ONE STEP TO HEAVEN 14 The Contract 「・・・では、この書類全てにサインを」 差し出された一式の分厚い紙の束を見て、オルガは皮肉な笑みを浮かべた。 「・・・へえー、一応『契約』するんだ?」 最初に自分を強引にここへ連れ込んだやり口を思い起こすと、今からやろうとしている『儀式』がひどく滑稽に見えた。 だますようにここへ連れてきて、無理矢理薬を打ち、先に使い物にならない体にしておいて・・・。 今さら『契約』が、聞いて呆れる。 順序が逆だってーの・・・! オルガは鼻白んで、目の前の男たちをじろりと睨んだ。 ムルタ・アズラエルは悠然と微笑み返した。 「無論――あなたには私たちブルーコスモスの大切な専属MSパイロットとなって頂くのですから。無償奉仕させるわけではありませんからね。・・・いいですか。これは、『ビジネス』なんですよ。誤解してもらっては困ります」 「ふうん、『ビジネス』ねえー・・・』 オルガは皮肉交じりに繰り返した。 「・・・にしちゃあ、ちょっと荒っぽい勧誘の仕方だったんじゃないか?ああいう真似しちゃ、先ず顧客なんか取れないぜ」 本当のところをいえば、もうそのようなことはどちらでもよかったが、今までの彼らの仕打ちを思い起こすと、一言嫌味を言わずにはおれなかったのだ。 拘束されて手術台の上に乗せられていたときのあの嫌な感覚が生々しく甦ってくる。 (・・・ふざけやがって・・・!) 抜け抜けと『ビジネス』だなどと公言するアズラエルの厚顔な表情を見ると、抑え込んでいた怒りが再びどっと噴出してきた。 ここへ戻ってきたあの日・・・ あの血と汗の臭いが染み込んだ、ねっとりとした空気の支配する薄暗い部屋の中で、全裸のまま、まるで獣のようにつながれていたシャニの生気のない姿を最初に見つけたとき・・・ 衝撃で、一瞬頭の中が真っ白になった。 激しい怒りと同時に、切り裂かれるような胸の痛み・・・ 彼は入り口に佇んだまま、凍りついたようにその場を動くことができなかった。 しかし、そのとき不意にシャニが顔を上げた。 何も見えていない、生気の失せた瞳が空をさまよい・・・ 「・・・オルガ・・・」 自分の名を微かに呼ぶその声。 オルガはその瞬間、何もかも忘れたように、ただ真っ直ぐシャニの元へ駆け寄っていた。 「・・・シャニ・・・」 彼が身を屈める前に、シャニの体がふわりと宙に浮き上がったかに見えた。 一心に自分の胸に飛び込んできた彼を、オルガはしっかりと受け止めた。 無言のまま、その傷ついた痩せた体をただいとおしむように、やさしく抱き締める。 (ごめんな・・・シャニ・・・!) 泣きたいくらい切ない思いが込み上げてきて、腕の中の存在がこの上なく大切で愛しく思えた。 ――俺、何でおまえを放って行っちまったんだろうな・・・。 彼は自分自身を責めた。 ・・・俺って、馬鹿だ。 あのとき―― おまえをぶん殴ってでも一緒に連れて行くべきだったんだ・・・。 こんな・・・こんな目に会わせちまって・・・。 ごめんな、シャニ・・・。 ほんと、ごめん・・・。 おまえをこんなに苦しませちまった。 でも、もう二度と・・・おまえを放さない・・・。 約束する。 絶対おまえをひとりきりにしないから・・・。 ・・・そんな風に、溢れる思いを胸に、いつまでもシャニを抱き続けた。 ――あの瞬間の・・・あの切ない、身を切られるような辛い思いが突然オルガの胸をいっぱいに満たした。 オルガは契約書にサインを済ませると、それを渡す前に、手を伸ばしたアズラエルの顔を凄まじい目つきで睨みつけた。 「・・・おや、怖い顔ですね。どうしたんですか。契約書の内容に何かお気に召さない点でも・・・?」 オルガはいきなり立ち上がると、向かい側に座っていたアズラエルの襟元を乱暴に掴んだ。 ハッと周囲に緊張が走る。 護衛の男たちが銃を取り出し、オルガに向けて構えようとするのを、 「やめなさい!」 アズラエルが一喝して制した。 次いで、襟首を掴んだオルガの手を取り、強い力で振り払う。 この華奢な体つきの男にしては驚くほどの力だった。 オルガは振り払われた手を拳にして固く握り締めると、なおも目の前の男を睨み続けた。 「・・・貴様が、あいつにやったこと・・・俺は絶対に許さない・・・!」 オルガはゆっくりと、怒気を含んだ語調でそう言った。 アズラエルの目がつとそばめられた。 「・・・あいつ・・・ああ、シャニのことですか。なるほど、すっかり愛人気取りというわけだ」 そう言うと、アズラエルは嘲笑するように唇を歪めた。 「・・・言っておくが、あれはあなたを逃がしたことによる公的な制裁だ。私的な恨みつらみでやったことではない。まあ、我が組織のルールのようなものでね。彼も承知の上のことだった。そこの契約書にもちゃんと書いてあることです。何なら、記載箇所を教えてあげましょうか。これからはあなたの一身上のことにも関わってくることですからね。・・・まあ、どちらにしろ、彼がルールを破る原因をつくった当のあなたが今さらどうこう言う問題でもないでしょう・・・」 公的な制裁・・・だと? 冗談言うな!あれがそんなお上品なものかよ! 単なるリンチのようなもんじゃないか。 あんな――あんなこと・・・! 普通の神経を持った人間のやることじゃない・・・! 人間をけだもの扱いしやがって・・・っ・・・! ・・・言いたいことは山ほどあった。 しかし、あまりの憤りと興奮に体が震えて、言葉が出てこなかった。 今さらこいつらにそんなことを言っても仕方がない・・・それはわかっている。 そういう連中なんだ、こいつらは・・・。 そうじゃなきゃ、薬打って人の体を改造してまで・・・新型MSに乗せるパイロットをつくろうとするか。 それも、コーディネイターを殺す・・・ただ、それだけのために・・・。 そう、『戦争』・・・なんて言葉は相応しくない。 こいつらのやりたいのは・・・『大量虐殺』だ。 それも私的な理由の・・・。手前勝手な大義名分を振りかざした、狂信的集団。ブルーコスモス。 こいつらの目的は・・・あくまで、『コーディネイター』という種を根絶やしにすること。 本当に、『殺す』ことだけなんだ・・・。 改めて、ぞくりと冷たい恐怖心が身内を駆け巡った。 狂った奴らだ。 しかし、全て承知でその中にこうして身を投じようとしている自分はもっと狂っているのかもしれない。 そう思うと、彼は溜め息を吐いた。 俺も・・・こいつらと変わらなくなるのか。 この、非人間的な集団の中に入って・・・。 人を人とも思わない、けだものたちの仲間になって・・・。 そして・・・? 「・・・少しは冷静になりましたか?・・・なら、座りなさい。そんな風に目の前で仁王立ちされていると、こちらが落ち着かなくなる」 アズラエルが手を振ると、周囲の護衛たちはようやく銃の構えを解き、元の位置に戻った。 「・・・あなたは本当に頭に血が上るタイプらしい。かっとなったら、前後の見境がつかなくなる。元エリートパイロットとも思えないな。・・・悪い癖だ。戦闘中は特に気を付けた方がいい。せっかくの新型を簡単に破損させて欲しくありませんからね」 オルガは黙って再びソファに腰を下ろした。 契約書を荒々しく、アズラエルに向かって投げつける。 アズラエルは顔色も変えずに受け取った書類を、事務的な目で素早く一覧し、所定の事項に記入がされているか確認すると、後ろにいた部下にそれを無造作に渡した。 「・・・OK。これであなたは晴れて我がブルーコスモス専属のMS乗りになったわけです。おめでとう」 アズラエルは芝居がかった口調で言うと、片手を差し出した。 しかし、オルガは視線をそらすと、敢えてそれを無視した。 アズラエルは気を悪くした様子もなく、黙ってそのまま手を引っ込めた。 「では、改めてメディカルチェックも受けてもらわねばならないことだし、取り敢えず、私との面談はこの辺で――」 そのとき、オルガが再びアズラエルに視線を戻した。 「・・・待てよ。さっきの続きだが――」 立ち上がりかけたアズラエルは、一瞬動きを止めるとあからさまに不快な表情を浮かべた。 「何ですか。まだ何か・・・」 「俺はあんたがあいつにしたことを絶対許さないと言ったろう。あんたらの理屈なんか、知ったことじゃない。俺は・・・」 オルガは燃えるような視線を真っ直ぐアズラエルに投げつけた。 挑戦的な目だった。 「・・・どんな理由があれ、あんたがあいつに――シャニにもう一度、あんなことをしたら・・・俺は・・・間違いなく、あんたを・・・この手で、殺す!」 アズラエルの目が険しくなった。 もはや、彼は笑ってはいなかった。 代わりに、そこには・・・どろどろとした、憎しみの焔が渦巻いていた。 ――そうだ、それがあんたの本当の顔なんだな。 取り澄ました仮面の下にはどれだけ邪悪な意思が蠢いていることか。 この人間の皮を被った、醜いけだものめ・・・! オルガはアズラエルの表情を見て、心の中で毒づいた。 アズラエルの顔がふと緩んだ。 「ふん・・・なるほどね。その言葉、心に留めておきましょう・・・」 彼は一瞬でその怒りと憎悪の表情を、いつもの嘲笑めいた例の愛想笑いの中に塗りこめた。 「・・・やれるものなら、どうぞ・・・」 低声でそう返すと、アズラエルは立ち上がった。 彼はそのまま、もはやオルガには一顧だにしようともせず、部屋を出て行った。 ――やれるものなら・・・やってみるがいい。 アズラエルの背からそんな蔑むような声が聞こえてくるかのようだった。 オルガに背を向けたアズラエルの瞳が妖しく輝いていた。 ――おまえたちはみんな、所詮ブルーコスモスの・・・いや、この私、ムルタ・アズラエルの所有物に過ぎないのだから。 (・・・今に、わかる・・・。わからせてやるさ・・・!) 青い双眸の奥で、憎悪と怒りのこもった暗い焔の熾火が凶々しい光を放っていた。 「・・・気分はどうだ?」 病室の扉を開けると、ベッドに半身を起こしているシャニの姿が目に入った。 「オルガ・・・?」 シャニはヘッドセットを外すと、膝に置いていたプレーヤーのスイッチを切った。 「・・・大丈夫。もう、吐かなくなったし・・・こんなもん、聴けるくらいだから・・・」 シャニはうっすらと微笑を浮かべた顔をオルガに向けた。 それでもまだ左腕には点滴台から伸びる白いチューブがつながっているのが痛々しく見える。 ここへ運び込まれてから数日の間というものは、彼の状態はそれはひどい有様だった。 人の手に触れられることに異様なくらい敏感で、医師の手にすら過剰に反応する。 最初は本当に誰も彼に指一本触れられないくらいだった。・・・オルガを除いては。 治療を受け始めてからも、ショック症状から抜けきれないのか、ひっきりなしに全身を痙攣させ、食べ物や飲み物・・・たとえそれが薬剤の液であったとしても、口にすると同時に忽ち吐き出してしまう。 しかも、食べ物を口にしなくても、絶えず彼は吐いていた。 胃液が尽きてしまうのではないかと思うくらい・・・吐き続けた。 目を閉じると、悪夢が襲うのか突然悲鳴を上げたり、ひどく唸されて再び目を開ける。 そして、また吐く・・・。 その繰り返しだった。 オルガが彼を抱いてやるときだけが、シャニが唯一安心した表情を見せるときだった。 そのため、当初オルガはずっと彼に付き添っていた。 あまりにひどい様子を間近で見ていると、このまま彼が本当に死んでしまうのではないかと時に不安な気持ちになることさえあった。 シャニがこんなにも苦しむ姿を見るのは彼にはとても辛かった。 目をそむけたくなるくらい・・・。 しかし、彼は病室を出ようとはしなかった。 出る気にはなれなかった。 シャニが生きているということ・・・もしくは無事この先も生き続けるだろうということをはっきりと確認するまでは・・・。 ――今、目の前で微笑んでいるシャニの姿を見ることは、オルガには夢のような光景にすら思えた。 ――よく考えたら、こいつがこんな風に微笑うとこなんか、見るのは今が初めてなんだよなあ・・・。 そう思うと、不思議な気分だった。 どこか得体の知れない、妖しげな微笑を浮かべた魔性の生き物。 感情を滅多に表さないその異生物めいた奇妙な色違いの瞳が、良くも悪くも彼を捉えて離さなかった。 ・・・でも、今・・・こうして目の前にいる彼は、ごく普通の青年だ。 そして何より今のオルガ自身の中で、彼の占める位置は劇的に変化していた。 ――好き・・・ という言葉で、今の気持ちを果たして十分に言い表せるのだろうか。 ――俺はこいつを・・・ ――『愛』して・・・? そこまで考えて、オルガは柄にもなく、かっと頬を火照らせた。 不思議そうに見つめるシャニの視線を避けるように、わざとさりげなく、あらぬ方向に顔をそむけてみせる。 (・・・やめろよー・・・クソッ、照れくさい・・・!) オルガは頭を掻いた。 女相手になら、今まで何度となく、囁いてきた言葉。 愛してない者にまで、恥ずかしげもなくそう言ってきた。 ――アイシテル・・・ そんな簡単な言葉を、なぜか今、口に出すのが異様なくらいこそばゆい。 ――野郎相手だから・・・かな。 いや、そういうわけでもないだろうが・・・。 ・・・オルガにはまだわかっていなかった。 本当に愛しいと思えば思うほど・・・ 相手にかける思いが真実であればあるほど・・・ その言葉の持つ意味が重くなっていくのだということに。 その言葉を口に出すのをこんなにも躊躇わせてしまうくらい・・・。 ・・・一方、シャニはそんなオルガをじっと見つめていたが、やがてその手にそっと触れた。 指先が、肌を滑る。 手の甲を撫でられただけなのに、ぞくりとするような、恍惚感がオルガの全身を捉えた。 オルガは思わず息を吐いた。 胸の鼓動が高まる。 (俺・・・今、ヘンな顔してねえよな・・・?!) オルガは焦った。 妙にどぎまぎしている自分に気付き、戸惑う。 (ちっ・・・俺らしくねえな・・・こんなの・・・!) そのとき、見上げるシャニの視線とぶつかった。 オルガはどきっとした。 その瞳の中に、これまでに見たことのないような、熱い迸るような感情の焔がはっきりと感じられて・・・。 「・・・ねえ、キスしてよ、オルガ」 シャニはそう言うと、瞳を閉じた。 当然オルガの唇が動くことを信じきった動作だった。 (・・・お、おいおい・・・!) こんなとこで・・・ 戸惑うオルガだったが、気付いたときには、既に体がシャニの言葉に反応していた。 シャニの体の上に身を屈めるようにして、唇をそっと重ねる。 優しく、そっと・・・。 濡れた唇に触れる。 唇を僅かに離し、指で触れた跡をなぞってみる。 いよいよ引き返せなくなったな、と思う。 俺はアズラエルとだけじゃなく、こいつとも契約を交わしてしまったようだ。 ・・・この命が果てる最期のその瞬間(とき)まで―― 恐らく、二度と解約(キャンセル)できそうにない・・・。 ふと、そんな予兆めいたものをも感じさせるような・・・。 ――でも、いいさ。構うものか。 俺が自分の意志で選んだんだ。 この契約にサインしたのは、俺自身だ・・・。 最後まで、付き合ってやるさ。 後悔などするものか。 ――そう、絶対に後悔なんか、しない・・・! 「・・・愛してる・・・」 もう一度唇を重ねる前に、彼は自然にそう呟いていた。 (Fin) |