Light Obsession 2






(……あ……っ――!)
 緑色の蛇が体に巻きついてくるような、ぬるりとした異様な感触に、竦んだ。
 何も見えないのに、確かに肌に纏わりつくその存在を感じる。
 振り払いたいのに、動けない。
 押さえつける見えない爪が肌に喰い込んでくるかのようだ。
 気持ちの悪さに、吐き気が込み上げてくる。
 嫌悪と悪寒に震えながら、しかしその一方で――
 ちりちりと、ほのかに体の芯で疼くものがある。
 下肢に、徐々に熱が集まっていく。
(……ぅ……あぁ……っ……!)
 見えない刺激に、これほどまでに敏感に反応する体が、我ながらおぞましかった。
(……ち、が……う……!)
 目を閉じて、頭の中を真っ白に塗りかえる。
(……落ち、着け……)
 速まる心臓の鼓動を必死で抑えようとした。
 ――違うのだ……。
 ――これは……
 
――これは、現実ではない。
 幻、だ。
 頭の奥に埋もれている記憶の僅かな残像が、このような幻を生み出しているだけで……。
 悪い夢を見ているのに過ぎない。
 なぜなら……
 これは、過去の記憶にしか存在しない。
 『奴』は、とっくにこの世界から、消えた。
 しかも『奴』にとどめを刺し、この世から消し去ったのは、誰でもない、この自分自身だ。
 だから、こんなことがあり得るはず――
 ――とめどもなく流れ続ける思考を中断するように、突如けたたましい笑い声が割り込んでくる。
(――だーめ!駄目だよー!逃げようとしたって、無理、無理!)
 気配が、濃くなった。
 全身の毛が粟立つ。
 
頸部を締め付けられているのだろうか。急に、息もできぬほどの強い圧迫を感じた。
(――離さないよ……)
 甘ったるく、それでいて軽い威嚇のこもった声が囁く。
 
ざわり、と全身の神経が波立った。熱に浮かされたように、頬を火照らせながら、微かな喘ぎを洩らした。
 
入ってくる。
 
『奴』が、この体の中に入ってこようとしている。
(……は……あっ――!……)
 心臓が爆発しそうな勢いで、激しく脈打ち始めた。
 ――入って、くる……!
 とてつもない不快感に堪えきれず、身悶えする。
(……や、めろ……っ……!)
(――抵抗しても無駄だっていうのに……本当にわからない猫ちゃんだね、きみは……)
 異物を受け容れまいと頑なに拒む肉体を、せせら笑うかのように、それは容赦なく侵入を果たしていた。
 心臓を摘み上げられたかのように、冷たい震えが走る。
 まだ、それは動きを止めない。気を緩めると意識が飛んでしまいそうだ。しかし、そうなるとますます相手の思う壺になるような気がして、どうしても気を失うわけにはいかないと思った。
 とはいっても、どうすることもできない状況には変わりない。
(く……そ……っ……!)
 
じわじわと化け物の手の内に捉えられていくのを感じる。
 どうして、こんな奴に憑かれてしまったのだろう。
 
どうして、こんな奴と関わってしまったのか……。
 
あの頃――。
 
己の強さに……溺れていた。
 
倒した相手の体から溢れ出す生臭い血の匂いと感触に、飢えていた。
 
両手を覆う血の中にほんのりと残る、生の残滓を感じさせるその生暖かな感触に……酔った。
 
もっと、強くなりたい。
 
そしてもっと、もっと……獲物を狩るときの、あの生々しい温もりに包まれた悦楽をこの手で感じたい。
 
狂ったような欲望に苛まれながら……『奴』と出会い、その結果――この右目を引き換えにしてまで、自分が得たものは何だったのか。
 
――ククク……
 
――クッ……クックックッ……ハッハハハッ……アッハハハハハッ――……!
 
耳障りな笑い声が耳膜から次第にけたたましさを増しながら、脳内いっぱいにわんわんと反響する。
 
己の馬鹿な思考を、思いきり嘲笑われているかのように。
(な……に、がっ……!)
 ――何が、おかしいっ……!
 引き攣る唇は、言葉を紡ぐことすらできない。
 うっすらと開きかかった隙間から零れ落ちたのは、ただ弱々しい喘ぎとも呻きともつかぬ音だけだった。
 熱く疼き続ける右目の奥……何も映さなくなった筈の網膜の上に、徐々に浮かび上がる顔。
 醜い傷跡を残し、閉ざされたままの両の瞼が、ひくりと痙攣すると、ライははっと息を飲んだ。
 ――目が、開く。
 戦慄が背筋を駆け上った。
 同時に、ぴくん、と体が小さく撥ねた。
(……あ――あ、っ……!)
 恐怖から逃れるように、彼は瞼を上げた。
 そして目の前に、緑の影を見た。
 影が瞬時にはっきりとした像を結び……。
 
――嫌、だ……っ!
 見たくない、と思った。
 悪夢が、現実になる。
 その両目は、縫い閉じられたまま、開かれてはいない。
 しかし、その容貌ははっきりと目の前にあった。
 右目が焼けそうに熱い。
 心拍数が上がる。
(……あ……――)
 官能的な唇が、鼻先で蠢く。
 緑色の悪魔が、求めるくちづけ。
 それは、忌まわしくも淫猥で甘美な香りに満ち、妖しげな悦楽の罠へと誘う。
(――ほーら、捕まえた……)
 濡れた唇が、誘うように頬にそっと触れた。
 紛れもない現実の感覚、だった。
 目の前にいるのは、紛れもなく、喜悦の悪魔。
(――フ……ラウ、ド……――)
 その名を呼びたくは、ない。
 なのに、自然に胸に浮かんだ。
 不思議な感情の波が掠めていく。
 この悪魔と自分とを繋ぐ糸に引かれるように……魂が引き寄せられていく。
(――キス、しよう。そうしたら、きみはぼくのものになる。そして今度こそ、きみを……)
 ――きみを、連れて行ける。
 にっこりと、笑う。
 縫い塞がれたままの上瞼が僅かに揺れる。
 小さな喜悦に、震える子供のように。
 唇が緩み、その顔いっぱいに笑みが広がる。
 ――一緒に、行こう。
 連れて、行くよ。
 だって、寂しかったんだから……。
 長い、長い永遠の時間(とき)を、暗い穴の中で過ごさなければならない。
 何も、見えない。
 何も、聞こえない。
 何ひとつ味わうことも、触れるものすらなく……飢えと渇きだけが徒に朽ちていく心を苛む。
 あんなところに、永遠に独りでいることなど、できはしない。
 もう、独りきりは嫌だ。
 だから……。
(――きみと一緒なら、ぼくは嬉しい……)
 フラウドの唇が頬を擦りながら、ひっそりと囁く。
 ライの中で奇妙な感情が広がり始めていた。
 あの、激しい嫌悪と拒絶、そして不快感が嘘のように鎮まり、なぜか今は目の前の喜悦の悪魔の顔から目が離せなくなっている。
 寂しげに、そして不安げにぴくぴくと動く瞼の下にかつてあった筈の瞳……それは、どんな色を宿していたのだろう。
 自分を狂おしいほどに求めるこの悪魔の手から、抜け出せない宿縁を感じる。
 ――このまま……こいつと行ってしまえば……。
 ふと、そんな考えがとろけるような頭を掠める。
 ――そうすれば、どうなる……?
 不安定な現在の自分自身の姿を思い返す。
 コノエと一緒に生きていくことを選んで……ようやく『幸せ』という言葉の意味を少しは感じられるようになった、と思っていた。
 自分の現在いる場所が正しい、と信じ込んでいた。
 なのに……。
 最近、ふと気付いた。
 何かが、違う。
 何かが、まだ――足りない。
 自分の求めているものは、まだ得られてはいないのではないか、と。
(――コノエ……)
 初めて愛しいと思った猫。
 
自分の心に巣食う魔の空間を、埋めてくれた猫。
 優しい瞳で見つめてくる猫を抱き締めながら、溢れてくる情愛に満たされていく自分を感じた。
 
乾いた心が癒されていく。
 
他の猫に自然に微笑むことができる自分の姿に驚きながら……。
 ――この猫を、離したくない……。
 思いが強くなる。
 そして強くなればなるほど……怖くなった。
 ――いつまで、こうしていることができるのか。
 幸せ。安堵。
 そういったものに慣れていない体が自ずと覚えてしまう不安なのか。
 時々、不意に感じる心の隙間。
 
つがいの猫が、遠くなる。
 自分の中の、闇が見える。
 
愕然とした。
 
まだ、自分は闇を抱えているのか。
 
そう悟った瞬間、全ては崩壊した。
 不安と焦燥から逃れられない。
 何でもないことですぐに苛立ってしまったり、鬱になってしまいがちな自分に、相手は気付いていただろうか。
 たぶん……気付いていただろうな。そう思って苦笑する。
 何ということか。
 手に入れた、と思っていた筈のものが、実際にはとうの昔に手の間から零れ落ちてしまっていたのだ。
 
だからこそ、こんなにも心が惑う。
 少しでも相手の気持ちが確かめられないと、不安になる。
(……俺は、何もわかってはいない……)
 本当は、まだ、何もわかってはいなかった。
 自分のいる、場所。
 これが、正しい選択だったのか。
 コノエは……自分といることで、本当に満足しているのだろうか。根幹から揺らぐ信頼感。相手の気持ちが見えなくなると、忽ち不安が芽吹く。
 相手が悪いのではない。コノエには何の責もない
 
全ては、自分のせいだ。
 
自分の中に存在する、この暗い閉ざされた空間が、自分を狂わせようとしている……。
 
それはおそらく、この悪魔との断ち切れぬ繋がりに深く関係しているのかもしれない……。
 ――そうか。まだ、『奴』は存在していたのだ。
 ――そして俺が、こいつを呼び寄せた……。
(――そうだよ。ぼくを呼んだのは、きみ自身なのさ……)
 ――だ、か、ら……ねえ――
 ふざけた口調のまま、それでもどこか強い圧力を感じさせる。調子に乗った悪魔は要求を続けた。
 
――ぼくも、きみと繋がらせてよ。
 ――もっと、もっと……。
 
――深く、強く……。
 ――ぼくを、きみの中に入らせてくれよ、ねえ……。
 甘くねだるような響き。
 その語韻だけで、頭の中が蕩けそうになる。
 体がびくん、と撥ねた。
 悪魔の手の動きを感じた。
 肌の上から骨をたどって指先が胸から下へとゆっくりと滑り下りていく。淫らな愛撫に裸の体は敏感に反応してしまう。
 覚えのある、感触に眉をひそめる。
 自分は以前も、この悪魔と……。
 そこで、思考が止まった。
 戦慄が駆け抜けた。
 悪魔と、自分が……。
 まさか、交わったことがある、とでもいうのか。
 怖ろしい考えに凍りつく。
 ――そんな、忌まわしいことを……!
 剥き出しの雄をぎゅ、と締めつけられる生々しい痛みに、ああっ、とライは思わず悲鳴を上げた。
(――きみはぼくの猫だ、って言ったろう……)
 満足げに、そして意地悪げに微笑む悪魔の顔を恨めしげに睨みつける。が、それも長くはもたなかった。
 下肢を嬲られ始めると、その刺激がもたらす痺れるような悦楽の波に翻弄され、もはや唇からは掠れた喘ぎ声しか出なくなった。
(――そうそう、お利口さんだね……。そうやって素直に感じていれば、いいんだよ。ね……悦いだろ……?ねえ、そんなに感じちゃってる……?)
「……ぅ……っ、る、さい……っ!……」
(――無理しなくて、いいんだよ。誰も見てないから)
 ここにいるのは、きみと、ぼく。
 フラウドが、鈴を振るような笑い声を立てる。
(――好きなだけ、声を上げればいいんだよ。悦ければ、悦い、って言いなよ。白猫ちゃんの可愛い声が聞ければ、ぼくは嬉しいんだから……――あ、でも、ね……)
 そこで、少し声をひそめる。
(――でも、ぼくはいつまでもここにいることはできないんだ。ぼくの本体は、ここにないから……)
 だから……と、声が粘つくような甘さで絡みつく。
(――おいでよ、ぼくのところへ、さ……)
 さっきから、言ってるように。
 ぼくは、きみが来ればこんなに嬉しいことはないんだ。
 どんな暗く深い穴に閉じ込められてたって、怖くはない。
(――きみと、一緒なら……)
 そのとき――不意に、声に滲む切なさを感じた。
 快楽の潮が引いていく。その代わりに、奇妙な共感が芽生えた。
 この、やるせなさ。空白を埋められない苦しみ。どこまでも果てのないような、この深い寂寥と孤独の深淵を覗き見たような気がした。それは、自分がこれまで抱いてきたものと同じではなかったか。 ライは吐息を吐いた。
(……そう、すれば……)
 おまえに、ついて行けば……。
 少しは、楽になれるのだろうか。
 偽りの世界に身を浸す必要もなく、喜悦の悪魔と、この感情を分かち合って……。
(……それが、本当に……?)

 心のどこかで、違う、と否定する声が聞こえた。
 
――騙されるな。
 ――おまえには、まだ……

 
(おまえが、いい……)
 
 甘えたように喉を鳴らす黒い猫の姿が脳裏をちらと掠めた。
 ――あれ、は……
(……ああ……)
 あの、猫は……
 甘い花の香とともに、その名が唇に上る。
 ――アサト……?
 遠くに閃いた、その濃紺の瞳を追いかけた。
(アサト……っ……)
 わけもなく、心が乱れた。
(――どうしたんだい……?)
 どこを見ている、と悪魔の声が再びライを自分の手元へ引き寄せようとする。
(……わ、からない……)
 ライは戸惑いながら、呟いた。
(――馬鹿だね。何を考えることがあるんだい?)
 悪魔は笑った。
(――もう考えるのはやめなよ。きみはただ、ぼくについて来ればいいんだから)
 躊躇うライの背を押すように、ほら、おいでよ、と相手はさらに誘いかける。
 優しく、惑う心を溶かし去ってしまうような、魔力を含んだ甘い声音。
(――ね、行こう。ライ……)
「ライ――――――っ!」
 悪魔がその名を口にしかけると同時に、もうひとつの声がそれに覆い被さるようにけたたましく叫んでいた。
 生気に溢れた強い声。
 体の芯までびんびん響く。
 体の中に入り込み、同化しようとしていたその邪悪な念が一気にその力を殺がれていくかのように。
 飛んでしまいそうな意識が忽ち立ち返る。
 それだけの力が、その声には宿っていた。
 ――あ……
 青い目が瞬く。
 目の前の光景が、ぶれた。
 緑の悪魔が……。
 あんなに現実味を帯びていた悪魔の姿が……その像が砂のように砕けたかと思うと、輪郭のみが残り、それもみるみるうちに闇に同化していく。
 ちっ、と忌々しげな舌打ちが聞こえたような気がした。
 姿はしかし、もう見えない。
(――もう少しだったのに……)
 殺気を含んだ呟きは、萎れるように小さくなり、やがて闇の彼方に消えていった。
 気配が、遠くなる。
 嘘のように、体が軽くなった。
 四肢が、動く。少し痺れているようだが、普通に動かせる。
 ほっと息を吐いた。
 同時に、猫の毛が肌を撫でるのをぼんやりと知覚した。
 黒い毛並みと褐色の肌が、視界に入ってくる。
 暖かい腕が、背を押し上げる。
 誰かに、抱え起こされていた。
 まだ、覚えている。
 伝わってくる、この生きた猫の温もり……。
「大丈夫、か?」
 心配げに、その声が呼びかけた。
 それを聞いた途端、脱力しそうになった。
「……お、まえ……?」
 ――ア、サ、ト……?
 黒猫の顔を、まじまじと見つめた。
「……な……んで……ここ、に――」
「――声が、聞こえた」
 アサトはあっさりと答えた。
 迷いない瞳が、ライを見返す。
「声……」
 呆然と呟くライに、アサトはこっくりと頷いた。
「ライの声が、聞こえた」
「……な……にを――」
「ライが呼んでる、と思ったから――」
 アサトの目が訴えるようにライを直視する。
「――ば、かな……!」
 ライの胸は激しく波立った。
(何を言ってる……この、馬鹿猫は……っ!)
 頬が熱くなる。
 ――俺の声が、聞こえた、だと……?
 そんな、こと……
「……い、いい加減なことを、言うな……っ!」
「いい加減じゃ、ない」
 アサトは憮然と言い返した。
「本当のことだ」
 強く言い切られて、ライは一瞬言葉を詰まらせた。
 ――俺は……
 喜悦の悪魔に、魂を持って行かれるところだった。
 もう、少しで……。
 罠に陥る寸前で、自分を現実(ここ)にとどめたものは……
(ライ―――――――ッ……!)
 自分を呼び戻した、声。
 あの、声が……
「……お、れは……」

 無意識のうちに、自分は誰かに助けを求めていたのか。
 この猫には、それが聞こえたのか。
「……俺は、おまえなど、呼んではいない……」
 力のこもらぬ声には、真実味がまるで感じ取れなかった。
(この猫には、聞こえたのか)
(俺の、声が……)
(本当に……?)
 不思議な気持ちで、相手を眺めた。
「ライ……?」
 大きな瞳を見開く黒い猫の顔を見ているうちに、その衝動が自然にライを動かした。
(――……しよう……)
 フラウドの声が、風にそよぐように、微かに耳を掠める。
 
 ――そうしたら、きみはぼくのものになる……
 
 触れたい、と思った。
 
この猫の唇に触れて……
 そして……。
 
それから……?
 
――……俺は、何を……?
 
それ以上、考えることができなくなった。
「――ア……サ、ト……」
 自分のものとも思えぬような、驚くほど甘い欲望の吐息が零れた。

                                           (Fin)


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