Bad Medicine (2) 痛みと恍惚感の混在する感覚の波間に溺れたまま、いつしか自分のいる場所すらわからず・・・ そのように意識が沈んでから―― どれくらいの時が経過したのか・・・。 不意にレイは瞳を開けた。 自分がベッドの上に横たわっていることがわかった。 身がやけに軽いと思えば、いつのまにか体を締めつけていた制服のベルトが外され、上着がはだけられている。 お陰で楽に呼吸ができた。 腹部を一時襲ったあの痛みもすっかり消えていた。 彼はほっと息を吐いた。 では・・・やはりあれからギルが自分を抱いてここまで運んできたのだ。 突然激しい痛みに襲われて・・・息もつけなくなったとき、彼はレイの体をしっかりと抱き止め、痛む箇所をそっと撫でてくれた。 (大丈夫だ、レイ・・・) (おまえは、一人じゃない) (おまえの傍には、わたしがいる・・・) 愛しげに囁くその言葉の甘い響きが・・・ 彼の暖かな手の感触が・・・ レイの痛みを、瞬く間に和らげていくようだった。 (ギル・・・) 唇が重ねられた瞬間・・・ 何かが体の芯から揺さぶるような・・・目眩めくような陶酔感が全身を支配し、レイはもはや痛みも忘れ、ただギルバート・デュランダルの胸にその身を委ねた。 (・・・この人は、暖かい・・・) 彼の体に触れているだけで・・・ 彼の手が自分の体を抱いてくれていると思うだけで・・・彼の心は満たされた。 (・・・ギル・・・) このままずっと、こうしていられたら・・・ 「・・・気が付いたか」 その声にふと目を上げると、当のギルバートがすぐ傍に佇んでこちらをじっと見下ろしていた。 長い黒髪に包まれたギルバートの色白の美しい顔は、暗い室内灯の中では殊に妖しく浮き立って見えた。 「・・・ギル・・・」 名を呼んだだけで、後は何を言ってよいか、言葉が続かなかった。 そんなレイに視線を向けたまま、ギルバートは寝台の淵に腰を下ろすと、レイに覆いかぶさるように、すぐ傍まで顔を近づけた。 薄闇の中で、紅色の双眸が妖しい輝きを放っていた。 レイは思わず息を呑んだ。 その、妖しいばかりの美しさに魅了されて・・・。 彼は、魔物に魅入られたかのように、身じろぎひとつすることができなかった。 「・・・どうだ。具合は、良くなったか?」 その手がレイの顔にかかった髪をそっと払いのけながら、優しく頬を撫でた。 レイは黙って頷いた。 頬が熱く燃え立つようだ。 ――どうして・・・ (俺はこの人の前では、こんな風に幼い子供のようになってしまうのだろう・・・) こんなところを、誰かに見られたら・・・。 羞恥に僅かに頬を染めながら、彼は拗ねたように何となく目線をそらした。 ギルバートの目がふと、そばめられた。 「・・・神経性の胃痙攣か・・・突発的なものだな。そんなにストレスが溜まっているのか」 からかうように、言う。 「おまえを手元から離したのは、間違っていたのかな・・・?」 指先が誘うように、レイの唇をなぞる。 それから逃げるように僅かに顔をそむけながら、 「・・・そんな・・・ことは・・・」 レイは小さく口ごもった。 「・・・シンは、どうだ?」 ギルバートは不意に言った。 その名をギルバートの口から聞いた途端、レイの胸はどきんと大きく波打った。 (シン・・・?) こんな風に二人でいるときに、ギルの口からシンの名が出るなんて・・・。 レイは困惑した。 どうしたんだろう、ギルは・・・。 どうして、そんな風に俺を見るのか。 今日のこの人は、何だか―― そう・・・何だか、俺を試しているかのようだ・・・。 「・・・好きなのだろう、彼が?」 ギルバートは事もなげに言う。 何の感情もこもらぬ淡白さで。 ――おまえは、シンが気になって仕方ないのだろう。 いつしか、笑顔が冷えていた。 視線を戻したレイは、そこに表れていた氷のような冷やかさに、ぞくりと身を震わせた。 (ギル・・・?) 違う・・・。 さっきまでのギルじゃない・・・。 先程までの安堵感が嘘のように、冷たい恐怖の爪に荒々しく身を掴まれ、彼は忽ちその場から逃げ出したい衝動に駆られた。 身を動かそうとしたレイを、ギルバートの手がすかさずその場に押さえつけた。 「・・・ギル・・・?!」 放して・・・と訴える瞳を無視し、ギルバートは黙ってレイの唇に貪るように吸いついた。 濃厚なキスの後、唇はそのまま首筋に落ちていく。 「・・・あ・・・っ・・・!」 レイは、喘いだ。 肌を滑っていくギルバートの唇に、体が驚くほど過剰に反応する。 全身が熱く火照るようだった。 「・・・おまえは、ないものねだりだね・・・」 唇を離すと、ギルバートは囁いた。 「自分にないものを常に求めている・・・。手の届かないものばかり・・・どうしてそんなに無理をする・・・?」 揶揄するような語調・・・。 ――自分にないもの・・・ ――手の届かないもの・・・ ギルバートの言葉は、レイの胸を鋭く抉った。 ――そ・・・んな・・・ ――ちが・・・う・・・ ――俺・・・俺は、そんな・・・つもりは・・・っ・・・!! 声を大きくして叫びたかったが、なぜか喉がからからで一音も唇から発することはできなかった。 「・・・あの子は、いつまでもおまえの傍にはいないよ・・・」 ギルバートは顔を上げると、改めてレイを真正面から見据えた。 さらりと飛び出した言葉は、レイの心を矢のように鋭く突き刺した。 (そんなことは・・・おまえも、わかっているはずだ・・・) ギルバートの目が意味在りげに瞬いた。 ――そう・・・おまえと、シンは違いすぎる・・・。 シン・アスカは、いつかおまえから離れ・・・どこか遠いところへはばたいていくだろう。 おまえには手の届かぬところへ・・・。 彼は・・・光を求めていくべき者。 彼には、それだけの強い正のエネルギーがある。 おまえとは逆の・・・。 彼をおまえの傍に繋ぎ止めておくことは恐らく不可能だろう。 シンとレイ・・・二人はいずれ道を分かつはずだ。 そうなる運命なのだ。 おまえには、おまえの行かねばならぬ道がある。 おまえ自身が背負わねばならぬこの業がある限り・・・おまえはそこから逃れられない。 (――だから・・・) ギルバートの瞳が、儚げに揺れた。 ――おまえには、私しかいないのだよ。 ――おまえは、私から離れられない・・・。 (おまえと私を縛るもの・・・) (この、深く強い絆があるかぎり・・・) ――レイ・・・おまえは、私からは・・・ ギルバート・デュランダルの瞳が、妖しい光を放ち・・・レイはその瞳に否応なく吸い込まれていく自分自身を意識せずにはいられなかった。 自分はこの人が好きなのか・・・それとも、本当は怖れているのか・・・ 彼自身、わからなくなっていた。 魅かれている・・・それでいて、時々たまらないほど怖くなる。 ・・・しかし、現にこの人の胸に縋っている自分がいる。 彼の愛撫を受け、たとえひと時でも恍惚感に我を忘れている・・・そんな自分がいる。 ――自分は、この人の何なんだろう・・・。 この人と自分を繋ぐもの・・・それは、一体何なのか・・・ それは常に感じてきた疑問だった。 そしてそう思うとき、同時に答えの出ない漠然とした不安が孤独な胸を苛む。 このまま・・・ 離れられぬのか。 この人の魔力に捉われたまま・・・ ずっと・・・ ――い・・・やだ・・・ 突然・・・激しい忌避感が彼を襲った。 彼は、ギルバートの腕を突き放し、ベッドの上に跳ねるように身を起こした。 「・・・・・・・?!」 ギルバートが驚いたように目を見開き、レイを見つめていた。 ベッドの上で、距離を置いたまま二人はしばらく無言で見詰め合った。 (――なぜ・・・?) (――どうして・・・?) 殆ど同時に、それぞれの胸を混乱した思いが駆け抜けていく。 ・・・やがて、ギルバートはふっと視線を落とした。 唇の端から自嘲するような溜め息が洩れた。 彼は腰を上げ、立ち上がった。 「・・・すまなかった、レイ・・・。今日はもうこれで、やめておこう。おまえの調子も悪いようだから・・・無理強いはしないよ」 黒髪が、揺れる。 彼はレイに背を向けると、静かに歩き始めた。 離れていくギルバートの背を見送りながら、レイは再び募りくる孤独にひそかに慄いていた。 それでも―― (待って・・・) ――引きとめようとする言葉は、しかし、とうとう出てこなかった。 (この不安は、なんだ・・・?) いつしか涙をこぼしていることにすら気付きもせぬまま・・・ レイは、震える自分自身の体を自らの腕でかき抱きながら、長い間ベッドの上にただじっとうずくまっていた。 (Fin) |