The Remnant
消えて、いく。
あの猫の、匂いが。
あの頬を焼くような熱い息遣いと、肌を伝わる温もりが。
(……ア、サ、ト……)
あの猫が呼ぶぎこちない声音に、全身の毛が震え立つような悦びを感じていた。
あの声を最後に聞いたのは、いつだったか。
(………………)
あれから、どれくらいの時が経ったものか。
もうずっと長い間、あの声を聞いていない。
おそらくもう、聞くことは叶わないのだろう。
それがわかっていて、なおも諦められない。
ただ狂おしいほどに、それを求めた。
――アサト……
――アサト……
聞こえない声を、求めて。
じっと、暗闇の中で耳を澄ます。
永劫の時間の中に蹲り、ひたすらに耳をそばだてる。
聞こえない。
ならば、こちらから呼べばよい。
そのことに気付いて、狂喜した。
なぜ、そんなことに気付かなかったのか。
そうだ。
呼んでみよう。
自分から、あの猫を……。
――…………………
口を開こうとして、愕然とした。
――思い、出せない。
あの猫の、名が……。
――嘘、だ……。
――そ、ん、な、こ、と、……
銀色の髪。
肌に纏いつく、きらきら光る細い銀糸の雫。
綺麗な、色、だった。
白い、白い……色……。
眩しくて、いつも目を細めた。
唇で、そっと撫でると、しなやかな肌がピクンと震えた。
綺麗、だ。
とても、綺麗な……猫……。
思い出が、遠ざかる。
記憶が、薄れていく。
必死で、あの声を思い出した。
自分を呼ぶ、あの声を。
――ア、サ、ト……
ア……サ……ト……
ア………サ………ト………
真似るように、自分自身の口の中で何度も繰り返す。
しつこいくらい、何度も何度も繰り返す。
決して忘れぬように。
何度も、何度も……。
音の感覚を確かめる。
――ア、サ、ト……。
俺の……名だ……。
俺は、アサト、と呼ばれていた。
俺は……。
――俺、は…………
忘れたく、ない。
己自身の、記憶。
失いたく、ない……。
喉が、ごろごろと鳴った。
眠りが、押し寄せる。
重くなった瞼が自然に閉ざされていく。
抗えないほどの重力が、体にのしかかる。
沈んで、いく。
差し伸ばす両手が、虚しく空を掻く。
そうして、さらに深い闇に落ちた……
長い、長い時間。
暗い闇の中に、蹲っていた。
眠っているのか、目覚めているのか、その区別すらつかないほど、意識は忽然と空を彷徨っていた。
自分は、何ものなのか。
もはや、そんな問いすら意味をなさない。
思考は、とうに機能を停止していた。
腹が空く。
どうしようもなく、飢えていた。
獲物の匂いを求めて、鼻を蠢かす。
――ド、コ、ダ……
飢えた獣のぎらぎらした瞳が闇の中で蒼い光彩を放つ。
爪が闇を裂いた。
獣の咆哮が、空間を揺るがす。
グルルルルル……………
異世界の空間を越えて、魔獣は跳躍した。
飢えた己の空腹感を満たすためだけに。生きた獲物の新鮮な血と肉の匂いのする方向へと。
――ライは、はっと、目を開けた。
(何だ……?)
突然自分を襲ったその感覚に、困惑する。
(今のは……)
目の前を過ぎる黒い鉤爪を、見たような気がした。
牙が皮膚を裂き、そこから流れ出る血を美味そうに飲み干していく。肉を喰らい、骨をしゃぶり、砕く。
黒く凶々しい姿の化け物が、獲物を貪り喰らう、生々しい光景。
あれは、何だったのだ。
夢、か。
夢を見ていた、のか。
彼は胸に手を押し当てた。
心臓の鼓動が、速い。
息をするのが辛いほどだ。
どうしたんだ。
一体、今のは……。
「……どうしたんだい?」
声が、聞こえた。
傍で眠っていた黒い猫が、目をしょぼつかせて不思議そうに見上げている。
黒い、猫。
記憶が重なる。
黒い、獣。
変容を遂げた今もなお、どこかを彷徨っているはずの魂に、思いを馳せる。
「……アサト……」
ライは、音もなく寝台から滑り出た。
何かに引かれるかのように、ゆっくりと窓際へ向かう。
月明かりの中に白い裸体が浮き上がる光景を、寝台に寝そべべっていた黒い猫は感嘆の目で眺めた。
まるで、この世のものではないかのように。
儚くて、美しい存在。
昼間見るときは、あんなに強くて生命力に溢れた猫が、なぜこんな風にたおやかに佇んでいるのか、不思議でたまらなかった。
しかしそんな猫だからこそ、こんなにも引きつけられ、どんなに疎ましく思われようが、離れられなくなってしまったのだ。
たとえ、その瞳に映っているものが、自分以外の何ものかであることがわかってはいても。
それでも構わない。
この猫の傍にいられさえすれば。
偶然行きずりに交わって以来、もうひと月近くも、この猫にくっついている。
嫌がられていることがわかっても、彼はしつこくこの猫の後を追いかけてきた。
強い意志に漲る青い、綺麗な瞳の色が、好きだった。
逞しい腕が剣を自在に振るい、鮮やかなまでに敵を打ち倒していく勇壮な肉体が、夜になると一転して艶かしい色を映し、色づいた白い肌がそそるような隆起を繰り返しながら、挿入されるたびに震える声で喘ぐ姿に変わる、その生々しいコントラストが堪らず、想像するだけで全身が熱くなり、すぐに昂ぶってしまう欲情を抑えるのに大変な苦労を要した。
毎度煩わしげに追い払われながらも、最後には、交尾に行き着いた。
本気の力を出されれば、きっと叶わない。
それなのに、そうならないのは、相手は存外自分に少しは気があるのかもしれない、と最初の頃は馬鹿みたいに浮かれていた。
しかし、それが単なる自分の脳天気な発想でしかなかったのだと思い知らされたのは、三回目の交尾の頃だ。
(……ア、サ、ト……)
余程疲れていたのか、ライはその夜いつも以上に飲んだせいで、かなり酩酊していた。
アサト……という名を聞いたのは、初めてではない。
そもそも初めて交わった夜から、無意識下で既にライは彼をアサトと呼んでいた。
アサトというのが、彼が以前に交わったことのある猫であるということは、すぐにわかった。そして二匹の猫の間にある、その不思議なくらいに強く密接な関係、も。
アサト、アサトと連呼され、彼が違う、と言ってもライはその事実を受け容れるのを執拗に拒んだ。
(……おまえは、アサト、だ……馬鹿猫……)
何度も、何度も求められた。
いつもは彼の方が求めるのに、その夜は、違った。
交わりながら、気持ちは良かったのに、なぜか恐くなった。そして、悲しくなった。
彼はそのとき、まだ、一度も自分の本当の名を呼ばれていないことに、気付いたのだ。
相手が聞かないから、言う必要もなかった。ライと会っても、昼間は殆ど会話らしい会話を交わさない。夜は抱き合うだけで、さらに会話は要らなかった。
気が付くと、言うタイミングを失っていた。
そのうち、もう、どうでもいいと思った。相手が求めてこないのに、こちらからわざわざ言うこともない。
そんな風にして、かれこれひと月近くが経とうとしていた。
そんなことをひそかに述懐しながら、彼はふ、と小さな溜め息を吐いた。
仕方のない、ことだ。
意識を現実に戻す。
白い猫の背を、見つめた。
無性に、欲しくなった。
違う猫の代わりであったとしても、この手でライを抱けるなら、それでいい。相手がどう思おうとも、実際に抱いているのは、自分だ。ここにいるのは、『アサト』ではなく、自分なのだ。
「どうしたんだい。……まだ、朝まで間があるよ」
彼はそっと、声をかけた。
相手の耳がひく、と動いた。強張った表情が、緩む。
「ああ……」
僅かに開いていた窓から入ってくる微風に、銀色の髪がふわりと揺れた。
「どうか、した?」
「何でも、ない……」
ライは、目を伏せた。
それでも、窓辺から動こうとはしない。
しばらく間を置くと、再び視線が上がる。
その目は、窓から外へと向けられていた。
そして、眼差しが見つめる先は、もっと遠い彼方にある。
嫉妬より、好奇心が先に立った。
こんなにも、この猫を引きつける存在とは。
アサト……。
どんな猫なのだろう。
純粋に、知りたい、と思った。
そのとき、ふと、背筋にぞくりと悪寒が走った。
黒猫は目を見開いた。
一瞬鼻腔を掠めた、匂い。
遠く彼方から聞こえた獣の咆哮。
闇を塗りこめたような、黒い巨大な獣のイメージが浮かび上がる。
錯覚だとわかってはいても、一瞬感じた恐怖は容易に拭い去ることはできなかった。
(……血の、匂い、だ……)
彼はぶるっと全身の毛を逆立てた。
血に飢えた獣の影が、彼を怯えさせた。
彼は白い猫の背に目をやった。
(ライ……)
まさか、と思いながらも、嫌な想像を消すことはできなかった。今自分が感じているこの恐怖も……。
――あんたが求めている、その猫は……
そう思った瞬間、体が先に動いていた。
寝台から転がり落ちるように飛び出すと、彼は白い猫の背に手をかけた。
振り向いた相手の驚いた表情を見る間もなく、彼は背中から縋るようにその体に抱きついた。
ひんやりとした肌に、暖かい息を吹きかける。
「――冷たくなってる」
囁くと、寝台の方へ軽く引っ張った。
「風邪、引いちゃうよ。――戻ろう」
「…………………」
相手の視線がゆっくりと戻ってくるのを確かめる。
「……おまえ……」
「……もう一回あっためてやるから、さ……。だから、なあ、ライ……」
甘えるように訴える雄猫を見て、ライの目元が僅かに緩む。
以前の自分なら、冷淡に突き放していただろう。
そうできないのは、自分が弱くなったから、なのか。
「――戻るから、離れろ」
体を軽く引き剥がすと、雄猫の息が荒くなるのがわかり、ライは眉根を寄せた。
「さんざん、しただろう。もう、十分だ。――明日も早い。もう寝ろ」
「う、ん……」
黒猫は曖昧に頷いた。
寝台に潜り込むと、すぐに背中に銀色の毛が触れた。
寝返りを打つ真似をして、そのまま抱き込んでしまおうかと思ったが、背中越しに規則正しい呼吸音を聞いているうちに、思い直した。
――どうすれば、この猫を捕まえておけるのだろう。
彼はぼんやりとそんなことを考えていた。
相手の中に『アサト』が存在する限り、それは到底無理な望みであるように思えた。それでも、簡単には諦められなかった。
――どうすれば、この猫を自分だけのものにすることが、できるのだろう……。
胸の中でもやもやと渦巻く不安を抱えたまま、彼はいつしか眠りに落ちた。
眠りの中で、夢を見た。
薄闇に見え隠れする、黒い獣の姿。
絶え間なく洩れる唸り声。
ぎらぎらとこちらを睨みつけてくる、赤く輝く双眸。
猫、ではない。
何だ、あれは……。
あの、恐ろしい化け物は……。
(……アサト……)
不意にライの声が、聞こえた。
彼ははっと周囲を見回した。
銀色の猫の姿はどこにも見えない。
しかし、その瞬間確信した。
あれが……
あの、異形の獣が……『アサト』なのだ。
「……ア……サ、ト……」
呼ぶ声が震えた。
「……おまえが、アサト、なの、か……?」
そう呟きながら、彼はじり、と後退った。
首筋に冷たい汗が滲む。
無駄だ、と悟った。
目の前の獣からは、相手の言葉を理解し、己自身の意志を伝えようとする心など、微塵も感じられない。
殺意、すらない。
ただ、喰らうために、殺す。
腹を満たし、己を生かすためだけのために。
肉食動物の持つ本能のみが、この生き物を動かしている。
そこに、意志は、ない。
この生き物にとって、自分はただの餌でしかないのだ。
冷たい恐怖が駆け上る。
(化け物……っ……)
――ア……サ……ト……?
黒い獣が、微かに首を傾げたように見えた。
獣の頭の中には既に、猫であった頃の記憶は殆ど残っていない。それが、かつて自分自身の名であったことなど、無論わかるすべもない。言葉を解しない獣にとって、名前など何の意味もないのだ。
「――ライから、離れろ……化け物……!」
彼は胸を引き絞るように、叫んだ。
(――もう、ライに纏わりつくのは、やめろ)
(――おまえがいる限り、ライは……!)
白猫を縛り付けている呪縛の正体が、このような醜悪な姿をした化け物であったとは。
ライは、騙されている。
突如、湧き上がった激しい怒りの波が、恐怖を圧した。
ライを、助けなければ。さもなくば、彼はそう遠くないうちに、この化け物から命と魂を全て吸い取られてしまうだろう。
そして最後には、奴は、ライの肉体そのものをも、一片の骨も肉も残らぬところまで喰らい尽くしてしまうのだ。
「……おまえなんかに、ライを、渡すものか……」
怒りに押されるように、彼は再び化け物に立ち向かおうとした。
獣の目が、異様な光を放った。
巨大な体がひときわ大きく見える。
咆哮が、地を轟かせる。
黒猫は、歯を喰いしばり、その場に踏みとどまった。
勇敢に目の前の化け物を睨みつける。
恐怖を突き抜けた今、彼の全身は不思議なくらい昂揚していた。
これを闘争本能、というのか、どうか。
グルルルルル……
敵を威嚇する低い唸り声が喉の奥を震わせる。全身の毛がバリバリと逆立っていた。
興奮し熱を帯びた体は、自分のものではないかのようだ。
獣が飛びかかろうとする、瞬間――
意識が、飛んでいくのがわかった。
闘う意志のみが、そこに残った。
頬に熱い息を、感じた。
咆哮と悲鳴が、脳を突き抜けていく。自分のものなのか、相手のものなのかさえ、わからない。
凄まじい音響と、怒号と、痛みが、雪崩のように襲いかかってくる。
何も、わからなくなった。
必死で叫ぶ自分の恐ろしい悲鳴が、最後に残った意識の淵を僅かに掠めた。
「……どう、した……?」
ライは目を開くなり、背後の異様な気配を察して、声をかけた。
すぐ背後にいる、猫の体温。
それは、いつもと同じものだ。
しかし……。
彼は目を瞬いた。
――何だろう、この、感じは……。
ほんの僅かな、違和感。
ゆっくりと、頭を向ける。
黒い毛と黒い耳。
褐色の、肌。
いつも、一瞬、思い出す。
ここにはいない、もう一匹の、あの猫の姿を、重ねる。
しかし、ただ、一瞬だけのことだ。
外見が似ているというだけで、無論この猫はアサトでは、ない。そんなことは、わかっている。わかっていながら、一瞬だけ、夢を見たくなる。
自分は、弱くなった。
瞳が揺れる。
(アサト……)
心の中でそっとその名を呼ぶだけで、鋼のように強い意志を持った己の心が、こんなにも揺れ動く。
「……ラ、イ……」
俯いていた猫が、微かに呟く声を聞いたその瞬間、ライははっ、と息を飲んだ。
(……ライ……)
違う。
何かが、違っている。
どうしたんだ。
何が、あった。
体がぞくりと震えた。
錯覚だ。単なる気のせいだ、と自分自身に言い聞かせようとした。
――そんな、はずが……
「……ライ……」
ゆっくりと、猫の顔が上がる。
間近で、まじまじとその顔を見つめながら、ライは自分が大声を上げそうになるのを、必死で堪えた。
顔は、変わってはいない。黒い毛に褐色の肌。青い瞳。似ているが、造作は少し違う。
いつも見ている通りの、若い雄猫の、顔だ。
なのに……。
柔らかい、微笑み。
幼くて、きょとんとした、表情。
嬉しそうな、輝きに満ちた瞳が、瞬きもせずに自分を真っ直ぐに見つめる。
何より、その、声が……。
「……もう、会えないかと、思った……」
ライは呆然と相手を見返した。
何だ。
何が、起こった。
これ、は……。
今、ここにいる、この猫は……。
信じられない思いが、彼に返事をすることを押し止めた。
自分は何かに惑わされているのだ。
そうに、違いない。でなければ、これは、夢か、それとも幻なのか……。
硬直するライの体を、黒猫の手がそっと撫でた。
温かい。
生きているものの、確かな脈動を、感じる。
夢では、ない。
錯覚でも、ない。
では、一体、これは……。
いやしかし……。
「……アサト……なの、か?」
もう、どうでもいいのだ。
確かめたかった。
どうしても……。
おまえが、誰なのか。
「……うん」
頷くと、『アサト』はにこりと笑みを零した。
アサトの顔でないのに、確かにそれはアサトの顔、に見えた。
「……ライ……」
疑問も警戒心も何もかも消し去って、『アサト』に押し倒されるまま、ライはその奇跡のような、束の間の夢の海の間に、自ら身を沈めた。
( to be continued...) <2009/03/12>
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