呪  焔
 (11)










 暗い闇の中に、蹲っていた。
 心臓の鼓動がゆっくりと、動いている。
(ああ……)
 ――自分はまだ、生きているんだ。
 ぼんやりとした頭で、そう思った。
 冷たい体に、ほんのりと温もりが戻ってくる。
 やがてそれは熱い焔となって、体内を駆け巡り始めた。
 熱い。
 今度はその焼けつくような熱に、息苦しさを覚えた。
「う……」
 乾いた唇が、水分を求めて熱い吐息を吐き出す。
 額をひんやりとした手が撫でた。
 と同時に頭の下に手を添えられて、少しだけ持ち上げられる。
 唇に、何か固くて冷たいものが当たった。
 濡れた感触に、忽ち飢えたように口を開きそれを受け容れた。
 喉の奥に、ゆっくりと流し込まれていく水に、生き返るかのような心持ちになる。嬉しくてごくごくと飲み干した。
「……良かった」
 ほっと呟く声に、瞳を開く。
 すぐ目の前で、見知らぬ顔が微笑んでいた。
 ――誰、だろう。
 イザークは目を軽く瞬いた。
 黄色系の肌に、栗色の髪。優しい面立ちの中に、ひときわ大きく見開かれた紫色の双眸が印象的だった。
「……あ」
 目が合うと、相手は少し恥ずかしそうに視線を外した。
 ゆっくりと頭が枕の上に落ちていく。
 相手の手が離れ、顔が遠ざかる。
 それでも、イザークは少年の顔から目を離そうとはしなかった。
 さかんに瞬きながら、不思議そうに少年を見上げる。
 ――わからない。
 頭の中が真っ白で、恐ろしいほど何も出てこない。
 自分は一体誰で、何をしていたのだったか。それさえも……。
 少年の顔。
 次いで、部屋の中に視線を泳がせる。
 白い壁に囲まれた個室。
 やはり、見覚えがない。
 体を少し動かそうとして、あまりに動きが鈍いので驚いた。
 自分は怪我をしているのだろうか。
 起き上がりかけて、忽ち呻いた。鈍い痛みが全身を駆け巡る。筋肉が突っ張り突っ張り、骨がきしきしと乾いた悲鳴を上げる。
「ああ、急に動いたら駄目だよ!」
 慌てたように、少年が手を差し伸ばした。
 背中に手を当てて、支えられた。体が密着する。温かい腕のぬくもりが伝わると、何だかほっとして、力が抜けた。
 枕を立てて、それに背を当てる形で、何とかベッドの上に半身を起こすことができた。
 ただそれだけでひどく体力を使った感じで、姿勢を整えたときには、息も弾み全身にじわりと汗が滲んでいた。
「起きてて、大丈夫かな……」
 少年が心配そうに覗き込む。
 それへ、力のない視線を投げかけた。
「……なん、とか……」
 そう言った途端、自分で自分のその掠れた弱々しい声音にぎょっとした。
「苦しくなったら、すぐ言って下さいね」
 少年はそう言うと、少し顔を近づけた。紫色の瞳が検分するように覗き込んでくる。
「……顔が、赤い……」
 彼は呟くと、ひょいと額に手を当てた。
「まだ、熱があるんじゃないかな……」
「……お、れ……どう、したんだ……?」
 ようやく疑問を声にすることができた。
「……こ、こは……」
 さらに、今自分がどこにいるのか問おうとしたものの、ざらついた舌が上手く動かなかった。
 見たところ病院、というわけでもなさそうだが。
 自分の置かれている状況がわからない限り、落ち着かない。
 たとえ、目の前の少年が害を与えるような人物ではなさそうだとしても。
「――ここは、僕の部屋です。取り敢えず、ここに運び入れるしかなかったもので。あ、でも誰にも見られなかったし、ここにも誰も来ないようにしてるから、安心して下さい」
 彼の不安を拭うように、少年は懸命に説明を始めた。
「……強い電磁波のショックで神経が一時的に麻痺してたみたいで……えっと、命に別状はなかったようだから、薬だけ打って様子見てたんですけど……なかなか意識が戻らないんで、ちょっと心配してました」
 聞いているうちに、どうやら自分が何か事件に巻き込まれて、この少年に助けられたらしいというところまではうっすらと理解できた。
 しかしそれでも何も思い出せない、というのはどうしたことか。肝心のことが何一つわからない。
 ひどく頭が混乱していた。
「……あ……――」
 少年は不安げに眉を寄せた。
「……だいぶ具合、悪いですか?……どこか、痛かったり……?」
 黙って俯いたきりの彼に、戸惑いをみせる。
「……いや……」
「……あなたを襲った奴らも、フラガさんがうまく片を付けてくれたみたいだし……あなたがここにいることは、僕とフラガさんしか知らないんで、本当に心配しなくても大丈夫ですから――」
 つらつらと話し続ける少年を前に、彼は困惑したように頭を傾げた。
 話の内容についていけないのだ。
 考え込もうとすると、途端に頭の芯から刺すような痛みを感じ、思わず身を竦める。
「……大丈夫、ですか……。ほんとは医者に見せた方がいいのかもしれないけど、それじゃ、あなたが困るかなと思って……その……」
 少年はそこで躊躇うようにいったん言葉を止めた。
 奇妙な間に、彼は不審気に少年に視線を戻す。
 少年は何ともいえない複雑な表情を浮かべていた。
 やがて思いきったように、再び口を開く。
「――アス、ラン……に……――」
 そこでまた言葉を切る。
 ――アス、ラン……。
 少年の含んだような口調がやけに気になる。
「……彼に連絡……つける、方法……」
 紫色の瞳が瞬く。期待と不安に満ちた眼差しが、イザークを射抜いた。
「何か、あれば――」
「……アス……ラン……」
 イザークは呆けたように、その名を繰り返した。
 アスラン……?
 その名を心の中で反芻するかのように、しばらく考え込む。
 何も、浮かんでこない。
 名前だけが、記憶の表層を擦り抜けていく。
 不思議だった。
 なぜ、少年がそんな目で自分を見るのか。
「……わから、ない……」
 イザークはぽつりと呟くと、戸惑いを隠すように目を伏せた。
「え……?」
 思いがけない答えに、少年は目をぱちくりさせて、イザークを見返していた。
「……わから、ない、って……――」
「――何も、思い出せない、んだ……」
 たどたどしく言葉を紡ぐイザークの声は今にも消え入りそうだった。
「……頭の中が、真っ白で……」
 ――綺麗に何もかもなくなっている。
 考えようとすると、頭が痛くなる。
 泣きそうな気分だった。
 何もかも……。
 それまで頭の中にあったものが、丸ごと全てどこかに放り出されてしまったかのように。
「ちょっ……」
 少年は信じられぬように目を瞠った。
「そ、んな……」
 愕然とした少年の背後でビーッ、と電子コールが鳴る。
『おい、キラ!開けてくれ』
 ひっそりと囁く声が室内にびん、と響く。
 あっ、とキラは慌てて我に返るなり、扉口へと走った。
 電子錠を解除して、扉を開ける。
 金髪の背の高い男が素早く飛び込んできた。
「どうだ、イザークの様子は……?」
 そう言いながらベッドの上に視線を投げると、フラガはおっ、と心得た微笑みを浮かべた。
「何だよ、気が付いてるみたいじゃないか」
「あ……そうなんですけど……――」
 キラは困ったように、言葉を途切らせた。
「何?どうかした?」
 不思議そうな顔で、フラガはキラとベッドの上のイザークの交互に視線を当てた。
「……覚えて、ない、って……」
「――はあ?……」
「彼の、記憶……」
「おいおい、冗談だろ……?」
 フラガはだんだん事情が飲み込めると、あんぐりと口を開いた。
「はあー、まさかさっき襲われたショックで記憶全部吹っ飛んじまったってか……?」
「そう、みたいです……」
 キラがはっきりとそう答えると、フラガはがっくりと肩を落とすなり、はは、と力なく笑った。
 
 
 
「……ほんと、何も覚えてないの?」
 医者の問診のように真剣な面持ちで、フラガがイザークに問いかける。
 ベッドの上に半身を起こした状態でフラガと向き合うと、イザークは黙って頷いた。
「はあー、そっかあ……」
 ぺち、と額を叩くと、フラガは困ったように溜め息を吐いた。
「うーん、困ったねえ……」
 ふざけた調子で言いながらも、その目は真剣に考え込んでいる様子だった。
「確かに一時的なショックで記憶が抜け落ちる、ってのはよくある話だが……」
 厄介だな、と彼は頭を掻いた。
「本当に、何も覚えてないのか?」
 ベッドに腰を下ろすと、戸惑うイザークの前に顔を寄せ、同じ質問を繰り返した。
「……わからない」
「自分の名前も?」
「……それ、は……」
 イザーク、と呼ばれるから、そうなのだろうと納得しているだけだった。イザークは曖昧に首を振った。
「……俺の名前なんか当然覚えてないんだろうなあ。ま、記憶があるときから覚えていなかっただろうけどさ」
 そう言うと、フラガは苦笑いを浮かべた。
「――俺はムウ。ムウ・ラ・フラガってのがフルネーム。ムウでもフラガでもどっちでもいいけどな。で、こいつはキラ。んー、どういう関係か、とか何をしているのか、とか……そういったことを突っ込むのはお互いのためによくないから、やめとこうね」
「……キ、ラ……」
 その名前が、ほんの少しだけ心に引っかかった。
 ――キラ……。
 気のせいだろうか。
 しかしそんな感覚も、いきなり頬に触れてきた指先に驚いた瞬間、どこかへ消え去ってしまった。
「……あ……ッ……ちょっ……――!」
 頬から顎をするりと撫でられたかと思うと、金髪の頭がすぐ目の先に迫っていた。
 掠め取るように唇の先に軽くくちづけられると、イザークは思いがけない相手の行動にショックを受けた様子で、離れていく金髪の頭を呆然とした表情で見つめ続けた。
「……こんなことしたんだけど、覚えてない?」
 平然とそう言うと、今しがた相手に触れたばかりの唇をぺろりと舐めるその赤い舌先が妙に艶かしい。
「……は……――」
 イザークはものも言えず、硬直したままだった。
「フラガさんっ!」
 たまらず、キラが横から怒鳴りつける。
「なっ、何やってんですか。――いい加減にして下さいっ!」
「あー、悪い悪い。これも一種のショック療法って奴で……もしかしたら、これでちょっとくらい記憶が戻るかなー、とか……」
「そっ、そんなわけないでしょうっ!」
 必死で抗議するキラの頬にうっすらと朱が滲んでいるのを見て、イザークは視線を和らげた。
 悪のりした男に対する腹立たしさも、キラの代弁で何となく勢いを削がれた気がした。

「……もう、いい」
 唇を軽く拭うと、彼は落ち着いた様子でそれでも僅かに咎めるような視線をフラガに送った。
「――にしても、冗談にしては度が過ぎているとは思うが……」
「冗談のつもりじゃなかったんだけどね。けど、やっぱ効果なし、か」
 フラガは抜け抜けとそんな風に返したが、イザークのきつい眼差しを受けて、やや口調を改めた。
「となると、そうだな……あとは、そっちの『お友だち』に連絡を取るしかない、か……。あ、そういや、おまえ、何か連絡できるもん持ってたよな?……っていっても覚えてないんだろうけど」
「……………?」
 イザークは首を傾げた。自分の姿を見て、戸惑った様子を見せる。それもその筈で、今の彼はシャツと下着だけしか着けていない状態だった。何か持っているかと言われても、答えようもない。
「小型の連絡機みたいなの、持ってたんだよ。確か……。――なあ、こいつの着てた服、どこだ?」
 そう言いながら、フラガはキラを見た。
「何もなかったですよ」
 キラはやんわりと首を振った。
「もしそんなのがあったら、脱がせたときに、気付いた筈ですから」
「そう、か……」
 フラガは残念そうに肩を竦めた。
「あー、こうなるんだったら、奴らを逃がすんじゃなかったよなー。少なくとも、向こうと連絡取れる方法を聞き出せたかもしれないし」
 苦笑いするフラガに、キラは不快げに顔を顰めた。
「あんな奴らに何を聞いたって無駄ですよ。あいつら、この人に……」
 言いかけて口を噤む。
 途中、聞こえてきた会話から、奴らが何をしようとしていたのか大方察しがついたのだ。
 躊躇う相手に、イザークは強張った顔を向けた。
「……俺を襲った奴ら――か……?」
「……………」
 何も言わず俯く相手に、イザークは軽く息を吐いた。
「……わからない。どうして……思い出せないんだろう」
 誰に、なぜ襲われたのか。
 この目の前にいる二人と自分はそもそもどういう関係なのか。
「……まあ、そんなに悩むなよ。仕方ないだろ。無理に考えたってどうにもならないさ」
 フラガは慰めるように声をかけると、そうそう、と話題を元に戻した。
「――とにかくだな、このままおまえを置いとくわけにもいかないし、早く何とかしないと――……って、そうか。もしかしたら、さっきの場所に落ちてるかもしれんぞ。……ちょいと、見てくるか」
「お願いします」
 キラは軽く頭を下げた。
 フラガは舌打ちした。
「……やっぱ俺に行かせんの?――きみが行って、俺がここで彼の世話を焼いてる、って方が本来の図式って気がするんだけどねー……」
「ここ、ぼくの部屋ですから。一応……」
 キラはにっこりと微笑んだ。
「ぼくがいないと、まずいと思うんですよ」
「……だから俺の部屋に入れようって言っただろ?……ったく、おまえ一人じゃ、あの連中だってそう簡単に追い払えなかっただろうにさ……」
「少佐――」
 キラが軽く睨むと、フラガは観念したように両手を挙げた。
「はいはい、わかりましたよ!」
 口を尖らせながらも、フラガは足速く部屋を出て行った。
 扉が閉まった後も、しばらくキラはその場に佇んでいた。
 イザークに背を向けたまま、片手をそろりと腰に当てる。
 ほんの僅かに膨らんだポケットの中に入ったその硬い感触を確かめるように、指先が布地をなぞるその微かな仕草は、当然背後の少年の目に触れることはなかった。

                                      (to be continued...)


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