きみと見た空 (5) 本当に、あれはサイだったのだろうか。 イザークと別れた後も、結局元の路地に戻る気にはなれなかった。 もやもやとした気分を吹っ切るように、頼まれていた買い物を一気に済ませてしまうと、さっさと家に帰った。 久し振りにアジアンストリートで買ってきたカップ麺に湯を注ぎ、簡単なランチをとる。 ずず、と麺をすすりながら、それでも頭の中はもやもやとした考えが渦巻きっぱなしだった。 (――軍上層部は、彼をマークしている……) イザークの厳しい表情を思い出すと、彼は再びごくりと唾を飲み込んだ。 (ほんとに、何かの間違いじゃねーのか。あいつがそんなややっこしいことに関わるなんてこと……) あり得ねー、と頭を振る。 サイ・アーガイル。 足つきの中にいた頃だって、あいつは全然軍人らしくない、ごく普通の学生をそのまんま絵に描いたような奴で……。 どうしてあんな奴が軍艦に乗ってるんだよ、って何度も思った。 でも、とても気のいいやつで、話を聞くのも自分から話すのも上手くて、とにかくいろんなことをよく知っていた。 あ、こいつ、頭いい奴だな、って感心しながら、自分も調子に乗っていろんなことを話した。 そのうちナチュラルとか、コーディネイターとか、ホントに何も気にならなくなって……。女の子の話だってざっくばらんに話してたっけ。そういえば、あの頃はミリイのことだってよく聞いてもらっていたなあ、と懐かしく思い出す。 ――あの時は、俺、ミリイにぞっこんだったしなあ。 結局振られたわけだけど、と彼はふっと苦笑いした。 (というか、俺がそうなるように仕向けちまったのかな) いつから、だったんだろう。 自分でそれを意識するようになったのは。 最初は純粋な好奇心からだったのだと思う。 連合の英雄と言われた男を実際に目の前にして、ぞくりと胸が震えた。 しかし、程なく彼は『英雄』という偶像としてではなく、生身の人間として、自分の中に入り込んでくるようになった。 (――おまえ、自分で思ってるよりずっといいヤツだよ) まだ独房にいた頃、悩んでいた自分に向けてさりげなくかけられた一言が、胸に沁みた。 (――あんただって、いいヒトだよな) 皮肉でなく、本当にそう思えた。 彼の中で『ナチュラル』の境界線(ボーダー)が消えた瞬間だった。 同時に、その頃からあの人を追う自分の視線を強く意識するようになった。 太陽の輝く空の中に吸い込まれていくような気分になる。どこまでも広がる鮮やかなスカイブルー。――綺麗な目だった。 胸に微かな痛みが走る。 ああ……と、ディアッカは溜め息を零した。 駄目だ。あの人のことを少しでも思い出すと、いつもこうなる。 あの、人……。 明るい金髪に、ライトブルーの陽気な瞳。 からかわれるたび、剥きになってひどい言葉で言い返して、憎まれ口ばっか叩いて……またそれを軽くあしらわれるのが悔しくて――あの人の前に出ると、俺はびっくりするくらい、子供(ガキ)になった。 戦っているときの眼と、普段軽口を言い合っているときの眼がまるで別人のようで、『軍人』としての彼とパートナーを組むと、妙に緊張した。 それでも、嬉しかった。 彼と共に戦えることをいつしか誇りに思うようになっている自分がいた。 そしてそんな気持ちが自分でもわからないくらい、高まって……どうにもならなくなったとき……。 とくん、と心臓が激しい動悸を打つ。 (あ……っ……) 体を縮め、ソファの背に顔を押しつける。 (くそ……) 拳で胸をとん、と軽く小突いた。 ――思い出すな。 胸が疼く。 どうしようもなく、自分が駄目になる予感がする。 もう、全部終わったことなのに。 もう、どこにもいなくなった人のことを……どうしてこんな風に思い出す。辛いだけだ。苦しいだけじゃないか。 軽く息を吐き出すと、何とか速まる鼓動を抑えた。 大丈夫。コントロールできる。俺はそんなにやわじゃない。 そう自分で自分を励ました。 (けど、いやんなるよなあ……) 今でもまだ、ミリアリアに気付かれたとは思っていない。 いや、誰にも……きっと、バレてはいない筈だ。 たった一人……奴を除いては。 あの人が死んだとき……泣いていた俺を、すぐ後ろで黙って見つめていた……。 サイには、きっと気付かれていたに違いない。 何となくだが、そう思う。 あの日、ロッカールームで泣いていた自分に気付いていて、気付かない振りをしてくれた。 (――戦争、終わったんだよな) 肩に置かれた手のぬくもり。 あれが、崩れそうになる自分を支えてくれた。 奴はそれ以上何も言わなかったし、自分の方からも何も言葉を出すことはなかった。 それでも、そこにいられるのは、嫌ではなかった。 そんな自分の気持ちがわかっていて、わざと奴はそこに佇んだまま、出て行かなかったのだろうと思われた。 全てわかっていて、それでも何も言わなかった。それでいて、自分が欲しいと思っているものが奴にはわかっていたのだ。 コーディネイターでも、こんなに人の心が読める奴はそうはいないだろう。 いや、そういうのにコーディもナチュラルも関係ないか。 そう思って、ふとディアッカは苦笑した。 (とにかく……) それが、自分の知っているサイ・アーガイルだ。 奴は決して後ろ暗いことに関わるような類の人間じゃない。 そんなあいつが、どうして軍部に睨まれるようなことを……。 一体、何がどうなっている……。 サイが帰ってくるだろう時刻までには、まだ時間がある。 ディアッカは、悶々とする心を抱えながら、一人でリビングのソファに寝転がって天井を眺めていた。 (確かに俺は奴の全てを知っているわけじゃない) 自分がサイと付き合っていた期間なんてたかが知れている。 しかし、大切なのは付き合っている期間の長さではない、とも思う。 たとえ短い時間ではあっても、戦場で生死を共にした、いわば戦友なのだ。少なくとも彼はそう思っていた。 あの状況の中で、直接己の目で見て知り得たサイ・アーガイルという人間を自分は信じたい。 偽りだらけの大義を信じる振りをして、適当に手を抜いては要領よく生きる術を身につけてきた。現実世界はまあこんなものかと冷めた目で眺めてみると、順応するのは意外に早かった。 我ながら世慣れすぎていて、若者らしくない生き方をしているなあと、呆れることもあったが、そんなものだと割り切ってしまうと後はもう気にならなくなった。 アークエンジェルに入るまで、自分はそんな適当な人間だった。本当の自分を嘘で塗り固めることに満足して、それが変だとか間違っているなどとは思いもしなかった。 そんな自分が変わることができたのは、奴らと出会ったからだと思う。 前の自分を百パーセント否定するわけではないが、あの艦に乗って奴らと接触したことで自分の目が開いたあの瞬間の新鮮な気持ちは今でも忘れることができない。 だから、足つきの仲間とのことは、彼の中では特別に大切なものとなっていて……それを今さら泥で汚したくはなかった。 感傷的すぎるといわれてもいい。 自分にとって大切なものを守ろうとすることの、どこが悪い。 「でなきゃ、やってられっかよ……くそっ!」 ディアッカは吐き捨てるように呟いた。 (――サイが帰って来たら、一番に確かめてやる) そう思いながら、目を閉じた。 そのうち、うとうととして、気付けば眠り込んでいた。 肩を揺すられて、はっと目を開いた。 「……………?」 (あ、れ……) 自分が何をしていたのか、一瞬わからなくなった。 (ひょっとして……俺、ずっと寝ちゃってたのか……) 「ごめん、遅くなって」 ぼんやりと見上げる瞳に、穏やかに微笑む栗色の髪の青年の姿が映った。 「……何……今、何時……?」 ぼおっとする頭を軽く叩くと、ディアッカはもぞもぞと起き上がった。 壁際の棚に置いてあるデジタルクロックをちらと見る。 鮮やかな蛍光色は一見で、20:00を過ぎていることを教えてくれた。 「うわっ、嘘!」 自分の目が見た数字が、信じられなかった。 (確か、俺……昼飯食って、それから……) それから……それから……。 ――そこから既に記憶は、ない。 思わず手の甲で目を擦った。 途端に腹の虫がぎゅーっと鳴った。そこでようやく現実を思い知らされた。 「――笑うなよ。仕方ねーだろ。生理的現象なんだから!」 くすりと小さく笑ったサイを見て、ディアッカは唇を尖らせた。 かろうじて昼食は食べたとはいうものの、あんなカップ麺だけでは腹ももたない。意識した途端、ぐっと空腹感が増した。 それにしても、我ながら呆れる。 ディアッカははあっと溜め息を吐いた。 「……俺、あれから今まで寝っぱなしだったってわけか?ひっでーなあ……」 こんなところをイザークに見られたら、何を言われるかわかったものではない。 ――貴様っ、たるんでるぞ! 思いきり苦い顔で一喝されるのがおちだ。 良かった、ここにイザークがいなくて……。 と、変なところで自分を安心させる。 「食材、買っといてくれたんだね。――すぐ、何か簡単なもの作るから」 サイの言葉にはっと我に返る。 「あっ、ちょっ……待てよ!そんなの、いいからっ……!」 それよりおまえに聞きたいことが……と離れて行こうとする背中に手を伸ばしかけたとき、再び腹の虫に遮られた。 「とにかく、まず食事が先だな」 「………………」 肩が、揺れる。 相手が笑いを堪えているのを見て、ディアッカもがっくりと力が抜けた。 (ま、いいや) キッチンへ向かう背を眺めながら、それ以上引き留めるのをあっさりと諦めた。 「うっわ、何だよ。これ……」 いい匂いがしてきたかな、と思ったら……。 あれから半時間。 最初は自分も手伝うと申し出たがやんわりと断られた。 調理経験もあまりない者が下手にうろつくと却って邪魔なんだろうな、と思い、ディアッカはあっさりと退いた。 しかし……。 ホストである自分がのんびりとソファで横になっていて、その間にゲストがせっせと夕食を作っているというのも、何だか非常に奇妙な光景だ。 考えるまでもなく変だよな、と苦笑いを浮かべる。 それでもこうなった以上、仕方ない。 まあいいや。宿代と思って有難く受け取ろう、と開き直ったとき、夕飯できたよ、と声がかかった。 食堂を覗いた瞬間、ディアッカはひゅーと口笛を吹いた。 「……これって……全部おまえ一人で作った……んだよ、な……」 そう言ってしまってから、我ながら間抜けな台詞だと舌打ちする。この家に今いるのは、奴と自分の二人しかいない。自分が作らない以上、奴以外に他の誰が手伝えるというのか。 ちっと思った瞬間、サイが素早く突っ込みを入れた。 「何当然なこと言ってんだよ。俺しかいないだろ。たいしたことないよ、こんなの。ほんとはもっと手の込んだの作ってやろうと思ったんだけどさ。何せ時間なかったもんだから。こんなので悪いけど。――とにかくそんなことより、腹減ってるんだろ。ほら、早く座って、座って!」 これでは本当にどちらがホストかわからない。 苦笑しながらも、匂いに誘われて素直に向かい側の席に座る。 「うわ、すげー。美味そうー」 サイへの猜疑の念もこの時ばかりは綺麗に吹っ飛び、ディアッカは食卓の上に並べられた料理にのみ心を奪われた。確かに本人の言う通り、料理自体はいわゆるレストランで食するような豪勢なものではない。鶏肉を焼いたり、ポテトを茹でたり、野菜を切ったり……単純に食材を調理しているだけなのだが、それでも、例えば焼いた鶏肉に香味をつけたり、それにかけるクリームソースを作ったり、或いはポテトをマッシュにしたり、サラダの色彩を考えて入れる野菜を考えたり、そういう面倒臭いことをすることなど、ディアッカには想像もつかなかった。 ――こいつって、すげーな。 僅かな時間で、しかも慣れないキッチンを使ってよくもまあ、こんな風に手早く調理ができるものだとほとほと感心する。 サイの新たな一面を知ったようで、何だか不思議な気分になる。 (本当に、俺、こいつのこと、何も知っちゃいねーんだよな……) プライベートなんて、特にそうだよなあ……と、改めて思う。 ――いや、まあしかし、それはお互い様か。 自分のことだって、そんなに詳しく相手に話したことはなかった筈だ。 自分たちには、元々全く接点はなかった。敵同士だったのだ。当然だろう。自分があんな風に投降しなければ、知り合うこともなかったのだ。 あの戦争中のアークエンジェルに乗っていた時間を一時的に共有していたというだけで……。 (うん、まあ、別に不思議なことじゃねーよな) そう思い直して、そっと息を吐く。 だからこそ、いろいろと聞きたいことがある。 昼間の件がすっと胸をよぎった。 (いや、まだだ) それは後にしよう。 わざわざ食事を不味くするような話題を持ち出すことはない。 彼は軽く瞬いて、気がかりを再び脇に押しやった。 そうして目の前の皿に注意を向け直すと、料理から漂う食欲をそそる香りを思いきり吸い込んで、ごくりと唾を飲み込んだ。 「よーっし、食うぞー!」 がつがつと食べ始めたディアッカを前に、テーブル越しにサイがいかにも満足げな笑みを浮かべるのが見えた。 食事は、美味かった。 本当に美味くて、思った以上にたくさん食べた。 たまたま書棚に見つけた父の高級ワインを勢いで開けて、サイにも飲ませた。 こんな高そうなワイン、いいのか?と戸惑いながらも、サイは勧められるまま、グラスに口をつけた。いったん味わうと、美味い、と笑って後は二人であっという間に一本空にした。 ひとしきりテーブルの上に並んだものを腹に収めてしまうと、ようやく一息ついて、後片付けをするのも面倒臭くなり、そのまま居間に移動した。 「コーヒーでも入れるか?」 今度はディアッカが立ち上がった。 「エスプレッソで、どうだ?」 「ああ、いいね」 サイが頷くと、ディアッカはサイフォンを動かすために再びキッチンへ向かった。 そうしているうちに、例のことがまた頭に渦巻き始める。 ちっ、と舌打ちした。 せっかくいい気持ちでいるのに、また嫌な思考が戻ってくる。 しかし、聞かなければならないだろうな、と思った。 昼間見たイザークのあの真剣な顔を思い出すと、気が滅入る。 ――自分はあのとき、イザークに嘘を吐いた。 それは、サイが面倒事に巻き込まれているのかもしれない、と危ぶんだから。ただ、それだけだろうか。 イザークに、知られたくない。 自分とイザークとの間に横たわる空白の時間。 アークエンジェルに乗っていた頃のことは、なぜか……彼に話したくない。 そう認めると、我ながら軽いショックを受けた。 (どうして……俺――) エスプレッソのマシンが動く音。 コーヒーの濃い香り。 ディアッカは軽く瞼を閉じた。 「く……そっ……」 自分でもわからなくなってくる。 ――俺は……本当は……。 笑いさざめく声。 さりげないジョークを交わす。気の置けない会話。何でもない話題に、みんなで大笑いする。唇を尖らせるミリアリアが可愛くて、嫌がる冗談を繰り返した。いい加減にしろよ、とサイが仲介してくれるまで、二人の戦争ごっこは止まらなかった。 食事の後のコーヒータイムは、いつもそんな楽しみに満ち溢れていた。警報が鳴らない間は、まるで平和な学生の集うキャンパスにいるかのような錯覚にさえ陥ってしまうほど。 軍人にならなきゃ、こんな時間を過ごすことができたのかな、とふと思った。 カレッジに進んで、好きなことを勉強しながら、友だちや可愛いガールフレンドと戯れて……。 それまでくだらない、と思っていたこと全てが、急にとても大切なもののように思えてくる。 (俺は……) ――本当に、ザフトに、戻りたかったのだろうか。 「何ぼーっとしてるんだい?」 ぽん、と肩を叩かれて、ディアッカははっと我に返った。 「サ、サイっ?」 目を開き、慌てて振り返ると、おかしそうにこちらを見つめる瞳と目が合った。 なぜか、かっと頬が熱くなった。 「なっ、何だよ、てめっ、いつの間に……!ってか、いきなり、声かけんなよなあっ!」 「――いきなり……ってわけでもないと思うけど……。一応呼びかけてみたけど、反応なかったから、さ」 サイは憎らしいほど穏やかに受け答える。 前から冷静な奴だとは思っていたが、今は一段と大人びた気がする。 同い年なのに、一人だけ年喰いやがって……と、思わず苦笑した。 「……そっか。全然気づかなかったな……」 「コーヒー入れながら、寝ちゃってるのかと思ったよ」 サイがからかうように言うと、ディアッカは「バッカ!」と相手の胸を軽く小突いた。 「んなわけねーだろが!」 「わかってるって。冗談だよ」 そう言いながら、ふと眼鏡の奥の瞳が剣呑な光を放ったように見えた。 あれ、とディアッカは瞬いた。 何だか、少し……。 (雰囲気が、違う……?) 笑っているのに、その表情は何だかいつもの柔らかさに欠けるような……。 「……………?」 びっくりしたように見つめるディアッカに、サイが不思議そうに眉を動かす。その途端、妙な雰囲気は消えた。 「――どうか、した?」 「あ、いや……」 ほっと息を吐くと、ディアッカは慌てたように視線を前へ戻した。 とっくに抽出し終わっていたコーヒーを、カップに移し始める。 「いい匂いだね」 背後からサイの声が聞こえる。 ごく自然な口調だ。 やはり、気のせいだ。 自分はどうかしている。 「コーヒー豆は、地球に負けないくらいい奴使ってるからな」 振り返ると、にやりと笑って、カップを渡した。 「クリームと砂糖、要るか?」 「いや、いいよ」 何気ない会話を交わしながら、いつ切り出そうか、と迷った。 ――思えば、サイが帰ってきたら一番に確かめてやる!と意気込んでいた割に、時間が経つとだんだんそんな気分も萎えてきて……。 (……何か、言い出しにくいよなぁ……) しかし、どうしても捨て置ける問題ではない。 言うなら今か。カップからコーヒーを美味そうにすするサイのゆったりとした横顔を眺めながら、ディアッカはすう、と息を吸い込んだ。一呼吸置いてから、口を開く。 「――サイ……」 「……ん?」 軽く呼びかけたディアッカに、サイはカップから目を上げた。 「……ちょっと、聞きたいことがあるんだけど――」 「何?」 「……おまえ、さあ……」 「……………?」 言いかけて、少し言葉に詰まった相手をサイは不思議そうに見た。 「――今日、俺……午前中、街でおまえを見かけたような気がしたんだけど、さ……」 「………………」 瞬かない瞳が、眼鏡越しに視線を投げる。 そこからは、何の感情も読み取れない。 「……俺の、気のせいかも、なんだけど。ひょっとしておまえ、大学行く前にその辺りうろついてたり、した?」 サイの目の色が深くなったような気がした。 ほんの僅かな沈黙が、妙な緊張感を生んだ。 ディアッカは、忽ち生じた気詰まりな雰囲気に、やはり言わなければよかったか、と少し後悔し始めた。 「あ……いや、俺の見間違い、だったとは、思うんだけどな。一応、聞いとこうと思ってさ……」 ぎこちなく付け足すと、さらに具合が悪くなった。 何か変に思われていないだろうかと、不安になる。 イザークとの会話の断片が脳裏に甦ると尚更だった。 そのとき、ふ……と、相手の唇から小さな息が零れた。 それが妙に気になった。 しかし相手の表情は特に変わってはいない。 「――気のせいだろ。俺は、午前中はずっと学会に出ていたから」 当然のような口調に、ああ、と思わず頷く。 「……そう、か。――だよな」 さりげない風を装いたいのに、こわばった笑みとともに、声まで萎れた。そんなディアッカの様子をサイはどう思ったのか。 「――やっぱ、見間違いかあ……」 はは、と笑って顔を上げた。 相手と目が合った。 途端に……笑えなくなった。 (……な、んだよ……?) てっきり相手も自分に合わせて笑ってくれるものと思ったのに、そうではないことに僅かな焦りを感じた。 「……サイ……?何だよ、おまえ。まさか、怒ってるとか……?」 そんなわけないだろう、と思いながらも、不安になる。 どうして、さっきからこいつは何も言わない。 「……怒んなよ。人違いだった、って言ってるじゃんか」 「――怒ってないよ」 サイはコーヒーカップをカウンターに置いた。 陶器が擦れる音がやけに冷たく、無機質に響いた。 相手の動きが緩慢に感じられる。思わず目を瞬いた。 あれ……と首を傾げる。 何か、変な感じだ。 軽く頭を振った。 視界が、僅かに揺らぐ。何だか質の悪い映像を見ているかのようだ。地に足がついていないような不安定な感覚に、今さらながら、ワインの酔いが回ってきたのかな、と不思議に思った。 「……あ、れ……?」 ――俺、どうしちゃった……? 「――酔ってるんだよ」 からかうようなサイの声音に、僅かに眉を顰める。 (そりゃ、確かに結構飲んだけど――) それにしたって、何か変だ。さっきまで、全然大丈夫だったのに。 「酔ってねーよ」 「そうかな?」 「あれくらいで酔うかよ」 自分の酒量はもっと多い筈だ。少なくともワイン瓶半分くらいでこんなに回ることはない、と自負していた。 ところがどうしたことか、実際には今の自分の状態はかなり怪しい。 「あ……っ――」 手が滑り、カップが落ちそうになった。 ――コーヒー……っ! 茶色い液体を撒き散らしながら、落下する陶器が床にぶつかって……割れる音を想像した。しかし…… 「――っと……!」 カップが離れる前に、サイの両手が伸びてきて、揺れる手をカップごと支えてくれた。 そのお陰で何とかカップは手の中に残ったが、それでも手の中で揺れた際に茶色い飛沫が飛び散った。あっと思ったときには既に相手の白いシャツの胸元には、エスプレッソの濃い茶の色が点々と見事な染みをつくってしまっていた。 「……危なかったね」 サイは自分の汚れたシャツなど全く気にする風もなく、ただ穏やかな笑みを保っている。 「……悪い」 申し訳なさげに謝るディアッカの視線を追うと、ああ、とサイは軽く笑い声を上げた。 「こんなの気にしなくていいよ。どうせ古いシャツだから」 サイがゆっくりと手を離すと、ディアッカはくそっと舌打ちしながら、中身の減ったコーヒーカップを忌々しげに口元に運んだ。一気に飲み干すと、口の中一杯にいつも以上の苦い味が広がった。 「無理して飲まなくても、いいのに」 呆れたように言うサイに、 「無理なんてしてねーよ」 ディアッカは拗ねた子供のように唇を尖らせた。 「あーけど、何か……気持ち、悪……」 空のカップを指からぶら下げたまま、頭を落とす。 本当に、胸の中がむかむかする。コーヒーを一気に飲んだせいではなく、その前から感じているあの変な感覚が、また戻ってきたのだ。 「だから、酔ってるんだって」 「酔って、ねー……!」 最後まで言い切る前に、ぐらり、と頭が落ちる。 急に膝下から力が抜けていったかと思うと、一瞬後には彼は床にどさっと尻を落としていた。 指から抜け落ちたカップがころころとタイルの上を転がっていく音がする。しかしそれへ視線を向ける気もしなかった。呆然と溜め息を吐く。 (やっぱ酔ってんのかな、俺……?) 「ディアッカ」 呼ばれる声に顔を上げると、見下ろすサイと目が合った。 突き刺すような視線に晒されて、瞬くことさえ苦痛になった。 「な、んだよ……」 「――今度は、ぼくが聞いてもらいたいんだけど……」 ゆっくりと、相手の顔が近づいてくるのがわかる。 いつの間にか、膝を折ってしゃがみ込んだサイと、目線の高さが同じになっていた。 「聞くって、何、を……」 いつの間にか笑顔が消えている。 不穏な気配を、感じた。 あまり気持ちの良い話ではなさそうな予感がする。 「――フラガ少佐のこと……」 案の定そう切り出されて、思わず溜め息が零れそうになった。 (またかよ……) 昨夜食事をしていたときも話題をふっかけられた。あのときは軽く交わしたが、今はそううまく逃げられそうにない。 それでも再びこの話題を振ってきた相手に沸々と怒りが沸き立った。 「……それ、聞きたくねーよ……昨日も俺、そう言わなかったっけ?おまえさ、一体どうして――」 「……聞いて、欲しい」 強い語調に、続ける言葉を失う。 「――昨夜、きみはぼくがこの話をし出したら、笑えない冗談言うな、って言ったろ」 畳みかけるように言われて、ディアッカはむっと眉を上げた。 昨夜の会話を思い出す。 ――もし……少佐が……なら…… 「……ああ、言ったよ。……おまえが、あんな……あんな、くだんねーこと言うからだろうが!」 「……くだらないこと、じゃないよ」 サイの声音に、心臓が凍りつきそうなほど冷たく震える。 本人の言う通り、くだらないことや冗談を言う口調ではない。 それがわかるから…… 「……聞きたく、ねえ……」 小さく呟くなり、いったん目を背けた。 ――聞きたく、ない。 「ディアッカ……」 肩に触れた手を、乱暴に振り払った。 「なんも言うなって!」 荒々しく怒鳴りつけると、相手を睨みつける。 動じない相手の冷静な表情が、たまらなく忌々しい。 「少佐は……」 「聞きたくねえって言ってっだろっ!」 「――生きている、んだ……」 明瞭に放たれた言葉が、凶器のように耳膜を突き刺した。 「……………!」 息が、止まりそうになった。 相手の瞳は動かない。 「……おま……何、言って……――」 乾いた舌が、ざらりと喉の奥を擦った。言葉が、乾く。言いたいことが、口中で砂と化し、零れ落ちていく。 ――聞きたく、ない。 そう、言っているのに、なぜこいつは……。 自分に打撃を与えて平然としている相手が恨めしかった。 聞きたくない……? いや……。 嘘だ。 本当は、気になっていた。 何か、隠している。 昨夜相手が何を言おうとしたのか……中断した会話。その先に何が待っていたのか、本当は気になって仕方がなかった。 今も、そうだ。 聞きたくない……。なのに、耳は次の言葉を待ち構えている。 己の中の矛盾に、身悶えた。 「――ムウ・ラ・フラガは、生きている……。少佐は生きているんだよ、ディアッカ……」 自分の言葉が相手に与える衝撃を確実に測りながら、それでもサイは躊躇う風もなく、その残酷な台詞を執拗に繰り返す。 「……る、せえ……っ……!」 ディアッカは片手で頭を押さえた。 「……馬鹿みたいなこと、言うなよ。――信じられるわけ、ねーだろ。そんなこと……っ……!」 どうしようもなく、気分が悪い。 (くそっ、あの人の話なんか、するからだ) 込み上げてくる嘔吐感に、トイレへ行こうと立ち上がった途端、目の前が暗くなった。 ふらりと揺れた体を後ろから支えられた。 「……大、丈夫?」 「……う……ん……」 堪えきれず体重を乗せると、支えきれなくなったのか、背後の力も緩み、気付いたときには二人一緒にどさっと倒れ込んでいた。 「……だっ……大丈夫かよ、サイっ……」 今度はディアッカが問いかける番だった。 くるっと振り返ると、すぐ目と鼻の先に、尻餅をついたまま苦笑する相手の顔があった。 眼鏡が半分ずり落ちて、鼻の下まで移動してしまっている。 よく考えてみると、眼鏡を取った顔を見たのはそれが初めてで、何だか別人のように見えた。くっきりとした切れ長の瞳が、やけにクールな印象を与える。 「はは……駄目だなー、ぼくは。全然体力なくて……」 サイは照れ臭そうに頭を掻いた。 「悪い、俺――……」 相手より背が高くて大きい体躯の自分が寄りかかれば、自然にそうなる。ディアッカは、情けない気分で俯いた。 「……やっぱ、俺、酔ってるみたいだ……頭んなか、ぐるぐる回って……なんか、変……」 「――あの人に、会いたくないか」 サイの言葉に、ディアッカは目を上げた。 「……え……」 「会わせてやるよ」 サイは落ちかけていた眼鏡に手をかけると、それを顔から取り外した。眼鏡のない、もうひとつの顔が改めて目の前に迫る。 「……会わせてやるから……」 「……サイ、おまえ……っ……」 相手の瞳を見ているうちに、だんだん焦点が定まらなくなる。 頭が重い。どうしようもなく、重い。 あの気持ち悪さが戻ってくる。しかも、さらに酷くなっている。 何だ、これは。 何か…… 何かが、違う。 変だ。 これって……本当にただ酔っ払ったってだけなんだろうか。 あれくらいの量で……やっぱり変だ。 第一、目の前のこいつは同じ量を飲んでいながら、平然としているではないか。覚えている限り、決して自分より酒が強いわけでもなかったこいつが大丈夫なのに、どうして自分だけが、こんな風になってしまうのか。どうしても、解せない。 ――まさか……。 微かに胸に兆し始めた疑惑。 ふ、と相手の口元が緩むのが見えた。 見たことのない表情。 こんな顔……見たのは初めてだ。 それを見た瞬間、疑惑は確信に変わった。 「……てめ……っ……俺に、何をした……っ?」 答えない相手に、苛立ちと焦りが募る。 「……答えろよっ……!」 相手の胸倉を掴もうと伸ばした両手を、逆に捉えられた。 思いがけない強さに、呆然と相手を見返す。 「……少しだけ、きみの力を借りたいんだ――」 ようやく答えたサイの顔が、遠く霞んで見えた。 To be continued ... |