The Blunt --4
(ほら、いつまでも寝ていちゃ駄目だよ)
くすり、と忍び笑いとともに零れる吐息が耳朶をくすぐる。
(……ん……――)
ぴく、と両耳の先が震え、意識が少し戻った。
ゆらり、と体が僅かに傾いだ。
足が、地につかない。体が宙に浮いている。
(…………?)
肌寒さを感じ、ぶるっと震えた。
全裸だった。何も身に纏っていない。
気持ち、悪い。
どこか頭上の方で両手に何かが絡みつき、放してくれない。だからそのままぶらんとぶら下がっている。いや、拘束されているのは両手だけではない。
さわさわと、何かが肌の上を動いている。
こわごわと目を開くと、体の上をずず、ずず、と動いている軟体動物のようなそのほっそりとした未知の生き物の姿が目に入り、思わず悲鳴を上げそうになった。
四肢をばたつかせると、それははっきりとした邪悪な意図を示すかのように、巻きついている小さな仔猫の体をさらに締めつけてきた。
息ができないほど、強く。怒っていることを示すように、荒々しくぎゅうぎゅうと容赦なく締めつける。
(なに……っ……?)
仔猫は目を見開いて、信じられぬように闇の空間を凝視した。
暗い洞窟の光景は、フィルターがかかったように、ぼんやりと霞む。現実なのか、幻なのか。頼りない光景の中で、ただ自分の体に加えられる痛みだけが、リアルに感じられる。
高まる恐怖と不安に震えた。何が自分の体を捕捉しているのだろう。自分は何をされようとしているのか。
(ふふ……そんなに怖がらなくてもいいのに)
再び耳元で声が囁く。
どこに、いるのだろう。
頭を動かして自分の背後にいるものの存在を確かめようとするのに、視界には何も入ってこない。
後ろにあるのは、闇の空間だけ。
どこに、いる?
首筋にかかる息。
微かな笑い声が嘲るように肌を撫でていく。
(気持ち良くしてあげようとしているだけなんだよ)
悪魔はくすくすと笑い続けた。
(や……だ……っ……)
ライは泣きそうな声を上げた。
(気持ち良くなんて、ない……)
(今はまだ、ね。もう少し我慢していたら、そのうちきっとそうなる……)
触手の緩慢な動きがほんの僅かに速くなる。
仔猫の敏感な箇所を探ろうとするかのように、体のあらゆる部分を擦り、撫で、舐めていく。鎖骨を下り、滑らかな肌を撫で、小さな突起を捉えると、それを挟み上げ、粒を押し潰すように軽く力を加えてくるのがわかった。くすぐったいような、痛いような感覚がちりちりと身を焼く。甘い痺れと、痛みが交互に訪れ、仔猫は首を振って身悶えた。
初めて感じる触感に戸惑いながらも、その不思議な高揚感に酔う。体が熱を帯び、興奮していくのがわかった。
(あ……や、……ぁ……っ……!)
どうしたんだろう。
気持ち悪い、と思っていた感触がだんだん違うものに変わっていく。
(何だか、変な、気分、だ……)
撥ねそうになる体を軽く押さえながら進んでいく触手の先端が下腹部を過ぎ、小さな雄に巻きつき、締め上げると、仔猫はひいっ、と声を上げた。
(や、だ……っ……!)
触れられたくない。そこ、は……。
(こんなに小さくても、それなりに感じてるんだ……)
揶揄された悔しさと、性器をぎゅう、と締めつけられた苦しさに仔猫の目尻にみるみる涙が溜まった。
一方で別の先っぽが蠢きながらゆっくりと後ろの孔に向かって動いていく気配を感じると、さらに仔猫は身を強張らせた。
(な、に……)
仔猫の不安な視線を感じたのか、見えない声は笑った。
(ここが、入り口だよ)
――きみの中に入るための、ね。
(はい、る……?)
信じられない考えが、仔猫の頭をぐるぐる廻る。
嘘、だ。入る、って……自分の中に、何が……?
孔の蕾付近に粘液がかかる。生暖かい、湿った感覚に、腰が浮きそうになる。
(や、だ……)
何かとても嫌な予感に、仔猫は身を捩じらせ、必死で抵抗の意を示そうとする。が、そんなことは無論今の状況では何の役にも立たない。
もがけばもがくほど、締めつける手が強くなるだけで、ますます苦しくなるだけだった。
(や、めて……)
(大丈夫、さ。力を抜いて、じっとしていれば)
事も無げに声は請け合った。
しかし仔猫には簡単にそれを信じる気持ちにはなれなかった。その声に潜むひそかな揶揄と意地悪げな悦びの匂いを敏感に嗅ぎ取ったのだ。
(う、そ、だ……)
(嘘じゃない、よ)
くすくす。笑いながら、声は繰り返し宥めるように囁き返す。
尻の回りを一通り撫でた後、尻尾の下を潜るようにその孔の先に触手の先端がぴたりとついた。さわさわと、孔の入り口を舐める。
(や……っ……!)
くすぐったいような感触に身じろぎながら、時々奥にするりと入り込む先端が粘膜に接触して引き起こす痙攣が、仔猫に純粋な恐怖を呼び起こした。遊び戯れるように、押したり引いたりしながら、生き物の指がじわじわと孔の隙間を広げていく。
(嫌だ。そんなところを、弄らないで……!)
泣きそうになりながら、いやいやと首を振る。しかし体に巻きついた生き物はその動きを止めてはくれない。
そうしてしばらく遊んだ後、不意に先端がぴたりと孔の口に押し当てられ、動きを止めた。
ご馳走を前に、ごくりと唾を飲み込む音が聞こえてきそうな、嫌な間だった。
ぴりぴり、と背筋に電流が走る。高まる緊張に、心臓が一瞬その動きを止めたかのようだ。
仔猫には、それがわかった。
――来る。来る。来る……!
それが入ってくる、最も恐れていたその瞬間を、待つ。恐怖と……信じられぬことに、そこに混じるほんの僅かな期待感。
ひくひくと、孔の先がもどかしげに蠢く感覚。
まるで自分の体が違うものの体になってしまったかのようだ。
(嘘、だ……)
自分自身のそこが、来るものを受け容れようとしていることを自覚して、仔猫は少しショックを受けた。
くす、とまた新たな笑い声が耳を打つ。
(わかったかい。きみが実はこんなに淫乱な仔猫ちゃんなんだってこと……)
相変わらずからかわれているということに、腹を立てるだけの余裕も残っていない。
それよりも、これからされるであろうことに対する恐怖が先に立って。
怖い。
怖い。
やめ……て……。
声が、喉元で凍りつく。
わかっていた。
やめてくれる、わけがない。
そんなわけ……。
生き物が動こうとする気配を察知した。
途端――ぞわ、と体に恐怖の漣が走った。
下肢が強張る。後孔が、ひくつく。
息を、詰める。
入って、くる。
「――い……や……ぁぁぁ……っ……!」
悲鳴が、はっきりとした音となって、空間に弾けた。
「……ぁ……う……」
声が、弱々しく漏れる。
目が、開かない。
(……………?)
右目が瞼にぴったりとひっついて、どうしても開かない。
――どうしたんだろう……。
左目だけが、かろうじて開いた。
体が、重い。……重くなっている。
さっきまでと、感覚がまるで違うことにわけがわからなくなる。
そう、いえば……。
俺は、どう、なって……?
なぜか、ずっと昔の自分に返っていたような……?
体をふわりと包むもうひとつの体。
後ろから、すっぽりと全身を抱き込まれている。
体感温度は、殆どない。
あまりの冷たさに、震える。
ふと見下ろすと、自分が全裸でいることに、軽い羞恥心を覚えた。
身動きしようとすると、尻尾を軽く引かれた。
再び体が背後にぴったりと密着する。
冷たい。
なのに、首筋を撫でる吐息だけが、熱い。
その温度差に、体が撥ね上がりそうになった。
す……と、回り込んできた手が胸元を撫でる。
「は……――」
忽ち悩ましい感覚がぞくぞくと全身を駆ける。
「……だれ――」
問いかけようとした口を、そっと押さえられた。
ぬるり、とした手触り。つん、と鼻を突くような体液の異臭に、顔を顰める。
「――まだ、わかってないのかい」
笑いを押し殺すような、声。
この声は、どうしてこうも神経に障るのか。
ライはますます顔を引き歪める。そんな彼の頬を、氷のような指が撫でた。
冷たさに、顰めた顔の筋肉がそのまま強張る。
「……ぼく、だよ」
――君を抱いているのは、このぼくなんだ。
嬉しそうな声に、思わず肩越しに振り返ろうとする。
緑色の悪魔の顔がちらと視界の淵に映った瞬間、全身が竦んだ。
――フラウド……!
反射的に逃れようとする体を、後ろから強い力で抱え込まれた。
くったりと、面白いほど力が抜けて、それ以上抗うことができなかった。
まるで空気の抜けたボールのように、まるで力が入らなかった。生まれたばかりの仔猫と同じような非力さだった。
ぴったりと密着する体。腰に当たる固い感触に、身を強張らせる。ひく、と臀部が嫌な反応を示した。自分の意志とは逆に感じる体が厭わしい。
それがわかったのか、相手は背後で再びくつくつと笑った。
「今さら、そんなに怯えなくてもいいだろう。もう散々きみの中には入らせてもらったんだから、さ」
悠々と言い放つ悪魔の手が、嬲るようにライの臀部を撫でる。
「きみの中……最高、だったよ……」
まだどこか満たされない欲望を含んだような、そのいやらしい触れ方に、ライの体はますます強張った。
「きみも、気持ち良かっただろう……覚えてない?」
「………………」
覚えて、いない。
記憶が、半分抜け落ちている。
ライは、愕然とその事実を受け止めた。
記憶が錯綜しているのだ。
確か……自分は、まだ小さな仔猫だったのでは、なかっただろうか。
それとも、あれは、全て夢だったのだろうか。
一体自分の頭の中で……何が起こっているのか。
わけがわからなくなった。
「小さなきみも可愛かったけど、今のきみもいいな」
そんな風に冗談めかして言うと、悪魔は耳障りな音を立てて笑った。
小さな体を震わせて、怯える仔猫。
まだ熟れていない体を、ゆっくりと開かせて……汚れのない、真っ白な未知の分野を開拓していく悦び。
仔猫の甘く高い啼き声も、耳にはとても心地良いものだ。
そんな風に、嬉しそうに悪魔は語る。
信じられない。
自分は、一体この悪魔と、何を……。
次第にライの頭は混乱し始めた。
「――俺に、何を、した……」
ライは背後の顔を睨みつけようと、頭を回した。
しかし、今度は視界の淵には何も映らない。
求める顔を、見出すことができず、呆然と目を瞠る。
抱かれている感触は生々しいのに、なぜ当の相手の姿を捉えることができないのか、不気味だった。
そのくせ逃れようともがくと、忽ち強く締めつけてくる。
見えないと、今度は不安になった。
触覚だけで、闇の中に取り残される。
闇が、深まる。
こんなに、暗かったか。
ここは、どこだったろう。
自分の今いる位置すら、わからなくなる。
抵抗を封じ込める、力に絡め取られ……。
この世のものではない、力。未知の、存在。当たり前だ。相手は、悪魔なのだから。
わかっていた筈なのに、こうして面と向かってその事実と突き合わされてみると、やはり惑いは拭いきれない。
悪魔は、そんなライの様子を面白がっているようだった。
「もっと、楽しんでみようよ。ここにいれば、誰からも邪魔されることはない。この、永遠の時間の中で、きみとぼくはずっと一緒に過ごす……。何も焦ることはないだろうけど、それでもぼくは欲張りなんだ。ほんの少しの時間でも、きみを抱いていられずにはいられない。それくらい、きみはぼくの中では大切なものなんだよ。ああ……きみに、このぼくの気持ちがわかるだろうか。ぼくの可愛い、白い仔猫ちゃん。ぼくは、もっと……もっと、きみを堪能してみたくてたまらないんだ……」
囁く声に誘われる。
何も考えられなくなる。
(く……そ……っ……)
自分が呑まれていく闇の深さに慄然となる。
このまま、どんどん落ちていくしかないのか。
深い、深い谷底に……もう、二度と戻ってこれないほど、深い闇の奥底に……。
立ち尽くす、影。
目を見開く。
確かに、今、目の前に見えたような気がする。
(……あ……)
手を、伸ばそうとした。
影はゆらゆらと揺れて、また薄くなり、瞬く間に見えなくなった。
黒い、猫。
がっかりしながら、ちらと見た影の残像を頭の奥で組み立ててみる。
黒い、猫だった。
あれは……
――アサト、だ。
名前が自然に口に上る。
その瞬間、胸がいっぱいになった。
「――アサト……」
――ライが、好き、だ……
あのとき、はっきりと囁かれた声。
溢れ込んでくる、強い思い。
今、こんなにも懐かしく、暖かく、そして苦しく、切ないほどに胸を満たす。
アサト……。
(おまえに、会いたい)
そう思うと、自分の素直な感情の吐露に、我ながら驚いた。
(おまえに、会いたい……おまえと……)
まだ、伝えられていないことがあることに、突然気付いた。
あの猫に……。
今度会えば、何と言ってやろうか。
そんなことを夢想しながら、引き寄せられるがままに、悪魔の冷たい肌に頬をのせた。
「……まだ、いるな」
悪魔は抑揚のない声で、呟いた。
笑っては、いない。
凍えるような、危険な声音、だった。
怒って、いる。
怒りの感情だけが、伝わる。
「きみの心の中に映るその影は、何だ」
フラウドは呟いた。
「……どうして、いつまでもそんなものが、ここにいる……」
はっきりと、怒気のこもる口調。
ライは、ふ、と唇を緩めた。
相手の怒りを感じた途端、恐怖が消えた。
相手の中に、余裕がなくなったことがわかったのだ。
怒ると同時に、相手の中に生じた僅かな焦り。
「俺は、おまえのものには、ならない……」
ライは勝ち誇ったように言うと、挑むように悪魔の顔を見上げた。
闇の中に溶け込んでいた見えない顔が、次第に輪郭を見せ、目の前ではっきりとした形をとり始める。
縫い閉じられた瞼がひくりと動くのがわかった。
「――何、だって……」
凍りつくような声にも、ライは怯まなかった。
「俺は、おまえの、ものには、ならない……」
ライは、ゆっくりと繰り返した。
その言葉が、相手の怒りをさらに高めることを確信するように。執拗に、繰り返す。
「おまえは、俺を捉えることは、できない……」
悪魔を怒らせることは、賢明なことではないだろう。
ここは、悪魔の領域なのだ。自分は悪魔のテリトリーの中に繋がれた囚人に過ぎない。ここでは、悪魔の意志が、全てなのだ。自分には何の力もない。どんなに頑張っても、同等に戦うことはできないのだ。それなのに、自分はまだそれに抵抗しようとする……。自分の中にまだそれほど強い力が残っていたとは、思いもしなかった。
(……だが、俺はまだ……)
諦めては、いない。
ここから、逃れようと、一筋の希望に縋りつく。
まだ鼻腔に残る、あの花の香り。
花びらが、導く。
きっと、まだ自分はあの場所に帰ることができる。
不意に、思いが確信に変わる。
(俺も……)
何を惑っていたのだろう。
ほんの一瞬で、変わった運命の輪に……。
怖れていた。
魅かれながら、踏み込むのを躊躇っていた。
でも、とっくにわかっていたことだ。
自分は、あのときから……。
いや、本当はもっと前から、そうだったのかもしれない。
花の香りが懐かしい。
もう一度……
花と戯れながら……
おまえと、体を重ねることが、できるものならば……。
――好き、だ……。
もう一度、おまえに、言えるだろうか。
そう言って、おまえの腕に身を委ねることが、できるだろうか。
(アサト……)
おまえは、今、どこにいる……?
(...to
be continued)
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