The Blunt --5







 ――猫さんたちが、戻ってきたよ……
 ――黒猫さんと、白猫さんがまた一緒だ……
 ――あれ、違うよ。白猫さんは、いないじゃない。
 ――そうだった。白猫さんは、行ってしまったんだったね。
 ――そうだよ。白猫さんは、いないんだよ。
 
 相変わらずお喋りな花びらたちが、からかうようにアサトの周りをくるくると回る。
 
 ――ねえ、言った通りだったでしょう?
 ――白猫さんは、戻ってこないよ。
 ――だって、行っちゃったんだもの。
 ――ねえ、ねえ!私たち、知ってるもの……
 
「……黙、れ!」
 アサトがうるさげに怒鳴ると、花びらたちは笑いながら四方に散っていった。
 うるさい声から解放されると、アサトはライを静かに草の上に横たえた。
 目の前に眠るような白い雄猫の裸体
 銀色の髪の房に指を絡ませながら、相手の全身を見下ろして目を細める。
 陰の月の淡い光に照らし出される白い裸体は、やはりこの世のものとも思えぬほど、美しい。
 ――綺麗、だ。
 アサトは深い溜め息を吐く。
 本当にそれが今、現実(ここ)に存在しているのか、不安になるほどに。
(ライ……)
 膝をつき、覆い被さるようにその体に身を摺り寄せた。
 目を閉じると、忽ち夜の空気を満たす強い草と花の香が鼻腔に入り込んでくる。
 濃厚な香りに半ば酔いながら、頭は妙に冴えていた。
 この場所で永遠とも思えるような交わりを続けていた光景が何度も頭の中に現れては消えていく。
 あれは、いつのことだったのだろうか。
 長い時間の隔たりを感じる。
 しかし、実際はそうではない筈だ。
 なのに……。
 僅かな間に、何が起こったのか。
 アサトは唇を噛んだ。
 自分がいない間に、ライは一体どうなってしまったのか。
 誰が……彼を連れて行ってしまったというのか。
 どこへ……?

 ぬくもりの失せた冷たい肌。
 閉ざされた瞼。
 動かない唇。
 それでも……これは、ライだ。
 
(ライ、ライ、ライ……)
 心の中で、何度も名を呼んだ。
 呼びかけに応じない魂に、焦燥を募らせながらも、ほんの一瞬ではあったが、さっきは確かにライの気配を嗅ぎ取ったように感じた。
 ライは、まだ生きている。
 まだ、取り戻せる。
 そう思ったら、じっとしていられなくなった。
 鼻腔に残る匂い。

 幻のように、闇の中に閃く白い花弁と、その向こうに見えた淡い残像。
 一片の花びらの幻に導かれるように、ここまで戻ってきた。
 冥戯の猫の庭。
 この空間には、この世のものとは異なる力――魔の力を引き寄せる気配が満ちている。
 ここでなら、ライの魂がどこへ消えたのかその消息を知る手がかりを得ることができるかもしれない。
 そんな一筋の希望に縋る。
(教えて、くれ……)
 漂う花びらたちに、呼びかける。
 しかし気紛れな花たちは最初に追い払われた意趣返しか、今度はアサトには見向きもせず、ひらひらと知らぬ顔で通り過ぎていくだけだった。
 不意に、背後から流れてきた一陣の風が首筋をひやりと撫でた。
 夜気の冷たさに、思わず首を竦ませる。
 そしてその夜気を吸い込んで一層冷度を増した動かない肢体に意識を向けると、彼は不意に身を起こした。
 寒さに震えるわけでもない。顔の表情も全く変わらない。
 生きている証を示さない、その無反応な生き物の体を眺めながら、彼はそれでも自分の上衣を脱ぐと、それを裸の胸の上にそっと掛けてやった。
 掛けながら、再び顔を近づける。
 両腕を伸ばして、自分の掛けた上衣ごと抱き込んだ。
 冷たい。
 求めているぬくもりは、ここにはない。
 それはわかっているのに、抱く手を離すことができなかった。
 たとえ脱け殻であっても、これはライだ。
 ここで、花に囲まれながら愛し合った、あの白い猫以外の何ものでもない。
 ここに、いる。
 ライの肉体は、まだこの腕の中にある。
(ラ、イ……)
 唇に触れ、舌で啄ばむようにくちづける。
 動かない唇。呼気を僅かに吐き出している鼻先に顔を近づけ、頬を摺り寄せた。
「ラ、イ……」
 口に出した途端、風に攫われてしまうことを怖れるかのように、小さな声でそっと囁いてみる。
 同時に吐き出される自分自身の吐息のその熱さに驚いた。
 そしてそれとは対照的に、触れるものを拒むような相手の頬の冷たさが、彼の心を沈ませる。
 尻尾がぺたりと地に落ちた。
 
 ――ライ……
 
 哀しい。
 反応のない、冷たい体を抱きながら、あまりの孤独さに胸が潰れそうになる。
 アサトは唇を噛み締めて、その空虚感に耐えた。
 また……。
 一匹(ひとり)になるのか。
 闇が、目の前を覆う。
 時間が過去に遡る。
 いつか、どこかで見た光景。
 
(――魔物だ)
(――こいつのせいで、罪もない猫が殺された……)
(――忌まわしい、化け物め……!)
(――こいつさえ、いなければ……!)
 
 ――ち、がう……!
 ――俺じゃ、ない……!
 ――俺は、魔物じゃ、ない……。俺は、何もやってない……!
 
 小屋の中で、打たれた痛みに耐えて、傷だらけの背を小さく丸めて蹲っている仔猫。
 あれ、は……。
 
 あれは……自分、だ。
 吉良の村にいた頃の、幼かった自分の姿、だ。
 
 誰も自分を求めてはいない。
 誰もが自分を憎み、厭わしく思っている。
 猫たちの敵意と憎悪が押し寄せてくる。
 抵抗しよう、などとは思いもしなかった。
 なぜなら……
 憎まれるのは、当然だ。――そう、思っていたから。
 彼には物心がついた頃から、それがわかっていたのだ。
 はっきりとした理由から、ではない。
 理由など、求めてはいなかった。
 ただ、自分の存在そのものが……間違いだったのだ、ということだけが、わかっていたから……それ以外に理由は要らなかった。
 自分はきっと存在してはいけないものだったのだろう。
 ここにいてはいけない存在、だったのに。なぜか、間違って生を受けてしまった。その結果、自分の母は、死んだ。自分という魔物を生み出したせいで。禁忌を犯したという罪を負いながら苦しみ、追い詰められ、自分という異形の存在を生み出した後、母は若い命を落とした。
 自分だけが生き残ったのは、不幸だった。
 自分のせいで、災いが村に降りかかる。
 いつか、自分にかけられた呪いが具現化したとき、村がどうなるのか……考えただけでぞっとする。
 みんなが憎むのも、当然だ。
 そして、本当はみんなが自分を怖れているのだ、ということも彼にはわかっていた。
 それはとても悲しいことではあったけれど、曲げることのできない事実でもあった。
 恐怖と僅かな憐憫で生かされている。そのことに酷い罪悪感を覚えながらも、だからと言って自ら命を絶つ勇気もなかった。
 生まれたとき、自分は猫の姿をしていなかったという。
 信じられない話だが、それが事実であるならば、ある日突然そんな異形の化け物の姿に戻ってしまうときがくるのかと思うと、恐ろしい。
 きっとそのときには、それまでの自分を全て失ってしまうのだろう。化け物になったとき、猫であったときの自分は消えてしまう。自分自身の意識も、過去の記憶も、何もかも……。
 それとも、それは自分の中に残るのだろうか。それまでの自分が全て残って、姿形だけが化け物になってしまうということなのか。それなら、もっと悲惨だ。
 そのとき、自分は一体どうなってしまうのだろう。考えると全身が悪寒と恐怖に粟立つ。
 でも――死ぬのは、もっと怖い。
 そのことを考えるだけで、小さな魂は震えた。
 だから、ただ存在を許されていることに甘んじて、そっとその生を生きた。
 ただ、村の猫たちの邪魔にならないように、そして言われた通りのことをすることで、何とか役に立っていればそれでいい。ひっそりと隠れるように、村の片隅で息を潜めて生きてきた。
みんなの嫌がる仕事はみんな自分の仕事になった。どれだけ辛い仕事も苦にはならなかった。なぜなら、それをすることで、自分の生きている意味が少しでも正当化される。それだけが、自分の心の糧だった。
 まだ、生きていてもいいんだ。
 自分は、生かされている。
 ただ、それ以上の望みを抱きさえしなければ、いい。
 自分は、臆病な猫だった。
 存在を最初から否定されていながら、それでも生に固執する。
 ただ……見えないように、誰からも気にされないように。
 体を折り、お腹の前に両足を畳み込む。そのまま両の腕で全身を包み込むように小さくなって蹲っていた。誰の目にも触れないように、火の消えた寒い空間の片隅でじっとしていた。
 自分が求めるものなんて、何もない。
 そんなことを望んでもいない。
 大切なものなど、何もないし、必要だとも思わない。
 母さんが、死んでから、ずっと自分は一匹(ひとり)だった。
 唯一声をかけてくれるカガリも、四六時中自分と一緒に過ごしてくれるわけではなかった。
 孤独には、すぐに慣れた。
 一匹(ひとり)でいることに、意味はない。
 ただ、何も考えず、与えられた生を生かされている。
 それでいいと思っていた。
 それが……。
 
 吉良の村を出てから、自分はいつの間に、こんなに欲深い猫になってしまったのだろう。
 そう思うと、不思議で滑稽な気がした。
 なぜ、自分はこんなにもこの猫を欲しいと思うのか。 
 どうしてこんなに孤独になることを怖がるのか。
 これまでずっと孤独が自分の生活そのものだった筈なのに。
 なぜ、自分は今……?
 
 白い猫。
 自分とは全く違う色。柔らかな、白い毛並み。
 暖かい肌にくちづけるたび、相手の鼓動が速くなるのを感じた。
(ア、サ、ト……)
 自分の名前を呼ぶ声を心地良いと感じるようになり、いつしかそれが耳について離れなくなった。
(おまえといると、気持ちいい……)
(馬鹿か、おまえは……)
 馬鹿猫、とぶっきらぼうに呼ぶ声は、それでもどこか暖かくて、胸に沁みた。
 肌に触れれば、向こうもそれに応える。それが、心地良くて。
 馬鹿、猫……。
 馬鹿でも、いい。
 このぬくもりを、離したくない。
 そう、思った。
 何も求めては、いけない。
 何も求めない。
 そんな何もない自分が、初めて欲しい、と思ったもの。
 ――大切な、もの。
 
(それが、おまえ、だ)
 目を閉じる。
 なぜか……歌が、流れた。
(母さんが、歌ってくれた、歌だ……)
 頭の中にずっと残っている、古いメロディー。
 その節にのせて、歌うように、大切な名前を口にのせる。
 
「ライ……」
 
 おまえが、好き、だ……。
 おまえが、欲しい……。
 
 ぬくもりの失せた、冷たく重量感のない、ライの脱け殻を両の腕にかき抱きながら、アサトはそれでも諦めずに相手の名を呼び続けることを止めなかった。
 
 ――ライ、ライ、ライ、ライ、ライ……
 
 
 
 時間が、どれだけ経過したのか。
 アサトには、わからない。
 目を開けると、まだ夜の闇が周囲を覆っていた。
 長い、夜だ。いつまでも明けることのない、永遠に続く夜が支配する空間。そんな違う世界の中に迷い込んでしまったのではないかと錯覚するほど、現実感がなかった。
 ただ、ライの体は、そこにあった。
 相変わらず、冷たいぬくもりのない肉体。
 耳を胸に当てる。
 微かな脈動を、感じた。
 そのことだけに、ほっと息を吐く。
 
「……そんなに、欲しいのか。その白猫が」
 
 不意に、その涼やかな声が耳を打った。
 アサトはびくっと全身を総毛立てた。
(……だ、れだ……?)
 意外なことに、それは全く聞き覚えのない声ではなかった。
 聞いた、ことがある。
 立ち上がった全身の毛が、警戒心でぴりぴりと震える。
 ぐるるる……。
 見えない相手に対して、耳をそばだて、自然に牙を剥いていた。
「それが、おまえの望みなのか」
 声が、さらに問いかける。
 僅かに含まれた悲しみの声音。
 覚えが、あった。
 いつか、そうだ。あのときも……この花畑に、いた。
 花の中に佇んで、じっと自分を見つめていた。
 静謐さを湛える薄緑色の瞳の中には、憐憫と悲哀の色が満ちている。
 悪魔の端整な青白い面立ちが、闇の中からゆっくりと浮き上がった。
 悪魔……。
 いや、本当は……。
 そうでは、ない――そのことを、もう自分は、知っている。
 こいつは、俺の……。
 
「もう一度聞く。アサト……本当にそれが、おまえの望みなのか?」
 
 ――その、白い猫が、おまえの心の底から望むもの、なのか……
 
 悲哀の悪魔は、睨みつける猫を憂いを帯びた眼差しで見下ろしていた。
「――なぜ、おまえがここに、いる……?」
 強張った顔のアサトがようやく答えたとき、カルツはふと眼を細めた。
 憂いが、慈愛の色に変わる。
「おまえの心の叫びが、私を呼んだ」
「嘘、だ……」
 アサトは唇を震わせた。
「俺は、おまえなど、呼んではいない……」
「聞こえたのだから、仕方がない」
 カルツは困ったように首を竦めた。
「だから、私はここに来た……おまえの望みを叶えてやるために」
 ぴく、とアサトの耳が反応を示した。
 濃紺の瞳が大きく見開かれる。
「……俺の、望み、を……」
 きつい語調がやや緩んだ。
 瞳に淡い期待の光が宿る。
「――失うことを怖れなければ、望みは叶うかもしれない」
 カルツの言葉に、アサトは首を傾げた。
「どういう、意味、だ……」
「白い猫を取り戻すために、おまえは別の何かを失うかもしれない……」
 カルツの顔を再び憂愁の影が色濃く覆う。
 望みを得る代わりに、支払う代価。
 それはあまりにも大きすぎる代償となるかもしれないのだ。
 それでも……この猫は、それを望むのか。
 静かな哀しみを映す瞳が、問いかけるように相手の瞳を凝視する。
 
「……おまえに、その勇気があるか?……」
 
                                       (...to be continued)


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