Light Possession 5






 扉が開き、灯りが近づいてくる。
「あれ、何だよ。おまえ……アサト?」
 黒くもっこりとした塊がテーブルの上に載っていると思ったら、忽ち黒い耳がぴん、と立って、それがよく見知った黒猫の姿だということがわかった。
 すぐ傍まで寄っていくと、アサトはのろのろと頭を擡げて、眠そうな顔で目の前に立つ逞しい体躯の縞猫を見上げた。
 目を合わせると、バルドは苦笑した。
「何だ、おまえ。また、窓から入ってきたのか」
 食堂の窓が僅かに開いているのが見える。施錠はいつもいい加減だから、こちらにも非があるのだが、この猫は朝昼晩関係なくまともな入り口から出入りしようとはしない。
「いつも言ってるが、窓から入るのはよせって。そもそもここは1階なんだから、表の扉から入ってきたらいいだろう」
 言っても無駄だと思いながらも、いつものように説教じみた口調になるのは、面倒見のいい親父ならではの性だ。
「ん?けど、どうした?何か元気ないじゃないか」
 バルドはふと目を細めた。
 何となく、いつものアサトとは違うような気がしたのだ。
「いつ来たのか知らんが、メシがまだなら、夕飯の残りがあるから、食うか?」
 バルドの親切な申し出にも、アサトは軽く首を振るだけだった。
「腹は、空いてない」
「ん、そうか?」
 黒い耳が落ち着かなげにぴくぴくと動いているのを見て、バルドは首を傾げた。
「……何だよ、どうした?」
「うん……」
 口ごもるアサトに、何か話したがっているような素振りを察して、やれやれとバルドは向かい側に腰を下ろした。
「何か、悩み事か?」
 およそ、『悩み事』などという言葉とは縁遠いような気がする猫を前に、バルドはおもむろにそう問いかけた。
「……俺、ヘン、だ」
 アサトは下を向いたまま、ぽつり、と呟いた。
「……コノエが――」
 そこで、言葉が止まる。
「ん……?」
 何が、と問いかけたい気持ちを抑えて、相手の言葉が続くのを待つ。
「……俺は、コノエが……好きだ……」
 アサトはひっそりとそう言った。
 思いつめた様子に、バルドは苦笑した。
「うん。それは、まあ、知ってるが」
「………………」
 そこで、また言葉が途絶える。
 やれやれ、とバルドは口を差し挟んだことを後悔した。
 言葉を紡ぐのが、苦手な猫だとは知っていた。
 しかしこの調子でいくと、一晩かかっても何を言いたいのか、聞き出せそうにもない。
 かと言って、目の前にいる黒猫からは、どうも放っておけないような深刻な何かが感じられる。バルドは仕方なく、辛抱強く相手が口を開くのを待った。
「……コノエが、好き、なのに……」
 ぽつり、と言葉が流れ始めたと思ったら、不意に相手が視線を上げた。真摯な濃紺の瞳が真っ直ぐに見つめてくる。バルドは少し戸惑った。
「何だ?」
 一瞬――どきりとした。
 まるで、それは……。
 まるで……。
 恋の告白を待っているときの、あの胸の疼く瞬間、のようで……。年甲斐もなく、バルドは少し興奮した。
 何も自分に対して告白をされるというわけでもないだろうに。
 そう思って、彼は苦笑した。
「……何が聞きたいんだ?何でも答えてやるぞ」
 ――さしずめ恋の悩み、って奴かな?
 そう付け加えるより早く、
「……他の猫が好きになる、なんておかしい、か……」
 真剣な顔で、アサトはそんな風に問いかけてきた。
 ずばり。恋の悩みそのものだ。
 やはり、そうなのか、とバルドはおかしそうに唇を歪ませた。
 相手は、誰か。コノエ以外で、そんな相手が?
 ライとコノエがあんな風になった後もまだ、諦めきれないのかわかっていないのか、コノエと顔を合わせる度に、臆面もなくじゃれついていた。そのせいで、ライが不機嫌になり、あわやこの宿の中で乱闘になりかけたことも一度や二度ではない。
 それが、ようやく……。
(これで、諦めてくれるかな)
 親のような気持ちでほっと安堵する。
「うん。そうだな……それは、おかしいことじゃ、ないぞ」
 バルドは優しくいなすように答えた。
「いや、むしろ、そういうことは、よくあるもんだ」
「……そ、そうなのか?」
 縋るような目で見られると、僅かに戸惑いが生じた。しかし、ここで何とかうまくアドバイスしてやれれば、とも思った。
 ようやくこの猫も、新しい相手を見つけようとしているのだ。
 新しい恋……。
 それが上手くいくかどうかはわからないが、とにかくコノエから離れる良い機会かもしれない。
 ここは、上手くその気持ちを乗せてやることが大切だ。アサトをいい加減切ない片思いから解放してやりたいという、いわば親心のようなものだった。
 バルドは大きく息を吸い込むと、話し始めた。
「……この際だから、教えてやるよ。なあ、アサト。最初の恋、ってのは大体が憧れだけで、実らないまま終わってしまうもんなんだ。これは二つ杖の時代からよく言われ続けてきたことでな。俺自身も、若い頃はそうだったよ。勿論、その時は自分自身はそうだとはわかんないんだろうけどな。後で、必ず思い出して、ああ、そんな頃もあったなってな。大概、いい思い出、で終わってしまうものさ。そんなもんだ。けどな、だんだん本当に好きなのが誰か、わかってくる。肝心なのは次に好きになる猫が見つかったときだ。だから、今おまえがコノエ以外に好きだ、と思える猫が出てきたとしたら、それは大切にした方がいい」
 滔々と語り続けるバルドを瞬きもせず見つめながら、アサトは熱心にその話に聞き入った。
「……そう、なのか……」
「ああ、そうだ」
 にっこり笑って手を伸ばすと、黒い耳を軽く撫でてやる。
「けど、いいねえ。若いならでは、って悩みだな。おじさんには羨ましい限りだ。……良かったじゃないか、そんな相手が見つかって。どんどんアタックしちまえよ」
「けど、俺は、コノエも好き、だ……」
 ぼそりと言うアサトのいかにもコノエに対して申し訳ない、といった純朴げな顔を、バルドは軽く笑い飛ばした。
「だから焦らなくてもいいんだよ。いつかわかる時がくる。最後に選ぶのは、おまえ自身なんだから」
「そう、か……」
 アサトは呟くと、考え深げに視線を宙に彷徨わせた。
「俺が、選ぶのか……」
「ああ、最後は、な。だから、悩むなよ。考えてたって、仕方ないだろう。好きになったり、嫌いになったり。大体そんなことは、考えてわかるもんじゃないんだよ」
 明るく言い放つと、バルドは立ち上がった。
「よし、何か食うもん、持ってきてやる。――どうせ何も食ってないんだろうが。腹を空っぽにしてるから、余計なことぐだぐだ考えちまうんだよ。とにかく何か食え!」
 やや脅しめいた口調でそう言い切るバルドを、アサトは困った顔で見返した。
「本当に、腹、減ってないんだ」
「いいから、口答えすんな!」
 強引に言い放つと、厨房へ行きかけて、あ、と止まった。
「そういや……ライの奴も今日は何も食べてないな。どうしたんだろう」
 ライ、という名前がバルドの口から出た途端、アサトの耳がぴくりと反応した。
「ライ――」
 思わずその名を繰り返すアサトに、バルドが不審気な目を向ける。
 アサトがライの名を口に出すど、これまであまり聞いたことがなかったのだ。何せ二匹は顔を合わせれば、まず最初は牙を剥き合うことしかしないような犬猿の仲であった筈で。
 その瞬間、バルドは黒猫から普段とは違う、不思議な匂いを嗅ぎ取ったような気がした。
「どうしたんだ?」
 問いかけると、アサトは少し困惑気味に俯いた。
「いや……」
 歯切れの悪い答えに、バルドの好奇心が僅かに疼いた。
「何だよ。まさか、おまえ。ライが気になるのか」
 ところが、半分冗談のつもりで言った言葉が、相手の心臓をまともに射抜いたことを知った。
 というのも、バルドに言われた瞬間、アサトの顔にみるみる動揺が広がるのがわかったからだ。
「……さっき……――」
 言いかけながら、また言葉が途切れる。
「さっき、って……ライに会ったのか?」
 バルドはぴんときた。
(さては、また2階の部屋の窓から入ったな)
 コノエとライの宿泊している部屋の窓から。
 これは……ひと悶着あったに違いない。
 急に心配になった。
(まさか、またあの部屋、壊されてないだろうなあ)
 過去の出来事を思い浮かべて嫌な気持ちになる。
 部屋の中で暴れられると、宿主としては特に後始末が大変だ。
「おい、ライとまた喧嘩してないだろうなあ。まさか……」
 厳しい顔で問いかけると、アサトは妙な顔をした。
「……う……ん。喧嘩……は、して、ない……」
 普段からあまり明瞭に喋る方ではないが、それにしてももごもごとした物言いで、相変わらず心に引っかかる。
 ――何でこいつは、こんなに動揺しているのだろう。
 バルドは不思議に思った。
「けど……」
「うん?」
「あいつ……病気、だったから」
 アサトは小さな声でそれだけ言うと、また口を閉じた。
「ああ?」
 そういえば、今朝方からライはあまり精彩がないように見えた。気分が悪いのかな、と少し気になったものの、すっかり忘れていた。
「確かに、気分悪そうだった、かな?そういや……」
 そう一人で納得するように呟いたが、そこでまたわからなくなる。
 で、だから?
 それで、どうなる……?
「……だから、何なんだ?」
「………………」
 そこでまたアサトは口ごもった。
「おいおい……おまえの言うことはどうも繋がらないんだが」
 バルドはぼりぼりと頭を掻いた。
「……病気、だったから」
「ああ?」
「……だから、あいつ……何か、いつもと、違った……」
「まあ、そりゃ病気なんだから、いつもとは違うだろうよ」
「……うん……」
「で、何なんだ?」
 さらに続きを促す。
 もう、焦れったくて待っていられなかった。
 なぜか、今ここで全部聞いてしまわなければならないような気がした。
 何を言おうとしている?こいつは?
 ふと、信じられぬようなことが頭に浮かんで、消えた。
(いや、まさかな……)
 背中に冷や汗が流れそうだった。
 これまで、想像すらできなかったようなこと。
 そんな考えがなぜ浮かんだのか、我ながら不思議な気がしたが。
(うん、どうやら俺もおかしくなっちまってるのかもしれないな)
 バルドは思考を振り払うように頭を軽く振った。
「……毛並み、が……」
「ん……?」
「……銀色、だった」
「そりゃ、前からだろ」
「うん……」
 そこで、また会話が途切れる。
 いい加減うんざりしてきたが、ここでもういい!と投げてしまうほどの思いきりもなく、募る好奇心を胸に、さらに忍耐強く待った。
「……で?」
「……綺麗だ……と、思った……」
「……は……?」
 バルドは腰が砕けそうになった。
 誰のことだ、と聞き返す気にもならない。
 きまっているからだ。
 聞くまでもない。
 しかし……それでは……。
「ちょっ、と、待てよ……まさか、とは思うが……」
 自分で言いかけて、バルドは一瞬躊躇った。
 ごくりと唾を飲む。
「まさか、おまえら……?」
 密室で、絡み合う黒と白の図が奇妙な現実感を伴って、鮮やかに脳裏に浮かび上がる。
 どちらが、仕掛けたのか。どちらがどちらの中を貫いたのか。
 そんな野暮なことを問い質す気はなかったが。
 しかし、何だってそんなことになる?
 あれだけ、仲が悪かったのではなかったか。
 体を触れ合わせるだけでも、嫌悪を感じるであろうくらい……。
 成り行きか?
 合意の上なのか?
 さまざまな疑問が湧き上がる。
「――まだ、発情期でもないだろうがっ!」
 露骨な叫びが迸り、一瞬後悔した。
 この猫はまだそこまで白状したわけではない。
 しかし――
「……わから、ない……!」
 アサトは頭をテーブルに落とした。
「だから、俺にも、わから、ない、と……!」
 肯定としかとれない呟きに、バルドはぽかんと口を開いたまま、テーブルの上に突っ伏した猫を凝視した。
「嘘、だろう……?本当に……?」
(本当に、おまえら……?)
 それ以上、何と言ってよいのか、言葉が続かない。
(ちょっと待て。それじゃあ、さっきのもう1匹の猫、っていうのは、つまり……)
 さらに怖ろしい考えに、バルドの頭は芯から痛くなった。
(何だか、まずいことになった……のか、これは……?)
 この事態をどう捉えてよいのか、彼の混乱した頭では、もうさっぱりわからなくなっていた。

                                                 (Fin)


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