呪 焔
(10)
「――撤退する」
アスラン・ザラが突然投げつけたその一言に、三人は一瞬耳を疑った。
「……って、おいおい?」
ディアッカが最初に声を出した。
「冗談だろ。まだなーんも、掴んじゃいねーぞ」
「――アスラン……?」
ニコルも困惑したように、声をかける。
「……………」
イザークは何も言わず、ただ相手に燃えるような眼差しを向けただけだった。
それをちらと見ながら、ディアッカは我慢しきれずに再び口を開けた。
「……なあー、確証を手に入れるんじゃなかったのかよ。わざわざ手間暇かけてここまで潜り込んどいて、何もなしって……そりゃ、ねえだろ。こんな中途半端に撤退するくらいなら、そもそも初めからこんな計画立てなきゃ――」
「――確証は、掴んだ」
氷のような一言が、ディアッカの言葉を遮った。
「……と、言いたいんだろうな。我らが隊長殿は」
イザークの挑むような視線が、真っ直ぐアスランを射抜く。
アスランは、表情を変えなかった。
「――足つきは、ここにいる」
イザークは、ゆっくりと息を吐き出した。
「そう、だな?」
確かめるように、アスランに促す。
「おっ、おい、イザーク……!」
ディアッカが呆れたように口を挟みかけたとき――
「ああ、そうだ」
アスランのゆるぎない返答が、鞭のように、びんと空気を打った。
ディアッカは困惑したように、口を閉じた。
「……足つきは、ここにいる」
今度はアスラン自身の声が、イザークの言葉を確かな口調で繰り返す。
なぜ、どうして……?
そんな単純な質問すら容易には寄せつけぬような、あまりにもはっきりとした強い確信の口調に、ディアッカもニコルもすっかり気圧されてしまい、それ以上何も言い返すことができなくなった。
隣りのニコルに向かって軽く肩を竦めてみせると、ニコルも少し困った顔でディアッカを見返した。
イザークはそんなアスランを依然として意味深な瞳で見つめ続けた。
「……ったく、アスランにも困ったもんだよなあ。何を根拠にいきなりああいうこと言い出すんだか……」
ディアッカがぼやくのをイザークはぼんやりと聞いていた。
「――なあ、聞いてる?」
「……ん?」
とん、と肩を突かれたイザークははっと我に返って、傍らの少年を見た。
「――ああ」
「おまえさあ……」
ディアッカはじろりとイザークの顔を覗き込んだ。
「やっぱ、何かあったんじゃねーの?……大丈夫かよ?」
「……何もない」
ディアッカの無遠慮な視線から逃れるように目を背けると、イザークはむすっとした調子で答えた。
「何もないわけねーだろ。今朝別れてからさ……ずっと変だぞ、おまえ。やっぱ、アスランと何かあったろ?なあ……」
しつこく追及されると、イザークは目を吊り上げた。
「……全くうるさい奴だな。何もないと言っているだろうが。黙ってられないのなら、向こうへ行ってろ!」
「あーあ。結局何も言ってくれないんだもんなあ。……どーしてそう、突っ張っちゃうんだか……」
ぶつぶつと呟きながら、ディアッカはお手上げといった風にイザークの傍を離れていった。
ディアッカがアスランやニコルのいる場所へ戻って行くのを見ながら、イザークはさりげなく視線を反対側へ向けた。
この公園からメインストリートへ出てエアタクシーを拾い、あのモルゲンレーテの工場まで戻るには……。
さほど時間はかからないだろう。
ちらと後方に視線を投げると、ベンチに座っているニコルとアスラン、その前に立つディアッカが、頭を摺り寄せるようにして、何か熱心に見入っている光景が視界の淵に映った。
どうやらニコルが膝の上で操作しているポータブルコンピュータの画面に映し出された映像を二人が覗き込んでいるらしい。それを見ながら、アスランが何かしきりに指で指し示して説明している。
オノゴロ島全体の地図か、軍港の様子などをチェックしているのだろう。
誰もこちらを気にするものは、いない。
ふ、と軽く息を吐くと、イザークは三人に背を向け、ゆっくりと歩き出した。
(……悪いが、今は俺の好きにさせてもらう……)
イザークは、少しずつ歩く速度を速めた。
仲間の元を黙って離れることに対する罪悪感を打ち消すように、彼は必死に別のことに神経を集中した。
白い機体。
栗色の髪の少年。
虫も殺さぬような、顔をして……。
一気に呼吸が速まった。
(――構うものか)
憤りに胸を焼かれながら、荒々しく息を吐く。
(今……今を逃せば、きっと俺はずっと……後悔する)
嫌だ。
絶対に……。
――このチャンスを、逃してたまるか。
そう思うと、振り返りもせず、ただ真っ直ぐに歩き続けた。
工場の第一エリアから西側一帯は廃棄処分になった機体やパーツを処理するまで格納する倉庫が並んでいて、普段はそうそう人の出入りもないだろう。
わざわざ西ゲートを選んだのは、人目に触れることが一番少ないだろうと踏んでのことだ。
何とかうまく事を運んで中へ入れるようにと、目の前のゲートを見つめながら、イザークは頭の中でしきりにフラガを籠絡する手段を画策した。
――あいつは、来るだろうか。
ふと、薄闇の中で目を細める。
キラ・ヤマト。
菫色の瞳を大きく見開いてこちらを見つめ返す少年の驚いた顔が目の前に甦ると、イザークはぎりと奥歯を強く噛み締めた。
――殺して、やる。
殺して……。
念を込めて、そう繰り返しながら、ふとやるせない思いが募る。
あいつを、殺して……。
その後、俺は、どうする……?
思いもしなかった考えに、イザークは愕然とその場に凍りついた。
ストライクを叩く。
それは、簡単だ。
連合が生み出した白い悪魔の機体。
あれを叩き潰すことには、何の躊躇いもなかった。
なのに……。
こんな形で、突然ストライクのパイロットと相見えることになると、忽ち複雑な思いが胸をよぎる。
(まさか、な……)
自分の抱いていたイメージと、あまりに違いすぎる。
ミゲルを殺した機体を操っていたパイロットがまさか、あんな……。
イザークは目を閉じて、息を吐く。
戸惑いも露わに、怯えた瞳でこちらを見つめ返していたあの少年の姿が目の前に焼きついて離れない。
人を殺す者の瞳(め)では、なかった。
少年と目を合わせたとき、イザークは正直軽いショックを禁じ得なかった。
本当に、奴は正規の軍人なのか。
見た目で判断してはいけないと思いながらも、イザークには何だか信じられなかった。
ザフトではともかく、連合であんなに年若い軍人がいるのも珍しい。
そして、彼を見つめるアスランのあの瞳……。
別の意味で、胸の奥が焼けるような、ひそかな苛立ちを感じる。
(あいつは、ナチュラル……なんだろうか)
ふと、単純な疑問が胸を掠めた。
ただのナチュラルの少年が、あの機体をあれほどまでに乗りこなすことができるのだろうか。
いろいろと気になることばかりだ。
イザークは頭を抱えた。
こんなにも、奴の存在が自分を悩ませることに、腹立たしさを感じる。
(……くそっ……!)
舌打ちをしながら、凭れていた樹の幹を打った。
と、そのとき突然人の気配を悟り、彼ははっと目を開いた。
すぐ背後から感じる人の微かな呼吸音。
考え事に専念するあまり、気付くのが遅かった。
忽ち危険信号が鳴り響き、びりびりと全身に電流が走った。
樹幹を蹴るように、体を捻りながら地に転がる。
不快な電磁音が耳を掠め、物が焼けるような匂いが微かに鼻を衝いた。
起き上がりざま、相手の体を狙って足を横に蹴り上げた。
手ごたえを感じる。
ぐ……と目の前に蹲った黒い塊から、低い呻き声が聞こえた。
闇に目を凝らし、相手の姿がはっきり捉えられるようになると、覚えのある顔にイザークは表情を強張らせた。
「……貴様……ッ……!」
性懲りもなく、また……と、まだ新しく刻み付けられたばかりの屈辱の記憶に、握り締める拳がぶるぶると震えた。
男はゆっくりと顔を上げ、怒りと嫌悪に歪む端整な顔を無遠慮な視線を投げた。
銃口を向けながら立ち上がろうとする男の手を、イザークの足が蹴りつけた。
銃が空を舞う。
同時にイザークの手が腰からナイフを抜き放つ。
男に振り上げた切っ先は、空を切った。
ちっ、と舌を打ちながら、間髪を入れずに相手に襲いかかる。
男も必死で刃から身を交わし、二人は至近距離で格闘を続けた。
しまいに男が小さく声を上げて、バランスを崩した。
イザークの刃が腕を掠ったのだ。
よろめく体が傍の樹幹にぶつかる。
その機を逃さず、イザークは男の体の真正面に自分の体をぴたりと合わせた。膝で男の股間を打つと、男は低い唸り声を上げた。
「ぐ……っ……!」
男は凍りついた。
首先にぴたりと刃先が当てられている。
樹に括りつけられたも同然で、寸分も身動きできない状態だった。
目をぎらぎらと大きく見開いたまま、男は凄まじい形相で少年を睨みつけていたが、やがてその顔は諦めにも似た笑みに変わり、ふ、と彼は小さく息を吐いた。
「……さすがに二度目はない、か」
まだ腫れたままの顔を不様に晒しながら、男は呟いた。
「当然だろう」
冷やかに答えるイザークの顔を、男はにやりと笑ったまま見返した。
「……だが、やはり気配に気付くのは遅かったな。――何を考えていた?」
「何……?」
男の不敵な面持ちに、イザークは僅かに眉を寄せた。
「――クルーゼ隊は作戦逸脱行動をするのがお得意のようだな」
男は馬鹿にしたように口元を歪ませた。
「……なぜ、こんなところまで戻ってきた?」
「貴様には、関係ない……!」
イザークの目が怒りを湛えながら、男を睨みつける。
「誰かと密会の約束か?」
「……黙れ!」
男の喉に押し当てていたナイフの刃先を脅すように軽く突いた。す……と刃の先から細く糸を引くような赤い雫が零れ落ちた。男は軽く顔を歪めた。
「……焦るなよ」
男の呼吸が荒くなる。それでも挑戦的な表情は変わらない。
「ムウ・ラ・フラガだろう、あんたの会う相手は」
「……………?」
イザークは瞬いた。
ムウ……。
そう、確かそんな名だった。
あのとき、奴が自分でそう名乗ったような気がする。名前など気にかけもしていなかった。だからずっと忘れていた。
しかし、ムウ・ラ・フラガだと……?
フルネームを聞くと、妙に覚えのあるフレーズのように思える。
そうだ。どこかで、その名は聞いた覚えがある。
「あのとき……どこかで見た顔だと思ったんだ。私服だからわからなかったが、な」
「……何のことだ……」
刃が僅かに男の肌から離れる。
焦燥と苛立ちに駆られながら、急き立てるように男を見る。
「――エンデュミオンの鷹、さ。宇宙のエリートさんなら、聞いたことくらい、あるだろうが?」
馬鹿にするように吐き捨てる男を前に、イザークはあんぐりと口を開けた。
「……エンデュミオンの……」
……聞いたことは、ある。
月面エンデュミオンクレーターにおける戦線でその名を轟かせた連合軍のエースパイロットの持つ異名。
――そうか。
どこかで聞いたことがあると思ったのは、やはり……。
それがあの男、なのか。
衝撃が、襲う。
あの男から感じた異様な感覚。
あの不思議な既視感のようなものは……それが原因だったのか。
いや、それだけ……だったのだろうか。
どこか釈然としないものを感じながらも、イザークは取り敢えず目の前の事実だけを受け容れた。
「……奴だとわかったときには、驚いたよ。まあこれも怪我の功名ってところだな。たまたまあの男を見つけたせいで、足つきがここにいる、という確証が掴めたんだからな。俺にも感謝して欲しいところだぜ」
くつくつと笑う男をじろりと睨めつけながらも、イザークは心穏やかではなかった。
――違う……。
アスランが、足つきを確認した本当の理由は、そうではないのだ。
それを知っているのは、アスラン自身と、この自分だけで……。
どうしてこのことを考えるとどうしようもなく心が乱れるのか。
イザークは震える心を抑えようとした。
駄目だ。
足つきは……。
いや、足つきのことなど、どうでもよいのだ。
本当に俺が気にしているのは……。
「……………!」
――今度こそ、気配に気付かなかった。
あっ、と思ったときには遅すぎた。
太く逞しい腕が巻きついてきた。
何が起こったのかわからぬまま、イザークは背後から回ってきた腕に首から押さえつけられていた。
緩んだ手の間から、ナイフが落ちていく。
「う……ああ……ッ……!」
抵抗すればするほど、締め付けが強まり、息が止まるのはおろか、このままでは首の骨まで折れてしまうのではないかと思うほどだった。
「おい、顔は傷つけるなよ!」
反対に自由になった男が傷ついた喉をさすりながら、背後へと声をかけた。
「わかってる。――しかし、全く無防備だったな。おまえが大げさに言うからどんな奴かと思ったが……」
嘲笑するような声に、イザークは怒りを込めて足をばたつかせた。
「おいおい、そんなに暴れんなよ。もっと苦しくなるぜ」
ぐいぐいと力が増すと、自ずと抵抗も弱まった。
あまりの苦しさに目尻に涙が浮かぶ。
悔しいが、どうにもならなかった。
「……で、どうする?これ」
まるで物を扱うかのような軽々しさで、イザークを捕らえた男が問う。ざらりとした掌で頬を撫でられると、気持ちの悪さに思わず悪寒が走った。
「しっかし確かに女より良さそうだな。……どうやってこんなの見つけてきたんだか。――取り敢えず、このままここで犯っちまうか」
「そうだな……」
耳障りな男の声が、耳を掠めた。
「もっと人目につかない場所へ連れて行ってから、考えるか」
嬲るような口調に、ぞっとした。
「……う……き、さまら……こんなこと……ッ……ただで、済むと……!……」
「あんたさえ喋らなけりゃ、大丈夫さ……これからされることは、普通の神経じゃあ、とても喋れないだろうから、な。赤服着てるエリートさんじゃ、尚更ね……」
覗き込んできた男がねっとりとした口調で囁いた。
「で、ちょっと静かにしててもらえないか。ここで騒ぎを起こしたら、あんたも俺たちもまずいだろ」
そう言うと、男はイザークの口に何か布きれのようなものを押し込んだ。
「……ん……ぐッ……!」
口がいっぱいに開かされたまま、間抜けな顔になっているに違いない。それでも両腕を少しでも動かそうとすると忽ち締めつけがひどくなるので、どうにもできなかった。
そのままずるずると後方へと引きずられていくのがわかる。
霞む目の前からゲートが遠くなる。
このまま待っていれば、あいつが来るのに……。
ただでさえ、人がいない区域。
しかし騒ぎになれば、確かに奴らの言う通り、まずいことになる。
自分で招いた結果だとはいえ、イザークは改めて絶望的な気分になった。
暗闇の中を引きずって移動することで、男の力が少し緩み気味になる。
「……く……っ……!」
もう一度、渾身の力を込めて男の拘束から逃れようと身を捩って抵抗を試みた。
「ちっ……!」
捕まえていた男が苛立たしげに歩を止める。
「面倒だな。おとなしくさせるか」
首筋に何かを当てられた。
まさか……と思ったときには凄まじい衝撃に全身が反り返った。
一度、二度と衝撃が続く。
二度目で目の前が白くなった。
頭の中で何かが弾ける。と、その瞬間、意識が飛んだ。
「……おい、レベルを上げすぎだろう!」
男が叱責する声が遠くの方で、微かに聞こえる。
「……ああ、大丈夫だ。ほら、まだ息してるぜ」
「馬鹿!もしものことがあったら、どうする!」
「……るせえな!人を引きずり込んどいて何だよ!おまえの秘密の仕事が何だろうが俺の知ったことかよ。俺がいなきゃおまえ――」
男たちが罵り合っている声が、まるで雲の上で交わされているかのようだ。殆ど現実味が感じられない。
自分は今、どこにいる?
何を、していたのだろう。
そこにいるのは、誰だ?
口に突っ込まれていたものは取り去られていたが、口は開いたまま、涎が出っぱなしだ。小刻みに痙攣する体。心臓が弱々しい鼓動を続ける。まさかこのまま、止まってしまうのではないだろうな、と弱気なことを考える。
体がぶつかる音。
呻き声。
何が起こっているのだろう。
目を開いてみる力すらない。
音はひとしきり聞こえていたが、やがて静かになった。
目を閉じたまま、横たわっている体のそばに、足音が近づく。
気にはなったが、何もできなかった。
もう、どうでもよい。
そのまま、じっと横になっていた。
意識がぼんやりしている。
――俺は、死んでいるのだろうか。
ふと、愚にもつかぬ問いが胸に浮かんだ。
……体がそっと揺すられる。
そっと触れる手が、頬を撫でる。
柔らかい。
口元をそっと拭われた。
誰の手なのか。
うっすらと瞼を上げた。
暗い闇の中で、ぼんやりと霞む顔の輪郭。
ただ、闇の中で優しく瞬く菫色の光だけが、映った。
「……大丈夫、ですか……?」
甘く、歌うような声音。
天使の声、だった。
自分はやはり死んでいるのに違いない、と思った。
しかし、どうしてこんなに暗いのだろう。
ぼんやりと首を傾げる。
頭の下に手を添えられた。
ゆっくりと起こされようとしているのがわかる。
目の前に天使の顔が近づいた。
「……あ……」
見たこともない、顔だった。
誰……だろう。
「……誰……?」
掠れた声がそれだけ呟くと、再び彼は瞳を閉じた。
全ての記憶が黒い闇の中に吸い込まれていくように、消えていくのを感じた。
(to be continued...)
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