The Voice
「イザーク」
声が、聞こえる。
自分を呼び止めようとする、煩わしい、あの声が。
それだけで、もう既にイライラし始めていた。
「……イザーク。待てよ。――おい、イザーク……っ!」
「……………」
唇を閉ざしたまま、わざと頭を高く掲げた。
一刻も早く、相手から離れようと足を速める。
「イザーク」
それでも声はまだ背後をついてくる。
「イザーク」
(――うるさい)
「……イザークっ!」
(――黙れ!)
引き結ばれた唇が怒りで震える。
しかし、声を出すことはできない。
喉の痛みもさることながら、完全に喉が嗄れてしまっているせいで、無理に出そうとすると、裏返ったみっともない声になる。それが嫌で、シミュレーションが終わってからは誰とも口をきいていない。
「おい!」
アスランの手が、肩にかかるのを感じた。
歩みを止められ、止むなく振り返る。肩にかかった手を忌々しげに振り払うと、目に入った相手の顔を今にも殺しそうな勢いで睨みつけた。
しかし相手は慣れたもので、そんな凄まじいイザークの形相にも一向に怯む気配を見せない。憎らしいほどの、その落ち着き払った涼しげな顔が、さらにイザークの苛立ちを募らせた。
「…………っ!」
「何怒ってるんだよ」
「……………」
「え、何?」
呑気な顔で問い返す相手に、唾を吐きかけたい気持ちをすんでのところで堪える。
「――………………っ!……」
(――俺に、話しかけるなっ!)
そう、怒鳴りつけて、追い払う。
いつもの彼なら、それで終わっていた。
しかし、今は……。
喉からはくぐもったような音が僅かに洩れるだけで、全く言葉を紡ぎ出すことができない。
それが何とももどかしくて、情けなかった。
「……ああ、声、出ないんだ」
アスランは納得したように目を見開くと、何がおかしいのか、小さく笑った。嘲るような笑みではなかったが、それでもイザークには、不愉快だった。
「――まあ、あれだけシミュレーションで叫びまくってたら、喉も嗄れるよな」
「…………………」
それが事実であるものの、どこかからかうような語調を感じ取り、イザークの顔つきがますます険悪になる。
しかしそんなイザークの様子を見ながら、アスランはなおも声をかけ続けた。
「――指示しすぎなんだよ、イザークは。必要なことだけ簡潔に伝えればいいのに、余計なことまであれこれ細かく言うものだから、味方だって混乱する。ある程度は味方を信用して、各自の判断に任せることも大切だと思うけどな……」
先程のシミュレーションでは、イザーク機が言わばリーダーとして先導する役目を負っていた。確かに気負いすぎていたかもしれない。思い通りに動かない他の機体に対してかなり激しく悪態をついたことを、内心大人げなかったかなと恥じてもいたのだ。
何が良くて何が悪かったのか、そんなことは自分自身が一番よくわかっている。わかりすぎていることを、わざわざ、しかも日頃から敵対視している同輩(年下)から指摘されたくはなかった。
ぷいと顔を背けたイザークの心の内を察したのか、アスランは少し困惑した表情を浮かべた。
「……気を悪くしないで欲しいんだけど、何もイザークだけが悪かったとか、そういうことは言ってないから。俺ももっと早く気付いて、声をかけていれば良かったんだ。そうすれば、イザークだけがプレッシャーを感じることもなかった。最後の判断ミスだって防げたかもしれない。コンプリートすることだって、できたかもしれないのに。……すまなかった」
それを聞いているうちに、イザークはひくと頬を引き攣らせた。
(何、なんだ……)
殊勝なことを言っているようで、実のところはイザークの指示や判断が悪かったのだということを婉曲的に糾弾しているだけではないか。
そしてそれを自分が戦闘中に指摘して是正すれば、コンプリートできたかも、だと……?
コンプリート、という言葉がちくりと胸を刺した。
ミッション・インコンプリートというスクリーンに浮かんだ文字が、苦々しい屈辱の思いとともに脳裏に浮かび上がる。
結局あのミッションをコンプリートできなかったのだ。
かなり難易度を高く組ませていたとはいえ、クルーゼ隊に入ってからのチームシミュレーションでは珍しいことだった。しかも今回のチームリーダーは自分だ。その事実がさらに追い討ちをかける。
「あとは……そうだな。やっぱり、少し怒鳴りすぎかな。狭いコクピットの中で、あれだけ声を上げてわめく必要ないだろ。最後は何言ってるのか肝心のことが殆どわからなかった。指揮官はもっと冷静でないと」
いつの間にか論評口調になっているアスランの怜悧な顔を透かし見て、イザークは再びむかっ腹が立ってくるのを抑えることができなかった。
(――何で貴様がシミュレーションの批評してるんだ。貴様、いつから俺の指導教官になった?)
「……とにかく、あれじゃあ、かえって味方が混乱して自滅する。もう一回、最初から作戦の見直しをした方がいいな」
(――…………………!)
「ミッションを遂行できなかった結果をどうこう言うより、なぜああなったのか、をデータを元に冷静に分析して――」
とうとう我慢ならなくなり、イザークはアスランの胸に手をかけた。
「……っ……!」
怒りに任せてみっともない、と心のどこかで諌める声が聞こえた。が、もうそれ以上理性を抑えることができなかった。
胸倉を掴み、引き寄せる。
不意を突かれたアスランはよろけながら、イザークの眼前で顔を上げた。
至近距離で目と目が合う。
アスランの瞳が驚いたようにイザークを見つめる。
そのイザークの目は怒りでぎらぎらと燃え上がっていた。
「……っ、おい、イザークっ?」
「…………っ………!」
(――この野郎……っ!)
ぶつけようとした拳を、寸前でアスランは防ぎ止めた。
その顔にはイザークとは対照的に、怒りはない。ただ、困ったように微かに眉を寄せている。
「本当に、声、出ないんだな」
こんな時に、まだどうでもよいことを呑気に呟く相手に、イザークはさらに怒りを膨らませた
対照的に、アスランはおかしそうに唇の端を緩めた。
「静かなイザークも新鮮だけど、ちょっと物足りないな」
「……………!」
(――な、にを……言ってやがる……!)
興奮で、僅かに荒くなった呼吸音だけが、自身の耳を打つ。
(――こ、の……っ……!)
一発殴り飛ばせばどんなに気持ちがよいだろう、と思った。
殴り飛ばして、ついでに相手の泣きっ面でも見ることができれば、さぞや溜飲が下がるだろう。
――だが、そんな場面を見ることは到底不可能だということも心のどこかで理解していた。
アスランの顔が厳しくなる。目の光が鋭い閃きを見せた。時々見せる、彼の年下とも思えぬ威容を感じさせる顔だ。認めたくないが、それに少し気圧されてしまうのも事実だった。
「……よせよ、イザーク」
「…………っ!」
「――こんなところで殴り合いなんかしてたら、営倉行きになっちまうぞ」
「……………」
ぎりぎりと歯を喰いしばる自分自身の醜く歪んだ顔が、憎らしいほど落ち着いたアスランの瞳の中に映し出されている。
(みっともない)
心のどこかでそう呟く自分がいた。しかし、興奮した心はそう簡単にはヒートダウンしそうにない。
「俺の言い方が癇に障ったなら、謝るから」
(――うるさい!)
心の中で、声に出ない罵倒を思いきり相手に浴びせかけながら、イザークは相手を憎々しげに睨みつけた。
アスランに封じられた拳が、震えた。
小柄なくせに力だけは恐ろしくある。
「……俺はおまえを怒らせたかったわけじゃないんだ」
不意に緑色の瞳が覗き込んできた。
深く、濃密な緑の色は間近で見ると迫力があった。
その強い意志を感じさせる瞳の色に、一瞬彼は圧された。
「――俺にはおまえと争う理由はない。アカデミーの頃とは、違うんだ。俺たちはれっきとした軍人で、前線に出て戦っている。さっきのシミュレーションだって、実際の戦場で敵を倒すためのものだ。個人の成績を上げたり、プライドを満足させるためのものじゃない。――くだらないことで殴り合っている場合じゃないだろう」
「……………」
(くだらない、……か)
――貴様にとっては、『くだらない』ことかもしれない。
――だが、俺にとってはそうじゃないんだ。
イザークは胸の内で毒づいた。
わかっている。
いつも相手が正論で。
自分はいつも馬鹿のようにわめいているだけだ。
それを負け犬の遠吠え、と一般的には言うのかもしれないが、それだけは断固として認めたくはなかった。
せめてもの自分の意地とプライドだ。
俺は、貴様なんかには負けたくない。
絶対に、負けたくはない。
「……………」
声には出せなくても、十分相手には伝わっている。それがわかったのは、アスランの目が僅かに瞬いたときだった。
戸惑い。逡巡。――理解。
不意に――
強い光が消え、瞳が和らいだ。
「――俺だって、同じだよ」
アスランは静かにそう言った。
イザークの心の声を聞き取ったかのように。
「俺も、負けたくない。誰にも、負けたくない」
拳を包み込む手から、僅かな熱を感じ取る。
拳の力がいつの間にか緩んでいる。
解けた掌に触れる相手の指先の緩やかな感触。撫でるように、そっと触れてくる。あんなに嫌がっていた相手との接触を、自然に受け容れている自分自身に、イザークは驚きすら感じた。
――この指を振り解いてしまえ。そしてさっさと背を向けて、行ってしまえばいい。
「……俺は、負けるつもりはない」
アスランの声を聞きながら、イザークはただじっと相手の瞳を見つめていた。
「…………」
「いつだって、俺はそう思ってきた。相手がおまえなら、なおさら――」
アスランがこんなに強く自分の意志を表に出すのを見るのは、珍しい。
いや、これが本来の奴の姿なのだ。
イザークには、それがわかった。
昔から……アカデミーで出会ったときから、わかっていた。
静かな瞳の奥に、激しい焔を燃やして。
――俺は……負けない。
――負けるものか。
二つの声が重なり、響き合う。
そして、一瞬でそれは遠い闇の深遠へと消えた。
後には何も残らない。
互いの指と手が、離れる。
声を出さぬまま、イザークは唇を噛み締め、いつしか僅かに頭を垂れていた。
「……………」
声が出なくても、相手には全部伝わっていることを、感じた。
(アスラン……)
憎しみと、羨望と、嫉妬と……。
どうして俺はこんなにこいつにこだわるんだろうな、と思った。
気に食わないなら、放っておけばよい。誰にだって相性の合わない人間はいるだろう。そんな人間にいちいち構っていれば、きりがない。
だが……。
放っておけない何かが、こいつにはある。
アスラン・ザラ。
自分の前にいつも立ちはだかる、存在。
こいつにだけは、負けたくない。
自分の中に滞る鬱屈した感情の全てを曝け出させてしまうこの人間の存在がたまらないほど鬱陶しく、煩わしい。
自分にとってのこの不可思議な人間の存在を、どう理解すればよいのか。
それ以上自分の思いを気取られることを怖れて、イザークはアスランに背を向けた。
「イザーク!」
アスランの声に、反射的に足を止めてしまってから、しまったと舌を打つ。
(馬鹿か、俺は)
すぐに歩き出そうとする前に、相手が叫んだ。
「――怒ってるんだろ?……声が出るようになったら、俺を怒鳴りに来いよ!」
「………………」
おかしなことを言う。
(――まだ俺を馬鹿にするつもりか)
イザークは肩越しに頭を傾けると、はあ?と侮蔑の視線を向けようとした。
「――おまえに怒鳴られないと、調子が出ない」
柔らかな口調だったが、そこには冗談の響きはなかった。
「……声が、聞きたい」
真摯な声に、睨もうとする気を殺がれた。
なぜか、今は相手の顔を見ない方がいいような気がした。
向けかけた頭を元に戻す。
――何が、声が聞きたい、だ。
――そんなこと、思ってもいないくせに。
第一……さっき――あの忌々しいシミュレーションの最中に、嫌というほど聞いた筈だろう。
怒鳴りすぎだと、批判したではないか。
イザークは、鼻白んだ。
「……………」
(貴様など、怒鳴るだけの価値もない)
そう吐き捨てながらも、無意識の内に唇が綻ぶ。
気付いて慌てて唇を強く引き結んだ。
(馬鹿な奴だ)
そうやって、また自分の気を煽ろうとしている。
そして俺が貴様の前で愚かしい失態を演じるのを、待っているのだろう。
(誰が、その手に乗るかよ)
(そうさ。誰が……!)
誰が、貴様に口などきいてやるものか。
そうだ。
絶対に、二度と――
(――貴様には、話しかけたりしないからな)
そう強く誓いながら、頭を昂然と上げて、彼は早足で歩き始めた。
(10/01/11)
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