The Blunt --2







 気が付くと、ここにいた。
(あ……れ……?)
 身の回りを包むあまりの静けさに、驚いた。
 おそるおそる瞼を上げる。
 暗くて、最初は周囲の様子がさっぱりわからなかった。
 まだ……夢を見ているのだろうか。
「……あ……?」
 呆けた声が、虚ろに響く。
 反響する音が、意識をはっきりさせた。
 背に当たる固くて冷たい地面の感触が、これが夢でないことを実証している。
 むくりと起き上がった。
 肌寒さに、肩先を震わせる。
 周囲を見回すと、灰色の岩壁が目についた。
 洞窟の中のようだ。
 天井は、かなり高い。
 饐えた空気が、鼻を突く。
(……どうして、こんなところに……?)
 顔をしかめたまま、しばし考え込む。
(ここは、どこだろう)
 ――わからない。
 錯綜とした記憶。
 相当混乱している。
 思い出そうとすると、急に呼吸が苦しくなり始めた。
 やはり、変だ。
 軽く頭を振ってみる。
 現実に近い、夢?
 ――違う。
 いくら考えても、周囲の景色は変わらない。
 じっとりと、湿った空気を吸い込むと、途端に気分が落ち着かなくなった。
 ――何だろう。
 胸の中がざわざわと騒ぎ出す。
 ……この、感じ。
 これは……
 
 鼻孔が、敏感にそれを嗅ぎ分ける。
(ああ……)
 
 ――血の、匂いだ。
 
 父さん。
 母さん。
 
 少し前まで、目の前に存在していた世界。
 それが……。
 
 映像が、揺れた。
 
 どうしたんだ。
 一体、何があったんだ。
 必死で思い起こそうとする。
 何、が……。
 
 ――何が、あった……?
 
 赤い……。
 一点の濁りもない。
 目に染み入るような、赤い色だった。
 残酷なまでの美しさが、目の前を鮮やかに覆い尽くす。
 息もできず、ただ食い入るように見つめた。
 悲しいのに。
 胸が張り裂けそうなくらい、辛くて苦しい。
 それなのに……。
 どこかで、その色をうっとりと見つめている自分がいる。
 
 ――赤くて、温かい、色……。
 
 焦がれるように、見つめる自分の姿に、驚いた。
 震える唇が、躊躇うように開いたり閉じたりを繰り返す。
(う……あ……――)
 圧しかかってくるような、見えない恐怖に耐え切れなくなり、大声で悲鳴を上げそうになった。
 なのに。
 叫ぼうとしても、声が出ない。
 突然、ふつりと音という存在そのものが、この世から消えてしまったかのように。
 空気が喉を通り抜けていく乾いた感触だけが、口の中に残る。
 怖い。
 一体、自分に何が起こっているのか。
 変化を、感じる。
 自分の体を、蝕むもの。
 自分の中で、変容していく、その存在。
 自分の意思を越えて支配しようとする、その力に対抗することができず、ただ恐怖が膨らんでいく。
 
 ぶる、と震えた。
 激しい嫌悪。拒絶。
 それなのに、求めている。
 矛盾が、頭と心をばらばらにしていく。
 
「……や……――」
 掠れた声が、ようやく一音だけ出る。
 や……め……――
 
 ――やめて……っ……!
 
 顔を両手で覆う。
「嫌だ……」
 消え入りそうな声が、呟く。
 今にも泣き出しそうな声。
 しかし、何も気にする余裕はなかった。
 怖い。
 怖いよ。
 助けて……。
 助けて、助けて、助けて、助け――
 
 ――不意に、それは目の前に現れた。
「……だ、れ……?」
 小さな仔猫は、怯えたように目を瞬かせた。
 緑色の蛇が、くるくると目の上で踊る映像を、見る。
 最初は幻覚か、と思ったのに、それは次第に大きくなり、みるみるうちに現実の空間の中で確かな実態を備え始めた。
 緑色の毛。
 青白い面に、醜く縫い閉じられたその両の瞼と、その下でゆっくりと動く薄い唇を見た瞬間、ぞくりと全身の毛が総毛立った。
(ね、こ……?)
 違う。
 耳の代わりに、生えているのは奇妙な形に突き出た角。
 猫、ではなくて。
 仔猫は未知の存在に対する恐怖に震えた。
 猫では、ない。
 それなら……一体、何なのだ。この生き物は?
 硬直した体は、その場を逃げ出せなくなった。
「……どうしたんだい?そんなにびっくりした顔をして」
 緑色のそれは、平然と口を開いた。
 同時に差し伸べられた手の先が、仔猫の耳に触れた。
 冷たさに、ぴくり、と反応する。
 目の前の生き物はふふ、と笑った。
「そんなに怯えなくても、ぼくは、きみを傷つけたりしないよ。可愛い、白い仔猫ちゃん」
 頬を冷たい指が、撫でる。
 ――嘘だ……。
 本能が危険を察知し、拒絶する。
 しかし逃げようとする前に、体を掬い上げられていた。
 凍りつくような手の中に抱かれることに、激しく抵抗する。
 しかし、相手は簡単には離してくれなかった。
 ねっとりと、絡みつくように触れてくる、そのしつこい指先の感触に、気持ち悪くなる。
 どうして、こんな触り方をするんだろう。
 他の猫から、たとえ親からでさえ、こんな風に触れられたことはない。
「やっ……――」
 叫びそうになった口をひたと押さえられた。
 思わず目を瞠る仔猫の耳に、ふふと笑う吐息がかかる。
「可愛い、な」
 囁くような声に、淫猥な響きがこもる。
 恐怖、に捉われた。
「きみは、本当に可愛い。ねえ、信じられる?そんなきみが、ぼくに……」
 声が、急に途切れた。
 嫌な沈黙が訪れる。
 こくり、と息を呑み込んだ。
「……きみが、ぼくにしたこと……」
 声は恐ろしいほど単調で、何の感情もこもっていないように感じられる。それなのに、どうしてこんなに怖いと思うのだろう。
 心臓が鼓動を速め、呼吸をすることすら苦しくなる。
「きみが、こんなこと、するなんて……信じられるかい?」
 目の前に、顔が近づいてきた。
 縫い合わされた、瞼。
 間近で見ると、生々しい。
 ぶるり、と震えた仔猫はそっと顔を背けようとした。それを、逃さぬように、すかさず伸びてきた長い指先がくい、と顎を掴み、元の位置に押しとどめた。
「駄目だよ、ちゃんと見なくちゃ」
 からかうような声に、恨めしげな視線を向ける。
「きみが、したことなんだから」
「…………?」
 相手の言うことがすぐには飲み込めず、目を丸くする。
 ――自分の、した、こと……?
 何、が……。
 相手の顔を見ているのが、ますます怖くなった。
 それでも、視線を逸らすことは許されない。
 ――この生き物に、何を、した……?
 頭の中を白い砂が舞った。
 過去と未来が、逆行する。変な、感じだ。
 不意に――奇妙な既視感に捉えられた。
 同じ顔を、見たことがある。
 こんな風に、顔と顔を突き合わせ……。
 ただ、そのとき……自分は二つの鋭い瞳を、見ていた。
 ぎらぎらと、食い入るように見つめる、貪欲で熱い欲望に煮えたぎった、二つの焔。
「忘れちゃ、駄目だよ……」
 不満げに囁く唇の先が、頬を掠めたかと思うと、柔らかな皮膚の上をぺろりと舐めた。
 ぴり、と刺激が駆け抜ける。体が少し弾むように、震えた。
「こんなに酷いことをしておいて。――仕方がないねえ……」
 瞼の奥で、意地悪な瞳が笑っているように見えた。
「――それじゃあ、思い出せるようにしてあげないといけないかな……」
 そう言うと、長い手が自分の全身を抱え込み、胸元に引き寄せた。逃れる間もなかった。
 突然襲った強く激しい抱擁に、一瞬呼吸を忘れた。
 締め付けられる圧迫感に、思わず目を閉じた。
 背中に、鋭い爪が食い込んでくる。
 痛みに顔を顰めると、宥めるように耳朶を舐められた。
 すると蕩けるような心地良さに、忽ち力が抜ける。
 怖いのに、こんな風に感じる自分は、変だ。
 そう思うと、仔猫は途方に暮れた。
 相手の中に潜む未知の力に対して限りない恐怖心を抱きながらも、一方でそれに引き寄せられていく自分をどうすることもできない。
 これは……何かの魔法、なのだろうか。
 だから、自分はこんなに変になってしまうのだろうか。
 そうだ。きっと、そうなんだ。
 自分は、魔法にかけられてしまったんだ。
 それでは、魔法を使うこの生き物は……。
 耳の代わりに二本の角を持つ……。
 いつか見た本の中で、そんな生き物の姿を見かけたような気がする。
 まさか、それが現実に存在するなんて、思いもしなかったが。
 しかし、現に、今……。
(………………)
 口にするのは、恐ろしい。
 それでも、言わずにはおれなかった。
「……あ、……く、……ま……?」
 怯えた仔猫の口から漏れた小さな呟きに、緑色の悪魔はふ、と唇を歪めた。
「――フラウド、だよ」
 そう囁くと、悪魔は仔猫の耳に軽く歯を立てた。
 仔猫がぴくん、と痛みに体を引き攣らせると、笑って噛みつくのをやめた。
「ほら。ぼくの名前を、ちゃんと言ってごらん」
 抱き締める力が強くなった。早く言え、と脅すように。
「……フ……ラ……――?」
 ――フラ、ウ、ド……?
 最後まで発音する前に、
「可愛い……」
 熱い吐息が、唇を覆った。
 生暖かい接触。
 唇の間から差し込まれた舌に、口の中を舐め回される。
 舌を引っ張られると、息ができなくなり、苦しさに身悶えた。
 何をされているのか、よくわからないまま、体が一気に熱くなった。
 唇が離れたあとも、火のついた体はどんどん熱を高める一方だった。
「きみは、ずっとぼくと一緒にいるんだよ……」
 悪魔の声には、冷たい強制の響きが感じられた。
 ――そう。このまま、ずっと、ずっと……。
 永遠に捉えられた、と悟った瞬間、ぞっとした。
「い……」
 ――い、や、……だ、……っ……!
 再び抗いかけた体は、簡単に押さえつけられた。
 首筋に舌を這わせながら、可愛い、可愛い、と相手は何度もしつこいほど繰り返した。
 抵抗が、弱まる。
 麻薬に全身を侵されていくかのように。
 何も、見えない。わからない。
 考える心そのものを、奪われていく。
 目を閉じて、全てを委ねれば、楽になれるのだ、とどこかで誰かが囁いた。
 その通りにすれば、いい。そうしよう、と思った。
 
(……ライ――!……)
 
 遠くから、微かに漂ってくる、声。
 ぴくん、と耳をそばだてた。
 自分の声でも、悪魔の声でもない。
 別の、誰か。
 知っているような、知らないような、誰かの声……。
 ざわ、と胸が騒ぐ。
 ――ラ、イ……
 その名を反芻して、ふと眉を寄せる。
(……ライ……?)
 それが、自分の名前であるということに気付くのにしばらく時間がかかった。
 そうか。……自分には、名前があったんだ。
 当たり前といえば、当たり前のことだった。
 悪魔にさえ名前があるのに、自分にない筈がない。
 なぜ、そんなことに気付かなかったのか、不思議だった。
 しかし……。
 心の動揺が、収まらない。
(何……?)
 不意に、何かとても大切なものを、どこかに置き忘れてきたような気がした。
 それは、何だったのだろうか。
 思い出そうとするが、やはりわからない。
 頭の中が、ぐるぐる回る。
 過去と、未来と……
 小さな自分と、大人になった自分……
 ――あれ、変だ。
 ライは首を傾げた。
(何で、そんなものが、見えるんだろう)
 自分は、今いる自分以外である筈ないのに。
 定まらなくなった足元に、不安を覚える。
 ここにいる自分は、本当の自分なんだろうか……。
 急に、自信がなくなった。
 
 ――ライ……ライ、ライ、ライ……
 
 しつこいくらい、繰り返し呼んでいる。
 遠いところから、微かに聞こえてくる。
 錯覚ではないかと思うほど、遠い……。でも、なぜか、わかる。それが、自分を呼ぶ声だということが。
 
「――ライ」
 突然、耳を打つ氷のような冷たい響きに、ぞくりと身が竦んだ。
 悪魔が自分の名前を呼んだのは、それが初めてだった。
 そして、その瞬間、相手の激しい怒りを感じた。
 ――怖い。
 思わず、目を閉じた。
 たぶん、自分はそれを聞いてはいけなかったのだろう。
 戸惑いながらも、敢えて相手に体を摺り寄せてみる。
 相手におもねり、必死でその怒りを緩和しようとするかのように。
 自分は、何も聞いてはいない。
 耳を折り、何も聞こえない振りをした。
(何も考えてはいけないのだ……)
 自分は、ここにいればよい。
 ここで、この悪魔の腕に抱かれていれば、それでよいのだから。
 そうしていると、そのうち、本当に、何も聞こえなくなった。
 冷たい唇が、閉じた瞼に触れたとき、ぴくりと震えたが、もう抗う勇気はなかった。

                                       (...to be continued)


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