The Blunt
冷たい、風。
夜の、匂い。
……目を開けると、薄闇に包まれていた。
膝を抱えて、草の間に蹲って……。
いつの間にか、眠っていたらしい。
ぼんやりとした頭をぎこちなく動かして、視線を周囲に彷徨わせる。
何も、見えない。
ひっそりと静まり返った空間の広がり。
その真ん中に、ただ一匹だけ、取り残されている自分。
じわりと沁み入るような、その孤独さに、唇を噛む。
――俺、は……
喉が、震える。
嫌な、音だ。
不快さと、悲しさと、この泣きたいような孤独。
(いつまで、ここにいる……?)
自分は、ここで何を待っているのだろう。
ここで待つことに、何か意味があるのだろうか。
そう、思いながらも……
それでも、動けない。
まだ、ここを、動けない。
――もし、あいつが戻ってくるならば……。
空っぽの胸に、淡い期待を抱いて。
たぶん、無理だろう。
そんなことは、恐らく、あり得ない。
それでも……。
望みのない期待感に、繋ぎ止められて。
蹲って、前方に目を凝らす。
(もしかしたら……)
この闇が濃くなるまでに、見つけたい。
闇が全てを包み込み、何もかも見えなくしてしまう前に、それを見つけなければ。
僅かな焦燥に駆られる。
そのとき――
不意に、さああっ、と一陣の冷たい風が過ぎていった。
風に揺れて、花びらが、舞い上がる。
(あ……――)
思わず手を伸ばした、その指先に触れたかと思うと、溶けるように空中に消えていく。
その幻のような儚さと、色とりどりの花びらの交じり合う淡い光彩の美しさに、彼はしばし息を止めて見入った。
昼間とはまた違う。
淡色の美しさに、感嘆の吐息が漏れた。
(綺麗、だ……)
そう思いながらも、一方で、どこか満ち足りないものを感じる。
――もっと……
もっと、綺麗なものが、ある。
綺麗で、強くて、冷やかな瞳。
それが、腕に抱いた途端、溶けていく。
綺麗だけれど、脆くて、頼りない。
硝子のような繊細な心を、そっと抱き締める。
そんなにも切なくて、いとおしく思えるものに遭遇したのは、初めてだったかもしれない。
手の中から放した途端――胸にぽっかりとあいた穴を埋めることができず、思いもかけぬ喪失感に愕然とした。
どうしてよいか、わからなくなる。
ほんのりと胸に残る余韻を抱き締めながら、求めるものがまた戻ってくるのではないかという漠然とした予感に捉われ、ここを動けないでいた。
陰の月が完全に昇りきった今になっても、まだ……。
それがいつ戻ってきてもすぐわかるように、薄闇の中で目を凝らし、両耳をぴんと立てて、じっと蹲っている。
陰の月のほのかな明かりの下で、艶やかに波打つあの白銀の毛はさぞ美しく映えるだろう。
そう思うと、無性に早く会いたくなる。
もう一度、あの毛並みに触れ、滑らかな白い肌に指を這わせてみたい。
焦がれる思いは、募る一方で。
ずっと、ずっと待っているのに……。
いつまで待っても、求めるそれは現れない。
アサトは、溜め息を吐いた。
――来ないよ。
囁く声を聞いたような気がして、思わず耳を突き立てる。
(こ、な、い……?)
さわさわと風が吹いた。
急に体に冷たさが染み込んでくる。
――来ないよ、来ない。
――来るわけないじゃない。
くすくすと耳障りな笑い声に囲まれた。
(どう、して……?)
花たちの意地悪な囁きに、愕然としながらも、必死で問い返す。
――なぜ、そんなことを、言うんだ……?
答えは、返ってこない。
ただ、あちこちで忍び笑いが起こる。
そのうち、からかいの中にもほのかな哀れみを含んだ声が、ひそひそと聞こえてくる。
――可哀想な、猫さん。
――もう、遊んでくれる猫がいなくなったよ。
――可哀想に……。
――私たちが、代わりに遊んであげた方がいいかもよ。
――そうだね。そうしよう。
――黒猫さんが、寂しくないように……。
――おいでよ、黒猫さん。
――一緒に、踊ろう。
――そうだ。踊ろう、踊ろう。
花たちは、優しい。
たった一匹で取り残された黒い猫を慰めようとそれぞれが親切に手を伸ばしてくる。
それを、拒むこともできず、やむなく彼は花たちと戯れる。
目の前をくるくると舞い散る花たちのダンス。
いつしか自分もその一部と化したかのように、くるくると回っていた。
甘い匂いが心地良く鼻腔をくすぐる。
慰めの中に、一時憂いを忘れる。
でも、それも長くは続かない。
気が付けば、目が自ずと探している。
あの、猫の姿を。
白い毛並みをなびかせ、少し高慢そうに鼻を高く上げながら、こちらに向かってやってくる。
美しい、白い猫。
自分を撥ね退けるような仕草をしながら、最後には手の中に従順に抱かれて喉を鳴らしている。そんな姿がたまらなく愛しくて何度も何度も飽くことなく愛撫を続けた。
あんなにも美しくて、愛しい……自分だけの、猫。
それなのに、なぜ……。
彼は、いつまで経ってもここへは来ない。
一体どこへ、行ったのか。
――白猫さんは、来ないよ。
(……う、そだ……!)
――本当だよ。私たち、知ってるもの。
――ねえ……
――そうだよ。来ないんだよ。
(……いい加減な、ことを……言うなっ!)
たまらず、花たちに荒々しい言葉を投げた。
アサトの勢いに怖がった花たちはきゃあっ、と叫んで逃げていく。
(そんなこと……あるわけが……)
残された黒い猫は、ぶるぶると身の毛を震わせながら、その場に立ち尽くしていた。
漠然と胸の内を広がっていく、不安感。
嫌な感じだ。
何だろう。
この、感じ……。
――帰って、来ない……?
本当、なのか。
本当に、彼は、もうここへは来ないのか。
どうして?
どこかへ、行ってしまった……?
でも、どこへ……?
(どこ、なんだ……?)
どこに、いる。
ライ……。
ライ、ライ、ライ……!
しまいにそれは、狂おしいほどの叫びとなって、空気を揺さぶった。
「ライ――ライ……ライ――ッ!……!」
怯えて逃げていった花びらの群れは、二度と戻ってくることはなく、いつしかアサトは枯れた野にただ一匹、虚しく佇んでいた。
……ライ。
白い耳が、血に染まる。
自分の歯にくっつく肉片の感触。
気持ちが悪くなって、ぺっと吐き出した。
口の中に残る鉄分の不快な味。
何度も吐き出しては、意識を失う。
気が付けば、また気持ちが悪くなる。
その繰り返しだった。
(……エ……ノ、エ……!……)
遠い場所から聞こえてくる声が、だんだん間近になる。
「……コノエっ!」
体が揺すられ、頭の中で何かが弾けた。
その瞬間、目が開いた。
「コノエっ、大丈夫か?」
バルドの心配そうな顔が覗き込んでいる。
「あ……」
口を開けた瞬間、咳き込んだ。
「無理するな。ほら、水……」
抱きかかえられながら、何とか体を起こし、容器に口をつけた。
冷たい水が喉下を流れ落ちていくと、一気に目が覚めた。
目を瞬きながら、きょろきょろと周囲を見回す。
宿の部屋にいることに、変わりはない。
相変わらず、道しるべの葉のぼんやりとした明かりが部屋をうっすらと照らし出しているところをみると、まだ夜は続いているようだ。
あれから、そんなに時間は経っていないのかもしれない。
あれから……?
ふと、考え込む。
何が、あったのだろう。
記憶が錯綜していて、よくわからない。
確か……。
思い出そうとしているうちに、わけのわからない恐怖が駆け上ってくるのを感じた。
何だか、酷く嫌な感じだ。
自らの中に残る忌まわしい匂いを嗅ぎ取ると、急に胸がむかついた。
胃の中にあるものを、全て吐き出してしまっても、まだ足りないくらいの、強い嘔吐感に襲われる。
一体、自分の体に何が起こってしまったのか。
恐怖に、身を震わせる。
そんなコノエの体を、バルドの逞しい腕がぎゅ、と掴み、強く揺すった。
「しっかりしろ!……おい、コノエ」
「……あ……――」
言葉が上手く出てこない。
自分のしてしまったことの恐ろしさを、伝える勇気がない。
「……何が、あったんだ」
低い声で、バルドが囁く。
目が、笑っていない。
その、厳しい眼差しに、思わず目を背けてしまう。
「――俺……」
――ラ、イは……?
そう、聞きたいのに……声が、出ない。
「――ライは、そこにいる」
コノエの心の中を見透かしたように、バルドはそう答えた。
「……そう……か……」
少しほっとした。
(ライは、そこにいる)
ひどくあっさりとした口調だった。
――ひょっとしたら、全て夢だったのではないか。
ふと、そう思った。
悪い夢に、うなされていただけなのかもしれない。
現実には、何も起こってはいなかったのだ。
あまりにうなされていたから、バルドが心配して見に来てくれた。ただ、それだけのことだったのだ。
……でも、ライ、は……?
どきりとする。
自分がそんな風にうなされていたのだとしたら、肝心のつがいが放っておくわけがない。
いくら何でもこんなにすぐ近くにいるのに。
一番に気付いて、大丈夫か、と揺り起こしてくれるのは、つがいである彼以外にはあり得ない。
……それが、なぜ……?
次々と怪しい疑問が胸に浮かぶ。
「……ライ、は……」
ようやく瞳を合わせたコノエに、バルドの強い視線が降り注いだ。
怖いくらい、深刻な表情だった。
こんな顔のバルドを見ることは、滅多にない。
「……自分の目で、確かめてみた方がいい」
そう言うと、バルドはコノエの体をゆっくりと引き上げた。
ふらりとよろめきながら、何とか立ち上がる。
まだ目の前がくらくらするような気がした。
現実感があるようで、ない。
マタタビ酒でも飲めば、こんな風になるのだろうか。
額を軽く押さえながら、コノエは目を上げ、周囲に視線を走らせた。
ぼんやりとした光の中に浮き上がる室内の様子。
床に倒れていた自分のすぐ前にある、もうひとつの寝台。
その上に、つがいは白い体を横たえていた。
うっすらと照らし出された顔はいつもにまして白く見えた。元から全身の毛や肌が、真っ白の色をした猫だったと思いながらも、その生気の失せた冷たい色はどちらかというと死猫がみせるような色に近かった。
(……死……?)
縁起でもない連想に、我ながらどきりとした。
そんな想像を振り払うように、寝台に近づいて、横たわっている猫の顔をおそるおそる覗き込んだ。
血の滲んだ耳を見て、慌てて口の中を舌で拭うように出し入れしてみる。
何となく口中に残るその生臭さに、少なくとも相手の耳を齧ったのは事実だったのだと思い知らされた。
「息は、している」
バルドの声が、鈍く響いた。
――息は、している?
その言葉の意味が掴めず、コノエはさかんに瞬いた。
鼻を蠢かしながら、顔を近づけてみる。
ほんの微かだが、鼻先に当たる呼気を感じる。
しかし、そのまま相手の頬に頬を重ねた瞬間、その冷たさに驚いた。
まるで体温が感じられない。
生きている、感じがしない。
(……な、んだ……?)
コノエは軽いパニックに陥った。
「――冷たい、だろう?」
すぐ傍らにバルドの気配を感じたが、顔を向けることさえできなかった。
舌で、頬を舐める。
滑るような肌には、何の反応も感じられない。
舌先が、硬直する。
(……ライ……?)
呼吸をしている。
胸に耳を当てると、とくとくと波打つ脈動が伝わってくる。
確かに、彼は生きている。なのにその手応えが、まるでない。
これは……どういうことなのだろう。
冷たい体に触れる両手の先が、どうしようもなく震えた。
「……俺が見たときには、おまえとライは、重なり合うようにして倒れていた。――そのときにはもう、奴はそんな状態になっていたんだ」
バルドの説明が耳を通り抜けていく。
何が起こったのか。
だんだん、記憶が甦ってくる。
自分がライに、何をしたのか。
自分が、しようとしたこと……。
悪魔の、囁く声。
あれは、幻だったのだろうか。
全身から消えた、気配。
確かにあのとき、体の中で奴が蠢く気配を感じた。
奴は、自分の中に、存在していた。
それが……。
コノエは息を呑んだ。
――まさか……。
(……ラ、イ……)
「――ライ」
実際に聞こえた声が、自分の喉から出たものではないことに、驚いた。
しかし、同時にそれは、よく知る声でもあった。
(……あ……)
ぴりぴりと、毛が逆立つ。
背後に猫の動く気配を感じた。
手の下の体に注がれる強い視線を意識する。
見たくない。
そう思うのに、なぜか体は逆の反応をした。
ゆっくりと振り向くその目の先に、立ち竦む黒い猫の姿が見えた。
猫はいつの間に入ってきたのか、ひっそりと扉の前に佇んでいた。
「――ライ……」
怒っているのか、悲しんでいるのかわからぬような声が、もう一度つがいの名を呼んだとき、コノエは、もはや自分の唇がどんな言葉も発することができなくなっていることに気付いた。
(...to
be continued)
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