もういちど、きみを・・・ (9)





「とにかく、早く病院へ運ぼう」
 咳き込んでは、やや苦しげに顔を歪めるイザークを見て、アスランがディアッカを促した。
「あっ、ああ。そうだな。じゃあ……」
 我に返ったディアッカは、いったんイザークを抱く手を緩め、改めて彼を抱き上げようとした。
 しかし、そのとき――
「……やめろ」
 イザークはディアッカの手を軽く弾いて抵抗の意を示した。
「そんな風に抱かれるのは……嫌だ」
 むすっとした口調で言うが、その頬にはほんのりと赤味が差していた。
「嫌だ……って。そんなこと言ってる場合じゃ――」
 呆れたようにそう言いかけたディアッカは、イザークのその顔を見て、思わず口を噤んだ。
 ――そんな風に……。
 ――そうか。つまり、女の子のような抱かれ方は嫌だというわけか。……ったく、こんなときまで外目を気にするか。やっぱ、イザークだな。
 何となくおかしさが込み上がってきた。
「そっか……じゃあ、背中に掴まるか」
 ぎこちなく頷くイザークを可愛いと思い、思わず目をそばめた。そのとき、ふと悪戯心が生じた。
「じゃあさ、イザーク……ちょっと聞くけど――」
 言いながらちらりとアスランを見やる。
「アスランと、俺とどっちがいい?」
 からかうように問いかけると、案の定イザークはびっくりしたように目を大きく見開いた。
「……どっちが……って……」
「選べよ。どっちの背中がいいか」
 ――それくらい、選んでみろよ。
 にやりと笑って答えを待つ。
 イザークは困ったように二人を見た。
(どっちと言われても……)
「……………」
 躊躇う彼を見て、ディアッカが何か言おうとする前に、アスランがイザークの腕を引いた。
「じゃあ、俺の背に乗って!イザーク」
 そう言うなり、促すようにイザークに背を向ける。
「あっ、おい。アスラン!」
 ――それは反則だぞ!
 ディアッカの抗議の視線を無視して、アスランは強引にイザークを背に乗せた。
「ディアッカ、意地悪もそれくらいにしておけよ。あんまりイザークを困らせるな」
 アスランが言うと、ディアッカは軽く肩をすくめた。
(全く優等生的な発言をしやがって……)
 それもアスランらしいところだったが、確かに普通の体でないイザークを前にして、少し調子に乗りすぎたかもしれない。
「ま、仕方ねーな。いいよ、おまえに任せる」
 騎士(ナイト)役をあっさりと相手に譲った。
 居心地悪げにアスランの背中に身を預けたイザークだったが、いつしか自然に相手の体に縋っている自分自身に気付いた。軽い困惑を覚えながらも彼は敢えてその感覚に身を浸す自分を否定しようとはしなかった。
 今はこのままで、いい。
 驚くほど素直に全てを受け容れられる気がした。
 アスランにこんな風に縋りつく自分。全てを委ねて安心しきっている自分。そこには意地もプライドも、何もない。
 そんな自分がいることが、何だかとても不思議だった。
 意識が埋没していく最後の瞬間まで、彼はアスランの体にかけた手を決して離そうとはしなかった。
 
 
 ――次に目覚めたのは、病院のベッドの上だった。
 病院独特の強い消毒薬の匂いが鼻をつく。
 気だるい腕を軽く持ち上げると点滴台に繋がるチューブが揺れた。
 イザークは目を瞬き、息を吐いた。
 病室の白い天井を眺めながら、あれからどれくらいの時間が経過したのかとふと思った。
 ディアッカ……そして、アスランはどこに行ったのか。
 最後に触れたあのアスランの背中の暖かい感触を思い出し、イザークは今一人きりで寝かされている自分に何となく頼りなさを感じた。
(……アスラン……まだ、近くにいるのか……)
 それとも、もう既に去ってしまったのか。
 去って……しまった……?
 別れの言葉も交わさぬまま……。
 そして、あいつとまた……会えなくなる……。
 そ……んな……?
 イザークはハッと目を見開いた。
 突然沸き起こった激しい感情に突き動かされ、彼は思わずベッドの上に身を起こそうとした。その途端――
 目の前が眩み、全身に軽い衝撃が走る。忽ち気分が悪くなり、彼は呻きながら片手で眉間を押さえた。
 少しの動きでも弱った体には負担になっていることがわかった。
(……そうか……俺……確か、溺れかけたんだったよな……)
 青い空を臨みながらどんどん落下していくあの感覚。
 本当なら、パニックになるはずなのに……。
 不思議と恐怖感はなかった。
 むしろ、心の中は澄み通るように、穏やかな静けさに満ちていた。まるで、時が止まってしまったかのように……。
 そうだ。頭の中が驚くほど、真っ白で……ただ、頭上に広がる青い空の広がりだけが瞳に映っていた。
 あのまま――
 終わってしまっていても、良かった……。
 ふと、そんな風に思いさえした。
 それほど……自分は『永遠(Eternity)』に近いところにいたのだろう。
 イザークは苦笑した。
 でも、もう今は違う。
 俺は、またこの世界に戻ってきた。
 ここに……こうして、息をして……動けば肉体の痛みを感じ、そして再び……狂おしいほど誰かのことを思って、胸を焦がして……。
 と、そのとき微かに扉の開く音が聞こえたかのように思えた。
「……イザーク!」
 その声が耳に入った瞬間――
 イザークは顔を上げ、その姿を見た。
 紫紺の髪に、翡翠の瞳。……求めていた姿。
 ――アスラン・ザラ……!
 彼は、まだここにいた。どこへも行ってはいない。
 気遣わしげな表情を浮かべながら、イザークの傍へ近づいてくる。
「……大丈夫か?」
 安堵感で、体から再び力が抜け落ちていくかのようだった。そんな体をアスランの腕が優しく抱き止めるのがわかった。
(……アス……ラン……)
 アスランの手に触れた瞬間、イザークは再び熱い感情が身内を駆け巡っていくのを感じ、唇を噛みしめた。
「……おまえ……まだ……いたんだな……」
 平静を装いながらも、僅かに唇が震えるのを抑えることができなかった。
「……イザークがこうして気が付くまでは、どこへも行けないと思ったから……」
 アスランは微笑んだ。
(意識の戻らないおまえを置いて、どこへも行けるものか)
 少し体を離して改めて互いを見つめ合うと、その翡翠の瞳に魅入られたかのように、イザークはもはや何の言葉も返すことができなくなった。
 そんなイザークの透き通るようなアイス・ブルーの瞳を見ながら、アスランもまた込み上がる思いを抑え切れなかった。
 いつも常に心から消えることのない、この薄氷の透き通るような美しい青を、またこうして間近に見ることができる。そんな喜びを胸の奥で静かに味わう。
 もう少しで、失うところだった。
 失わずにすんだのは、幸運だった。
 もし失っていたら……俺はどうしていたろう。
 もしあのとき、あのまま……
 イザークが目を開けなかったら……。
 そう思うと、想像するだけで冷たいものが背を撫で過ぎていくかのようだった。
「……イザーク、すまなかった。俺……おまえに謝らなきゃならない」
 アスランはそう言うと、気まずそうに僅かに視線を逸らした。
「……俺が、おまえをあんな風に……」
 追いつめて……そして……
「……俺は結局おまえを苦しませてしまう。俺は、おまえに会わなかった方が良かったのかもな……」
 ――もう会えない……
 別れの言葉を口に出しておいて……たった2年でまたこうして舞い戻ってきてしまった。
「……ちが……う……」
 そのとき、イザークの手が不意にアスランの肩を強く掴んだ。
 驚いたようにイザークに視線を戻したアスランは、相手の瞳に映る激しい感情の焔を見て、出ようとする言葉を呑み込んだ。
(……イザー……ク……?)
「……そんなこと……言うな――」
 震える声。怒っているのか、泣いているのか……イザークの燃えるような瞳の色が、ただ鋭くアスランを見つめていた。
「……俺は……」
 ――アスラン……おまえを……
「……俺は、おまえに会えて嬉しい」
 ――おまえが、好きだ……
 心の中でそんな風に大声で叫んでいる自分を意識しながら、イザークはほんのりと頬を染めた。まるで少女のように。声には出ぬまでも、その表情で彼の気持ちは充分に相手に読み取られているだろう。
「イザーク……」
 アスランはどきっとして、大きく目を見開いたまま、信じられぬようにイザークを見返した。
 ――おまえに会えて嬉しい
 その言葉の中には、どれだけの思いが込められていることか。
 イザークの素直な言葉が、心に響く。
 こんなに素直に自分の気持ちを告げるイザークが、何だかとてもいじらしく思えた。
「俺も……」
 アスランは言いかけたが、後の言葉は続かなかった。
 何て言えばいい?
 こんな思いを言葉にまとめることができるだろうか。
 代わりに、彼はイザークを抱きながら、そっとその頬に唇を落とした。
「……キス……しても、いいかな」
 アスランの遠慮がちな言葉に、イザークはふっと笑みをこぼした。
 ――今さら、何言ってる?
「……バカ、いちいち聞くな。そんなこ――」
 しかし答え終わらぬうちに、既にアスランに唇を塞がれていた。
 いつものような、あの攻めるような激しさはないものの、その優しく甘いくちづけに、全身が燃え上がるように過剰に反応していく。
 唇が離れてもまだ体の興奮が冷めず、相手を強く求めているのがわかった。
 しかしそれでも、アスランの手がイザークの着衣の下をくぐり、肌をさらに撫でていこうとしたとき、さすがに彼は困惑した。
「……貴様……ッ……わかってるのか。ここは一応病院で……俺も、一応……病人なんだぞ……」
 それでも、やろうっていうのか?こんなところで……。
 体の反応とは裏腹に、そんなことを言うイザークにアスランは苦笑した。
「あれ……いいんじゃなかったのか……?」
 イザークの髪をかき上げ、額に手を当てると瞳を近づける。
「熱はなさそうだし……少しなら……いけるだろ?」
「……って、おまえなあ……!」
 ――普通、止めるだろう!点滴針つけてる病人相手に……最後までいこうと思うか?
(……と言っても、無理か)
 イザークは溜め息を吐いた。
「……イザーク、ごめん。でも……俺、おまえをもういちどだけ、今ここで……」
 ――おまえを、もう一度抱かせて欲しい。
 ――今度は、いつ会えるかわからないから。
「アスラン……」
 別れが迫っていることがわかった。
 避けられぬこととはいえ、それはやはり胸にずしりとこたえる辛い現実だった。
 だから、最後にもう一度……というのか、貴様は。
 会えなくなる前に……?
 『もう一度』……だと?
 いつも同じことの繰り返しだ。もう一度……もう一度……そう言いながら、一度で終わったためしがない。
 俺たちの関係は、何て滑稽なものなのか。
 こんな風にして、結局いつも離れられずに……同じことを繰り返す。恐らく、これから先もずっと……。
 きっと俺はこいつから、永遠に離れられないのだろう。
 そんな運命が恨めしいと思った瞬間もあった。
 しかし、今は……
(不思議だ。今は……俺はこういった全てのことを自然に受け容れることができる)
 そんな気がする。
 熱を帯びた体がアスランを求めて疼くようだった。
 見返す艶めいた瞳がアスランの心臓の鼓動を高める。
「……いい……んだな……?」
 アスランは囁いた。イザークの体の上に乗りかかりながら、片手で点滴針を引き抜いた。
「……つッ……!」
 荒っぽい抜かれ方に、イザークは眉をしかめた。
 ――優しく取れよ。くそっ!
 胸の内でぼやきながらも、相手の愛撫の中に身を沈めて、後は何も考えられなくなった。
 ――いいさ。抱かれてやる!
 思いきり、抱けよ。
 ずっとこの瞬間の記憶をこの体全身にくまなく刷り込むように。
 強く、激しく……壊れたって構いやしない。
 ……これが俺の全てだから。おまえの体にもしっかりと刻み込んでおくがいい。
 何度別れを繰り返しても、怖くはない。またきっといつか……必ず会えることがわかっているから。
 たとえどんなに長い時と空間を隔てようとも、きっと思い出す。
 この身を焦がすような熱い思いは……
 肌に触れただけで胸の奥から疼き出すような、この不思議な感触は……。
 今は、おまえと肌を合わせていられるこの幸せをただ、噛みしめていよう。
 アスラン、おまえに抱かれて、何も考えられないくらい悦びの海に溺れ込んでいる俺自身を……俺はもう否定しない。
 俺の中には、ずっと……おまえがいる。
 アスラン……
 ただひとりの、おまえ……。
 おまえがどこに行こうとも……俺はいつもおまえが戻ってくるのを待っている。
 今も、これからも……
 アスラン・ザラ――おまえをずっと……!
 
 
「行っちまったな」
 そう呟くディアッカに、イザークはただ黙っていた。
 ディアッカの目が、ちらちらと自分を見ているのを感じながら、イザークは敢えて何も気付かない振りをした。
 別れを告げたアスランを見送った後、まだ二人は病室内にとどまっていた。朝方に最後の簡単なメディカルチェックを受けたイザークはようやく退院の許可を得たところだった。まだ検査衣を着たままのイザークはむすっとした表情でベッドの端に腰を下ろしていた。
 ディアッカは傍の壁に背をもたせながらそんなイザークを興味深げに眺めていた。
「デュランダル議長にアポを取ったと言っていたが……ひょっとしたら、本当に戻ってくるかもよ、こっち(ザフト)に。……なあ、嬉しいか?」
 揶揄するような口調で言うディアッカをイザークはじろりと睨んだ。
「くだらんこと言ってないで、さっさとヴォルテールに連絡を取っておけ」
 吐き捨てるように言うと、検査衣を脱ぎ、シャツを羽織ろうとした。そのとき、ふと目の前に影が落ちた。
「……………?」
 目を上げると、いつの間に近づいてきたのか、ディアッカがすぐ真上から屈み込んでいた。
「なっ、何だ?」
 じっと見つめるディアッカと顔を突き合わせて、イザークは戸惑った。
 ディアッカの手がすっと伸び、イザークが手を通しかけたシャツを不意にめくり上げた。その下から肌が露に見える。ところどころ、ほんのりと赤味を帯びた白い肌――。
「ふうーん、なるほどねえ……」
 ディアッカは意味ありげな笑みを浮かべた。
「最後まであいつとセックスしてたってわけだ」
「ディ、ディアッカ!」
 露骨な発言に、イザークは忽ちかっと頬を紅潮させた。
「きっ、貴様、急に何を言う!」
「隠すなって。その色ずんだお肌を見りゃ、一目瞭然だろ。……そーか。昨日ナースが点滴勝手に外したって怒ってたよなあ。あんときか……」
「………………」
 イザークは黙って俯いた。
 顔は赤いままだったが、どこか寂しげな表情が浮かんでは消えた。ディアッカは目を細めた。
 ――いいさ。おまえが望んだことなら。誰も止めやしない。
 嫉妬や羨望の気持ちが完全になくなったわけではない。今、この瞬間も……冗談のように流そうとしながらも、心のどこかで落ち着かない気持ちになっている自分自身がいる。
 でも、仕方がない。
(……俺はおまえに何かを強要したりはしない。ましてや思いは……誰にも変えられないものな)
 ただ、おまえの俺への気持ちが本当だとわかっていれば。……俺があいつの代わりでなく、俺を俺として受け容れてくれているのなら……俺はそれだけで、満足だ。
 少なくとも今のところは。
 ディアッカはひそかに苦笑した。
 どうやら、この関係は永遠に続きそうだ。
 永遠の三角関係(トライアングル)ってわけで…… 
 厄介な奴を好きになっちまったもんだ。しかし、仕方がない。
 人を好きになるのに、理由なんかない。
 ただ、おまえがそこにいて……
 いつのまにか、大切な存在になっていた。それだけのことで。
「……隊長!じゃあ、俺も少しはおこぼれにありついてもいいですかね?」
 おどけるように言ったディアッカを驚いて見返すイザークの体をベッドにそのまま押し倒すと、その露わになった胸に強くくちづけた。
「あっ……こ、こらっ、ディアッカ……ッ……!」
 乳首に刺戟を感じて声が思わず上ずっている。イザークは突然襲いかかってきた相手に困惑しながら、ただひたすらにやめろと叫んだ。
 ――冗談じゃない、こんなところで……。全くどいつもこいつも……ッ……!
 ……不意にディアッカの力が緩んだ。目の前に接近したディアッカの顔が、こちらを面白そうに見つめているのに気付いて、イザークはかっとなった。
(こいつ……ッ……!)
「ディアッカ、貴様ッ……!」
 怒ったアイスブルーの瞳を見つめながら、ディアッカはいかにもおかしげにくつくつと笑った。
「……冗談だよ、冗談!……そんなに怒るなよ、隊長!」
 彼は笑いながら、イザークを引っ張り起こした。
「いいだろ。俺に隠れてあいつといーことしてたんだからさ」
 これくらい……。冗談にでもしないと、やりきれねーからさ。
「おまえに隠れてしたつもりはない」
 イザークは不本意気に言うと、少しそっぽを向いた。
「ふーん。……じゃあ不可抗力だったとでも言いたいわけ?」
 なおもからかうように言いながら、ディアッカはイザークの肩に再びシャツを着せかけた。
「……あんまり、意地の悪いことを言うなよ。バカ!」
 イザークがシャツのボタンをかけていくのをディアッカは楽しげに眺めていた。
(まあ、いいや。今は俺だけのもん……だもんな)
 ライバルが消えて、ひとときの優越感に浸る自分をガキみてーだな、と思う。
 しかし、今は不思議だ。数日前ほど、苛立ちは感じない。
 アスランと俺と、イザークと。
 いいぜ、アスラン。これからも勝負していこう。
 たとえ、最後まで決着のつかない勝負かもしれないとしても……構うものか。
 このままずっと……俺たちはきっとこんな風に生きていく。こういうのも悪くないだろう。
 そのときふと、イザークの青い瞳と目が合った。
 不思議そうに瞬きするその瞳を眩しく見つめる。
 そう……この瞳の中に青が輝く限り……。
 ずっと……。
 永遠に……。
 
 ――俺たちはこの瞳の主を愛し続ける。
 
                                                 (Fin)

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