Light Obsession 1






 目を、開ける。
 傍には、もうあの猫の気配はなくなっていた。

 ほっとするとともに、どこか寂しさが入り混じる複雑な思いで、しばらく暗い天井をじっと睨み続けた。
(……馬鹿な、猫だ……)
 いなくなった相手にではなく、それは自分自身に向けた自嘲の呟きだった。
 そのとき、さっと空気が流れ込んだ。
 夜気の冷たさに、掛布からはみ出した肩が震える。
 それでようやく、窓が開いたままであることに気付いた。
「……くそ」
 舌打ちしながら掛布をはねのけ、のろのろと体を起こすと、ベッドから床へ足を下ろした。
 全裸の体が闇にうっすらと白く映える。
 下肢にまだしっとりと湿った感覚が残っていて、意識した途端に体の芯がまたざわりと騒いだ。
「……っ……!」
 立とうとすると、腰から下を鈍い痛みが走り、思わずがくりとよろめく。
(……痛……っ――)
 片膝を落とすと、そのまま前進から力が抜けて、動けなくなった。
 こんなに辛いとは思わなかった。
 小さく吐息を吐くと、自嘲するように笑った。
 あれだけ何度も突っ込まれれば、仕方がないだろう。
(……馬鹿猫が――)
 覆いかぶさってくる黒の中に自分自身の真っ白な色が滲み、ゆっくりと溶け込んでいく。未知の感覚に戸惑いながらも、その痛みと悦楽を無意識のうちに受け容れている自分がいた。
 ――ア……サ……ト……
 口の中で、ゆっくりとその名を呟く。
 名前を呼ぶのは、苦手だ。
 コノエでさえ、なかなかその名前を口に出すことができなかったほどだ。あの黒猫となると、名前があったことすら、思いつかなかった。
 なのに、気付けば名前が自然に唇から零れ落ちていた。
 自分がその名を覚えていたことに、我ながら驚いた。
 ――ア、サ、ト……
(――ライ……)
 不意に自分の名を呼び返す声が聞こえたような気がして、どきりとした。
 無垢な赤子のような、あの濃紺の瞳が目の前をちらつくだけで、忽ち心拍数が跳ね上がる。
 睦み合ったあの不思議なひとときが甦ると、また妙な気分になった。
(……ライ……!)
(……っ……もう、やめ、ろ……っ……!――)
(いや、だ……!)
(……ぁ……あ……っ……!)
(……ラ……イ……っ……!)
(……ふっ……く――ア……サ、ト……っ……)
(……ライ……っ……!)
 ――ライ……!
 自分の名を嬉しそうに呼びながら、黒い猫はライを抱き続けた。
 いい加減にやめろ、と言いかけるたびにその唇を塞ぎ、嫌だ嫌だと耳元で駄々をこねた。
 ――嫌だ。まだ離れたく、ない。
 そうして激しく湧き上がる欲望に突き動かされるがまま、何度も何度も相手の中に入りたがった。
 そんなことを繰り返しているうちに、いつのまにかライ自身もそれを拒めなくなっていることに気付いた。
 無理に犯されている、という感覚から、次第に相手の欲望に共感し、自分もその中にずるずると嵌まり込んでいくのがわかった。
 しまいに相手がアサトである、ということすらわからなくなり、今度は自分自身の中で滾り出した熱情に煽られて自制の糸はあっさりと断ち切られた。貫かれていく苦痛とそれを上回る淫靡な快楽の波の下で思う存分酔いしれた。
 何も考えずに、ひとときの快楽から逃れられずに、ただ狂ったように、まぐわいを続けた。
 
そんな激しく深い交わりを終えて、ようやく頭が冷静な判断を下せるようになった今、改めて痛感した。受け容れる側の体にかかる負担がこんなにも大きいものであるということを……。
 快楽の代償を払う側に回ってしまった自分のこの情けない姿にライは嘆息した。

 
すっかり忘れていた感覚、だった。
(……あいつも……こんなに辛いの、か……)
 潤んだ瞳で見つめるつがいの猫の顔を、ふと思い出した。
 気付かぬ間に随分無理をさせていたのかもしれない、と自省する。
 そういえば、ここ数日の間、コノエとはあまり交じわっていなかった。
 それを避けているわけではなかったのだが……。なぜか、そのタイミングが合わなかった。――と、少なくともライの方は、そう思っていた。
何も無理にせねばならぬほど溜まっているわけではなかったので、あまり気にはしていなかった。
 
しかし、本当のところはどうだったのだろうか。
 
ふと、わからなくなった。
 
コノエは……どう思っていたのだろう。
 
まさか、自分との交尾をわざと意識して避けていた――のではあるまい。
 
――そんな、筈……。
 
不意に不安の漣が立った。
 根拠のない、不安。それなのに、何だ。この気持ち悪さは。
 さーっ、と空気が揺れた。
 冷たい風が嘲笑うように、裸の体を撫でていくと、寒さに全身が総毛立った。一気に体温が下がる。目に見えない冷たい指先が、心臓まで掴み上げていくかのようだった。急に、息苦しさを覚える。
 思わず震える体を両腕で抱きながら、床に蹲った。
 見えない不安に怯える心を奮い立たせるように、彼は必死で思考を現実に戻した。
 流れ込んでくる、風。
 そう、だ……。
(窓、が……)
 開け放たれた窓の、せいだ……。
 ――くそっ、なぜ窓を閉めて行かない?
 そう思うと、無頓着に出て行った黒猫を心の中でさんざん罵った。
 怒りを向ける対象を見つけることで、この不安感から目を逸らそうとしているかのように……。
 ふと、虚しくなった。
(……何をしているんだ、俺は……)
 ライは頭を抱え、暗い床に視線を落とした。
 情けない格好をしている、と思った。
 全裸で床に蹲ったまま、わけもなく不安と焦燥に駆られ、悶々としているこんな自分の姿を誰かが見たら、何と思うだろう。
 ライは弱さをこんなにも安易に露呈してしまっている自分自身にどうしようもなく苛立った。
(どうしたというのだ。俺は……!)
 あんな……。
 黒い猫に抱かれながら、淫らに喘ぐ自分の姿がほんの一瞬浮かんだだけで、頭の中が熱く沸き立った。
(……ち、がう……!)
 あんなことは、一生かかっても起こり得ないことだった。
 それが、なぜか……。
 
たまたま――ほんの僅かな偶然が重なり……意図せぬ結果を引き起こした。それだけのことだった。
 
なのに、どうしてこうも引きずられていなければならないのか。
 あんな、たかが一時の接触だけで。
 
これでは、自分の方が馬鹿猫になってしまう。
 しかし……。駄目だ。力が入らない。
 笑うしかなかった。
 
何でこんなに弱い思考に捉われてしまっているのか。
 まだ、体の中に燻るあの熱の残滓のせいだろうか。
 それが、自分をおかしくしている原因なのか。
 ――また、風が流れた。
 今度はより強く、感じる。
 はっと顔を上げると、冷たい風が頬を撫でた。
 ずきり。
 鈍い、疼くような痛みを感じた。
(――なっ……!)
 覚えのある感覚に、動揺する。
(……そん、な……?)
 信じられぬ思いで、躊躇いながら、右目にそっと手を当てる。
 瞼の上から、傷跡に触れた途端、指先が驚きに震えた。
 ――熱い。
 右目が、異様なほどの熱をもっている。
(どう、して……?)
 消え去った筈の、あの感覚がまた甦ろうとしている。
 これは、どういうことなのか。
 ライは、愕然と居竦んだ。
 失われた体の一部。
 ずっと、触れずにいたもの。誰にも触れさせずにいた、過去の醜悪な傷跡。
 それを、初めて晒してしまった相手は、こともあろうにあの二匹の馬鹿猫たちだった。
 ――怖れて、いた。
 時折疼く古い痛み。
 自分が自分でなくなっていく恐怖に震えた。
 永遠に封印しようとしていたものがいつか解き放たれ、再び自分を食い尽くそうとするのではないかという、漠然とした怖れを抱き続けた。
 付き纏っていた化け物を倒し、呪いを振り払い――全てが終わったと思われた後でさえ、その怖れは完全には消えなかった。
 それが――
 暖かい舌に、ぎこちなく、瞼の上をそっと舐められると、ほんのりとした温みが広がり、いつしか緊張は解れていた。
 大丈夫だ。
 奴は、もういない……。
 もう、怖れることはないのだ。
 ……ようやく、忌まわしい過去から逃れることができたのだと思い、ほっとした。
(そうだ。俺は、ずっと……)
 ――忘れていた。
 
あの、目の奥から熱く突き上げてくるような痛みを。
 
壊れそうになる、不安と怖れを。
 
なのに、なぜ、今また……。
(――ふ……っ――)
 音を立てぬ忍び笑いが、耳膜を擽る。
 見えない指先が、頬を撫でていく。
 冷たい、凍りつくような、吐息とともに。
 自分の心臓の鼓動が速まるのを感じる。
 この、感覚――
 闇を見据える。視覚は何も捉えない。
 それでも、確かに、感じる。
 その、生き物の気配を。
 この闇の中で、自分と、その傍に蠢くもうひとつの存在……。
 歓迎されざるもの。
 自分は、それを知っている。
(……あ……?――)
 そう思ったとき、びくん、と瞼が引き攣った。
 瞼の下。失われた眼窩の奥から、伝わる痛み。それはだんだん強さを増してくるかのようだ。
(……う……っ……)
 右目が、暴走しようとしている。
 熱が高まり、今にも瞼を突き破って焔が噴き出すのではないかと思えるほどだった。
 ――な、ん、だ……?
 わけがわからなかった。
 ただ――
 突然、眠っていた何かが目覚め、今それが凄まじい怨嗟の念を発していることだけは、わかる。

 まるで、それは……。
 あの、とき。

 ――そう、だ……。
 あいつ。
 あの化け物と、やり合ったときの……。
 あのときの、感覚と同じ――
 
――くすり。
 今度ははっきりとした音が空気を揺らした。
 奴の、笑い声。
(……奴、なのか……)
 湧き上がる疑惑の念を振り払う。
 いや、そんな筈は、ない。
 奴は……確かに、この手で……。
 突き刺した刃が、肉を貫いていく感触を、まだはっきりと覚えている。
 不敵に笑い続ける相手の息が止まる最後の瞬間を、この目が確かに見届けた。
 奴である筈が……。
 ――おまえは、誰、だ……。
 そんなぎこちない問いかけに、見えない顔が、くすくす、と笑う。
(――知っているくせに……)
 笑いを含んだ声が、からかうように続ける。
(――白猫ちゃん……)
 聞き覚えのある、声。
 全身の毛が、ばりばりと逆立った。
 信じられぬ思いで見開かれた薄青の瞳が、何もない闇の空間を睨み据える。
 そこにいる筈のものを探して。
(……まさ、か……)
 そんな、ことが……。
 ライは、頬を強張らせた。
 痛みが、酷くなる。
 閉ざされた目の奥で、何かがひっきりなしにのたうち回っている。
 痛い。
 それまでとは比較にならぬほどの、猛烈な痛みが襲った。
 堪らず瞼を押さえ、呻き声を上げる。
(……フ――……)
 ――フラウド……っ……!)

 死んだ筈の、化け物が……。
 姿は見えないのに、声と気配だけははっきりと感じ取れる。
 奴は、ここに、いる……。
 首筋を、凍るような吐息がくすぐった。
 ――ここに、いる……!
 ライは痛みを堪えながら、ぐるると威嚇するように唸った。
(――ようやく、会えた……)
 そんな彼を嬲るように、ねっとりとした声が懐かしげに呼びかける。
(――僕の、可愛い白猫ちゃん……)
 見えない指先が肌をなぞる。
「……っ……あ――……!」
 逃れようとする体に、強い圧力がかかった。
 ごろん、と仰向けに転がされ、床に縫い止められた。
「……よ……せっ……!」
 もがいても、体はびくとも動かない。
 ざわざわと嫌な予感に震える。
「何を――……」
 声は最後まで続かなかった。
(――わかっている、くせに)
 くすくすと笑う不快な響きが、耳を犯す。
(――黒猫ちゃんとは、随分具合が良かったんだろう?)
「……………!」
 ライは愕然と目を見開いた。
 ――では、ずっと見られていたのか。
 アサトと交わっている間、ずっと……。
(――ちび猫ちゃんと宜しくやっているだけなら、僕を呼び寄せることもなかったろうに……)
 乳首に刺激が走る。上がりかかった声をすんでのところで抑えた。こんな化け物の愛撫に反応してたまるものか、と歯を喰いしばり、空を睨みつける。
(――きみが、他の猫を受け容れたりするから……こうして、出てこなきゃならなくなった……)
 笑う声に、深刻な響きが混じる。威すような、暗い怒りが感じ取れた。
 しかし、ライには相手が何を言っているのかわからない。
 
――こいつは、何を言っている……?
 ただ、不快感と嫌悪感が募るばかりだった。
(――わからなければ、いいよ。でもね……)
 声から笑いが完全に消えた。
(――それでもきみは、これだけは忘れちゃいけない……)
 ぞっとするような暗い響きが、ライの中に冷たい恐怖を呼び起こす。
(――きみが、本当は誰のものなのか、ってことを……)
 その言葉が聞こえたとき、初めて舌なめずりをする緑色の悪魔の影がうっすらと見えたような気がした。

                                                 (Fin)


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