The Remnant (3)
―― ……ア……サ……ト……
まだ、自分を呼ぶ声が耳に纏わりついている。
自分ではない、もう一匹の猫を求めて呼ぶ声が。
黒猫は雑踏の中を、ろくに前も見ず、ただひたすらに足を速めた。
早く、早く……。
とにかく、離れたかった。
自分を自分でなくする、あの猫の呪われた体から……。
一刻も早く自分を遠ざけたかった。
(くそっ、くそっ、くそっ……!)
毒づきながら、なぜか涙が滲み出すのを抑えることができなかった。
自分の体を借りて、誰かがライをじっと見ていた。
その肌に手を添わせて、心臓の音を辿りながら、ゆっくりと呼吸を合わせていた。
染み入るような、静かな、それでいて深い慈しみを秘めた、不思議な感情が身内に広がっていた。
あんなに切なくて、美しくて、そして哀しい思いを味わったことがない。
少なくとも自分の生きてきたこれまで、一度も経験したことのない感情だった。
そんなに強い思いを抱けるような猫と、自分はまだ出会っていない。
驚きと、不安。
心臓がまだ興奮で激しく高鳴っている。
(どこにいるんだよ、『アサト』……)
最後にライの体を放した瞬間、『アサト』の気配は綺麗に消えた。
もう自分は解放されたのだろうか。
身代わり……という言葉を思い浮かべて、嫌な気分になった。たとえ一時でも、面白くはない。実際にライと寝たのは自分の体であっても、その間自分の意識はもう一匹のあの猫の意識に完全に取って代わられていた。乗っ取られていたのだ。しかもその間中、自分の意識は違う場所から冷静に一部始終を眺めていた。
それでも貸してやったのは、自分の寛容さだ。
そう思った後、黒猫はふ、と虚しく頭を振った。
実際には、怖かったのだ。
あまりにも、あの猫の思念が強すぎて。
抗えば、自分自身の意識まで壊されそうだった。
それに、あのような強い思いに抗えるほど、自分は強くなかった。
そこを付け込まれたのかもしれないが。
しかし、言いようのない哀しさの余韻が抜けない。
なぜか、わかる。
きっとあの二匹がこの世界で交わり合うことは、もう二度とないのだと。
だから……。
あれは、最後の別れだったのかもしれない。
『アサト』から、ライへの、最後の……。
ライは、それを知っていたのだろうか。
知っていて、『アサト』の意識に支配された自分の手に抱かれたのだろうか。
そんなことを思っているうちに、切なくて、また目尻から一筋の涙が零れた。
「…………――」
声が、出ない。
うっすらと開けた瞳に映るものは、赤茶けた壁と、片隅で静かに揺らめく蝋燭の光だけだった。
ここ、は――
どこだ、と問うまでもない。
もうずっと、日の光を見ていない。
あれからずっと、この四方を壁に囲まれただけの牢に囚われている。
あれから――
つまり、悪魔と契約を交わした、あの瞬間から、ということだ。
昼も夜もない。どれくらいここにいるのかすら、わからない。
目が覚めれば、悪魔がやって来て、体を弄ぶ。
最初は、抵抗しようとした。それを悪魔は笑いながら、容赦ない暴力で封じ込め、抵抗された仕返しとばかりにさんざんいたぶりながら、執拗に彼の内側を犯しまくった。
単に拘束されているからというだけでなく、本当に悪魔の力は圧倒的で、猫にしては大柄なライの体躯をも、片腕で簡単に抑え込んでしまう。
何か魔力が働いているのではないかと疑念を抱いてしまうほど、この空間では、物理的な抵抗は全て無意味に思えた。
むしろ抵抗した方が、悪魔を喜ばせているような気すらした。それが虚しくて、とうとう彼は抵抗する意志を捨てた。すると悪魔は少し不満気な顔を見せたが、それでも彼を犯す手を緩めようとはしなかった。暴力は減ったが、交わりそのものはその分長く濃密さを増したかのようだった。
交合が終われば、悪魔は消える。彼は疲弊して起き上がることもなく、そのまま眠りに落ちる。
そして目が覚めると、また――
その繰り返しだ。
食事も摂らず、排泄もなく、ただ溢れ出る精液だけが彼の下肢を淫猥に濡らしていく。
なぜ自分が生きていられるのか不思議だったが、悪魔の領域にいるということは、そういうことなのかもしれない、と不意に理解した。
自分ももしかすると、そのうち悪魔になってしまうのかもしれない。
或いはこのまま永遠に悪魔の玩具奴隷として、囚われたままなのか。
未来永劫終わりのない、快楽と暴力のみが全ての、この世界で。
このまま、ずっと……。
(――ば、かな……)
恐ろしい考えに、ぞくりと尻尾まで震えた。
(そんな馬鹿なこと――)
悪魔と契約を交わすということは、そういうことなのだ。
冷めた意識がそう、説明している。
せめて……この契約がちゃんと履行されていることがわかりさえすれば、救いもあるが……。
実際には、悪魔がこの契約を額面通りに実行しているかどうか、彼には知る術がなかった。
これは、罠だ。
自分は、見事に悪魔の罠に引っかかったのだ。
あの時――契約を結ぶ寸前、悪魔は何と言った?
ただ、契約を結ぶか、と問うただけではなかったか。
それに首を振ってしまったのは、迂闊だった。
悪魔の契約の言葉はどこかで歪められていたに違いない。
なぜなら――。
悪魔は、彼の問いには決して答えないからだ。
ただ笑って馬鹿にしたようにこう言うだけだった。
「――今にわかるさ。今に、な。おまえが充分俺に奉仕すりゃあ、おまえの願いはいつか叶うだろうよ……」
――いつか、な……。
「騙したのか。……そうなんだな。最初から、貴様は対等な契約を結ぶつもりなどなかったのだろう」
「――ははあ、お利口さんだねえ。さすがに白い猫は、頭も切れるようだ。まあ、気付くのがちいと遅かったようだけどな」
「……卑怯者がっ……!」
「おいおい、契約を結んだのは、自分自身だろうが。俺は何も強制なんかしなかったぜ。今さら俺を悪モンにしてもらっても困るなあ……それに――」
そう言うと、悪魔はにやりとずるい笑いを見せた。
手が伸びると、ライの男根を絞るように掴む。そこは既に、ライ自身が簡単に欲望を解き放てないよう、根の部分をきつく戒められていた。
悪魔に刺激を与えられるたびに、イきたくてもイけないそこが、苦しげに震える。
今も突然走った衝撃に、彼は声を上げそうになったが、すんでのところでそれを堪えた。
「――結構楽しんでんだろ?本当のところは、イイんだろうが。体はどんどん馴染んできて、もう俺なしじゃあ、いられないってとこなんじゃねえのか?ええ?」
残酷な笑みを満面に広げながら、悪魔はライ自身を思う存分に弄び始めた。
「……っ、やめ、ろ……っ……!」
そう言いながらも、ライの息遣いは荒くなった。
悪魔の行為に慣らされてきた体は、彼自身の意志を裏切って、少しの刺激でも敏感に反応してしまう。
「……う……く……っ……」
「素直になれよ、なあ……」
悪魔が耳元で甘い囁きを落とす。
「……そうすりゃあ……これも、外してやってもいいんだぜ。好きなだけ、吐き出せるように……」
戒められている金具を指で弾きながら、嬲るように悪魔は囁き続けた。
――何もかも、忘れて……
いつしかそれは、誘惑の響きとなって、脳内をじりじりと焼き焦がそうとしていた。
――気持ち良くなろうぜ。
(……く、そ……っ……)
ライは、唯一開いていたその青い瞳を固く閉ざした。
快楽に溺れさせられるその前に、自らの意志でその意識を手放した。
死ぬことすら許されないのだとすれば――
己自身の意志を――その心を捨て去るしかない。
そんな頑ななまでの意地を見せる猫の姿を、ヴェルグはどこか醒めた眼で見下ろしていた。
「……強情な、猫だなあ……全く」
皮肉な笑みで口角を歪めながらも、透けるような硝子玉の瞳の奥には、怒りを含んだ残酷な光が瞬いている。
「まあ、虐めがいはあるけどよ……」
そう言うと、悪魔は猫の白く柔らかな毛に、その長く尖った爪の先端を躊躇なく伸ばした。
――ぴちゃん。
滴の落ちる音が、する。
……鼻先をくすぐる、微かな香り。
(――なん、だ……)
意識の奥で、蠢くもの。
それが、何かはっきりとわからない。
しかし、どこか懐かしい。
――ぴちゃん。
頬に冷たい滴が触れた。
ぐ、る……
ぐ、る、る、る……
鼻を蠢かすたび、熱い吐息と獣の唸りにも似た声が空気を震わせる。
(――これ、は……)
自分、だ。
己自身の口から発せられている音だ。
それに気付いた途端、彼は立ち上がっていた。
鈍い振動が、伝わる。
闇の中にいても、その醜い姿は異彩を放っていた。
自分の姿を見て、彼は呻いた。
鈍い咆哮が、闇を轟かす。
けだもの。
まもの。
あくま……。
さまざまな言葉が脳を駆け巡る。
呪い……だ。
とうとう、そのときが、来た。
何も今さら驚くべきことではない。
これは、自らが生まれたときから背負ってきた宿命であり、逃れられないものだったのだ。
知っていた筈ではなかったのか。
生まれおちたその瞬間、自分は既に呪われた忌み子としての烙印を押されていたのだ。
(――諦めろ……)
頭の奥で、これまで何度も自分に囁いてきた、あの声。
嘲笑を含んだ、囁き。
それが今また、脳裏にこだまする。
(呪いは、解けることは、ない)
――己の宿命を、受け容れよ。
……しゅく、めい……?
――そうだ。これは全て決められていたこと。おまえの両親が禁忌を破ったその瞬間(とき)から……。
ぐるぐると頭の中を渦巻く映像に、いつしか彼は酔い痴れていた。
手を取り合って、追っ手から必死で逃げる両親。
崖から飛び降りる、母。
悪魔に魂を差し出す父。
そして……
そして――
銀色の長い髪を風になびかせた、美しい白い猫。
侮蔑に満ちた、高慢な視線。
綺麗だけれど、こんなに嫌な猫は、見たことがない、と思った。
ひそかに憎しみを抱いた。
初めて好きになった猫を奪われた、と思うと、余計だった。
それが……
なぜ?
どうして……
いつの間に……
自分でも、わからない。
――そう、だ。
不意に、思い出した。
一気に、全ての記憶が流れ込んでくる。
俺は、この猫と……
(……ラ、イ……)
ライ、だ。
その名前に、胸が疼く。
ライ……。
はっと我に返った。
――そう、だ。
俺、は……
――俺は、ライに、触れていた。
どうやって接触したのかは、わからない。
だが、ライの声を、聞いた。
自分の名を、呼ぶ、声を。
そして、この手の感覚は、まだ新しい。
獣の面が、僅かに歪む。
そこに仄かに別の顔が、浮かび上がったかに見えた。黒い毛と耳、浅黒い肌、深く青い瞳……。
その瞬間、全身を襲ったその凄まじい痛みに、彼は苦悶の声を上げた。
う、おおおおお………――――――――
あ、あ、あ、あ、あ、あ……………―――――――
体が引き裂かれるかのような、激痛。
意識を保っていること自体が、奇跡のようだった。
なぜ、まだ、こんな風に思考していられるのか、不思議だった。
しかし、彼の脳は、動き続けた。
それは同時に、彼が彼でいられることを確認できる時間でもあった。
痛みと闘いながら、それでも彼はその中に一筋の光を見出だしたような気がした。
(――まだ、俺が、俺でいられる時間が、ある)
たとえほんの僅かな間であろうとも。
それでも、今、俺は自分がアサトという名前の猫であることを知っている。
大切な記憶を、手放してはいないことも。
俺は、まだ猫の心を失っては、いない。
俺は、化け物では、ない……。
ひひひひひ……と、どこかで誰かが笑う声が聞こえた。
それは次第に大きな哄笑となって鳴り響き、今彼がいるこの空間全てを揺るがした。
(――笑わせるな)
声には邪な意図がありありと感じられた。
(――生れ出るべきではなかった、哀れな、呪われし魔物の子よ)
――できうるものなら、やってみるがいい。
侮蔑と嘲笑の声が降り注ぐ中で、それでも黒い魔物の中に潜む魂は強い抵抗の意志を見せつけるように、苦悶の呻き声を上げながら、肉体と精神を苛む激しい苦痛に耐え続けた。
( to be continued...) <2010/02/21>
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