Light Possession 1




 体が、熱い。
 ライは苦しげに息を吐いた。
 重い体を無理に引き上げるように、寝返りを打つ。
 そんなほんの僅かな動きにさえも、息が弾む。
 吐き出した息が、肩にかかるとその熱さに我ながら驚いた。
 だいぶ、熱が上がってきたようだ。
 喉が渇く。
 水が欲しいが、樽のところまで取りに行くだけの元気もない。
(……馬鹿、猫……)
 唇が弱々しく動くと、自然にその名を呟いていた。
「……コ……ノエ……」
 誰もいない部屋に、空虚に響く名前の余韻を噛み締めた。
 シーツを握り締める手が、激しくその名の主を求めていた。
 そんな自分の姿が滑稽に思えて、唇を歪める。
 そこにいると何でもないのに、いなくなるとこんなにも頼りなく不安になる。
 だが、そんなことを当のつがいに知られるのは、絶対に嫌だとも思った。
 自分は、そんな弱い猫ではないのだ、と。
 くだらないプライドが邪魔をする。
 そんな風に、ライは未だにどうしてもコノエの前では、正直な思いを吐き出せない。だから、さっきも……。
『大丈夫、か?』
 コノエの瞳が心配そうに瞬いたことを、思い出す。
 コノエの気にかけてくれる気持ちに、やんわりと満足感が広がる。
 嬉しい。それでも、やはりそんな感情を決して表には出さない。いや、しようと思ってもできないのだ。どうしたらよいかわからなくて、戸惑ってしまう。だから、結局――
『余計な心配は、いい』
 そう無愛想に吐き捨てた自分の声。
『少し疲れているだけだ。俺のことは気にするな』
 そう言いながら、少し落ち着かない様子のコノエを見て、そういえば、彼がこれからどこへ行こうとしていたのか思い出した。
 途端に、すっと心が冷める。
 そんな自分に苛立ちながら。
『――待たせているんだろう。さっさと行け』
 わざとぶっきらぼうに言い放つと、顔を背けた。
 相手の表情も確認せぬまま、さっさと二階にとってある自分たちの部屋へと上がっていく。
 歩きながら、ライは複雑な思いを巡らせていた。自分の言葉に含まれた、あの僅かな険を帯びた響きに、相手は気付いただろうか。
 自分でも、大人気ないと思いながら、気付けば自然にあんな言い方になっていた。
 コノエの、会う相手。
 トキノ……といったか。
 知らない猫ではない。もう何度となく引き会わされているし、相手の人となりもよく知っている。
 この街へ帰ってくると、必ずコノエは友の店へ立ち寄る。
 二匹はとても仲がいい。……だが、それも当然のことだった。
 自分が知り合う前、孤独だったコノエにとって唯一打ち解けることのできる、いわば親友も同然の猫だったのだ。しかもトキノは明るくて何のてらいもない、とても気立てのいい猫だ。コノエが未だにトキノと付き合っていても自分がどうこう思うこともない。
 なのに。
 ――ふ……。
 小さく溜め息を吐く。
 コノエがトキノのことを話すとき。
 コノエがトキノに会いに行く、と嬉しそうな顔で告げるとき。
 何でもないような顔をしようとしながらも、心の片隅でふと何かが疼く気配を感じることがある。
 胸の奥で、何かがちりちりと焼けつくような感覚。
 不安定な気持ちの漣が、ライの心を少しずつかき乱していく。
(何だ、これは……!)
 馬鹿馬鹿しい。
 ――これは……
(いや、違う……)
 それを認めたくなくて、何度も知らぬ振りをしようとしていた。
 だが、その気配は一向に消えてくれない。
 どころか、ねっとりとした油が広がるように、いつしか胸の中をじとりと湿らせていく。
 これは……
 ――嫉妬、なのだろうか。
(くそっ!)
 その言葉が浮かんだ途端、たまらなくなり、ライは重い頭を枕に思いきり打ちつけた。
 自分こそ、馬鹿猫になってしまったかのように、感じる。
 羞恥と焦燥に駆られ、落ち着かなくなった。
 どうか、している。
 自分がひどく間抜けな猫になってしまったようで、ライはもぞもぞとシーツの中に顔を埋めた。
 
 
 そうして、うつらうつらと……いつしかライは気だるい眠りの中に沈んでいた。
 次に目が覚めたのは、軽く戸を叩く音がしたためだった。
 戸を……
 そこで、おや、と思った。
 違う。
 音は扉の方から聞こえてこない。
 ライは怪訝そうにうっすらと瞳を開け、ゆっくりと視線を動かした。
 窓。
 窓のところに、誰かの顔が見えた。
 気のせいか。
 いや、違う……
 黒い耳が見える。
 どこかで見たような……
 ただし、覗いた顔は逆さまだ。
 あの顔は……
 見た覚えのある顔。
 なのに、どことなく違うような気もする。
 違和感を感じながら視線を宙に彷徨わせる。
 そうしているうちに――
「……………!」
 はっと我に返ったときには、窓は押し開けられ、どさっと何かが床を打つ鈍い音が部屋いっぱいに響いていた。
「……なっ……?」
 熱のせいで、視界もとろんと霞む。
 一瞬、夢を見ているのかと錯覚した。
 それほど、自分は熱に蝕まれているのだろう。
 それに、あの猫が持っているものは、何だ。こちらにまで押し寄せてくる強烈な匂い。
 目の前で背を伸ばした黒い猫は、手にいっぱいの花束を抱えていた。
 部屋中に、野原から摘み取ってきたばかりの草花の噎せるような香りが満ちる。
 鬱陶しそうに顔を歪め、重い体を何とか起こす。
「……なん、なんだ。それは……」
「コノエに、持ってきた」
 何か文句があるかとばかりに、じろりと睨めつけてくるアサトに、ライは呆れたような目を向けた。
 花、か。
 そういえば、この猫は花にこだわる。
 自分を毛嫌いする猫に元より自分から近寄ることなどしないライだったが、それでもたまにすれ違ったとき、ほんのりと香る花の芳香が鼻を掠めると、ふと不思議な気分に駆られることがあった。
 甘くてどこか切なく、そっと胸を撫でていく……思わず振り返りそうになってしまう。それは、妙に懐かしい、匂いだった。
 ライは改めて目の前の黒猫を見て、小さく吐息を吐く。
「コノエは、いない」
 だから、さっさと出て行けといわんばかりに目を背けた。
「どこへ、行った」
「知らん」
 知っていても教えるものかと少し意地悪気に思いながら、そっけなく言うと、アサトはみるみる目を怒らした。
「コノエを放ったらかしにしているのか」
「俺はあいつの保護者じゃない。あいつの行動全てを知っていなきゃならないこともないだろう」
「おまえたちは、つがいだ」
 アサトはしつこく食い下がった。
「俺なら、コノエを放っておいたりしない」
 濃紺の瞳は呆れるくらい、真剣だった。責めるように、ライを睨みつけてくる。
「好きな猫と、一時だって離れたりしない」
 そろそろうんざりしてきた。
 この猫が話すことといえば、コノエのことばかりだ。いつもなら、自分になど声もかけないところだろうが、コノエのこととなると、目の色が変わる。コノエがどう思っているかわからないが、コノエを好きだと臆面もなく言い放つアサトに、ライは毎度戸惑いを覚えずにはいられなかった。
 アサトとこの宿で会うたびに、鬱陶しい会話が交わされる。
(馬鹿か、こいつは)
 呆れるを通り越して、もはや相手の思考回路自体が理解できない。
 本当に同じ猫なのか。どこか異世界からきた生き物ではないのかとさえ思ってしまう。
 わずらわしい。
 それでいて、いつも相手をしてしまう自分にも呆れる。
 自分とコノエの関係を知っていて、それでもコノエに甘えてくるこの猫を、結局自分は受け容れているということなのかもしれない。それが、我ながら不思議だった。
 そういうわけで、自ずとアサトに対してはトキノのように、嫉妬じみた感情は湧いてこない。おかしな話だが、正直言うとそんな感情があるということすら忘れている。
『コノエが、好き、だ』
 嬉しそうに輝く青い瞳。自分よりずっと濃い青が、生き生きと鮮やかな光を放つ瞬間。
 思い出すと、ライはふと唇を緩めた。
 そうか。きっと、そうなのだ。
 アサトが『好き』というとき――それは幼い子供が自分に優しくしてくれる誰かを『好き』と言うときと同じ瞳をしている。
 自分を、愛して欲しい。
 好きだ、好きだ、大好き――
 だから、自分のことも好きだと言って。
 必死で誰かの愛にしがみつく、幼い子供の叫びが聞こえるようで、それはどこか切なく、ほろ苦い思いを呼び起こす。
(ああ、そうか……)
 自分も……同じ、なのかもしれない。
 幼い頃の自分を思い出すと、ライは瞳を翳らせた。
 自分を、好きだと言って。
 いつも、心のどこかで切ないくらい、自分を暖めてくれる誰かの手を求めていた。それは、どうしても得ることができなかったけれど。
 それでは、自分もこの馬鹿猫と変わらないではないか。
 コノエに縋りついている自分。
 コノエを求めている自分。
 それは、この黒猫と同じ理由なのか。
 でもそれならば、黒猫が疎ましくならない理由がわからない。
 考えているうちに、だんだん面倒になってきた。
(どうでも、いい)
 自分は少しおかしくなっている。
 それは、たぶんこの体の調子のせいで……。
 でなければ、この煩わしい黒猫など、剣を一振り手に取って、瞬時に追い散らしてやるものを。
(……………)
 そこまで考えて、嫌になった。
 不可解な感情に振り回されている自分。以前の自分なら、あり得ないことだった。
 この黒猫に対する自分の感情は、どうもよくわからない。
 もう一匹、馬鹿猫が増えただけ、という気もする。
 もっとも、コノエに対する気持ちとは比べようもないが。
 だが……。
 ライは渋々ながら、認めざるを得なかった。
 ――全く嫌だ、というわけでもない。
「……いい加減に、しろ」
 乱れた思いを一掃するように、ライは鬱陶しそうに鼻を鳴らしてみせた。
「これ以上、おまえの馬鹿話に付き合ってられん」
 そう言うと、途端に体が重くなってきた。
 熱を呼び戻したようだ。
 濃厚な花の匂いに、噎せる。
「……くそ……なんて……」
 ――何て匂い、だ。
 鼻の奥がつん、とする。
 頭の奥が痺れるようだった。
 熱を帯びた体が、濃厚な香りを激しく拒む。
「……出て、行け」
「嫌だ」
 アサトは頑固に言い張った。
「コノエが帰るまで、待つ」
「待つなら、階下(した)にしろ」
 だんだん言葉すら出すのが面倒になってきた。
「……だいたい、窓から入ってくるな、と……いつも、そう……」
 ――言っているだろうが……と続く筈の言葉は途中で途切れた。頭ががくんと落ちる。
 それを見たアサトはおや、と驚いたように目を瞬いた。
「おまえ――」
 ようやくライの様子がおかしいことに気付いたようだった。
「どう、した?」
 花を抱えたまま、寝台の方へ近づいてくる。
 花の香りが濃くなった。
「よせ……」
 ライは顔をしかめて、寝台の上で身を引いた。
「近づくな」
 ……気分が悪くなる。
「いいから、行け……」
 普段なら、寝床から飛び起きて剣で無理矢理追い払ってやるところだが、今のライにはそれだけの気力はとてもなかった。
(この……)
 熱が高まるような気がした。
 花の香りで、眩暈がする。
 あまりの刺激に、まさかこいつが抱えているこの花が毒を放ってるんじゃないだろうな、などと途方もない考えさえ浮かぶ。
(馬鹿、猫……!)
 怒鳴りつける声も出なかった。
 この、融通のきかない、どうしようもない、もう一匹の馬鹿猫が。
 手を振って追い払おうとする。
 しかし、すぐ傍まで近寄ってきた相手は怯まず屈み込んできた。
 目の前に褐色の顔が近づいた。
 あっと思う間もなく、手が額に触れた。
 冷たい。
 びくん、と体が撥ねる。
 だが、それは同時にほんのりとした心地よさを感じさせた。
 外の空気に触れたばかりの手が、ひんやりと体の熱を冷ましていくかのようだった。
「体が、熱い」
 冷たい手が、額から首筋、腕へと遠慮なく触れていく。ライはされるがままになっていた。
「具合、悪いのか」
 濃紺の瞳に見つめられて、落ち着かなくなった。
 そのとき不意に、最初この猫が入ってきたときに感じた違和感が何なのか、わかった。
(……でかく、なった……)
 最後にこの猫に会ったのは、半年ほど前になるだろうか。
 その時より、この黒猫はまた僅かに体が大きくなったのではないか。
 顔つきも、どことなく大人びてきたように見える。
 子供のような邪気のない柔らかな表情は変わらないが、それでも全体的にどことなく逞しさを増したような気がする。
「おまえ――変わった」
 そんなことを考えていたとき、相手の方が同じようなことをぽつりと呟き、ライを驚かせた。
「……何、だ」
 あまりに真っ直ぐに、そして熱心に見つめてくる視線に、どきりとする。
 よく考えてみると、この猫とこんな風に、目と目を合わせたことはなかった。
 物怖じしない瞳。
 邪気のない、美しい濃紺の色、だった。
 おや、とライは瞬いた。
 こんな目、だったのか。
 こんなに、濃い青だったか。
 不思議そうに、そして魅入られたように見つめる。
「前は、おまえのこと、嫌な奴だとしか思えなかった。でも、今日のおまえは、何か違う」
 アサトにしては珍しく長い台詞だった。
 青い双眸が、不思議な笑みを放つ。
「病気のときの方が、いい感じだ」
「……うるさいっ!」
 我慢できなくなって、ライは掠れる声で精一杯怒鳴った。
 馬鹿にされているように感じて、忽ち忌々しくなり、アサトの手を乱暴に振り払った。
「コノエはいない。おまえの用は済んだだろう。早く出て行け!」
 しかしアサトは何も答えず、むしろ面白そうにそんなライをじっと見つめている。 ライは首を傾げた。
 今日はどうしてこんなに自分に絡んでくるのか。
 いつもなら、彼にはコノエしか目に入っていないというのに。
 しかもこの状況。
 何だ、これは。
 いつもと、違う。
 なぜ、この猫はこんなに自分を見下ろしてくるのか。まるで自分が優位な位置に立っているかのように。
 いつまでも傍にいられるのも居心地が悪く、早く追い出したくて再び声を荒らげた。
「用がないなら、出て行け……!」
 だが、いつもの迫力ではない声は弱々しく空に消えた。
 大声を出すと、ライは急にがっくりと肩を落とした。
 体から全ての力が抜け落ちていく感じだった。
 危機感を感じたとき、ライの体を相手の腕が支える気配がした。
 不本意ながら、ライはアサトの手で、ゆっくりとシーツの上に上体を横たえられていた。不器用そうな猫の手は意外にも優しく繊細だった。
「おまえ、病気だから」
 アサトは不思議な笑みを浮かべてライを見下ろした。
 それは、からかったり、馬鹿にしたりしている笑みではなかった。
 そんな風に自分に向かって微笑みかける黒猫を見たのは、それが初めてだった。
 無邪気な微笑に、どきりとした。
 この猫は、こんな顔をするのか。
 いつも仇敵のように睨みつけてばかりだっただけに、意外だった。
「……水、とってきてやる」
 かいがいしく、樽から水を汲んでくるアサトを、ライはぼんやりと眺めていた。
(どうして、こいつは、こんなことをするんだろう)
 不思議だった。
 ライには、わからない。
 コノエが、好き。
 そう言い切って自分を睨んでいたアサトの瞳に、今は何が映っているのだろう。
 これは一体何の気まぐれなのか。
(俺に、構うなというのに)
 困ったような、それでいて、だんだん最初の居心地の悪さは消え、今はなぜか心地よさすら感じ始めている。
「……おい、いい加減にしろ」
 水を飲もうと起き上がりかけたライの体の上にいきなり覆いかぶさってきたアサトに、驚くとともに警戒の声を上げる。
 乗りかかってきた猫の体重はかなり重く、骨にずしりと響いた。ライも体躯は大きい方だが、しばらく会わぬ間に、この猫もだいぶ大きくなったように感じる。
「やめろ、馬鹿」
 くんくんと頬を擦りつけてくるアサトを、ライは迷惑そうな目で睨みつけた。
 黒猫は悪びれもせず、やにわにむくりと顔を上げた。
 再び近接距離で目と目が合う。
「……一体何をしている、貴様は……っ」
 きょとんとしたアサトの表情を見て、ライは困惑した。
「……コノエと、違う」
「当たり前だっ!」
 アサトは、ライの怒った声もものともせず、放心したように相手の顔を見つめた。
「……コノエは、もっと柔らかい」
「だから、俺はコノエじゃないと――」
 ふわり、と唇に何かが触れた。
 それが相手の唇だということに気付くのに数秒を要した。
「よせ」
 鼻を掠める花の香りに、酔いそうになりながらも、ライは何とか自制心を取り戻し、相手を牽制しようとした。
「まだ発情期でも、ないだろうが」
 何で、こんなことになるのか。
 ライは天を仰いだ。
(冗談じゃ、ない)
 この体勢だと、自分はこいつに食われる。
「わからない。けど……」
 声の調子から、相手も戸惑っているということがわかった。
「綺麗な、色だ……」
 銀色の髪に顔を埋めながら、呟く声が、麻薬のように響く。
「コノエと、違う……けど、嫌じゃ、ない」
 こうしていることが、心地よい。
 そんな風に聞こえた。
 突然、全身の力が抜け落ちていくような気がした。
 花の、香りが……。
 噎せるようなきつい香りではない。
 いつも、すれ違うときに感じた、あの優しく切ない香りが、鼻をくすぐる。
 おかしな気分になった。
 この、感覚は……。
(……俺も、わからない)
 ライは耳元をくすぐる黒い毛並みを横目で見つめながら、そう思った。
 こんなことが……起こるわけがない。

 こんな風にアサトに自分を触れさせているのは、きっと熱のせいだ。
 きっと、そうだ。
 熱が冷めれば、元に戻る。
 これは全部、夢だったと……。
 そう……
 ひょっとしたら本当に、これは熱が見せた一場の夢にすぎないのかもしれない。
 本当に……
 ライは目を閉じた。
 心地よい感触に抱かれて、眠りに落ちる。
(そうだ。俺はきっと、夢を見ているのだ……)
 夢の中に、沈んでいく。
 夢ならば、構わない。
 もう少しこの温もりに包まれていてもいいだろう。
 ここは、暖かい……。
 花の香りに包まれながら、いつしかライの唇は緩み、その白い面には静かな笑みが零れていた。
                                                 (Fin)


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