Afternoon Coffee







 コーヒーの香りに、不意に目が覚めた。
(あ……)
 イザークは目を瞬くと、執務室の白い天井を何度も見た。
 ぼんやりしていた頭が次第にはっきりしてくるにつれて、自分の置かれている状況がようやく把握できた。
(そういえば、ここは執務室だったな……)
 ここ数週間、遠征や会議、式典等細かな行事が重なり、休む間もなかった。
 ようやく執務室の机の前に座ったと思った途端、目の前に積み重なっていた書類の山を見て愕然とした。
 昼食後、うんざりしながらもその溜まりに溜まっていた書類整理に手をつけ出したのはよいが、途中で疲労と睡魔に負け、少しだけ、とソファーで仮眠をとってそのまま現在に至る――というわけだった。
 デジタルクロックにちらと目をやると、まだ午後3時を過ぎたところで、思ったほど眠り込んではいなかったようだ。
 ほっと安堵の息を吐いたところで扉が開き、聴き慣れた足音が近付いてくる。
 と同時に仄かに漂ってくる芳香。
 顔を上げずとも、それが誰かはわかる。
「――あ、起きてた。グッドタイミング!」
 のろのろと起き上がると、まさしく絶妙のタイミングで、ディアッカ・エルスマンが湯気の立ち上るコーヒーカップを差し出した。
「……コーヒー、淹れてきたんだ。そろそろ目が覚める頃かな、と思って。――飲むだろ?」
「――ん」
 カップを手に取った瞬間、じかに鼻孔から入り込んでくるコーヒーの香ばしい香りに、忽ち脳が爽やかな刺戟を受け、眠気も一気に醒めた。
 一口啜ると、ほうと溜め息が零れた。
「…………………」
「――あー、やっぱ、挽きたては美味いよなあー」
 向かい側のソファーにどっかり腰を下ろしたディアッカの感想を聞きながら、さらにカップを傾ける。
 ――美味い。
 口には出さないながらも、彼も全く同意見だった。
 ――この、風味……。
(……いつもと違うな)
 豆を、変えたのか。
 あまりコーヒーに拘りのない自分にさえわかるほどだから、余程高級な豆でも手に入れたか、と彼は一瞬眦を上げた。
(全く、くだらんことに金を遣いやがって……)
 まさか公費を使ってないだろうな、とのんびりとくつろぐ相手をじろりと睨みつけた。
 が、ディアッカはそんなイザークの視線にも気付かず、美味そうにコーヒーを啜っている。
 大体、いつからだったろう。
 こいつが、わざわざコーヒーなど淹れるようになったのは……。
 以前は、コーヒーなど、その辺の給湯器から汲んでくるくらいだったんじゃなかったか。
 それが、いつからか、生意気にも豆挽きだとか、何だとか言い出して……。
 あれ、そういえば、いつから……?
 思い出してみると、きっかけは確か――
 ――誰かから豆を貰ったとか言ったのが始まりじゃなかったか。
 ――誰か、って、誰だ?
 これまで気にもならなかったことが、急に気になり始める。
「……どうかした?」
 不思議そうに、ディアッカが瞬くのを見て、はっと我に返った。
「……あ、もしかして、紅茶の方が良かったとか?悪い、俺、勝手に――」
「……いや、いい。……」
 イザークは短く遮った後、やや躊躇いがちに口を開いた。
「――ただ、美味いな、と思って……」
 その言葉を聞いた途端、ディアッカの顔がぱあっと輝くのがわかった。
「おっ、わかった?――実はさ、豆、変えたんだ!地球産の、しかも超稀少種の豆でさ。ここだけの話だけど、地球にいても、近頃じゃ滅多に手に入らないっていう代物らしいぜ。――あ、けど、やばいことして手に入れたわけじゃねーから、心配するなよな。地球にいる奴から、たまたま貰っただけだから――」
「……そう、か……」
 嬉しそうに喋りまくる相手に圧倒されて、イザークはいささか中途半端に頷いた。
(――やはり、そうだ……)
 先程頭の中で思い出していたことと今のディアッカの言葉がぴたりと一致して、改めて確信する。
 ――『誰か』、か。
 自分の知らないその『誰か』の顔が目の前をちらついて、急に不快になった。
 ――誰、なんだ。
 直接問いかければよいのだろうが、なぜかそれを口にすることが憚られた。
 ――俺らしくないな。
 イザークは思わず吐息を零した。
(……そういえば、こいつは最近よく地球に行く)
 最初は、あくまで公務、だった。
 しかし最近、彼はそれだけの用で地球へ行くというわけでもないようだった。
 彼には地球に知己がいるということはわかっている筈だが、そのことに思い至ると、やはり複雑な心境になる。
(地球にいる奴、か……)
 それは、男か、女か。
 以前から知っている奴なのか。それとも、新たに得た知己なのか。
 一体、どんな人間なのか。
 どんな関係……なのか。
 地球に関することになると、忽ち彼との間に見えない障壁が立ちはだかるような気がする。
 いわゆる自分が入って行けない『区域』(ゾーン)だ。
 ――やめよう。
 あれこれ、詮索したところで仕方がない。
 俺は、ディアッカの保護者か。
 違う。
 それでも――
 幼い頃から、共に過ごしてきた時間の長さにかけては、他の者の比ではない。
 共通の思い出も多いし、互いのことについては、全て知り尽くしているという自負があった。
 ――少なくとも、あの戦争が起こるまで、は。
 奴が、アークエンジェルに投降したあの時まで、は。
 イザークの記憶する限り、知り合ってからこれまでの間で、互いに共有しない時間を持ったのは、あれが初めてだった。
 そして、これまでその全てを知り尽くしてきた筈の友が、あの時から少しわからなくなった。
 それは、奴が……自分に『隠しごと』をするようになったからだ。
 いや、奴はそれを『隠しごと』とは思っていないようだが……。
 ――プライベート。
 その言葉が実にうまい隠れ蓑になっているということを、奴が意識して使っているのかどうか。
(あの頃から、俺たちの関係は変わった)
イザークはそう感じるようになった。
それが自然な関係であるのかもしれないと思う半面、言いようのない焦燥や寂しさを覚えることもあった。
 ――まさか、俺は奴を一人占めできないことに苛立っているのか。
 馬鹿馬鹿しいと思いながらも、一笑に付すだけの潔さもない。
(……くそ)
 思わず吐息を吐くイザークに、再びディアッカが不思議そうに声をかけてくる。
「――何、どうしたの?寝覚めが悪いとか?もしかして、やっぱ俺、タイミング悪かったかな」
 柔らかな笑みには、揶揄の調子はない。
 ――そういうところも、変わった。
 昔の奴なら、忌々しいくらい皮肉を込めた言い回しをすることもざらだったのに。
 冗談めかしながらも、そこには僅かな気遣いすら感じられ、それがかえってイザークには煩わしかった。
 怒る理由もないのに、何とはなしに険しい顔になってしまう。そんな顔を相手に見られぬように、さりげなく面を下げる。
「――何でも、ない」
 何事もないように、カップに口をつけた。
 芳香と、口の中に広がる芳醇な酸味とコクが、小憎らしいほど味覚を刺戟する。
 芳しい匂いと味に、心の中のもやもやとした気持ちも溶けていく。
(――くだらん)
 イザークは残りのコーヒーを飲み干すと、苦笑した。
(くだらんことを、考えるのはよそう)
「――もう一杯、淹れてこようか?」
 機嫌を伺うように、声をかけてくる相手の顔を見た時には、気分はだいぶ凪いでいた。
「……ああ。頼む」
(全く、困ったものだな……)
 このコーヒーの味が、美味すぎるから困る。
 だから、余計なことを考えてしまうのだ、とイザークはカップの向こうに存在するその『誰か』に向かって、ささやかな八つ当たりを試みていた。


                                              --- End
                                         (2014/01/06)

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