Light Possession 3
(――ん……)
とろとろといつの間にか眠り込んでいたらしい。
耳に、何か生暖かいものが触れている。こそばゆく、くすぐったくて、振り払おうとしても、それはしつこくついてくる。
しかし、まるきり鬱陶しいかといえば、正直のところ、そうでもない。
むしろ、少し気持ち良かったりもする。何だか妙な気分だ。
そんな風に思いながら、うっすらと開きかけた瞳の中に、その黒い耳と頭がいきなり飛び込んできたとき、彼は思わず声を上げそうになった。開きかけた唇を強く噛んで、出かかった声を飲み込む。
自分の今置かれている状況を見て、一気に目が覚めた。
いつもと、違う。
いつもなら、交わった後、隣りで眠る猫の無防備であどけない寝顔を眺めながら、満ち足りた気持ちでゆっくりとその毛づくろいをしてやるのは、自分の方であって……。
決して、こんな……。
自分の身に起こっていることが、信じられない。
そうだ。自分はこの猫と……。
(この猫に……)
あの激しく貫かれていく、痛みと快楽の交じり合った不思議な交尾の感覚を思い出して、ライは再び僅かに走る興奮に、全身の毛を震わせた。
(……この、俺が……)
ぴちゃぴちゃと一心に自分の耳を舐め続けている黒猫の満足げな顔を見ると、かっと頬が熱くなった。
僅かな心の動揺を封じ込めるように、ことさら険悪な表情をつくりながら、ライは片手を上げると相手の顔を払いのけた。
いきなり撥ね退けられたアサトは、気を悪くした風もなく、ただ心外といった面持ちできょとんと見つめ返してくる。
「……起きたの、か」
「――いつまで、くっついているつもりだ」
まだ少しだるいが、少なくとも熱は引いたようだ。意識ははっきりとしていた。しかしそのせいで、一層恥ずかしさが込み上げてくる。
「……あれだけやれば、もう十分だろうが」
小さな声でそう付け加えると、気恥ずかしさに目を逸らした。
(俺は……この、猫と……?)
こちらの気持ちの焦りとは対照的に、
「うん……」
アサトは、うっすらと微笑みながら、無邪気に見返してきた。
「……そう、だな……」
ねだるような声につられて目を上げると、視線がぴたりと合って、どきりとした。
いつも顔を合わせるたびに、露骨なまでの敵愾心を向けてくる相手。その単純さとしつこさに辟易しながらも、適度にやり過ごしてきた。そのうち、それがこの猫とのごく普通のやり取りになり、最近ではわずらわしさを感じることすら忘れそうになることもあった。
なのに……。
こんな顔を見ると、却って戸惑う。
この猫が自分に対して、こんな風に微笑みかけてくるなど、あり得ないことだった。
どう対応してよいのか、わからなくなる。
「なっ、何だ……」
妙に落ち着かなくなり、再び視線を逸らす。
その瞬間、後悔した。
完全に相手のペースに引き込まれている。
「……と、とにかく、離れろ」
腕を伸ばし、相手の体を押しのけようとした。
と、その手をぐいと掴まれた。
あっという間もなく、相手が体の上に覆いかぶさってくるのがわかる。
「おっ、おいっ!」
いい加減にしろ、と突き放したいのに、ごろごろと喉を鳴らして肌を摺り寄せられると、なぜか力が抜けていく。
「だ……め、だ……」
それでも、力ない声を無理に振り絞り、抗った。
――もう、これ以上、は……。
元々自分たちにはそんな必然性はなかった。
ただ一時の衝動で、こんな風になってしまったものの……本当は、こんなことには何の意味もない。
必死で理性を取り戻そうとする。
自分自身に言い聞かせるように……。
わかっているのか。これは、自分のつがいではない。
目の前にいる、これはあの黒猫だ。
それに、こいつの求めているのは、自分ではない。
違う。
違うのだ。
違う……そう、わかっているのに。
どうということもない。そんなことは、最初からわかっていた筈で……。
なのに――
なぜ、こんなに嫌な気分になる?
「――コノエ、が……」
ようやく、口から出たその名前に、ぴくりと黒い耳が反応する。
――コ、ノ、エ……。
その名が呪文のように、胸を焼く。
自分の、大切なつがい。
自分が胸に抱いてきた、唯一の温もり。
それ、が……。
目の前をよぎる。
その瞬間……。
ライは、目を閉じた。
「……コノエが、戻って、来る……」
ゆっくりと、吐き出すように、繰り返した。
「……コノエ……が――」
自分の体にかかっていた重みがすっと引いていく。
目を開けると、ぼんやりとした表情のアサトがゆっくりと身を離していくのが見えた。
魔法が、解けた。
そう、感じた。
当然だ。
これは、何かの間違いだったのだ。
こんなことは、最初からある筈もないことだった。
自分も、相手も、何だか少しおかしくなっていた。
発情期ではなくても、何らかの偶然性で、互いの体の波長が合うときがあると、こんなことが起こることもあるのだろう。たぶん、そうだ……。そうでなければ、説明がつかない。
(こんな、馬鹿なこと……)
ふ、と苦い笑みが零れる。
あり得ない。絶対に……。
そう繰り返しながら、ライは微かに震えた。
(何だ……?)
――胸の中を吹き抜ける、この冷たい風は。
「……そう、か……」
アサトが、ぽつりと呟いた。
「俺は、コノエに、会いに来たんだった」
――そうだ。おまえは、コノエに会いに来たんだろう。何も俺と抱き合うために来たのではなくて。
アサトは首を傾げた。
「……俺、は……」
困ったように、視線を落とす。
悪いことをして、叱られるのを待つ子猫のような幼い動作が、ライを苦笑させた。
「馬鹿猫」
ライはそう言うと、自分もゆっくりと体を起こした。
下半身に鈍い痛みが走り、顔を僅かに歪めた。ちっ、と舌打ちする。
(……馬鹿猫が……!)
遠慮の欠片もなく、調子に乗って何度も何度も勢いよく突っ込んでくれたお陰で、この様だ。ケダモノめ、と小さく呟く。
「ほら、下りろ」
はたくように、褐色の腕を押すと、ようやく相手はのろのろと動き出した。が、すぐにその動きが止まった。それを見て、訝しむようにその視線の先を追う。
それが何かわかると、あ、と小さく息を吐いた。
(……そう、か……)
「花、が……」
アサトは、しばらくの間、ベッドの周囲に散らばった花から目を離そうとはしなかった。
「ああ……花、か」
ライもそれをぼんやりと見つめながら、繰り返した。
花の匂い。部屋の中に、うっすらと漂う香りに、気付いた。
そう、だった。この花が……。
花の匂いに、酔った。
今はさほどにも感じないのに。なぜ、あの時はあんなに不思議な酩酊感に襲われてしまったのか。
「コノエに、持ってきたんだったな」
ライはそう言いながら、微かに胸が疼くのを感じた。
罪悪感……といったものだろうか。
――花。
アサトがコノエに摘んできた花。
あんなにむせ返るような強い香りを放っていた生気に満ちた花々が、いつの間にかこんな風にしな垂れて床に放り捨てられている。ばらばらに散らばる赤や黄色の花弁は、まるで、情事の残り香のような淫靡さすら漂わせている。
微かな罪悪感が、よぎる。
花を、駄目にした。
それは、何も自分のせいではない筈、なのに……。
「――すまなかった」
低く漏れたその小さな呟きが、相手に聞こえたとは思わなかった。
なのに、その瞬間――
アサトが急に振り向いてから、何が起こったのかすぐにはわからなかった。
さっきまでとはまるで違う、その急激な表情の変化に、驚く間もなく――急に、飛びかかってきた猫をよけることもできなかった。
再びベッドに押し倒された。
強く、荒々しい力に押し潰されそうになる。
「……っ……?」
そんなにも激しく滾る感情をぶつけられて、戸惑った。
ぐるる、と喉の奥から唸る声。荒い呼吸が、余裕のなさを曝け出す。相手が異様に興奮しているのは明らかだった。
「――どう……した……っ?」
猛る獣の牙に項を噛まれて、う、と小さく声を上げた。
――なぜ、こいつはこんなに荒れる?
「………ッ……!」
痛い。
噛みつかれた肌を、今度は強く吸い上げられる。
引き離そうとしても、吸盤のように密着した唇は肌にぴたりとくっついたまま、どうしても離れない。腕を掴む力が強くなった。
「く……ッ……!」
痛みや腹立たしさといった当たり前の感情が、次第にそれとは別のものへと変わっていく。体の奥で何かが、疼く。また、あの熱いうねりを、感じる。
頭の中でしきりに警鐘が鳴る。でも、どうにもならない。
「……な、に……して……っ!……」
肌を這っていく唇の動きを感じて、喉を詰まらせた。
舐められている。
(あ――……)
びくん、と体に電流が走る。
身を捩ろうとすると、ぎゅっと体を強く押しつけられた。
わからない。
この猫が何を考え、行動しているのか、わからない。
でも、自分も……。
いつのまにか――
求められれば、もうそれを拒めなくなっている自分の体に、愕然とした。
「は……」
乳首を口に含まれ、転がされると、もうそこからは頭の中が真っ白になった。
いったん引いた筈の熱がまた戻ってくる。
「もう……やめ……――!」
言葉にならない。どうしてこんなに感じてしまうのだろう。苛立たしいが、仕方ない。
理性では、どうにもならない勝手な肉体の反応。ああっ、と妙に色ずんだ声が上がるのを、抑えきれなかった。
頬が熱い。
嫌だ。どうして、こんなに……。
目を上げるとぬっと濃紺の瞳が目の前に迫った。
「どう、しよう……」
困ったように、じっと見つめられる。
「気持ち良くて、やめられない」
今さらそんなことを臆面もなく言葉にする相手に、
「――ばっ……馬鹿……っ!」
泣きそうになりながら、それでも精一杯睨みつけた。
天然なのか、性欲だけに駆られた馬鹿猫なのか。
……やめられない、のは自分も同じだった。
このまま、ずるずるとこの猫にハマっていく……そんな予感がした。
――どうしたら、いい?
それを聞きたいのは、自分の方だ。
「だから、コノエが……ん、あ……ッ……」
乳首を軽く噛まれて、痛みと刺激に喘いだ。
「……おまえが、いい」
低声でひっそりと囁かれた言葉に、耳を疑う。
「……何を、言って――」
「ライ――」
「……あ……っ……」
名を呼ばれた途端、頭の奥で何かが弾けた。
どうしたんだ、自分は。
本当に、どうしたんだ……。
ライは、困惑した。
流される。
このまま、流されてしまう。
恐怖と、期待と。
――コノエ……。
あんなに、愛しかった猫の姿が、遠くなっていく。
代わりに、目の中に映るのは……。
黒い尾が、足に触れる。さわさわと、誘うように毛が脛を撫でる。
――もう少しだけ……。
少しずつ、欲望が頭を擡げる。
封じ込めようとした、小さな欲望の焔が再び燻り始める気配を感じた。
「もう一度、しよう――ライ……」
甘えるように囁きながら、額を擦りつけてくる猫の頬をそっと舐めた。
やがて相手の顔が微かに動き、唇が触れ合う。吸い込まれるように、舌が赤い口蓋の奥に呑まれていった。
飽くこともなく、貪るように互いの体を求め合う。
触れる指先から、次々に熱い欲情が流れ込んでくる。
声も出ぬほどの熱い吐息に喉を焦がしながら、こうして相手の熱い肉塊を悦んで飲み込んでいく自分は今、酷く淫らな顔をしているのだろうな、と思ったが、すぐにそんなことはもうどうでもよくなってしまっていた。
(Fin)
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