The Blunt --6
闇に、沈んでいく。
体の感覚が、ない。
自分が現在どこにいるのかさえ、定かではなかった。
見えない。
何も、見えない。
触れるものすら、ない。
虚無の恐怖が、襲う。
(――ど、うし、た……?)
自分は、今、どこにいる?
くすり、と笑う声が微かに聞こえたような気がした。
ぴく、と首筋に震えが走る。
――奴、だ。
自分を捉えた、悪魔の勝ち誇った顔が脳裏に浮かぶ。
(――俺は、おまえのものにはならない)
そう言い放つと、相手は馬鹿にしたような笑みを浮かべたが、それでも隠し切れない苛立ちと憤りが感じられた。
(――ぼくのものには、ならない?)
嘲笑が悪魔の口を大きく歪めた。
(……なら、いっそ誰の手にも触れることのできない場所へ落ちてみるかい?)
――きみを手放すのは残念だけどね。
酷薄な口調で悪魔はそう言うなり、一瞬の躊躇いもなく、その優雅な指先を彼の目の前に突きつけた。
相手の意図がわからず、呆けた顔で見返す。
にやりと笑う歪んだ表情に嫌な予感がしたが、警戒するには既に遅かった。
とん、と軽く胸を突かれただけで、足元が崩れた。
体がふわりと宙を舞う。
(……あ……あっ……!)
声のない悲鳴とともに、彼は闇の空間を真っ逆さまに落ちていった。二度と這い上がってこれないほどの深い、深い闇の底へと……。
落下の振動と衝撃を受けながら、頭の中がぐるぐると回る。混濁する意識が、彼を完全なる無の世界へと導いていくまでに、さほど時間はかからなかった。
(……は……)
徐々に意識が戻ってくる。
嬉しくない感覚だった。
意識を失ったまま……もう何も考えないでいられたら、その方がずっと良いのに。
なぜ、また自分は戻ってきたのか。
どうして自分はまだ生きているのか、と不思議な思いに捉われた。
うっすらと瞳を開きかけたが、忽ち襲ってくる闇の深さに慌てて瞼を閉ざした。
あるようでないような頼りない肉体感覚。
ただ、中途半端に覚醒した意識だけが、行きつ戻りつを繰り返す。
たまらなく、気持ちが悪い。
自分が今ここに存在しているということを否定したくなる。
そもそも――
なぜ、自分はまだ生きているのか。
いや、これが生きている、といえるのだろうか。
自分はもう、とっくに違う世界に放り込まれていたのではなかったか。
そしてここでは、生も死も関係ない。
ここには、何も、ない。
魂は、逃げることを許されない。
ずっと、ここにいるしかないのだ。
沁み入るような冷たい恐怖が、脳を侵し始める。
(俺は、どこに連れてこられてしまったんだ……)
息苦しさを覚える。
吐き出す息を、感じない。
なのに、痛覚だけはじくりと全身を苛む。
喘ぎながら、弱々しい心臓の鼓動を数える。
もうすぐ、息が止まるのではないかと不安になるほど、打ちつける脈動は頼りない。
(――嫌、だ)
恐怖が遂に彼の平静さを失わせた。
(……い、やだ……っ……!)
――ここは、嫌だ……。
――ここに、いるのは……。
突然悲鳴を上げたい衝動に襲われる。
およそ音というものと無縁になってしまっていることを自覚しながらも、必死で口を開け、叫び声を上げようとあがいた。
しかし音を発する代わりに、外から入り込んでくる冷たい空気が、魔物のように蠢いて喉の奥を犯し、余計苦しさが増した。見えない生き物が侵入してきたかのような、気味の悪い感触が口内に広がる。閉じようとしたが、今度は何か強い力に妨げられてそれができなくなった。口を開けたまま、ただ、うう、うう、と声にならぬ呻きを上げる。
そのうち、自分を見つめる視線を意識した。
見られて、いる。
そこに、いる。
ざわり、と胸が騒ぐ。嫌な感覚だった。
動かぬ気配。
それでも、それはそこにいた。
そして……今自分を捉えているのは、それであることは明白だった。
存在していて、同時に存在しないもの。
闇に浮かぶ、見えない眼。
閉ざされた瞼の奥にぎらぎらと輝く瞳孔が、見える。
目を逸らそうとしても、或いは目を閉じても、追いかけてくる。その視線を避けることはできない。
切り裂くような痛みを伴う悪寒が走る。
胸の奥から突き上げてくる、震える衝動の波が全身を揺らした。
(怖いのかい?)
虚無の淵から、声が聞こえる。
奴の、声だ。
ああ……と、絶望的に理解した。
奴は、やはり……。
自分を手放した、のではなかったか。
そんなライを嘲笑うかのように、くつくつと笑う声が周囲の闇に広がった。
(そうだよ。最初から何度も言ってるじゃないか。ぼくは、きみが大好きなんだから。きみを手放すつもりなんかあるわけないだろう)
こく、と喉を鳴らす音が耳朶を打つ。
(――ぼくの可愛い、白い猫……)
悪魔の顔の輪郭が露わになる。
黒い闇の中に溶けるような暗緑色の色。ぬるぬると蠢く爬虫類の色だった。
見たく、ない。
しかし、その映像は彼の意志に関わりなく、眼窩の奥に捻じ込むように押し入ってくる。
(た……す、け……)
無駄な言葉だった。絶望の深さに圧倒されて、途中で言葉が消える。
(そうだ……もう、俺の声は誰にも届かない……)
ここは、深い、深い闇の底。
何ものも足を踏み入れることのできない、魔に封印された世界なのだ。
自分は、あの世界ではもう、死んでいるのかもしれない。
ふと、そんな気がした。
死と引き換えに安息を手に入れるのが、常である筈なのに。
それさえ、自分には許されない。
(……自業自得、か……)
皮肉な笑みが漏れる。
悪魔と関わりをもってしまった自分の業が……この結果を導いたのだ。
仕方が、ない。
力が抜けていきそうになった体に、それが触れてきた瞬間、心がぞくりと震え上がる。
頬を、舐める舌。
(あ……)
開いた口の中に入り込んでくる生暖かい生き物の感触。
気付いたときには、相手の腕の中に体を捉えられていた。
嫌がる舌に吸い付かれながら、長く濃厚なくちづけを強要される。
(悲しむことはないよ。……いいじゃないか。ぼくはきみが好きなんだ。わかっているくせに。ぼくはきみが好きで好きでたまらないんだよ。だから、こんなところまで、きみを連れてきた。ここなら、誰にも邪魔されない。誰も入ってはこられない場所だから。――悪魔でさえ、こんな深い闇を越えてはこられないんだよ。そんな場所まできみと一緒にきたぼくの気持ちが、わかるかい。ぼくがどんなにきみをぼくだけのものにしたいか、ってこと。ぼくは、きみを誰の目にも触れさせたくない。きみの名前を呼んで、きみに触れてこんな風にキスするのは、このぼくだけだ。……ずっとここにいよう。ぼくはきみと一緒なら、平気だよ。ここでずっと、ずっと可愛がってあげる。きみを悦ばせることなら、何でもしてあげるから。ねえ……)
フラウドは、嬉々として囁き続けた。
その言葉を聞きながら、だんだんどうでもよくなっていく。
たぶん……その通りなのだろう。
こうなった以上、悪魔に体を委ねているしかないのだろうと思う。
まあ、いい。
この強欲でサディスティックな悪魔と交わりを続けながら、さほど長く正気を保っていられるわけがない。
すぐに、自分は消える。
自分という存在は、ここにあってないものとなる。 そうなれば、もうどうでもいい。
奴が、虚ろになった俺自身を何度犯そうが、知ったことか。
せいぜい楽しむがいい。
俺は、逃げてやる。
おまえから、逃げてやる。
俺は、おまえのものには、ならない……。
絶対に、おまえのものには、ならないのだから……。
そう思うと、ふ……と、笑った。
乾いた笑みが、頬を伝う水滴を拭った。
途端に……
ぎゅっ、と締めつけが強くなる。
骨が折れるのではないかと思うほどの圧迫感に、息を荒げた。
頬をべろりと舐められた。
じとりとした液体は、まるで酸のように熱く頬を焼く。
「……逃げられると、思うなよ」
低く威嚇するような強い声音が、耳を貫く。
心臓が飛び出しそうになった。
フラウドという名の生き物の声ではない。
魔界に棲息するもの。この世のものでは、ない。異形の存在。まさしく、それは――『悪魔』の声だった。
「……おまえは、逃げられない」
冷酷な声が、体を拘束する。
それは、あたかも鉄の鎖で全身を縛り上げられていくような感覚だった。
「……おまえは、俺のモノなんだよ」
笑い声まで、地の底から響く。
「これから俺が、ゆっくり喰ってやるんだからな」
――美味そうな、白い猫。
頬から首筋を這うように撫でていく舌遣い。
恐怖と嫌悪の中に、ほんの僅かに生まれる刺激。
ぴくぴくと震える肌。
怯えているのか。それとも、何かを期待しているのか。
そんなライの体をますます弄びながら、悪魔の息がどんどん上がっていく。……興奮して、欲情しているのだ。
悪魔を悦ばせていることに、屈辱と怒りを覚えるが、どうしようもなかった。
くくく……
ぴちゃぴちゃと舌なめずりをする音が耳膜を犯す。
(……あ……っ……)
どんなに抑えようとしても、繊細な部分を弄られると、自ずと体が反応してしまう。
「――はっ……ぁん……!」
思わず喉の奥から突き上げるように零れ落ちてきた嬌音に、ぎくっとした。
「しっかり発情してんじゃねえかよ、淫乱猫」
下肢を根元から掴まれて、さらにひっ、と声を上げる。
絞り上げるように扱かれ、脳天まで鮮烈な刺激が走った。
「あ……あっ、あっ……ぁ……っ……!」
嫌だ。
こんな……。
激しい拒絶。
止められない肉体。
(淫乱猫)
悪魔の揶揄が、胸を抉った。
(――ち、がう……)
ライは、それを必死で否定した。
ち、がう……
……お、れ、は……
こんな、ものを求めているのでは……な、い……
俺の欲しいもの、は……
本当に、自分が求めているもの、は……
花の、香が……
幻のように、鼻先を掠めた。
閉じた瞼に、花びらが纏わりつくような、そんな不思議な錯覚すら覚えた。
体を、重ねながら……。
何度も何度も、舌先でたどたどしく繰り返す。
ぎこちない、言葉。
それでもそれはいつしか耳に心地良く馴染んでいた……。
(……すき、だ……)
噎せるほどに強い芳香。
それでいて、心の中にいつまでも甘く優しい匂いを残す……。
不思議だ。
どうして今、こんなにあの映像(イメージ)が浮かんでくるのだろう。
今、暗く深い地の底で、こんなにも淫らに体を開いて悪魔に犯されようとしている自分の脳内に広がるイメージは全て、音のない静謐な花畑の風景だった。
仄暗い夜空の下で、花びらに見守られながら、交わった……。
あの時、自分はどんな風に感じていたのだろう。
思い出すと、たまらなくなる。
急に……。
せり上がるように、その名が口に上る。
決して口に出してはいけない、その名前が。
悪魔は、それを許さないだろう。
今、ここでそれを口にすれば……。
警鐘が、鳴る。
駄目だ。
呼んでは、いけない。
なぜなら……。
もし今、それを口にすれば……。
恐ろしいことが起こる予感がする。
自分に、ではない。
いや、自分なら、どうなってもいいのだ。
しかし……
「――あ……」
どうにも、できない。
声にならない声が……。
音を、刻む。
見えない空気が、微かに震える気配を感じた。
黒い、毛並み。
自分には、ない色。
濃紺の瞳。
力強い生命の漲る、鮮やかな色を思い浮かべる。
思念が、伸びる気配を感じた。
抑えられない。
(……ライ……)
耳が、ひくと動く。ライは、思わず片目を見開いた。
(嘘、だ……)
気のせいだ。錯覚に違いない。
悪魔が、顔を上げた。
醜く引き歪む表情を見て、彼にもその声が届いたのだとわかった。
――まさ、か……。
ライはゆっくりと瞳を周囲に彷徨わせた。
一体、どこから……?
闇は動かない。
何も、見えない。
なのに……。
(……ライ……)
聞こえる。
自分の名を呼ぶ声が。
ライは、悪魔の腕の中で僅かに身を捩った。
(――アサト……?)
黒い猫の姿を必死で探す。
まさか……。
本当、に……?
「……ア、サ、ト……」
呟くように、応えた。 目の奥が、熱い。
狂ったように、それを求めている自分に我ながら驚いた。
悪魔など、構うものか。
「アサト……」
震える声が、闇に響く。
「――アサト……アサト……っ……?」
どこに、いる?
俺は……
「――俺は、ここにいる……!」
そう叫んだ瞬間、闇が崩れ落ちるような凄まじい咆哮が頭上から轟いた。
(...to
be continued)
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