Le Noir (3)











 窓のない狭い独房の中には、ベッドと洗面、簡易トイレしか付いていない。
 夜になれば、灯は自動で消え、朝になればまた灯る。一日が過ぎていくことが、かろうじてわかるのは、それと日に二食の食事が運ばれてくる時間があるお陰だった。
 入隊初日で、営倉入りになった隊員など、これまでいただろうか。
「いねーよなあ、普通……」
 ルカ・アイマンはベッドの上に仰向けに寝転がりながら、白い天井をぼんやりと眺めていた。
 冷静になると、なぜあんなことをしでかしたのか、自分でもわからなくなった。
 アカデミーにいた頃とまるで変わらない。
 教官連中が見れば、それ見たことかとほくそ笑むことだろう。
(――悪いことは言わんから、軍に入隊するのはやめろ)
 何度となく、アカデミーで担当教官から忠告を受けた。
(……成績はトップだが、おまえは精神面(メンタル)が不安定すぎる。軍人には向かんな。間違いなく、早死にするタイプだ。まあ今はこんな世の中だから、すぐに戦場に、ということもないだろうが……)
 なぜこんな人間がアカデミーに入ったのかという胡散臭げな目で見られるたびに、不愉快さを禁じ得なかった。
 最後にあの教官を思いきりぶちのめすことができて、すっきりした。
 そのお陰で卒業間際にまた長時間の指導・謹慎処分を受けたが、後悔はなかった。
 あの時も、こんな風に閉じ込められた部屋の中で、天井を眺めていたものだった。
(……けど、今回はちょっとまずかったかな……)
 ここは、アカデミーではないし、当然自分は士官候補生の身分ではない。
 衝動で行動し、軍の規律を乱した罪は重い。
 しかも自分は新型のMSを一機駄目にしてしまった。
 下手をすれば、厳しい処分を受け、除隊も免れ得ないのではないか。
 しかし――
 と、不意にルカは白い軍服を纏った端整な面を思い起こし、唇を噛んだ。
(……イザーク・ジュールか……あれが……)
 墓所で最初に会った時の印象と、随分違う。
 あの時は、軍人というイメージからは程遠い、静かで線の細い、どちらかというと学者肌の男のように見えた。
 そして、女と見紛うほどの美しく整った容貌。
 兄の二期下で、同じクルーゼ隊に配属され、短い期間とはいえ共に闘った戦友だった男――
 自分が名乗った時の、相手の驚きに打たれた表情を思い出すと、少し不思議な気分になった。
 あの瞬間の相手の顔には、単なる戦友、というだけではない、もっと深い感情が表れていた。
 兄は陽気で誰とでも気さくに付き合う人間であったから、友人も多く、上下の別なく誰からも慕われていたと聞く。
 同じ隊で共に戦った仲間であるなら尚更、特別な感慨があるのだろう。
 しかし、一見すれば、兄とは全く性格が異なる。到底気の合う仲間というイメージはない。
 それでいて、兄の名を出した時のあの表情……。
 ――不思議だった。
 兄は、彼とどんな風に接していたのだろう。
 そんなことをぐるぐる考えていた時、不意に遠くからかつかつと鳴り響く軍靴の音を聞いた。
 こちらへ近付いてくる、その激しく地を踏みつける荒々しい足音に、ただならぬ気配を感じ取り、彼の心臓は急に鼓動を速めた。
 何となく予想したものの、実際に開いた扉から入って来た人物の姿を認めた瞬間、ルカは全身を強張らせた。
 ――イザーク・ジュール。
 たった今、考えていたばかりの人物その人がつかつかとベッドの傍まで近寄ってくる。
「――おい!」
 頭上から降りかかってきた第一声に、全身が震えた。
 傲然と見下ろすアイスブルーの瞳に射抜かれ、一瞬息が止まる。
「……起きろ!」
 抗えぬ命令口調に、反感を抱きながらも渋々身を起こす。
「――貴様、何も喋らんそうだが、どういうつもりだ?」
 怒った瞳が、瞬きもせずこちらを凝視する。
「……………………:」
 意図して、というより、今はただ、相手の迫力に押されて言葉が出てこないと言った方がよかった。
「どうした?言葉を忘れたか?」
 ぐい、と顎を掴まれ、顔を引き上げられる。
「おい、イザークっ!」
 その時、イザークを追って来たディアッカがやきもきした様子で割り入ってこようとするのを、
「――貴様は入って来るなっ!」
 鋭く一喝するイザークの勢いに、ディアッカの足が自然に止まる。
「――っ、……!」
 相手の目線の高さまで引き上げられ、否応なく至近距離で顔を突き合わせると、改めて相手の怒りの凄まじさに圧倒されそうになった。
 このまま無言を通せば、間違いなく殴られそうな勢いだった。
 しかし、だからと言って素直にすみません、と言うのも癪に障る。
(くそっ……何なんだよ、この圧力……!)
 むらむらと反抗心が湧き上がり、気付いた時には掴まれた手を払い除けていた。
「……貴様っ……!」
 イザークの眼が一際強い怒りで燃え上がった。
 今にも飛んできそうな相手の拳を避けるかのように、ルカは軽やかな身ごなしで素早くベッドから降り立った。
 向かい合うと、ルカの方が背が高い分、僅かに相手を見下ろす格好になる。
 それでも、イザークから感じる圧力は変わらなかった。
 じりじりと圧される感覚と無力感の中で、ルカは果敢に相手に向き合っていた。
 睨み合う数瞬の間が過ぎた。
 怒りに満ちた相手の顔が、少し緩んだように見えた。
「――なるほど、な……」
 皮肉な笑みが唇を微かに歪める。
「いい度胸をしている。アカデミーでもそうやって教官連中の手を焼かせてきたというわけだ」
 そう言いながらも、その氷のように冷やかな瞳は、決して相手を赦したわけではないことを物語っていた。
「だが、ここはアカデミーではない。この俺は、アカデミーの教官とは、違う」
 じくり、と背筋に震えが走るような威嚇を込めた口調だった。
 恐らく、威嚇ではないだろう。
「……俺は、そう気は長くない。――俺を、怒らせるな」
 イザークの視線を受け止めながら、ルカはゆっくりと呼吸を整えた。
 ――たとえ、相手が隊長であろうと、誰であろうと、負けたくない。
 なぜここまで意固地になるのか、わからない。
 しかし、なぜか今は、一歩も引きたくない気分だった。
「何だ。言いたいことがあるなら、かまわん。――言え」
 ルカの目の奥に宿る不遜な光に気付いたのか、不意にイザークの目が細まる。
 ルカは挑むようにイザークを見た。
「――俺と、もう一度……勝負して、下さい……」
 ルカの唇から零れ出た言葉に、イザークの目が一瞬大きく見開かれる。
「――何、だと……?」
「……俺と、勝負して下さい。隊長……!」
「……ルカ・アイマン、貴様は何を――」
 イザークはそこで言葉を止め、じろりと相手を見た。相手が正気であるかどうかをその目で見定めるかのように。
 しばしの沈黙の後、彼は冷やかに口を開いた。
「――戯言を言うな」
「……俺は、真剣です」
 ルカはたじろがずに、目の前の端整な顔を真っ直ぐに見つめ返した。
 イザークは軽く息を吐いた。
「……俺に勝つ自信があるという目だな。――懲りん奴だ」
「――受けて頂けるのですか」
 恐らく、今度こそ拳が飛んでくるのではないかと半分身構えていたルカの前で、イザークは意外にも冷静な態度を保った。
「――俺と勝負したいなら、まずここから出られるように、考えろ」
 値踏みするような瞳と目を合わせた瞬間、ルカは自分が試されているのだと理解した。
 やはり、イザーク・ジュールは、一筋縄ではいかぬ男だった。
 しかし、それでこそ、挑みがいがある。
 ルカは観念したように視線を落とした。
「……わかりました」
 俯いたまま、彼はぽつりと言葉を吐き出した。
「……ここから出れば、勝負して下さるということですね」
 弱い語調の中に未だ潜む、その不遜なる兆しにイザークが気付かぬわけはなかった。
 しかし、彼は敢えて言葉を返さなかった。
 そんな相手の反応に、ルカは焦れた。
「――隊長……っ――!」
「黙れ」
 イザークのその一言が、ルカを制した。
「俺と取引きをしようと思うな」
 イザークの口調は静かであるが、相手を抑えつけるに足る十分な力がこもっていた。
「ここを出られなければ、貴様は除隊処分となる。それだけのことだ」
「………………」
 ルカは、何も抗弁することができなかった。
 ――その通りだったからだ。
 イザークは、ただ目の前の事実を淡々と述べたに過ぎない。
 そこには、個人的感情は一切入っていなかった。
 今の自分と相手との関係を考えれば、当然のことであったろう。
 しかし、その『当然』がルカをどうしようもなく苛立たせるのだ。
「――言いたいことは、他には?」
「……………………」
「……まだ、何か言いたそうだが?」
 促すようなイザークの視線を浴びた瞬間、思わず彼は口を開きかけた。
 が――
 突然の息苦しさに、開きかかった唇はそのまま動きを止めた。
 荒い息遣いと共に、がくりと膝が折れる。
 危ういところで床に手をついて、崩れ落ちる体を支えた。
「――おい、どうした!」
「……な、何でも――っ……――!」
 相手が驚いて手を伸ばしてくるのが見えたが、ルカは反射的にその手を振り払っていた。
(――また、あの発作が……!)
 そう思った瞬間、いいしれぬ恐怖に捉われた。
「………………ッ――!」
 久し振りの感覚だった。
(くそっ、何で、今……っ!――)
 こんな、ところで――
 乱れる呼吸が、制御もきかぬまま一気に駆け上ってくる。
「――おい、アイマン!」
 不審げに問いかけてくるその相手が誰か、一瞬忘れた。
「――さ、わるな……っ……!」
 パニックに陥る前に、その場から逃れようとするが、思うように体が動かず、膝が床を這う。
「――おい」
 強制的に体を引かれ、相手の腕の中に抱え込まれるのがわかった。しかし、そのことに対して抗うことはおろか、意識することすらおぼつかない。その時、彼はただ呼吸をすることだけに必死になっていた。
 ――苦しい。
 ――息が、できない……。
 もがけばもがくほど、苦しくなる。
 どうすればいいか、わからない。
(……く、そ……っ……)
 不意に、誰かの手が額に触れるのを感じた。
 ひんやりとした手触りが、興奮を僅かに抑える。
「――おい、聞こえているな。一度息を止めろ。大丈夫だ。これが初めてではないだろう?ゆっくりと、息を吸え。何も考えるな。俺の言う通りにしろ!」
 強い語調ではあるが、どこか安心感を伴う声音だった。
(……は――……)
 ルカは、言われるがままに、息を止めた。
 頭の中を、空にする。
 ゆっくりと、息を吸い込む。
「よし、そのまま、少しずつ、息を吐け。焦るな。大丈夫だから――」
 掌が、胸を撫でる。
「――いいぞ。大丈夫だ。もう一度、息を吸って……そうだ……その調子だ……大丈夫だ。ゆっくり、ゆっくりだぞ……」
 震える指先を軽く撫でられている。
 冷たい、手だ。
 だが、心地良い……。
(……これは、――隊長の、手か……?)
 ぼんやりとした意識の淵で、ほんの僅かな瞬間、そんなことを思った。が、すぐに呼吸をすることに意識を取られた。
 ――苦しく、ない……。
 こんな風に、誰かに声をかけられるのは、何年ぶりだっただろう。
 不思議な気持ちになった。
 覚えが、ある。
 同じような光景を、見たような気がするのは、なぜだ……。
 遠い、昔だ……。
 まだ幼い自分が、そこにいた。
 そこにいて、見上げるその先にいるのは――

(……にい、ちゃん……?――)
 
「――OK。大丈夫だ。……そのまま、続けろ。俺の言う通りにするんだ。いいな――……」
「……何だ!――一体何が……!」
 慌てて覗き込んできたディアッカにちらと眼をやると、イザークは冷静な声で応じた。
「――過呼吸だ。軽い発作だが、取り敢えず今ここから動かすことはできん。医務室へ行ってドクターを連れて来てくれ!」
「あっ、ああ、わかった」
 ディアッカはすぐに状況を察すると、言われた通りに医務室へ走った。
「……た、いちょう、お、俺――……っ……」
「――馬鹿、喋るな!息をすることに集中しろっ!」
 怒鳴りつけられて、ルカは素直に口を閉じた。
 ――ああ、これで、俺は完全に……
(……除隊、か……な……)
 医師が来るまでの間、ルカはそんなことをぼんやりと考えていた。

                                     to be continued...
                                        (2013/07/08)

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