The Blunt --3







 ――ラ、イ……?
 呆然と立ち尽くす。
 そこに、いる。
 けれど、目を開かない。
 眠っているのか。
 微かに上下する胸を、遠目からじっと見つめる。
 生きて、いる。
 なのに、ほっとすることができない。
 何となく感じるその違和感に、彼は不安を滾らせた。
(ライ……?)
 胸の内でそっと名を呼んでみる。
 忽ちざわざわと胸が騒ぎ立てる。
 おかしい。
 変、だ。
 
 ライを、感じない……。
 
 アサトは、訳もわからぬまま、ただその空疎な感覚に強い衝撃を受けた。
 あれは、本当にライなのか。
 確かめなければならない。
 不安に駆り立てられ、一歩を踏み出そうとしたとき、強い視線に阻まれた。
「……コノ、エ……――?」
 コノエは何も言わず、ただ怒った瞳でこちらを睨みつけている。
 来るな、とその目が語っている。
 
 ――来るな、来るな、来るな……!
 
 激しい拒絶に戸惑う。
 それでも、足は止まらなかった。
 視線がコノエを通り越して、一心にその先に横たわる猫に向かう。
 銀色の髪。
 白い、肌。
 触れたい。
 今すぐ触れて、その存在を確かめたい。
「アサト」
 不意に横から肩を押さえられた。
 いつの間にか、すぐ傍にバルドが立っていた。
 物問いたげに見返すアサトに向かって、静かに首を振る。
 その顔を見ただけで、自分の中の嫌な予感がまさに的中していることがわかった。
「――ライ、は……」
 頼りなく出かかった言葉が宙に浮いた。
 
 ライ、は……
 
「……俺は、何もしていない……」
 ぽつりと呟くコノエの声が聞こえた。
 怒気の中に、不安定な感情の揺らぎが感じられる。
「――俺は、何も……」
 次第に声が、消え入るように小さくなった。
「……何も……知ら……ない……」
 コノエは、もはやアサトを見てはいなかった。
 アサトだけでなく、何もその瞳には映っていないようにさえ見えた。
 虚ろな瞳は、微かに瞬いた後、その瞼を閉じた。
 つがいの体から力の抜けた手が離れていくと、そのままずるずると床に腰を落とした。そうしてアサトが近づいて来る気配を感じているのかいないのか、コノエは微動だにせず、その場にじっと蹲っていた。
 阻まれるものがなくなると、アサトは寝台の間際に立ち、真上から横たわる白猫を見下ろした。
「……ライ」
 声を、かける。
 蝋のような、顔。
 白い、肌。
 自分とは、正反対の色。
 雪のような、綺麗な白い色だと、思っていた。
 なのに、今、その色は死猫のような不吉さを感じさせる色にしか見えない。
(……耳、が……)
 片方の耳に、赤黒くこびりついた血糊が痛々しい。
 伸ばした指先が、耳に触れた途端、びくりと震えた。
 冷たく、硬質な手触り。
 生きている猫の耳を撫でた気がしなかった。
 慌てて、そのまま髪に、そしてその血の気の失せた白い頬に触れた。
(何だ、これ、は……)
 信じたく、ない。
 ぬくもりの失せた肉体の下からは、ほんの僅かな生の気配すら感じられない。
 弱々しく上下する胸。しかし、それも今にも動きを止めてしまいそうなほど、頼りないものでしかなかった。
 死んでは、いない。
 しかし、生きている、とも言えなかった。
 生きているなら……。
 目を覚ます筈、なのに。
「――ライ!」
 声を強めた。
 体は、ぴくりとも反応しなかった。
「…………」
 それ以上声も出ぬまま、掴もうとした腕が、指の間から滑り落ちていく。何の抵抗もなく、重力に引かれるまま、ぱさりとシーツの上に落ちただけの腕を見つめながら、アサトは胸の内に緩やかな絶望が広がっていくのを感じた。
(何処へ……行った……)
 ここに残っているのは、魂の抜けた肉の塊だけだ。
 ライは、ここにはいない。
 自らの意志で、或いは何者かの手によって攫われてしまったのか。
「……俺の……せい、だ……」
 小さな呟きが漏れる。
 アサトは驚いて足元に蹲る猫に眼を向けた。
「……本当は、俺のせいなんだ……」
「コノエ……?」
 突然湧いてきた哀れみに、差し伸ばそうとした手が途中で止まる。
 触れることが、できない。
 その事実に、愕然とした。
 僅かな間に、こんなにも遠くなってしまった。
 大好きだった猫。
 傍にいると、暖かくて、心地良かった。
 つがいになれなくても、構わない。
 ただ、時々こうしてその顔を見ることができれば、それだけで……。
 大切に思ってきたもの。
 それが……今は、こんなに、遠い。
 どうしてこんなことになってしまったのか。
 その原因は、わかっている。
 ちらと視線を寝台の上に戻す。
 なぜかはわからない。
 でも、ほんの僅かなきっかけで、全てが変わってしまった。
 大切な、もの。
 いつも傍にいたい。
 肌のぬくもりを感じていたい。
 偶然に、触れた。その感触が忘れられなくなって。
 気が付くと、離れられなくなっていた。
 狂おしいほどに、触れたい。
 繋がっていたい。
 自分の中に、相手の熱を感じたい。
 欲しい。欲しい。欲しい。
 欲望が、胸を焦がす。
 やるせないほどに、それを求めている自分がいる。
 何もかも、諦めることを知っていたはずなのに。
 今ある自分を受け容れることだけで、満足してきたはずなのに。
(……ラ、イ……)
 指先が、銀色の髪を弄る。
 顔を近づけて、くんくんと匂いを嗅いだ。
 そのうち舌先が冷たい皮膚を舐め始めた。
 そんなことをしても、求めるものは戻ってこないとわかっていても。
 それでも、自然にそうせずにはいられなかったのだ。
「……おまえが俺を、おかしくした……」
 囁きは、殆ど独り言と変わらなかった。
 声となって外に出たのかどうかさえ、わからない。
 そんなことは、どうでもよいのだ。
 たぶん、聞こえてはいない。
 目の前にあるものは、それまで『ライ』であったものの残骸でしかないのだから。
 ライは――
 
(ライは、行ってしまった……)
 
 ――行って……
 
(…………?)
 思考が、一瞬途切れる。
 突然入ってきたその感覚に、アサトは驚いたように目を見開いた。
 目の前にある姿には、何の変化もない。
 
 ――それでも、確かに、今……。
 
 彼は、神経を集中し、耳をそばだてた。
 
 
 ――……………
 
 
 ……遠い。
 どこか……ずっと、ずっと離れた場所で……
 
 それは、ほんの微かな……
 
 しかし……
 
 
 ……くん……とくん……とくん…… 
 
 鼓動を、感じる。
 
 強いリズムを刻む。
 今、目の前に横たわる空っぽの肉体が、おざなりに合わせる律動とは、比べ物にならない。
 生の、鼓動が……聞こえる。
 彼は、目を閉じた。
 全身で、それを掴もうとするかのように。
 触れた肉体を通して、ずっと離れた場所にいる、その存在の在り処を突き止めようとするかのように……。
 
 やがて……
 
陽炎のような、小さな影がぼんやりと浮き上がる。
 
 どんなに目を凝らしても、もやもやとした影は、いつまでたってもはっきりとした形をとらない。
 しかし、それでも……
 
 一瞬、鼻を掠めた、匂い……。
 目を開く寸前、小さな花びらが鼻先を通り過ぎていくのが見えたような気がした。
 まるで、ついてこい、と誘いかけるかのように……。
 幻のような淡い残像は、瞬く間に消える。
 しかし……
 
(……あ、あ……――)
 
 ――あれは、ライ、だ……!
 
 彼は、確信した。
 
 まだ、間に合う、かもしれない。
 まだ、それを、取り戻せるならば……。
 いや……。
 
 ――きっと、取り戻してみせる。
 
 そう思うと同時に、白い猫の体に手をかけ、掬うように両腕に抱え上げた。
 重さを予想し、踏ん張ろうとした瞬間、あまりの軽さに意表をつかれた。
 しかし、それも当然のことなのだと、納得した。
 なぜなら……今この中に、『ライ』はいないのだから。
「おい、どうするつもりだ!」
 ぎょっとした顔のバルドを尻目に、アサトは平然と扉口へ向かって歩き出した。
「……ライを、取り戻しに、行く」
 扉の直前で足を止めると、ようやくアサトは答えた。
「取り戻しに、って……何言ってんだ、おまえ。一体どこへ行くつもりなんだよ?」
 バルドはアサトの肩を掴んだ。
「おいっ!」
 アサトがバルドに顔を振り向けると、二匹は険悪な様子で睨み合った。
「――時間が、ない」
「……って、問題じゃないだろう!そいつは、意識がない状態なんだぞ!勝手に連れて行かせるわけには――」
「バルド!」
 コノエの叫ぶ声に、バルドの手の動きが止まった。
 振り向くと、先程までベッドの傍に崩折れていたコノエが、いつの間にか立ち上がってこちらを凝視していた。
「……行かせて、やってくれ、よ……」
 コノエはそう言うと、弱々しく微笑んだ。
 アサトが、ゆっくりとコノエと視線を合わせる。
「コノ、エ……」
 一瞬流れた、共感と、理解……。
 そして、惜別……。
 コノエは、自分の胸の中を去来するさまざまな感情の動きを、驚くほど静かに見つめていた。
(俺は、何とも思っちゃいない……)
 自分が感じなかったものを感じ、自分に見えなかったものを見た、この猫に……。
 ――かなう、はずもない。
「……アサト……」
 何とも思っていない、なんて嘘だ。
 滲む視界が、邪魔になる。
 でも、瞬きはしない。
 すれば、我慢していたものが一気に崩れてしまう。
 コノエは、深く息を吸い込み、しばし呼吸を保った。
「……ライを、頼む……」
 ようやく言えた一言は、思った以上に苦く、胸にこたえた。
 ライを抱いて出て行くアサトの後姿が視界から消えたとき、初めてコノエは自分が泣いていることに気付いた。
 濡れた頬を拭いもせず、コノエはいつまでもその場に立ち尽くしていた。

                                       (...to be continued)


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