The Remnant (4)
「――面白くねえな」
悪魔の呟きを、聞いた。
締め出していた意識が、徐々に戻ってくる。
鈍色の壁に囲まれた暗い空間の中に蹲る猫の白い輪郭が、滲むように浮かび上がった。
それはまるで、自分ではないかのような、線の細い弱々しい姿に見えた。
あれは……まだ幼い仔猫の頃の自分だ。
軽い驚愕を覚えながら、ゆっくりと面を上げる白い仔猫の顔に視点を合わせた。
怯えた顔。
震える睫毛が揺れるたび、今にもそこから涙が零れ落ちるのではないかと思った。
しかし、仔猫はぎゅっと唇を噛み締め、零れそうになる滴を飲み込んでいるかのように見えた。
ふたつの瞳が大きく見開かれ、目の前の空間を睨みつけるように見据える。
透けるような、薄い青の色だった。
綺麗な色だ――と思ったとき、異変が起こった。
仔猫の右眼が突然色を失ったかと思うと、瞬く間に噴き上がる鮮血で真っ赤に染まった。
どくどくと流れ落ちる赤い滴が、仔猫の頬を濡らし、さらには流れ落ちながら、その白い体に赤い模様を描いていく。
仔猫は、一言も発しなかった。
その顔には、何の感情もない。
驚きも、痛みも、恐怖も。
先程までの怯えた顔が嘘のように。
いや……
ゆっくりと。
静かに。
唇が、緩む。
一粒の瞳が、瞬く。
仔猫は、笑っていた。
無邪気に、あどけなく。
右の目から噴き出す鮮血と、左の目には狂気の光を瞬かせながら……。
――彼は、震えた。
叫び出しそうになる声を、堪えた。
ここで、叫んだら、自分は負ける。
悪魔に屈するのは、嫌だ。
負けるものか。
絶対に――
絶対に――
自分は、まだ……
諦めは、しない。
崩れそうになる自分自身を鼓舞するように、そう繰り返しながら、彼は震える心を抑えた。
「強情だな、おい」
呆れたような声が頭上で響く。
うるさそうに、背けようとする頭をいきなり持ち上げられた。
耳が引きちぎれそうなくらい、強く引っ掴まれ、思わず呻き声を上げた。
ずきずきする耳裏に、悪魔の熱い息がかかる。
「そろそろ、転化するか、ああ?」
嬲るような声に、ぞくりと胸の底がざわめいた。
冗談ではなく、本気で言っていることは、その声の底から響く氷のような音調でわかる。
「……だ、れが……っ……!」
「――今よりずっと楽になれるのによ」
ヴェルグは薄く笑った。
「……世界が変わるぜ。――猫なんて、どんなにつまんねえもんだったかってことがわかる」
「……だま、れ……っ!」
ライは、果敢に悪魔を睨み上げた。
「……つまんねえ生き物さ、猫なんざあ、所詮な……」
――転化すりゃあ、わかるだろうよ。
声が、頭の芯を貫いた。
どくん、と心臓が大きく波打った。
「――脅しても……無駄だ」
「脅してねえよ。誘ってるだけだろ?」
「――ならば、断る」
ライの強気に、ヴェルグはぽかんと眼を見開いた。
驚いた顔の後に、残忍な笑みがゆっくりと広がっていく。
「……なるほど。そうかい」
悪魔は、はははと笑った。
「それは残念だ」
笑い声が、不意に硬化した。
「――残念だなあ、ああっ?」
「……な……――!」
途端に、いきなり息ができぬほど、深く突き上げられ、目の前が暗くなった。
「気ィ失うなよ。まだ、全然俺のココは、気持ち良くなってねえんだからよ」
――奉仕するのが、おまえの役目だ。
他のことは何も考えなくて、いい。
余計なことは、考えるな。
嘲笑う唇が、遠くなる。
――くそ……っ……
引き結んだ唇が、次第に緩み、苦悶の呻きを漏らす。
苦悶と、快楽の狭間で……。
淫靡に乱れる肉体に、もはや歯止めはきかない。
「――それで、いいんだよ。なあ。いい子にしてな。――そうすりゃあ、痛みを感じることもなくなる。……これ以上ないくらいのイイ声で啼けるように、可愛がってやるからな――」
そう言いながらも、悪魔の目の底には、微かな苛立ちと焦燥の色が揺らめいていた……。
「――面白くねえ」
口に出した途端、ヴェルグは忌々しげに顔を歪めた。
また、か。
そう思うと、ちっと舌を打つ。
これまで――幾度同じ呟きを洩らしたことか。
交わるたびに得る充足感と、その一方で感じるこの枯渇感。
――何で、だ。
――畜生。
ぎりぎりと歯ぎしりするほどの憤懣が募る。
――なぜ。
――こいつ、は……。
圧倒的な暴力と支配の楔を打ち込む中で、肉体的にも精神的にも手酷くダメージを与えてきた筈だ。
普通ならば、とうに陥落しているべきところが――
まだ、だ。
まだ、こいつは、なびかない。
他の奴なら、跪き、泣いて赦しを乞う筈が。
こいつは……
一向に、負けを認めようとしない。
喘ぎ、苦痛の声を上げ、息を荒らげながらも、最後にはいつも、そのただひとつの瞳に、強い光を宿し――全身の憤怒を込め、抗いの意志を示すかのように。
本当に、しぶとい。
ヴェルグは唇を歪め、眉を逆立てる。
笑っているのか、怒っているのか一見わからないほど、彼の面相は複雑な感情を露わにしていた。
「……面白く、ねえなあ……」
面白くない。
が……
抵抗する、瞳の奥に見えるもの。
悲しみと、怒りと、悔しさが混じり合い――
絶望と向かい合いながらも、決して屈することはない。
強く、そして一点の曇りもない、美しい魂の色に、ごくりと唾を飲み込む。
初めてではない、刺戟だった。
ざわざわと胸の底が波立つ。
そうだ。
俺は、以前にも、これと同じものを見たことがある。
ぞくりとくる、いい顔だった。
追いつめた獲物が、最後に見せた顔。
それを思い出したとき、不意に頭の奥である考えが閃いた。
ヴェルグの顔に、ゆっくりと、満足気な笑みが広がる。
――面白くないなら、面白くする方法を、考えればいい。
悪魔は闇の奥にねっとりとした視線を向けた。
風を、感じた。
静かに、目を開く。
狭い視界の中に、白みかけた薄闇が広がる。
陰の月から、陽の月へ。
頭上から聞こえてくる鳥の囀り。
生き物の目覚める気配を、感じる。
朝の清廉な空気を吸い込んで、彼は凭れていた木の幹から背を離し、ゆっくりと立ち上がった。
ふらり、と足元がよろめく。
地面を踏みしめる感覚に、体が悲鳴を上げた。
その場に踏み止まるのが精一杯だった。
まるで、歩き方を忘れてしまったかのようだ。
(どうした……?)
彼は驚いた。
必死で何かを思い出そうとする。
しかし――
彼の記憶は、あるところでぷつりと途切れていた。
いつ、何が――
どこで――
ばらばらの断片が、結びつかないまま、四散していく。
(くそっ……一体、何が――)
ぼんやりとした曇りを振り払うように、強く頭を左右に振る。
――今まで、俺は、どこにいた……?
何も、思い出せない。
ただ――長い夢を見ていたような気がした。
悪い夢を見た後の、憔悴と疲労感が全身を覆っている。
これほど疲れを感じたことはなかった。
(もう少し――)
夜が明けるまで、まだ時間がある。
――もう少しだけ、休んでいこう。
そう思うと、彼は深い溜め息を吐き、再び木の幹に体を休めて、目を閉じた。
( to be continued...) <2010/08/01>
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