ONE STEP TO HEAVEN - Phase 2 -
3 The New Stage
検査台から起き上がると、クロトは軽く息を吐いた。
疲労感が一気に押し寄せてくる。
軽い痺れが残る全身は全体的にだるく、自分のものであって自分のものでないかのようだった。
僅かに耳鳴りがし、何だか頭の奥まで霞んでぼんやりしている。
(クソッ・・・こんなことばっか、させやがって・・・!)
彼は目を上げると、硝子の向こう側に見える白い検査服を着た技師たちの方を忌々しげに睨みつけた。
ここへ連れて来られてからというもの、毎日このような検査の繰り返しだった。
検査中の記憶は殆どない。どうもその直前に打たれる薬のせいらしい。
何となく嫌な感覚は残っているが、具体的に自分の体にどんなことが為されているのか、彼には全くわからなかった。
それだけに、不気味でいつもどことなく後味の悪さが残った。
検査の後、きまって気分が悪くなるのも嫌だった。最初の頃は一晩中体の気だるさと胸を覆う嘔吐感に苦しんで眠れない夜を過ごした。
検査と称して何か毒でも注入されているのではないかとさえ疑いたくもなってくる。
しかし、仕方がない。
これは、一種のビジネスなのだ。彼は既に契約を交わしてしまったのだから。
たとえ仕組まれたこととはいえ、逃げきれない犯罪を犯したことは事実だ。
ムルタ・アズラエルの口車に乗せられたという感は否めなかったが、彼自身弱味を握られていたのだから仕方のない成り行きでもあった。
(・・・契約だから、ちゃんと報酬ももらえる。・・・乗っかっといて、損はない)
少々胡散臭くても、贅沢はいえなかった。監獄よりはマシだろう。
クロトには他に選択の余地はなかった。
「お疲れ様。・・・気分はどうだ?大丈夫か?」
扉が開いて入ってきたのは、珍しくムルタ・アズラエル当人だった。
そのわざとらしい笑顔を見た瞬間、クロトの苛立ちは最高潮に達した。
「・・・んなわけ、ねーだろうが!!・・・いつまでこんなこと、やらされなきゃならないんだよ?!」
「おーやおや、何だか今日はやけにご機嫌斜めのようだね。技師が薬剤の量を打ち間違えたのかな・・・」
ムルタは苦笑しながら近づくと、検査台の上に座り込んでいるクロトの顔をおもむろに覗き込んだ。
舐めるように一瞥すると、軽く溜め息を吐く。
「困るな、そんな短気なことでは。まだまだ、先は長いんだから。辛くても、もう少し我慢をしなければ・・・」
ムルタはそう言うと、子供をあやすようにクロトの頭をそっと撫でた。
その粘りつくような手の感触は、クロトをなぜか総毛立たせた。
「よせよ!!触んな!!」
クロトは反射的にその手を払いのけると、検査台から飛び降りた。
ムルタから逃れるように、傍の籠に脱ぎ捨ててあったシャツと上着を掴むと、彼は慌しく入り口へ向かった。
「ちょっと、待ちなさい」
ムルタが鋭く声をかける。
クロトは思わず足を止めた。止めた瞬間しまったと思ったが自然に体が反応してしまったのだから、止むを得ない。
「・・・何だよ?」
舌打ちしながら、ぶっきらぼうに問い返す。
「・・・おまえの体も大分耐性がついてきたようだから、今日から薬のレベルを変えるよ。いつもよりずっと体も楽になるはずだ」
ムルタは怒った様子もなく、むしろ悠然と微笑んだ。
「食事の後で、私の部屋へおいで。新しい薬の説明をしてあげるから」
やけに優しい口調のムルタが何となく引っかかったが、それよりもクロトは新しい薬という文字に期待と興奮を覚えた。
(・・・薬のレベルを変える・・・って・・・?)
では、これからはもう苦しい夜を過ごさずに済むのか・・・?
新薬に対する不安もあるが、少なくとも状況が改善される可能性がある。
そう思うだけで、何となく気が楽になった。
ムルタの何か含んだような表情に気付かぬまま、彼は軽い足取りで扉を潜り、検査室を出た。
その部屋の前に立った瞬間、クロトは少し躊躇った。
こんな風にムルタの私室に入るのは初めてだ。
何となく・・・気が引けた。
そして・・・どうも心に引っかかるものもあった。
先程のあのムルタの笑顔が、妙に頭の片隅にこびりついて離れない。
嫌な感じだった。・・・どこがというわけではないが、何となく危険な香りがした。
やはり、今夜はこのまま踵を返して帰ろうか。・・・しかし、そうすれば今夜もいつもと同じように苦しんで過ごさねばならない。
(・・・どう・・・しようか・・・)
迷いながら、結局扉のインターカムを押すことができぬままでいたクロトの前で突然扉が開いた。
彼はどきりとして、その場に立ちすくんだ。
「・・・どうしたの。早く入ンなよ」
ムルタではない。
緑の髪に、色違いのオッド・アイ・・・。知った顔だった。
ここへ来てから時々廊下や食堂ですれ違う。
だが、まだあまりまともに口を聞いたことはなかった。
一目見た瞬間に、直感で自分には合わない奴だと感じた。だから、わざと避けていたこともあった。
何て名だったっけ・・・。名前すら覚えていない。今まで聞いたことのないような妙な名だったが・・・。
・・・シャニ・・・。
そうだ、確か・・・そんな名だったような・・・。
「・・・・・・」
ますます気に入らない。何でこいつがここにいる?
クロトは眉をひそめた。
やっぱり、引き返した方がよさそうだ・・・。
クロトは身を翻してその場を去ろうとした。
その彼の腕を後ろから伸びてきた強い力がぐいっと引き掴んだ。
「・・・何すんだよ?!」
クロトは肩越しに睨みつけながら、シャニの手を振り払おうとした。
しかし痛いくらい強い力で捕まえられた腕は簡単には振り解けそうにない。
「・・・てめえ、何のつもりだ!離せって!!」
「アズラエルに呼ばれてたんだろ?何で帰るのさ?」
「そんなの、てめーに関係ない・・・」
最後まで言い切れないうちに、さらに力を込めて乱暴に引っ張られた腕ごと、クロトは扉の中へ強引に引きずり込まれた。
入った瞬間、背後で素早く扉が閉まる音が聞こえた。
カチリ・・・と電子錠の鈍い金属音が後に続く。その耳障りな音が鼓膜に響いたとき、クロトは全身がぞくりと震えるのを感じた。
閉じ込められた・・・。そんな恐怖感がじわりと湧き上がる。
暗い室内を微かに妖しい薄紫の灯が照らし出している。しかし周囲の状況はあまりよくわからない。
――なんて薄暗い部屋なのか。何にも見えないじゃないか。
引き込まれたときに既に腕は離されていたが、余程強い力で掴まれていたらしく、まだ腕がひりひりする。
「・・・ったく、何て馬鹿力だ・・・」
華奢な外見に似合わぬ力の出し方に、内心驚きながらクロトはじろりと傍に佇むシャニを睨めつけた。
シャニは表情も変えずに、ただじっと前を見ている。もうクロトなど眼中に入っていないかのような、いかにも癪に障る態度だった。
何か言ってやろうかと思ったクロトが口を開きかけたとき、
「・・・遅かったね。待ってたのに」
ムルタの柔らかな声が響いた。
クロトは目を細めて声の聞こえてきた方を眺めて、ようやく真ん中の豪奢なソファーに座っている声の主の姿を認めた。
「・・・こちらへおいで。ほら、薬をあげよう」
犬か猫を呼ぶかのように軽く手を振るその指先が小さなカプセル薬を挟み持っているのがわかった。
(・・・薬・・・?)
それを見ると、クロトは吸い寄せられるようにそちらへと近づいていった。
「食事はちゃんと摂ってきたね」
クロトが近くまで来ると、ムルタはからかうように尋ねた。
クロトは仏頂面のまま、何も答えなかった。
ムルタの目が僅かに細められた。
「・・・ちゃんと返事をしなさい」
少し声が厳しくなった。青い瞳の奥で何か妖しい光が瞬いているように見えた。
クロトは戸惑いを覚えた。
(・・・何なんだよ、一体・・・)
いわれのない、恐怖。
何かはわからない。だが・・・この男は危険だと、自身の中で本能がさかんに警戒信号を放っているのがわかった。
――逃げた方がいいのか・・・。
今ここから逃げることが可能だというのならば・・・だが。
「・・・食事の後、いつもの薬も飲んできたね」
ゆっくりと・・・ぬめるような、その口調。
クロトはいつのまにか、自分が少し汗ばんでいることに気付いた。
(・・・何で・・・俺はこんなに緊張している・・・?)
「返事は・・・?」
不意に手が伸びて、逃げようとするクロトの顎をぐいと掴んだ。
「あっ・・・!」
急に顎を引かれて、クロトは前向きにつんのめりそうになった。
そのまま引き掴まれるかのように、体ごとムルタの腕の中に落ちていくのがわかった。
「・・・なっ・・・!」
何を・・・という言葉が続かなかった。
気が付くと、彼はムルタの腕にがっちりと体を捉えられていた。
「・・・くそ・・・放せよ・・・ッ・・・!」
あまりに突然の相手の行動の不条理さに、恐怖とパニックを感じて、クロトは狂ったようにもがいた――・・・もがこうとしていた。
しかし・・・なぜか、体が痺れたように思い通りに動かない。
(・・・どう・・・したんだ・・・俺・・・?)
わけがわからない。
急速に、視界が霞む。
酒でも飲んだか・・・?いや、そんなものは何も飲んでいない・・・。
では・・・
クロトはハッと微かに瞳を開いた。
・・・食事の中に、何かが混入されていたのか。それとも、食事の後に打たれた、アレか・・・?
彼は恨めしげに自分を捉える相手の顔を見上げた。
「・・・何・・・すんだよ・・・」
我ながら情けなくなるほどの、弱々しい声だった。
声すら掠れる。・・・全くといってよいほど、力が出ない。
――畜生・・・何をしやがった・・・?
「・・・新しいステージに上がるための儀式だよ。大丈夫。心配することはない。すぐ慣れる」
「・・・ぎ・・しき・・・?」
そのとき、ぼんやりとその言葉を繰り返そうとするクロトの口にいきなり相手の濡れた唇が覆いかぶさってきた。
「・・・んっ・・・んん・・・・っ・・・・・・!!」
クロトは声を上げる間もないまま、ムルタの激しくむさぼるようなくちづけの洗礼を受けた。
抵抗しようとしたが、強引に攻め入ってくる舌に簡単に歯列を割られ、忽ち口腔内へ侵入された。
絡め取られた舌が何か異物を感知した。
ころころと舌の上を転がる小さな物体。
・・・それが相手の持っていたあのカプセル薬だと気付いたときには、カプセルは既に喉の奥に押し込まれ、彼は相手のものとも自分のものともわからぬ唾液と共にそれを嚥下してしまっていた。
(・・・あ・・・っ・・・!)
――何を・・・飲んだ・・・?
彼は思わず吐き出そうとしたが、相手に口を塞がれたままのこの状態ではそんなことは到底無理だった。
相手の攻めのあまりの激しさに、呼吸さえままならず・・・そのあまりの苦しさに、クロトの目はいつしか涙でいっぱいになっていた。
ようやく開放されたとき、クロトは心臓を大きく波打たせ、呼吸を取り戻そうとただ激しく喘いでいた。
口端から滴り落ちる唾液は微かに薬の嫌な臭いがした。
「・・・はっ・・・あっ・・・くっ、くそっ・・・やめ・・・ろって・・・!この・・・変態・・・ッ・・・!」
目の前でにやにやと笑うムルタの顔を精一杯睨みつけると、クロトは掠れる声を振り絞って怒鳴った。
そう罵声を上げながらも、目の端にたまった涙がこぼれ落ちていくのが我ながら情けなかった。
「・・・契約だから、ね」
ムルタの冷やかな一言がクロトをぞくりと震わせた。
(・・・け・・いや・・・く・・・?)
――何・・・言ってる・・・?
「――結んだ契約には、従ってもらうよ」
ムルタの瞳が鋭く光る。
獲物を捕獲した獣の瞳を思わせる。その瞳の奥に貪欲さを感じさせるような青い焔が激しく渦巻いている。
「・・・何が、契約だよ、くそっ・・・!!こんなこと、どこにも書いてなかったぞ!!」
クロトは掠れた声を無理に引き出しながら、必死で叫んだ。
「・・・文字にはなくとも、契約を結んだ時点で、おまえはもう、私のものになっていたんだよ。私が主人で、おまえはその飼い猫だ。・・・そう・・・おまえのような育ちの悪い猫は一度ちゃんとした躾を受けなければね・・・」
誰が主人か、わかるように・・・。
これが、儀式の意味なんだよ。わかるか・・・?
(・・・わかるかよ・・・そんなこと・・・!!)
クロトは吐きそうだった。
いくらなんでも、こんな・・・こんなこと・・・嫌だ・・・!!
男に・・・犯られるなんて・・・
恐怖感がにじりよる。
そのときふと、霞む視界の淵に緑色の髪が目に入った。
「・・・シャニ!!」
これまで呼んだこともなかったその名を初めて叫んでいた。
「・・・おまえ・・・何とかしろよ!!このオッサン、狂ってる・・・助けろよ!!」
しかし、返事は返ってこない。
――シャニ・・・おまえ、何でそんなとこで、黙って眺めてる・・・?
「おやおや、この子を自分と一緒にしちゃダメだよ。ねえ、シャニ・・・おまえから、ちゃんと教えてやりなさい。飼い主の前ではどうしなければならないのかということをね・・・」
ムルタは言うと、クロトの体からいきなり手を離し、立ち上がった。
力の出ないまま、クロトはぐったりとそのまま床に崩れ落ちた。
「・・・くっそおお・・・」
好き放題しやがって・・・。
クロトは唇を噛んだ。
誰が飼い猫だって・・・誰が主人だって・・・
畜生、馬鹿にしやがって・・・ッ・・・!!
――俺は、誰にも飼われたりなんか・・・
そのとき、ふと目の前が暗くなった。
(・・・・・?!)
突然のブラック・アウトだった。
体がふわりと浮き上がるような異様な感覚。
あ・・・。
な・・・んだ・・・これは・・・?
この浮遊感。
目の前が真っ暗になった・・・かと思うと、次の瞬間、鋭い閃光が断続的に瞬く。
その繰り返し。
外界の音が突然遮断されてしまったかのようだった。
覆いかぶさってくるような、沈黙。
音のない世界に、独り隔離されてしまったかのような・・・。
あまりの恐怖に彼は悲鳴を上げようとした。
なのに・・・自分の声すら聞こえない。
(・・・これは・・・何なんだ・・・?)
――俺は・・・夢でも見てるのか・・・?
一体どうしちまったんだ・・・?
――怖い・・・!
見えない恐怖が彼の全身を覆っていく。
「・・・ステージアップしたようだ。それでは、いいね?」
どこか遠くの方から、そんな声が微かに聞こえたような気がした。
(To be continued…)
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