The Remnant (2)







 朝の光が、瞼を射た。
 はっと目を開く。
「………………?」
 傍にいる筈の猫の姿が、ない。
 ライは身を起こすと、部屋の中を見渡した。
 誰も、いない。
 胸の中を緩やかな不安が駆け抜けた。
 目を閉じると、手のひらで軽く額を抑えた。抜け落ちていく記憶を押しとどめようとするかのように。
 必死で、思い出そうとした。
 昨夜、何があったのか。
 自分は、確か――
 黒い猫の影が瞼の裏を過る。
 花の、匂い。
 微かに感じた、懐かしい気配。
 彼は、頭を振った。
 ――そんな、筈はない。
 違う。
 自分は、何かひどい勘違いをしていたのだ。
 あれは……
 ――夢、だった。
 久し振りに見た、懐かしい匂いのする夢、だった。
 夢を、見ていたのだ。
 夢の中で、あの猫と交わっていた。
 いや……
 あの猫は、ここには、いない。
 求めても、得られない。
 わかっているのに、それでも求めることをやめようとしない。
 そんな自分の弱さが、別の猫に犠牲を強いている。
(くそ、俺は……)
 ライは自分の額を強く掴んだ。皮膚に爪が喰い込む。痛みすら、感じることも忘れた。
 身代わりに抱かれていることを、奴はわかっていた。
 わかっていて、敢えてそれを受け容れていた相手の気持ちを、自分はよく知っていた。知った上で、利用していたのだ。
 自分のひとときの欲望を満足させるために。
 己の姑息さに呆れ、恥じた。
 あの猫は、どこへ行ったのか。
 ただ、出て行っただけなのだろうか。それとも……。
 なぜか、戻ってくる予感がしなかった。
 そう思った途端、体が動いた。
 このまま、放っておけない気がした。
 単に身代わりにした罪悪感からだけではない。
 何か……何かが、違っていた。
 昨夜感じた、あの違和感。
 昨夜のあの猫は、普段とは違っていた。
 自分の思い込みでは、ない。
 なぜなら、あの猫の中には、確かに……。
「……どこへ、行った……」
 呟いた途端、あることに気付いて愕然とする。
 名前を、知らない。
 あの猫の、名前を……。
 当然だ。聞こうともしなかったのだから。
 ひと月ほども一緒に居るのに、自分が相手のことにいかに無関心であったかということがわかる。
 ライは、ベッドから下りると、素早く衣服を身に着けた。
 あの猫を、見つけなければ。
 急くような思いに追い立てられつつ、彼は急ぎ足で宿屋を出た。
 
 
 
 
 
 藍閃に近いこの街も、日中は行き交う猫で結構な賑わいを見せる。
 気ぜわしく歩きながら、ライはひたすらに求める猫の姿を追い続けた。
 そのうち不意に何か強い気配を感じて、彼は足を止めた。
 引かれるように、路地に入る。
 気配が強くなった。
「……どうしたんだい、白い猫ちゃんよぉ?」
 からかうような声が降り注ぐ。
 目を上げた瞬間、その姿が空間から躍り出た。
 警戒する間もなく、気付けばすぐ目の前に『奴』がいた。
 相変わらずの威圧感に、足が一瞬竦む。
 剥き出しの上半身から浮き立つ逞しい胸筋。ひときわ大柄な体躯が狭い路地の道幅いっぱいを占め、行く手に立ち塞がっていた。
 粗暴な顔が挑戦的な表情を浮かべ、いかにもこちらを見下したような視線を送りつけてくる。その視線の元を辿れば、そこには左右異なる色の瞳が、いかにも魔性めいた妖しい輝きを放っていた。
 しかし、何よりも彼をこの世界から分け隔てている決定的な差異は、その側頭部から突き出ている『もの』にあった。
 短い銀髪の頭の両側から突き出ているのは、耳ではなく、内側に半月のように湾曲した異様な形状の黒い突起――角だったのである。さらに細くて針のような尖った先端を持つ黒い尾。
 異形の姿には、見覚えがあった。
「――何だい、えらく固まっちまってよ?ずいぶん久し振りで、もう俺の顔なんか忘れちまったかい?」
「……貴……様……!」
 ライの目が険しさを増す。
 それを見て、相手はニヤニヤと笑った。
「おーおー、こりゃまたおっかねえなあ。そんなに睨みつけなさんなって。綺麗な顔が台無しだぜ。何も取って喰おうってわけじゃねえんだからよ。最も、ほんとは一口味見してみたいとこなんだがな。ちょっと指でも入れて尻の穴掘りゃあ、シロップでも出てきそうだしよぉ」
 そう言うと、相手はくくくと下卑た笑い声を上げた。
 ライは不快感に露骨に顔を歪めると、さりげなく相手から体を避けた。
 柄の悪い容貌も、口の悪さも相変わらずだった。
 『快楽』を司る悪魔。
 確か名を……ヴェルグ、といった。
 なぜ、奴がここにいる?
 偶然か。それとも、呼び寄せられたのか。
 疑念と不安が入り混じる胸の内を悟られまいと、顔の表情を一層硬く引き締める。
 相手は悪魔だ。一瞬たりとも隙を見せてはならないという本能的な警戒心がライの全身を緊張感で満たす。
「……何の用だ」
「――探し物を手伝ってやろうと思ってよ」
 そう言うとヴェルグはライの方へ滑るように体を寄せてきた。再び悪魔との距離が狭まる。
「……『探し物』、だと?」
 しかし、ライはそんなことにも頓着せぬほど、ヴェルグの言葉に気を取られていた。
「――俺と取り引きすりゃあ、簡単に見つかるぜ」
 覆い被さるように迫ってくる悪魔の体に押されて、いつしかライは石壁に背をつける格好になっていた。
 何となく部が悪い。嫌な状況だった。
 それでもライは逃げようとは思わなかった。いつの間にか悪魔の話に引き込まれていたのだ。
 何もかもお見通しと言わんばかりの意味深な口調が、妙に気にかかる。
 間を詰める悪魔の体から漂う獣臭い匂いに、僅かに眉を顰めながらも、どこか甘く響く相手の声音に引かれていた。
「……取り、引き……」
 悪魔が求めているものの正体が、朧気ながらわかった。
 悪魔との契約。
 そうか。そういうことか。
 苦い思いが胸に満ちた。
 では、この悪魔を呼び寄せたのは、自分だ。
 悪魔は弱った心に付けこんでくる。
 ライの脳裏にふと、縞模様の猫の姿が浮かんだ。
 ――俺は、あの時、奴を軽蔑した。
 弱さゆえに、禁忌を犯した彼を……。
(嘘だ……嘘だろう、バルド!)
 それまで信じてきたもの。家族以上の愛情と信頼。自分の中で大切に育んできたものが、崩れ去った瞬間……。
 もう何も信じられない。二度と信じるものか、と思った。
 信じられるものは、もはや己以外にはない。
 だからこそ、決して妥協しない。何ものにも屈しない強さと厳しさを、常に己自身に課してきた。
 己を惑わそうとするもの全てを断ち切り、ただ真っ直ぐに前を見て、がむしゃらなまでに強く、ただ強く……。
 だが――
 どうやら自分は、まだ完全な強さを得るには至っていなかったようだ。
 ライの隻眼に影が差す。
 それが崩れ始めたのは、いつからだったのか……。
 今目の前にこいつが現れたということは、自分の中にいつの間にかそれを呼び寄せるだけの隙ができていたという証拠だ。
 自分は無意識下で、それを欲していたに違いない。
 己自身の弱さが、この悪魔を呼び寄せたのだ。
 ライは悔しげに歯軋りした。
 ――何ということだ。この、俺が……。
「……馬鹿にするな」
 挑むように、悪魔を睨み据える。
「悪魔と取り引きなど……この俺がそのような愚を犯すと思うか」
「切羽詰れば、どんな奴だって俺たちを頼るようになる。現に今も俺を呼び寄せたのは、おまえなんだぜ」
 ライの強い視線を受けても、ヴェルグの態度は全く変わらなかった。むしろ相手が抵抗の意を示すことを面白がっているように見える。
「俺は貴様など呼んではいない」
「いーや、聞こえたね。だから、わざわざこうして現れてやったってわけだ」
 ヴェルグは愉快そうに反駁した。
 ライを見る目が、僅かに角度を変え、鋭い光を放った。
「――おまえさあ。黒猫を、取り戻したくて仕方ねえんだよなあ?――取り戻す方法、知りたいんだろう?ああ?」
「…………………」
 いかにも訳知り顔の悪魔の焦らすような物言いが、ライを沈黙させる。そんな相手の反応にいかにも満足げに目を細めると、ヴェルグは続けた。
「……いいじゃねえか、俺と契約しろよ。そうすりゃあ、簡単に黒猫を取り戻せるぜ。迷うこたあねえだろ?悪魔との契約なんて、誰でもやってることだぜ。おまえが思ってるほどたいしたことじゃねえって。――手遅れにならねえうちに、賢い選択をするこったな。これでも俺もいろいろと忙しくってな。いつまでもこうして油売ってるわけにもいかねえからなあ……俺がその気でいるうちに、するんなら、早いとこ言ってくれよ。な?」
「…………………」
 ヴェルグの軽い口調は、まるでその辺の市場の商人が品物を値切っているときのようであり、『悪魔との契約』という重い一事をまるでちょっとした買い物でもするかのような錯覚に陥らせる。さらに……
 ――『手遅れにならないうちに』
 そのさりげなく付け加えられた修飾句が、ライの心を僅かに動揺させた。
 今、アサトがどうなっているのか、ライには皆目見当がつかない。ただ、ひとつだけわかっていること。それは、彼があの恐ろしい異形の姿に変化してしまっているということだった。
 彼を見つけたとして、果たしてアサトは再び猫の姿に戻ることができるのだろうか。
(……ライ……)
 昨夜、あの睦の中で聞いた声。
 あれは、確かにアサトの声だと思った。
 違う猫の姿なのに、いつしかアサトの顔が重なって……。
 本当に傍にいるのは、アサトだと思い込んでいた。なぜなら、あのとき、アサトの気配をあんなにも強く感じたのだ……。幻や錯覚だと思うには、あまりにも生々しすぎた。
 あれは……誰だったのだろう。
 今朝目覚めたとき、それをもう一度確かめようとした。それなのに交わった猫の姿は既に傍らから消えていた。
「どうした?――取り引きする気になったかよ?」
 逡巡していたライの鼻先に、ヴェルグの顔がぬっと突き出された。
 嘲笑うような顔の中に、微かな苛立ちの色が見える。
「……一言『契約を交わす』って言やあ、それでいい。簡単なことだろうが?何迷ってんだよ?ああ?」
 ヴェルグの顔がさらに近づく。
 息がかかるほど、傍に。
 唇が頬を掠め、耳元に触れんばかりの場所でぴたりと止まった。
 動けない。
 これまでさまざまな敵と刃を合わせてきた。生死すれすれのきわどい戦いを潜り抜けてきたことも、一度や二度ではない。
 どんなに強い敵であろうと、いつも真正面から戦いを挑み、決して怯んだり臆したりすることはなかった。
 こんな風に、剣も交わさぬうちから、体が竦んでしまうなど……。
 ライは己が目の前の悪魔に怖れを感じているという事実を認めたくはなかった。
 しかし実際に、相手に近づかれただけでこんなにも全身の毛が粟立っているのは、決して相手に対する嫌悪感からだけではない。
 ――俺は……怖れている。
 何を……?
 悪魔か?
 いや――。
 ライの心の奥で蠢く何かがそれを強く否定した。
 違う。
 悪魔など、俺は怖れてはいない。
 悪魔の吐き出す息の熱さはまるで普通の猫と同じだ。
 悪魔の抱く下卑た欲望も卑劣な悪意も、特別に悪魔だからといって、怖れねばならないものとも思えない。
 ――それなら俺は、一体何を怖れているのか。
 ライは自分の怖れているものの正体が掴めず、戸惑いを覚えた。
「……欲しいモンを、せっかく楽に手に入れられるってえのによぉ……」
 甘い囁きが、耳朶を焼く。
「……そんなイイ機会を、逃しちまうのか、本当に……?」
 ――あの、猫が……
 もうひとつの声が、悪魔の声に重なった。
 ――欲しいのだろう……?
(――あの猫が、欲しくて、欲しくて、たまらないのだろう。おまえは……)
「……もう二度と、取り戻せなくなってもいいのか……」
 ――おまえの、望みを。
 ――たったひとつの、望みを。
 ――永遠に、失ってしまっても、いいのか……?
「……契約の言葉を、言いな。さあ――……」
 不意に、冷たい手が喉を撫でたような気がした。
 今にも拒絶の言葉を吐き出そうとしていた唇の先が、寸前で凍りつく。
 ――いいのか、それで……?
 脳を揺さぶるような、声。
 もうひとつの声。それは、彼が意識の底に沈めていた、己自身の声にほかならない。
 とうに葬り去った筈の、己の弱さ。惑い。怖れ。一気に息を吹き返してきたその脆弱さが、再び磐石に亀裂を生じさせ始めたかのように。
(黙れ……っ!)
 打ち消そうとしても、声は誘惑をやめない。
 ――おまえの、望みを……
 聞きたくない。
 嫌だ。
 ――おまえが、心の底から欲しているものを……
(俺の……欲している、もの……)
 ライは、塞ごうとする耳をぴくりとそばだてた。
 この弱さを、自分は怖れていた。
(俺は、何も望んでは、いなかった……)
 何も望まない。何も欲しない。
 だから、無心でいられた。
 ただ、強く。
 誰よりも、強く。
 己だけを頼り、己だけを支えとして。
 他には、何も要らなかった。
 何も要らないから、失うものもない。
 ただひとつ。己を失うとすれば、それは、己自身が死ぬときだ。
 だから、何かを失うことを怖れる必要はない。
 それが、彼の強さの根幹を成していた。
 ――失うことの苦しみを知るまでは。
「……本当に、取り戻せる、のか……」
 知らず知らずのうちに、言葉が零れ落ちていた。
 ――取り戻したいものが、ある。
 どうしても、彼にはそれが必要だった。
「……あいつ、を……」
(――アサト……)
 にやりと笑う悪魔の顔も、目には入らなかった。
「ああ、取り戻してやるよ。その代わり――」
 囁かれた声が、途中で聞こえなくなる。
 何かの濃い芳香が、鼻を衝く。
 眩暈がした。
 ――罠だ。
 危険を嗅ぎ取った本能が、忽ち警鐘を鳴らす。
 ――罠だ、罠だ、罠だ……
「罠じゃねえよ。『契約』、だ……」
 麻薬のような甘い香を帯びた声が、ゆったりと否定する。
 ――悪魔は、必ず契約を履行する……
 危険を奏でる信号は、力を得たもうひとつの声に、いとも容易く打ち消された。
「……さあて……どうする?」
 ヴェルグは、あくまでねっとりとした甘い口調を崩さず、答えを求めてくる。
「……………」
 ――答えは、もう、きまっているだろう?
 追い縋ってくる声が、返答を迫る。
 拒めなかった。
「……わかっ、た……」
 その瞬間――
 音が、消えた。
 一瞬訪れたその奇妙な沈黙が、ライを不安に陥れる。
「……………」
 何か言おうと口を開きかけたとき、
《――契約成立、だ……》
 悪魔の低く染み入るような声が、脳に直接語りかけてきた。
 嘲笑うような響きは不快な余韻を残し、いつまでも頭蓋を震わせ続ける。
《――それじゃあ、頂くぜ……》
 その言葉を聞くのとほぼ同時に、心臓を鋭い爪でいきなり掴み上げられたかのような、凄まじい衝撃が襲う。
 ……ぐ――あッ……――
 苦痛の呻き声すら上げることができない。
 周囲の光景が、ぐにゃりと歪み、突然流し込まれた黒の塗料の中に溶け込んでいく。
《――……取り戻してやる。その代わり――》
 先程聞いた台詞が、もう一度耳元で再生される。
 今度は最後まで、途切れることなく。
《――おまえの魂を喰らわせてもらうぜ――》
 そうしている間にも、異変は徐々に、だが確実な速度で進行を続けているのがわかる。
 最後の視覚が奪われていく直前に見えた、両の手首に浮き上がりつつあった黒き蛇の紋様。それは、紛れもない『所有』の刻印であった。
 黒い帳の向こう側から、悪魔の低く押し殺すような笑い声が聞こえる。
 完全に四方を闇に閉ざされたとき、初めて冷たい恐怖が喉元までせり上がってくるのを感じた。
(これ、は……――)
 首に当たる金属の冷えた感触。
 鎖の擦れる不快な音が響く。
 悪魔の笑い声が、高まる。
 
 ――……ア、……サ、……ト、……――
 
 薄れていく意識の奥で、最後に見たものは、黒い猫の微笑みと、あの懐かしい澄んだ瞳の色だった。

                           ( to be continued...)  <2009/05/30>


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