サイレンのように部屋中に響き渡るけたたましいアラーム音に、脳内をかき回されているかのようだった。
「……う――……」
 じくじくと痛む頭を抱えて、ディアッカ・エルスマンはゆっくりと上体を起こした。 瞼が重く、目が完全に開かない。重く気だるい体。
 カレンダーの表示が目の中に飛び込んでくるが、その数字にも何の感慨も湧かなかった。
(……ちぇっ)
 彼は舌打ちすると、軽くこめかみを押さえた。
(いやな一日になりそうだぜ、くそっ)
 ――その朝の目覚めは、最悪だった。










Birthday Breeze










 医務室の前を通りかかったとき、ちょうど扉から人が出てくるところだった。何気なく目を向けたシホ・ハーネンフースは意外な人物の姿に、思わず足を止めた。
「ディアッカ・エルスマン……?」
 通り過ぎようとした相手は怪訝そうに振り返ったが、目が合った瞬間、しまった、という顔をした。
「……どうか、なさったんですか?」
 シホの目が、検分するようにディアッカの顔を鋭く一瞥した。
 頬が少し上気していて、どことなく目も潤んでいるようだ。熱でもあるのだろうか。何となくいつもと違うように感じる。 
 彼女は訝しむように、眉をひそめた。
「うわ、まずいとこ、見られちまったなあ……」
 ディアッカは気まずそうに、頭を掻いた。
「午前中、時々お姿が見えないようでしたけど。ひょっとして、ずっとそこで寝てらしたんですか?」
「うーん、まあ、そんなとこ。珍しく、朝から調子悪くてさ。どうしちゃったのかねえ。風邪でも引いちまったのかなあ」
 冗談めかした言葉の中にも、いつものような軽快さが感じられない。
「やだ。それならそうと言って下さればよかったのに。隊長、『またあいつ、さぼりやがった!』って。かんかんでしたよ」
「うっわー、やべーな。またご機嫌損ねちまったかな」
「とにかく、そういうことなら、今日はもう帰ってお休みになられては?隊長には私から言っておきますから」
「あっ、いいよ、いい!……今日は大切なブリーフィングもあるし、こんなことくらいで、休めねーから。……まあ、もうちょっと耐え忍んでみるわ。――あ、それから、隊長にはこのことは絶対に言うなよ。あいつ、あれで結構神経細くて、心配性だから。あれこれうるさく言われちゃかなわねーしな」
 無理に笑ってみせるディアッカに、シホは心配そうな視線を向けた。どう見ても大丈夫、という顔色ではない。しかし本人が構うなと言う以上、あまりうるさく言うのも気が引けた。
「そうですか。でも、あんまり無理はなさらないでくださいね」
「心配してくれてるんだ。サンキュ!」
 シホの尻を小突くと、途端にきっと睨みつけられた。
「ディアッカ・エルスマン!もうっ、調子に乗らないで下さいっ!」
 いつものようなセクハラ行為に、シホの心配も一瞬どこかへ吹っ飛んでしまったようだった。
「あはは、悪い!つい、その優しさに甘えちゃって」
 笑いながら、ディアッカは逃げるようにシホの傍から離れて行った。
 
 
「――遅い!」
 定刻を五分過ぎた頃、そっと室内に入ってきたディアッカに、イザークは苦々しい顔を向けた。
〈ディアッカ!いい加減にしろ。貴様以外は皆時間内に集合してるんだぞ〉
 しゃあしゃあとした顔で傍の椅子に腰かけたディアッカの腕を小突いて、イザークは小声で囁いた。
〈副官の貴様が一番後じゃ、示しがつかんだろうが。――何度言えばわかる〉
〈――ああ、悪い。ちょっと野暮用が長引いちゃってさ〉
 軽く片目を瞑ってそう返すと、イザークはそれ以上何も言わなかったが、不機嫌そうな顔はずっと続いた。
 長いブリーフィングが終わった後、イザークはディアッカを執務室へ呼んだ。
「……で、何?」
 部屋へ入るなり、ディアッカは気忙しく促した。
 そのいかにもおざなりな言い方や表情が、イザークの気に障ったようだった。
 彼は露骨に顔をしかめた。
「おい、何だそれは。それが隊長に対する態度か、貴様」
「……何だよ。もう勤務時間、終わってんだろ。いつまでも、偉そうに上官ヅラすんなよな」
 ディアッカは憮然と言い返した。
「何だとっ!」
 イザークはかっとなって真正面から相手を睨みつけた。
「偉そうなのは、どっちだ。いつも隊の雰囲気を乱してるのは、誰なんだよ!……大体何だ。今日だって、大事な会議にしゃあしゃあと遅れて入ってきやがって。しかも貴様、途中で居眠りしてただろうがっ。そもそも、貴様のそういういい加減でだらしないところが、俺は大っ嫌いなんだよっ!」
「あ、そ。俺もおまえみたいな、やったら偉そうに命令ばっかしてる上官なんて、うんざりだよ」
 あっさりと謝るつもりが思いがけず、反抗的な言葉で返してしまった。しまった、と思ったが既に口から出た言葉を取り消すことはできなかった。
「――わかった!もう、いい。貴様と話していると、気分が悪くなる」
 ぷい、と顔をそむけたイザークに、ああ、そうかよ!と、ディアッカもさっさと踵を返して部屋を出た。
 廊下を歩きながら、腹立たしいというより、何となく悲しくなる。
(あーあ、何で今さらこんなくだらねー喧嘩なんてしなきゃならなかったんだ?)
 俺も馬鹿だよな、と思わず溜め息が洩れた。
(いつもみたいに軽く聞き流しときゃよかったのに、な)
 今さらながら、後悔の念が湧き上がった。
 少々イラついていたことは否めない。
 朝から続いていた体調不良はどんどん悪化する一方で。先程の長いブリーフィングの合間の休憩時には、とうとう耐え切れなくなってひそかにトイレで何度か吐いた。
 一刻も早く、自分の部屋に帰って休みたかった。
 ただ、それだけだった。
 自分にだって、たまには調子の悪いときもある。会議に遅れたのだって、それなりに理由が……と、説明すればよかったのかもしれないが、長時間の会議ですっかり疲弊しきっていた体には、もはや言い訳するだけの気力すら残っていなかった。
 何もイザークを怒らせたかったわけではないのだが。
 ディアッカは重い息を吐き出した。
 やはり、体調が悪いときはいつものような忍耐力もなくなってしまう。早く帰って寝て、明日までには治してしまおう、とディアッカは痛む頭を押さえながら足を速めた。
 
 
「くそっ!」
 イザークは腹立ち紛れに執務机を何度も拳で叩いた。
「くそっ、くそっ、くそっ!」
 ――馬鹿ディアッカ!
 何なんだ、あの突っかかり方は!
 いつもなら、何を言われても素直にはいはいと答えているではないか。
 それを何だ!
 生意気にもあんなに反抗的な態度を取りやがって……。
 それも、こんな日に限って……。
 腹立ちというよりも、寂しさが胸を満たした。
 彼は椅子の背に思いっきり体重をもたせかけるように、荒々しく腰を下ろすと目を閉じた。
(くそっ……!)
 妙に気持ちが萎えた。
 ――せっかく……
 瞳を開く。机の引き出しに視線が止まった。
 が、すぐに目を逸らす。
 ――もう、いいか。
 そう思いながらも、何となく手が伸びた。
 少し体を前へ伸ばして、真ん中の引き出しを開ける。
 片隅に大事そうに置かれているカードをちらと見ると、イザークの瞳は落ち着かな気に揺れた。
「……くそっ、ディアッカの奴……」
 人が肝心の用件を言う前に、帰っちまいやがって……。
 お陰で見事に渡しそびれた。
 カードを手に取り、目の前にかざす。
「やはり、俺らしくなかったんだ。こんなこと……」
 よせばよかった、とイザークは悔やんだ。
 カードの上の飾り文字が空々しく見える。
〈――Happy Birthday, My Dear Friend…〉
「くそっ!」
 イザークは苛立たしげに、カードを手の中で握り潰そうとしたが、すんでのところで、思いとどまった。思い切れない自分に嫌悪感を感じながらも、彼はカードを再び机の引き出しの中にそっとしまった。
 
 
 執務机の上を片付けて、部屋を出る準備をしていたとき、不意に扉をノックする音が聞こえた。
「入れ」
 不機嫌な気分の続きで、自ずとぶっきらぼうに答える。
 まさかディアッカが戻ってきたのかと思ったが、開いた扉の隙間から覗き見えた茶色の長い髪を見て、すぐにそんな想像はどこかへ消えた。
「シホか。どうした?」

 有能な美しい部下の姿に、尖りかけていた声を少し和らげる。
「あ、はい……こんな時刻に申し訳ありません。出られるところでしたか?」
「いや、いい。それより、用は何だ」
 シホは躊躇いながら、失礼します、と入ってきた。
「――あの……実は、ディアッカ・エルスマンのことで、ちょっとお話が……」
「……?」
 シホの口から飛び出した思いがけぬ名前に、イザークは不審気に眉を寄せた。
「あいつが、どうかしたのか」
「あ、はい。隊長……気付いてらしたかな、と思いまして」
 シホは遠慮がちにそう言うと、少し視線を落とした。
「こんなこと、私の口から言うのも何なんですけど……今日のブリーフィングのことで、彼を責めていらしたのなら、一言申し上げておいた方がいいか、と……」
「珍しいな。きみがあいつのことを、そんな風に気にかけるなんて」
 イザークは苦笑した。
 彼女の口からはいつもディアッカに対しては、セクハラをされて困る、と言った苦情や悪口しか出てこなかったのに。
 シホは僅かに頬を赤らめたが、すぐに冷静な表情に返って口を開いた。
「……隊長には言うなって言われてたんですけど。彼、今朝から体調悪そうで。休憩時間も何度か医務室で休んでおられるところを見かけました。……ですから、ブリーフィングのときに遅れてこられたのも、きっとそのせいだと思います。さっき、帰って行かれるときも、ふらふらした感じだったし、何だか気になって……今日はだいぶ無理されてたんじゃないでしょうか」
 聞いているうちにだんだんイザークの顔色が変化する。
(……そう、だったのか)
 イザークは唇を噛んだ。
 ――そう言われてみれば、ブリーフィングのとき、あいつ妙に汗をかいていたな。
 顔色もどことなく、冴えなかった。それなのに自分はただ、遅れて入ってきて少しは罰の悪い気持ちでいるのかな、とぐらいにしか思っていなかった。
 すると、会議中居眠っていたように見えたのも、ひょっとして……。
 今さらながらにそんな彼の様子の変化に気付かなかった自分の愚鈍さに、自己嫌悪が募った。
「あの、今日……彼のお誕生日、ですよね。そう思って……実はこんなの用意してたんですけど、そんなこんなで結局渡しそこなっちゃって」
 シホは照れたように視線を下げると、後ろ手に持っていた小さな紙袋を差し出した。
「隊長、もちろん、お見舞いに行かれますよね。お手数ですが、そのときについでに渡して頂けます?」
 イザークの胸の内を見透かしたように、にっこりと笑うとシホはぺこりと頭を下げた。
「……ああ。わかった」
 イザークはぎこちない仕草でそれを受け取った。
「……わざわざ、すまなかったな。ありがとう」
 そう言うと、頭を下げて退出していくシホを柔らかな眼差しで見送った。
 
 
(ああ。頭いてー)
 ディアッカはベッドの上で何度も寝返りを打った。
 体が重い。動かすたびにぎしぎしと関節が痛む。
 そして……悪寒が酷くなってきた。やばいくらい全身が熱い。
(やっぱ、あの時……)
 今さらながらに後悔する。
 昼間、医務室で言われたように、あのまま病院へ直行すればよかったかな、と。
 医師は首を傾げて、もしかしたら巷で流行りのウイルスに感染しているのかもしれないから、すぐに病院へ行って検査を受け、しかるべき処置を施してもらうように、と強く勧めた。
 しかし、彼はそれを軽く聞き流した。そんなことをしている余裕はなかった。第一、隊の大事な戦略会議に副官の自分の姿がない、などということになれば、イザークの立場がないだろう。そう考えると、少々体が不調だからと言って、私的なことを優先するわけにはいかなかった。
 自分は元々頑健な体だ。コーディであることを抜きにしても、これまでに大きな病気などしたことがなかったし、幼い頃はよく風邪を引いて寝込むこともあったが、最近ではそんなことすら滅多にないものだから、今回も所詮たいしたことはないだろうと高を括っていた。
 青ざめた面のまま、もう少し我慢してどうしても駄目なら考える、などと悠長なことを言う彼を前に、医師はどうなっても知りませんよ、と呆れたように言い放ったのだ。
 そして、やはりそんな自分で下した楽観的な判断がそもそもの間違いだったということがここまで悪化してようやくわかった。
 ――本当に、こんな風に寝込むなんて、子供(ガキ)の頃以来だ。
 しかしあの頃は、看護してくれる母親がいたが、今ここにはそんな人間はいない。一人孤独にベッドの中で、苦しんでいる。
(……ったく、サイッテーだ……)
 最悪の誕生日だ、と彼は苦笑した。
 今日が自分の誕生日だということは朝起きたときから一応わかってはいたのだが、まさか他の誰かが覚えていてくれるなんて思ってもみなかった。 
 さっき送られてきたミリアリアのメッセージを開いて、いきなり『ハッピーバースデイ!』という文字が飛び込んできたときには、本当に驚いた。一体なぜ、どうして、彼女が自分の誕生日を知っていたのか不思議だった。
(俺、あいつにそんなこと、言ったっけかな……)
 自分では覚えていないが、恐らくAAにいた頃、どうでもいい会話を交わしていたときに、ぽろりと口から飛び出したのだろう。
 ……ったく、そういう細かいこと、よく覚えてやがんのな。女って。
 呆れたようにそう思いながらも、正直言うとやはり嬉しい。
 俺のこと、一応覚えてくれてんだ。
 オーブで別れてからだいぶ経つ。
 ――あいつ、どうしてっかな。
 ふと、懐かしくなった。
 
(――ごめん。俺、おまえと一緒にいられなくなった)
(――嘘つき。いつもおまえを守ってやるって言ったくせに)
(――ごめん……)
(――平気な顔して、嘘つくんだ)
(――ほんと、ごめん……)
 
 あんな別れ方をしたが、決して彼女のことを嫌いになったわけではない。たぶん、まだ自分は彼女のことを好きなんだろうな、と思う。ただ、自分の『好き』が彼女の思う『好き』と微妙に違っていただけで。
 自分の気持ちに正直になるっていうのは、難しいものだとつくづく思う。本当の気持ちを素直に出そうとすると、どうしても誰かを傷つけてしまうことになるのだ。
(――イザーク……)
 さっき、あんな風に喧嘩して別れてきたばかりだというのに、もう彼のことを考えている。
(あいつ……まだ、怒ってっかな)
 寂しかった。今ここで一人でいることがこんなにも、寂しい。
(俺、このまま、死んじゃうかも……)
 と、あまりの孤独感に、自分でも馬鹿かと思えるような悲観的なことまで考えてしまう。
(孤独すぎて、死んじゃうよ)
 そう思うと、なぜかくつくつと笑いが込み上げた。
 自分が惨めで哀れで……それでいて、ひどく滑稽にも思えて。
(熱があるんだ。だから、おかしくなっちまってんだ。俺)
 
 
「――おい!」
 突然鋭い声が、耳を打つ。
(……ん?)
 聞き慣れた、怒った口調。
(なん……だ……?)
 幻聴、か。
 上がりかけた瞼をまた閉じる。
(そうだ。気のせいだ。あいつが、こんなとこにいるわけ――)
 その途端、ばちん!と冷たい手で頬をはたかれた。
 びくん、と弾けるように、ディアッカは目を見開いた。
 目の前に、幻が見えた。
 しかし幻にしては、えらく鮮やかな映像だ。
 銀色の髪に、青い瞳を爛々と燃え立たせ、こちらをじっと見つめている。
「……熱に浮かされてる奴が、何をにやけている?貴様、病気のときまでふざけてやがるのか?」
「……え――イ……ザー……ク……?マジに……?」
(何でこんなとこにいるんだよ!)
 ――っていうか……。
 ディアッカは目を瞬かせながら、ぼんやりと自分の周囲に視線を這わせた。
(どこだよ、ここ……)
 暗い照明の中でも、壁や天井、それに自分の今横になっているベッドなど、明らかに自分の部屋ではないことがわかる。
 驚きで熱も一度に冷めたようだった。
 意識がはっきりしてくるにつれ、ますます困惑は募り、彼は慌てて起き上がろうとしたが、途端に頭が眩んだ。
「馬鹿!急に起きるな!この半病人が!」
 乱暴な言葉とは裏腹に、すかさずディアッカの背を支えたイザークの手は驚くほど優しかった。
「いつまでたっても熱が下がらんだろうが!おとなしく、寝てろ」
「イザーク……俺……?」
 わけがわからず、目を瞬かせるディアッカに、イザークはこほん、と小さく咳払いをした。
「……おっ、おまえのことは、その……シホから聞いた。仕方がないから、コンパートメントまで見に来てやったが、おまえの無防備さには呆れたぞ!セキュリティという言葉を知らんのか、おまえは!」
 あのとき……。
 ――音もなく開く扉から中へ入っていくと、ベッドの上に呼吸も荒く蹲っているディアッカの姿を見て、どきっとした。
 その体に触れると、火のように熱かった。
 慌てて彼を引き起こして、何とか外まで連れ出すと、自分のエレカで病院まで運んだ。

 点滴を受け、一通りの処置を施してもらうまで、気難しげな顔の医師からはずっと文句を言われ続けた。
 ――こんなにひどくなるまで放っておくなんて正気じゃない、一体なぜ誰も気付かなかったのか、とまるでこうなったのは、みんなおまえのせいだといわんばかりに嫌味たらしくねちねちと責め立てられ、イザークは辟易した。しかし、それでも何も返すことができなかった。全て、医師の言う通りだと思ったからだ。
 これがたとえば逆の立場だったなら――ディアッカなら、イザークのどんな小さな変化も見逃すことはなかった筈だ。
(俺は、上官としても、友人としても、失格だな……)
 こんな風に落ち込むのは、久し振りのような気がした。
 ……実際にはディアッカの容態はかなり悪かったのだが、発見が早かったため、何とか事なきを得たとのことだった。それでも、もう少し放っておけば危なかったかもしれない、とも言われたときには、イザークはどきりとした。たとえ免疫力や耐性においては優れた肉体を誇示するコーディネイターといえども所詮は人間だ。不死身ではない。むしろ、いったん防壁を崩されれば、案外脆いのかもしれない。
 良かった、と安堵する反面、もしどうにかなっていたら、と最悪の事態を想像すると心底ぞっとした。
 ――もしディアッカに何かあったら……そのとき、自分はどうなる?
 自分の中でディアッカの存在がいかに大きい部分を占めているのかということを、改めて思い知らされる。
 ……そういえば、いつか彼が死んだと思ったときが、あった。
 前戦役の頃だ。……あのときの言いようのない孤独感や寂寥感が甦る。 
 ラスティ、ミゲル、ニコルは散り、ディアッカは生死不明。アスランも隊を去った。……気が付けば、そこにいたのは自分独りだった。クルーゼ隊は、隊長と自分以外、もう誰もいない。
 
独りになるということが、あんなに辛いことだとはそれまで考えたこともなかった。
(何で、みんな行っちまうんだよ……)
 寂しくて、辛くて、口を開くと涙が零れそうだった。
(何で、俺を独りにするんだよ……っ!)
 恨みがましく何度も胸の中で繰り返した。
 繰り返すたび、さらに胸を押し潰しそうになるほどの孤独感に苦しんだ。
 ――あんな思いはもう、二度としたくない。
(……独りは、嫌だ)
 不安に襲われそうになった瞬間、すぐ傍で穏やかな寝息を立てる金髪の頭を見て、ほっと安堵した。
(良かった。おまえが、ここにいてくれて……)
 アスランのように、オーブに残ると言うのではないかと思った。
 ――でも、おまえは戻ってきた。
(そしておまえが戻ってくれて、俺は本当に嬉しかった)
 彼はディアッカの手にそっと自分の手を重ねた。
 暖かい。
 ――おまえは、ここにいる。
 とても大切なものが、確かにここにある――。
 そう思うと、何だか目の奥がじんと熱くなった。
 ……そのまま、彼が落ち着いたように見えた後も、イザークはずっと傍を離れなかった。
 
 
 ……と、そんな経緯をいちいち説明できるわけもなく、イザークは、ふんと視線を逸らした。
「とっ、とにかく俺がおまえの部屋に行ったとき、おまえは熱を出して倒れてたんだ。それで、ここまで連れて来てやったというわけだ。感謝しろよ!俺が見つけなきゃ、おまえ、あのままくたばってたかもしれないんだからなっ。……ったく、体調管理もできないとは、情けない奴だ」
「……ひょっとして、イザーク……俺のこと、看病してくれてたわけ……?」
 ディアッカは恐る恐る言ってみた。
 病院まで運んで、それからずっと……?
「……見ればわかるだろうが。くだらんこと、聞くな!」
 返ってきた言葉はぶっきらぼうだったが、それでも否定はしなかった。
(嘘だろう……)
 何だかこちらまで照れ臭くなる。こんなにかっと体が熱いのはただ熱があるだけなんだろうか。
 ディアッカは不思議な目で、ぎこちなく横を向くイザークの整った顔をちらと見上げた。
 イザークに優しくしてもらうなんて、不思議な気分だった。
(何か気持ち悪いな、やっぱ)
 笑いながらも、悪い気持ちではなかった。
 揺れる銀糸の髪。澄んだアイスブルーの瞳。
 綺麗だ。こんな綺麗な奴、見たことない。
(ああ、俺、やっぱ、こいつのこと……)
 こんな風に、イザークが今、傍にいる。
 それだけで、こんなにも嬉しい。
 ディアッカは、目を閉じた。
 心地よさに誘われるように、彼は何も考えずにただ眠りの海に身を沈めた……。
 
 
「嘘だろう?」
 再びその言葉を繰り返したとき、イザークは怒った顔をした。
「いい加減にしろ、馬鹿!何で俺がおまえの誕生日を覚えていたら、悪いんだ?」
「あっ、い、いや。悪い、って言うわけじゃなくてその……何かあんまりにも思いがけなくて……」
 ディアッカはたどたどしく言葉を選んだ。
 一夜明けて、熱も下がり何とか体も起こせるようになったところでイザークから無言でカードを渡されたとき、ディアッカは呆気に取られた表情でしばらくは固まったままだった。
「……あ……いや、ほんっと、嬉しいんだ!嬉しくってさあ、もう、何て言えばいいのか、わかんねーんだけど!」
「……けど、何だよっ!」
 奥歯にモノが挟まったような言い方をしやがって、とイザークはじろりと睨む。それでいてその頬がほんのりと赤らんでいるのがわかると、ディアッカは思わず口元を綻ばせずにはおれなかった。
 しかし、相手の不機嫌そうな表情を見ると、危うく緩みかけた唇を引き締め、何とか真剣な顔を保とうとした。
「いや、その……」
 ディアッカは頭を掻いた。どうしても目尻が下がる。
 ちら、とカードに目線を当てる。
 カードに書かれていた文字。
 ――Happy Birthday,…
 そしてその下に、メモのように書き殴られていたもの。
 ――Room No. 1607 Central
 何度も残念そうに見返した。
 惜しいことをしたなあ、と思う。
 ホテルの部屋番号。
 それだけでもう、相手が何を言おうとしていたのか、はっきりとわかる。そこに込められたメッセージは、明らかだ。
 ――イザークの奴……。
 ディアッカはようやく理解した。
 ……ブリーフィングの後、自分を呼んだのは、何も注意や苦言のためだけではなかったのだ。本当は……。
 なぜ、気付かなかったのだろう。
 自分はつくづく馬鹿だと思う。そして……。
 ――無性に彼が愛しくなった。このまま、抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。
「なあ、イザーク。ホテルと違ってちょっと雰囲気ないけど、今からここで、代わりしない?……せっかく、俺の誕生日、祝ってくれるはずだったんだし。俺、どこでも構わないよ」
 イザークの手を取ると、ディアッカは誘うように言った。
 しかしイザークはじろりと睨むなり、その手を払いのけた。
「馬鹿か、貴様はっ!ここをどこだと思ってる?病院だぞっ!全くどこまで無節操な奴なんだ!……第一、もう貴様の誕生日は過ぎている!祝う必要などないだろうが」
 最後の一言に反応し、ディアッカはええっ!と大げさに悲嘆の声を上げた。
「ちょっ、ちょっと待ってよ。そりゃないだろ―!だってさ、俺、病気で意識なかったんだから……」
「誕生日が過ぎたのは、事実だ。諦めろ。大体そんな日に病気になる貴様が悪い!」
 容赦なく言い放つイザークに、ディアッカは肩を竦めた。
「わかったよ。……ったく、何でも俺が悪いってことになるんだからなあ……」
 ぼやきながらも、瞳は何かを期待するように熱心に相手の顔に集中している。
「――でもさ、だったらせめてキスくらいさせてよ」
「だから、ここは病――」
 突然強く引き寄せられ、気が付くとすぐ目の前にディアッカの顔が迫っていた。
「貴様、何を――」
「ハッピーバースデイって、言ってくれないの?」
 紫色の瞳が真摯に訴える。
「……俺さ。おまえが覚えててくれて、ほんっと嬉しかったんだぜ。なあ――」
 その純粋な喜びに満ちた笑顔に、イザークは目を瞬いた。
(何て顔、するんだよ……)
 なぜか見ているうちに、かあっ、と頬が火照り出す。
 ――そんな、顔……。
 見ているこちらが気恥ずかしくなるくらい、嬉しそうな顔をする。
「……だから、お前の口から直接、聞いてみたい。なあ、言ってみてよ」
「……ばっ、馬鹿。そんなこと――」
 イザークは戸惑いがちに、視線を外す。
(いっ、言えるか。そんな気恥ずかしい台詞!)
 そんな彼の心の声が聞こえたかのように、ディアッカはにんまりと笑った。
「――なら、キスにする?」
「いい加減にしろっ!俺は嫌だと言って――んあ……っ……」
 顔を赤くしながら怒鳴りつけるイザークを黙らせるように、ディアッカは素早く、そして強引に唇を押しつけた。
「……っ……!」
 じたばたしかけた相手の手足を強く、宥めるよう胸元に抱え込むと、さらに舌を深く差し入れ、口内ごと吸い上げるように、じっとりとくちづけを深めていく。
 抵抗が弱まり、初めは逃げ腰だったその舌先も次第に、ついには進んで愛撫を求めてくるまでになった。相手から流れ込んでくる唾液を幾度も飲み込みながら、もっともっととさらに欲情をそそるようなねだり方をする。
 唇の湿った生暖かい、その柔らかい触感が、何ともいえず懐かしくて、心地よかった。
(好き、だ……)
 言葉にならない思いが迸る。
 今いるこの時も場所も、何もかも……その瞬間、自分の周囲の全てが目の前から、飛んで消えた。
 繋がり合う唇の先から伝わる互いの息づく鼓動。
 そして何より……この手が抱く、柔らかで確かな質感。
 この目の前に広がる静かな空間の中に存在するものは、ただそれだけ――それだけで、十分だった。
 このまま、終わりがこなければいい。
(ずっと、ずっと、このまま……何も考えず、ただこんな風に、おまえに触れていられるなら……)
 取りとめのない熱い思いの渦に取り込まれながら――。
 気の遠くなるような長い、長いくちづけを、いつ果てるともなく交わし続ける……。
 

(……ハッピー・バースデイ……)

 
 ――どこか遠くの方で、そんなぎこちない囁きが微かに聞こえたような気がした。
 
                                     Fin 

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