを縛りつけておくことなど、できはしないのだ。
 そんなことは、わかっている。
 だが――
 ハイネは思わず息を止めた。
 目の前で瞬くその透き通るような瞳の色に魅入られて。
(――ああ……)
 何という……青さか。
 おまえは、なぜこんなにも、美しい……?
 唇から切ない吐息が零れた。
(こんなにもおまえから、目が離せない――)
「……イザーク……」
 囁きながら、静かに唇を合わせた。
 柔らかな感触に、瞳を閉じる。
(………………?)
 不思議な酩酊感が襲う。
 ほんの一瞬のくちづけが、これほどまでに自分から現実感を奪い、ただ気の遠くなるような悦びの海に呑み込まれていく。
 
 ――これは……夢……なのだろうか?
 
 そう……。
 夢……なのだ。
 俺は、夢を見ていたのだろう。
 だから……。
 
 次に目を開けるとき、俺は夢から覚める。
 おまえは、俺の前からいなくなる。
 

 ……目を開けるのが怖かった。
 
 夢から覚め、現実に向き合わねばならないことが、こんなにも怖ろしくてたまらない。
 しかし、それは避けられないことなのだ。
 ……別れのときが、近づいている。

 ――離れていく唇。
 不意に、相手の体の質感がなくなった。
 掴んでいた筈の肉体が、砂粒と化し、さらさらと指の隙間からこぼれ落ちていくかのように。
 ……いなくなってしまう。
 
(……ああ……)
 
 こうなることは、わかっていた筈なのに。
 それでも――
(もう少しこのまま……おまえを抱いていたい)
 ――そう思ってしまうのは、俺の弱さなのだろうか。
 彼は自嘲の笑みを浮かべた。
 たとえ己の弱さを晒すことになったとしても、仕方がない。
 所詮自分は、それほど強い人間ではないのだ。
(そうだ。何も恥じることはない)
 自分の思いを確かめるように、彼は深く息を吐いた。
 ――俺はただ……
 
(イザーク……おまえが、好きだ……)
 
 ――泣きたいくらい、思いが激しく胸に満ちる。
 永遠とも思える時間の海を彷徨いながら、手に入らぬものへの狂おしい思いに身を焦がし――
(……きっと俺は、これからもおまえという唯一の存在を、こんな風に愛し続けるのだろう……)
 そう思いながら、ゆっくりと彼は目を開いた。
 イザーク……。
 愛する者の姿が目に映る。
 
(……さよなら……)
 
 別れを告げる唇。
 ひそやかに、ほんの僅かに躊躇いを滲ませながら。
 
(……さよなら。イザーク――)
 
 ――俺の、大切な……
 






終 章
---
epilogue ---

 
「――おはようございます、ラクス様」
 うるさくまとわりつくミーアを半ば持て余しながら、ラウンジへ降りてきたアスランは、その声にはっと面を上げた。
 よく目立つオレンジ色の髪が、目の中に飛び込んでくる。
 にっこりと微笑みかけてくる、明るい緑色の瞳。
 それは、他ならぬ『奴』だった。
「昨日はお疲れ様でした。……よく休まれましたか」
 何事もなかったかのように、淡々と挨拶の言葉をかけ続けながらも、その視線が時々ちらちらとこちらを窺い見ているのがわかった。
「ええ。何とか……」
 答えるミーアはどことなく浮かない顔をしていた。
「でも、昨夜は大変そうでしたわね。何だかばたばたと皆さんが慌しくされていたようですけど、何かあったのですか?あの騒ぎのお陰で、わたくし、すっかりアスランとお話する機会を逃してしまって……ね、アスラン?残念でしたわね。……久しぶりに二人でゆっくりと過ごすことができると思っていたのですけど」
「……………」
 ミーアにそう同意を求められて、アスランは困った顔をした。
 何とも答えようがない。ただ、黙って小さく肩をすくめただけだった。
 ミーアは不満げな様子を見せたが、アスランの頑なな表情を見て諦めたのか、それ以上は何も言わなかった。
 
 
 ミーアがマネージャーに気忙しく連れて行かれ、二人きりになると、ハイネとアスランは改めて向かい合った。
 僅かな沈黙の後。
「昨日は、お互い大変だったな。……あんな風にごたごたして、ちゃんと挨拶もできてなかったが――」
 そう言うと、ハイネは不意に片手を差し出した。
「俺は特務隊、ハイネ・ヴェステンフルスだ。改めて、宜しく」
「……あ――アスラン・ザラ……です」
 アスランはたどたどしく返すと、差し出された手を軽く握った。
 昨夜のことがまるで何もなかったかのように、平然とした顔で声をかけてくるハイネの態度に、戸惑いを覚えずにはいられない。
「……あ、あの……」
「座って、話さないか」
 ハイネは傍のテーブルを顎で示した。
 ハイネに促されるまま、席についたアスランはしばらく黙っていたが、やがて思い切ったように口を開いた。
「――イザーク、は……」
 その名を口に出すのを躊躇いながらも、やはり聞かずにはいられない。
 ハイネはひそかに苦笑した。
(やはり、それか)
 ――昨夜。
 あの後イザークは、迎えに来た副官のディアッカ・エルスマンと共に去っていった。
 基地へ戻り、恐らくはそのまま、プラント行きのシャトルに乗って帰ることになるだろう……。
 そう思いながら、ハイネはふと遠くに視線を彷徨わせた。
 あのとき……
 自分が別れの言葉を口にした、その最後の瞬間――
 イザークは、何も言わなかった。
 何も言わずただ、自分の別れの言葉を黙って……受け入れたのだ。
 ――それでも、去っていくその前に、自分を見つめたあの儚くやるせない瞳がいまだに目の前をちらついて離れない。
(……あーあ!……ったく、未練がましいよな、俺も……)
 ハイネは雑念を振り払うように頭を軽く打ち振ると、目の前の現実に意識を戻した。
「――イザークのことなら、気にするな」
 さらりと返したハイネに、アスランは不思議そうな視線を向けた。
「……………」
 ぎこちない間があいた後。
「……っと、つまりだな……」
 答えになっていない、とでも言いたげな視線に促され、ハイネはやれやれと再び口を開く
「……議長の『悪戯』、さ。もう、終わったことだ。忘れろ。イザークはすぐにまたジュール隊で元気に任務につくことになるさ」
「悪戯……?」
 アスランは呆気に取られたようにハイネを見つめ返した。
「ああ、そうさ。……あの方はそういう『戯れ』が好きなのさ」
 あれが、戯れだというのか。
 何のために……わざわざ、イザークをあんな風に追い詰めて……。
 それが元々、自分を取り込むために仕組まれたものであったということなど全く思いもせずに、ただ彼は訝し気に首を傾げた。
 そんなアスランを見て、ハイネは謎めいた笑みを浮かべた。
「深く考えんなよ。――というか、考えない方がいい」
 いくら考えたって、わからないだろう。
 おまえには、無理だ。
 ギルの本当の心を知ることなど、誰にもできはしない。
 ――あの人は、誰にも本当の心を覗かせやしない。
 ハイネはそっと息を吐いた。
 ギル……。
 あの人は、大丈夫だろうか。
 ギルのことを思うと、どこかきりきりと切ない思いが疼く。
 自分は、ギルに随分酷いことを言ったのかもしれない。
 あのときは夢中でいろいろと口走ってしまったが。
 しかし、ギルには自分の一言一言がどのように響いたのだろうか。
 
『……ミネルヴァに行ってくれ』
 最後に何か言おうとしたハイネを制するように、ギルバートはそう言った。
『ミネルヴァ……?』
 わけがわからずただ目を見開くハイネに、ギルバートは何もなかったかのように、悠然とした微笑を向ける。プラント最高評議会議長、ギルバート・デュランダルの顔だった。
『ああ、あの艦だ。――おまえに、アスラン・ザラを任せる』
 ――イザークの代わりに。
 おまえが、アスランを見張れ。
 ……そう、言われているも同然だった。
 ギルバートの意図を察し、ハイネは瞠目した。
『不服か?』
 ギルバートは不思議な笑みを浮かべ、ハイネを刺すように見つめた。
 一瞬の驚きのときが過ぎ去ると、やがてハイネは冷静にその命令を受け止めた。
(俺が、アスラン・ザラを……)
 ――そういう、ことか。
 全てがまた、振り出しに戻ったというわけだ。
 
 ――ギルは、まだこの世界に挑むことを、諦めてはいない。
 
 自分からその大切なものを奪っていったこの冷たく残酷な世界と、なおも戦おうとしているのだ。
(そしてそんなギルを、俺は……見捨てることができないでいる)
 行き着く先に未来が見えないことがわかっていながら、それでも敢えて破滅への道を一歩一歩んでいく。
 そうして、あの人は……
 
 ――あの人は、ただ、死に場所を求めているだけなのかもしれない。
 
 ハイネは皮肉な笑みを洩らした。
 ……そんなギルに付き合おうとする自分は馬鹿な奴なのかもしれない。
 だが、構うものか。
 彼は瞳を閉じた。
 軽い溜め息を吐く。
「……ハイネ・ヴェステンフルス……?」
 アスラン・ザラの戸惑い気味の声が不意に耳を打ち、彼を現実に帰した。
「……ああ」
 ハイネは瞬いた。
 再び開いた瞳が、自分と同じ色の翠を見つめる。
 この瞳が、同じものを見ていた。
 あの銀色の光に縁取られた、美しい白い面……。
 吸い込まれそうな、空と海の色を映す双眸を。
 自分は恐らく、もう二度とあれを見ることはできないだろう。
 なぜか、そんな予感がした。
(もう、この腕の中にあいつを抱くことはない)
 それでも心は驚くほど静かだった。
 彼はそんな自分自身を不思議な気持ちで見つめた。
(イザーク……)
 この思いだけは……ここにある。
 それだけで、いい。
「――これから、俺もミネルヴァに乗る。よろしくな、アスラン」
 そう言うと、驚きに大きく見開かれた瞳を前に、彼は静かに微笑んだ。

                       ( FIN )



☆皆様、いつもありがとうございます〜!
  つ、遂に、今回完結することができました。・・・何だか、最後までわけわかんないままで・・・さまざまな疑問、不満等山積して、いろいろと突っ込まれそうですが・・・。ともかく、終わりました。どうもこんなのでスミマセン。(大汗)
 ・・・当初は「もういちど、きみを・・・」の続きとして、アス・ディア・イザの物語にする予定だったのですが、なぜか、なっ、なっ、なぜか・・・気が付けばとんでもない展開になってしまいまして。結局途中からハイイザ物語となってしまいました。・・・あと、ディアッカくん、最後まで、出番なくってごめんなさいでした。^^;
 ほんとに、ハイネとイザークのCPなんてそれまで思いもつかなかったのに・・・不思議なモンです。
 作者自身、どうなることか全然先の見えない展開になっていったのですが、皆様の暖かい励ましや愛のこもった(?)コメントが、続けていく力の源となりました。
 ほぼ1年も続けていけたのは、ほんとにほんとに飽きずにサイトに通って読んで下さった皆様のおかげであります。感謝の気持ちでいっぱいであります。(うえ〜ん)
 ハイイザはこれで完結となりますが、またひょっとしたら、番外編でハイイザ短編とか、ギルクルとか・・・書くかもです。ですので、その時にはまたちらりと読んでやって下さると嬉しいですv(*´∇`)
 ・・・というわけで、ハイイザは終了しましたが、まだまだこれからも萌えの続く限り、いろんなCPもの、書いていきたいと思います。最近ではすっかりまた〜りと化して亀よりのろい更新となっておりますが、また遊びにきて頂ければ幸いに思います。
 ではでは・・・ここまでお読み頂き、本当にありがとうございました〜!!

                                           (2006.2.25)

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