The Remnant (5)








 空っぽ、だった。
 何も、ない。
 この空白感は、何だ。
 先程からじわじわと広がる不安が、足に重くのしかかってくるかのようだった。
 胸の奥で何かがしきりに騒ぎ立て、心を掻き乱している。
 気持ちが悪い。
 酷い息苦しさに耐えられなくなり、とうとうライはその場に立ち止まった。
 これ以上歩き続けることはできないと悟り、彼は傍らの木の幹に、体をもたせかけた。
 樹肌に触れると、草木の香りがほんのりと鼻孔を掠め、少し気持ちが落ち着いた。
(どうしたんだ、俺は……)
 ――自分が、これまで何をしていたのか、まるで思い出せないとは。
 頭の中が、真っ白だ。
 ただ、波立つような不安と……
 怖れ。
 ライは目を見開いた。
 ――まさ、か……。
(恐れているのか、俺は……?)
(……何、に……?)
(……なぜ……?)
 どこかに、置き忘れてきた、何か。
 それを取り戻せないことに、自分はどうしようもない苛立ちと怖れを感じている。
(何なんだ……)
 わからない。
 思い出せない。
 空っぽの頭の中で、ただ新たな思考の波が惑うように行きつ戻りつを繰り返している。
(わからない。が……)
 それは、自分にとって余程大切なものだったらしい。
 理屈ではない。
 感覚で、わかるのだ。
(そうだ。俺は……)
 それを失いたくない、と思った。
 初めて、そんな気持ちを覚えた。

 ――何だったんだ……?

 目を、閉じる。
 深い闇の奥へと。
 見えない手で探るように、思考を深く、深く沈めていく。
 ……どこかに、いる筈だ。
 その、存在が。
 自分は、まだ完全にそれを手放したわけでは、ない。
 どこだ。
 どこに、いる……?
 どこ、に……
 深い、深い彼方。
 暗い闇の深淵。
 仄かに灯る、光。
 ほんの僅かに……
 今にも消えそうなほど、儚く、仄かな面影が、揺らめいている。
(……あ……)
 見つけた、と思った。
 あれ、だ。
 深い闇の奥底に埋れている……。
 しかし、まだ生きている。
 あれ、は……。
 その黒い影にもう少しで届きそうな気になった、その瞬間――
 ずきり、と鈍い痛みに刺し貫かれ、はっと我に返った。
 あっという間に、彼は元の世界に戻っていた。
 頭の中は、依然として空白のままだった。
(……何だったんだ、あれは……)
 彼は、茫然と立ち竦んだ。
 急に、激しい疲労を感じた。
 樹幹に凭れかかった背が、ずるずるとずり落ちていく。
 彼は樹の根元に蹲り、痛む頭を抱え込んだ。
(落ち着け……)
 ゆっくりと、頭の中を整理しようとする。
(よく考えろ)
 まずは、自分自身のことからだ。
 俺の名は、ライ。闘うことを生業とする、賞金稼ぎだ。
 生まれ故郷は刹羅。しかし、父と母と暮らした頃の記憶は、あまり残っていない。
 それは、あまりにも遠い……昔のことだ。
 刹羅を出て以来、俺はいろいろな場所を渡り歩き、さまざまな敵を全て打ち倒してきた。
 ただ、己自身の力――それだけが、全て。他には、何もない。
 俺は、長い間、ずっと己自身にのみ恃み、生きてきた。
 この世の存在ではないものにさえ、俺は負けなかった。
 それがどんな化け物であろうとも。それが『悪魔』と呼ばれる存在であったとしても。
 俺は、決して、何ものをも怖れはしなかった。
 何にも屈することは、なかった。
 その結果、この片方の目を失うことになったとしても……それが、どうしたというのか。
 眼の片方くらい、くれてやろう。
 それくらい、何でもないことだ。
 俺は、まだここに、存在する。
 俺が、ここにいる限り――俺は、勝者なのだ。
 彼は、ふ、と笑った。
(俺は、何を迷っている……?)
 何も、迷うことはない。
 こんなにはっきりとしている。
(俺は、ずっと、そうやってひとりで生きてきたんだ)
 このうえ何が、必要だというのか。
 俺は、何も失っては、いない。
 俺は、俺だ。
 そして、これからも、ずっと――。
 そうだ。
 俺には――失うものなど、何も、ない。





「――よお、あんた、ライじゃないか」
 不意に、現実に返ったとき、目の前に佇む猫の影に気付いた。
 黒と茶の斑模様。彼よりは、いくらか年嵩に見える。体躯はかなり大きく、恐らくこれまでの長い年月に渡る闘いの中で鍛え上げられたのであろう、がっしりとした、筋骨隆々たるその肉体は、ライと並んでも全くひけをとらないほどのものであった。この猫が、闘う猫――ライと同じ賞金稼ぎであることは、一見してわかる。風体もそうだが、同種のものの放つ特有の匂い、といったものを、既にライは嗅ぎ分けていた。
 日焼けした浅黒い顔は、表向き、友好的な笑みを浮かべてはいるものの、焦茶色の瞳の奥に潜む鋭い閃きは、明らかに狩りをする者のもつ、油断ならぬ殺気を含んでいた。
 そして、もうひとつ、この猫には大きな特徴があった。
 左耳の半分が引きちぎれたように、綺麗になくなっていたのだ。
(『片耳の賞金稼ぎ』がいる、と確か聞いたことがあったな……)
 ライは思い出すと、緊張に毛を逆立てた。
 かなりの凄腕であるらしいが、同時にあくどい手を使うということでも、悪評の高い奴だったような気がする。
 しかし、実際に顔を合わせたことはない。出会ったのは、これが初めてである筈だ。
 にしては、相手の馴れ馴れしい口調が、ライの気に障った。
 ライにとっては、元々己以外の猫など、眼中にはない。
 こんな風に対等に話せるような存在など、あり得ない筈だった。それを、まるで相手は前からずっと見知っていた知己か何かであるかのように、話しかけてくる。
 いきなり現れて、他人の領域にずかずかと踏み込んでくる闖入者を見ているかのようだった。
「……ここしばらくあんたの噂を聞いてなかったが、何してたんだい?――ひょっとして、もう、賞金稼ぎは引退したってんじゃねえだろうなあ?」
 揶揄するような言いように、ライは眉を顰めたが、すぐには何も言葉を返さなかった。
「――ああ、そう睨むなよ。んなわけねえよな。わかってるよ。あんたもここにいるってことは、当然あんたも例の黒い化けモンの噂、聞いてきたんだよな。――しっかし、あんたと同じ獲物狙うんじゃあ、勝ち目ねえなあ……」
 斑猫は苦笑しつつ、僅かに肩を竦めた。
「――黒い化け物……」
 初めてライは、相手の言葉に反応を示した。
(――黒い……?)
 ……黒い獣の影が、脳裏を過る。
 彼は、びくりとした。
 なぜ……だろう。
 また、『あれ』を思い出した。
 自分の心を騒がせる、何か。
 彼は苛立たしく、落ち着かない気分に襲われた。
 たった今、全て整理したところだったというのに。
 また、元の木阿弥ではないか。
「――おい、どうした?……まさか本当に知らなかったなんて言うんじゃねえよな?」
 ライの様子を見た相手は、不審気に目を細めた。
 その視線が煩わしく、彼は不機嫌そうに眼を背けた。
「……知らん。黒い化け物、とは何だ」
「――おいおい、冗談だろ?じゃあ、偶然こんなところで出くわしたってのかい?本当に?――へええーーーー、そいつはまた、すげえ奇遇って奴だなあ……ええ?」
 猫の目が意味ありげに瞬く。好戦的な瞳の色だった。
「……だいたい、あんたが本当に知らなかったとして、そんな情報、簡単に教えるわけねえだろうが。獲物を横取りされることがわかってんのに、わざわざ教える馬鹿が、どこにいる?」
 それは当然の返答だったろう。
 くだらないことを言った、と彼は内心舌を打った。
「――なら、貴様に用はない。行け」
 言い捨てるなり、眼を伏せた。
 疲労が、ほんの僅かな動きさえ、鈍重にする。
 本当は、自分の方から、さっさとこの猫に背を向けて行ってしまいたいところだった。しかし、鉛のように重い体は、そう簡単には動いてくれそうにもない。
 ここで今、この猫と戦うだけの気力は自分にはないことはわかっていた。だからこそ、不穏な空気が流れる前に、相手が立ち去ってくれることをひそかに願った。
 しかし、彼の期待に反して、相手の気配は一向に去らない。
 気になって、眼を上げると、すぐ間近に猫の顔が迫っていた。
 虚を突かれたライは、はっと驚きの目を瞠った。
「……貴様、何――……」
「――妙だな……何か、妙な気分だ……」
 同じ言葉を繰り返し呟く猫の声が、僅かに粘りを帯びている。
 ――風向きが、変わった。
 それも、彼が恐れていたのとは別の意味で、相手の関心が自分に向けられていることを強く感じた。
「……あんた、何か雰囲気が変わったな……。前より痩せたか?……いや、そういうことじゃねえか……」
 肩に置かれた手が、ゆっくりと撫でるように動く。
 首筋に触れた指先の冷たさに、びくと体が慄いた。
 唐突に相手から発してきた交合のサインに、彼は驚くとともに、激しい嫌悪に駆られた。
 ――冗談では、ない。
 なぜ、こんな奴と……。
 屈辱感と怒りに満ちた眼で、相手を睨み上げた。
「――何のつもりだ。さっさとその手を……退けろ」
 以前のライなら、こんな風に相手が自分の体に手を置くことすら許さなかった。
 相手が触れようとしたその瞬間に剣を抜き、斬り払っていただろう。
 殺して、やる……!
 殺してやる、殺してやる、殺してや……――
 剣柄に触れようとした指先が、空を掴む。
 ――ない。
 そこにある筈の剣が、ないのだ。
 彼は硬直した。
 頭の中が一瞬真っ白になった。
 ――どういう、ことだ?
 相手もそれに気付いたようで、驚くと同時に、その顔には優位に立ったという余裕の色がありありと表れていた。
「……あれ、どうしたんだよ、大事な剣は?……まさか、どこかに置き忘れてきた、なんてこたあねえよな?」
 ライが丸腰であることを露骨に揶揄すると、猫は軽く息を吐いた。
「――何かヘンだな。……今日のあんたは、いつものあんたらしくない。……悪魔に魂でも抜かれたかい?」
 最後の言葉に、ライの心臓はどくんと大きく波打った。

 ――悪魔……

 それが決して冗談や戯言で済まぬ言葉であることを、彼は無意識のうちに知っていた。
 冷や汗が、背を僅かに濡らす。
 何かに触れられたような気がして、ぞくり、と肌を震わせた。
 赤い、舌。
 暗い強欲の焔が燃え滾る、双眸。
 突然、彼は思い出した。
(――俺は……あの、悪魔に……)
 偽りの、契約。
 悪魔の巧妙な罠に、嵌まったことを。
 捉えられていた、あの深い闇に包まれた、無限に続く、暗い呪縛の陋屋を。
(だが、それならば、なぜ俺はここにいる?)
 夢を見ていたわけではあるまい。
 今、戻ってきた記憶の断片を前に、彼は途方に暮れた。
 ――なぜ、自分は、ここにいるのだ……?
 まさか……
 悪魔が、解放してくれたというのか。
 そのようなことが……。
 今見ているこの世界は、本当に現実なのか。
 彼は眼を瞬いた。
(いや……)
 今目の前にいる、この猫は、現実だ。
 この吐きかけられた熱い息が、夢である筈がない。
「――それにしても、綺麗な、銀色の毛並みだな……こんなに近くで見るのは、初めてだが……」
「…………触るな……っ……!」
 毛に触れてくる指を、払いのけようとする。しかし、のしかかってくる相手の体重に、体が押されてどうにもできない。
 自分の力より相手の力が勝っていることに気付き、彼は初めて震撼した。
 同時に、相手から感じる、恐ろしく生臭い雄の匂いに圧倒された。
「貴様……自分が、何をしようとしているのか……わかって、いるのか……っ……!」
「――わかってるさ。けど、俺にも止められねえんだよ。さっきから、言ってるだろうが。何かわからねえが、あんたを見ていると、さっきから妙にここが疼いて仕方がねえんだ……」
 相手が発情していることに気付いて、ライは愕然とした。
「――おい、貴様……待て……っ……!」
 彼は全身の毛を逆立てた。
 息が、荒くなる。
 ぐるるるる、と喉の奥が鳴る音が耳朶を震わせた。
「――あ……っ……!」
 抗う間もなく、あっという間に体が地面に押し倒され、のしかかってきたもう一匹の雄の体に四肢を完全に縫いつけられた。
 生臭い体臭に、草の匂いが混じる。
 体中の血が逆流するようだった。
 何かを怖れ、同時に何かを期待する。
 ――これ、は……
 その感覚は、知らないようで、知っている感覚だった。

 ――どくん、どくん。

 急に動悸が激しくなる。
 目の奥に、荒ぶる熱を感じた。

(……この、失った右眼は……)
 
 ――あ、くま……

 微かな哄笑が、聞こえた気がした。
(……悪、魔……?)
 体が震えた。
 生温い液体が、頬を伝う。
 がらんどうになっている筈の眼窩からどろどろと垂れ落ちる、その滴に掌を当てた。
 覚えのある、匂い。
 触感。
 ざわりと胸が騒ぐ。

 ――血……

 熱い。
 胸の奥のざわめきが、激しくなる。
 全身を熱く、揺さぶる。

(……血の、匂い……)

 あたたか、い。

 舌で、ぺろりと舐め取った。
 瞳がゆっくりと開く。
 そして、もうひとつ……。
 失った筈の眼窩の奥で、ゆらゆらと、何かが息づいている。
(これは、幻、だろうか……)
 自分自身の中に巣喰う、悪魔の存在。
(そうか……俺は……)
 不思議な感覚が、空っぽの心を満たしていく。
(……俺の中に、奴は、いる……)
 自分は、まだ、捉えられているのだ。
 二本の角。
 光るふたつの、眼。
 闇の奥で焔が舞い、そのねっとりとした舌先が、肌を舐める。
 全身に燻り、滾る熱。熱。熱。
 
(……う……あっ……!)

 無意識にそれを求めている、己自身を恥じる。
 しかし、肉体の反応を止められない。
(……や、め……――)
 体の中で暴れ出すその淫靡の源を、必死で抑えようとする。
(……あ……ッ……――)
 悪魔に、犯されていると錯覚しそうになる。
 いや、悪魔ではない。
 ちが、う……。
 今、ここにいるのは、猫だ。
 自分を組み伏せているのは、悪魔ではなく、ただの雄猫だ……。
 それは、わかっている。
 わかっている、のに――
 なぜだ。
 止まらない。
 体の奥にいる、何か別の生き物が暴れ出しているかのように。
 熱いうねり。
 血の昂ぶり。
 痛みと、悦び。
 全く相反する感覚がぶつかり合い、そのたびに新たな刺戟を生み出す。
「……――っ……!……――」
 淫靡な声。
 押し止めようとしても、喉の奥から零れ出る。
「――……は――……あ……っ……ん…………」
 喘ぐ声に、艶が混じる。
 拒む心と、求める肉体。
 悪魔の手で、開かれた、体。
 逃れようと、体を振り切る。
 這いつくばった体を、背後から羽がい締めにされ、再び捉えられた。
 逃れられない。
 雄の熱い先端を、後孔に感じた。
 熱い。
 激しく燃えさかる焔が、全身を舐めつくそうとしている。
 呼吸が、できないほどの熱波に包まれる。
 悲鳴すら、上げる余裕がない。
 
(……や、……――)

「……す、げえ……」
 相手の声も興奮に上ずっているのがわかる。
「あんた、本当に、あのライか……?」
 熱く臭い息が、首筋を舐めた。
 屈辱感が、僅かな抵抗心を生じさせた。
「…………う………や、め……………」
 もがく体を痛いほど、締め付けられる。
 なぜこんなに力が出ないのか、不思議だった。
 まるで小さな仔猫か、雌猫にでもなってしまったかのように。
「…………冗談だろ。……こんなに煽っておいて、それはねえだろうが…………」
 入り込んでくる熱の塊。
 それを貪るように呑み込んでいるのは、他ならぬ己自身だ。
 ――これは……俺では、ない……
 ライは、唇を強く噛み、漏れ出ようとする声を押し殺した。
(……惑わされるな……)
 これは、全て、罠だ。
 悪魔によって、仕掛けられた、罠だ。
 噛みしめられた唇の端から血が滲む。
「……我慢すんなよ。素直に声上げな」
 揶揄するように耳元で囁きかけられると、何ともいえぬ羞恥と屈辱の焔に煽られ、頭の芯がかっと熱くなった。
「…………っ…………!」
「――すげえ、うねってるぜ、ここ。そんなにイイのかね。……淫乱猫さんよ……」
 奥まで一気に突き上げられると、我慢の壁も瞬時に破れた。
「――……あ……やっ……あっ……んん……あ……っ……!」
 嬌声が、悲鳴に変わる。
 意識が飛びそうになるのを必死で堪えた。
「……そうだ。いいぞ。もっと啼け……ははっ……もっと……もっとだ……!」
 忌々しい高笑いも、もはやどうでもよくなるほど、与えられた刺戟に耽溺していた。
 永遠とも思えるような、交合。気の狂いそうな快楽を伴う痛み。
 いつからか、声が、出なくなった。
 ただ、ひいひいと喘ぐ苦しげな呼吸音だけが、耳を焼いた。
 こんな、奴と……。
 なぜ、俺は…………………
(………………………!)
 眼を、閉ざした瞬間、頭の奥に黒い影が、よぎった。
 深く、突き刺すような、濃紺の瞳。
 ――な……………?
 何だ、と思ったとき。
 ずぶ、と肉を裂くような鈍い音が耳を貫いた。
 ぐ、と詰まったような音。
 開いた眼に、黒い影が映った。
 肉体が、軽くなった。
 打ちこまれていた楔が抜け、呆気ないほどに、体を繋ぎ止めていた重圧が消えた。
 ぽた。ぽた。
 背中に滴り落ちてくるねっとりとした、温かい液体。
 瞬く間に、生臭い匂いが充満した。
 よく知っている匂いだ。
 ――血の、匂い。 
 ゆっくりと、頭を回す。
 沈んでいく朱に塗れた肉の塊は、先程まで自分を犯していた雄猫のものだ。
 息が、弾む。
 体から、熱が去らない。
「……だ……――」
 誰、だ。
 気配を、感じた。
 眼を、上げる。
 黒い影を、見た。
 影は、実体を伴っていた。
 巨大な肉体。
 醜い獣の顔。爪と牙が見えた。
 ぐおおおおおおおおお、という雄叫びが、地を揺るがす。
 黒い塊のようなその巨大な頭身が、ゆっくりと傾ぐ。
 二つの双眸が、ぎらぎらと暗く燃えるような光を放っていた。
 近付いてくる、その化け物の恐ろしい姿から、なぜか眼が離せなかった。
 逃げようとは、思わなかった。
 ただ、その正体を見極めたい。
 そんな気持ちに駆り立てられるように、ライは自分でもわからぬうちに、その獣に向かって手を伸ばしていた。
 黒い毛に触れた途端、息づく心臓の鼓動を感じ取り、どきりとした。
 なぜか……彼は、この生き物をよく知っているような気がした。
「――お……まえ、は……だ、れ……だ……」
 彼は、震える声で、問いかけた。
 返答は期待していない。
 化け物が、言葉を解する筈がない。
 しかし……
 それでも、彼は問いかけずにはおれなかった。
 ――知っている。
 心の奥で、ひそかに囁く声を、聞いた。
(……この化け物を……俺は、知っている……)
「……誰、なんだ……。おまえ、は…………――」
「……グル…………ルルル……ルルル………」
 唸るような獣の声が、子守唄のように、リズミカルに耳に響いた。
 自分の言葉を解したのか、そうでないのか、わからないながらも、彼は抵抗もせず、獣の腕に寄りかかった。
 咆哮の中に、優しい息吹きを感じたのは気のせいだったのかもしれない。
 しかし、彼はそれを突き放す気にはなれなかった。

(――俺は、おまえを知っている……)

 確信めいた気持ちが、彼の心奥を刺戟した。
 獣の腕が、ゆっくりと体を持ち上げていくのを感じた。
 包み込む毛は、柔らかくて、温かい。

 ――俺も、殺されるのだろうか。

 ぼんやりとそう思いながら、それでも、たとえ殺されても構わない。
 ――そんな気にさえなっていた。
 どうでも、よい。
 きっと、自分はこのまま、目覚めることはないだろう。
 いっそ、このまま……

 ――目覚めぬ方が、よいのだ……

 緩やかな倦怠感が、全身を覆う。
 まともな思考は、とうに働きを止めていた。
 ライは、獣に抱かれたまま、小さな仔猫のように、軽く伸びをすると、静かに眼を閉じた。

                           ( to be continued...)  <2011/02/06>


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