呪  焔
 (13)










 相手が少し目を見開くのが見えたが構わなかった。
 どきどきする胸を抑えながら、さりげなく唇を離した。
「ごめん……」
 いかにも不可抗力であったかのように軽く謝りながらも、頬がかっと熱くなり、自分の中の不埒な思いを見透かされたのではないかと思った。
 しかし、彼は何も言わなかった。
 それで余計罰が悪くなり、相手の顔が見られなくなった。俯きながら、彼はそっと相手の体を引っ張った。
 裸の体を抱きかかえるようにして立たせると、支えながらバスタブを出て、体を拭き、服を着るのを手伝った。
 血のついた顔を軽く洗ってやると、取り敢えずタオルで抑えておくように指示して、ベッドに寝かせた。その間イザークは呆けたようにされるがままになっていた。
 消毒液と包帯を取ってこようとして、外に出たときには、深い溜め息が出た。
 自分はさっき、どうかしていた。
 自分のしたことや感じたことを思い出して、どうしようもなく恥ずかしくなった。
 衝動に突き動かされた、とはいえ……突然、唇に触れてしまう、などと。
 自分の唇に指を置き、さっきの感触をなぞると、また心臓の鼓動が速くなるのを感じた。
 濡れていたせいだろうか。
 しっとりとして、妙に柔らかくて、弾力があった。
 まるで女の子とあまり変わらない……。
 そこまで考えてキラは頭を振った。
 いつのまにか、体の芯が、じんと熱くなっている。
 本当に、何を考えているのか、と慌てて自分の淫らな考えを遠くへ押しやった。
 
 
 
「……これで、何とか止血もできたと思うけど……」
 キラは心配そうに、相手の顔を覗き込んだ。
「――本当に、大丈夫……?」
 ベッドの縁に腰を下ろすイザークの前に椅子を置き、向かい合う格好で、キラは応急処置をしていた。
 傷を覆うように、顔の右半分に白い包帯を巻いてしまうと、イザークの顔は酷く痛々しい様子になった。
 イザークはおとなしく手当てを受けていたが、ずっと黙ったままで、自分からは何も言葉を発しようとはしなかった。今もキラの問いには曖昧に首を振るだけで、意識がどこか別の世界を漂っているかのような危うさすら感じさせる。
 白い顔は一層色を失っており、このまま倒れてしまうのではないかと一時は危ぶんでしまうほどだった。
「……あ、の……」
 キラはこわごわ声をかけた。
「……アスランのこと、だけど……」
 相手は何の反応も示さなかった。
「……あなたの、仲間、なんだ」
 キラはめげずに、続けた。
「……俺、の……?」
 小さな声がぼそりと呟く。
「うん」
 キラは頷くと、イザークの手を軽く引いた。
「迎えに来てくれる、から……」
「……迎えに……」
「そう」
「………………」
 会話はそれ以上続かなかった。
 俯き、黙り込んだイザークを見て、キラは小さく溜め息を吐いた。
 少しの沈黙の後。
「……かっ、顔……」
「……ん?」
 突然キラが切り出すと、イザークは不審そうに眉を上げた。
「顔、見たら思い出すかも――!」
 中途半端な励まし方ではあるが、キラには他に言う言葉が見つからなかった。
 イザークは驚いたようにキラの顔を見つめたが、すぐにその目元を緩めた。
「そう、だな」
「そう、だよ……きっと……思い出せる」
 キラはそこで、あっと何か思いついたような顔をした。
「ちょっと、待ってて」
 立ち上がると、机の前まで行き、自分の持ち物を入れた袋の中をがさごそと探った。
 程なく目的のものを見つけたようで、それを手に持って戻ってくる。
「……ほら」
 差し出された手の先にあったものは、一枚の古い写真だった。
「ちょっと、古いけど」
 照れたように説明する。
「……三年前になるかな……月の幼年学校にいた頃の写真なんだ。これがぼくで、その横にいるのが、アスラン」
 イザークは珍しそうに、写真を見つめた。
 写真の中には、幼年学校の制服を着た、まだ幼さを残す二人の少年が仲良さ気に、並んで写っていた。
 栗色の髪の少年の横で、少し大人びた顔を向ける紫紺の髪の少年が、今の自分の仲間だと言われても正直ぴんとこなかった。
 しかし、この二人の少年は何と明るく楽しそうな表情をしているのだろう。生き生きとした表情に、魅入られた。
「……仲、良かったんだな」
 イザークが呟くと、キラも写真を覗き込んで、懐かしげに目を細めた。
「――小さい頃から、ずっと一緒だったんだ。お互いの家もよく行き来して……アスランの家は殆ど留守のことが多かったから、よくぼくん家に泊まりに来てたな……。ぼくもアスランも一人っ子だったから、お互いに兄弟みたいに思ってた」
「……そう、か……」
 イザークは写真の中の少年たちを感慨深げに見つめた。
 自分にも、こんな友がどこかにいるのだろうか。
 抜け落ちた記憶のどこかに、こんな風に笑い合う友と自分の姿があったのだろうか、などと考える。
「……大切な、友だち、だったんだ……。とても、とても、大切な……」
 キラの声がだんだん途切れがちになる。
「……ぼくにとっては、まだ大事な友達で……失いたく、ない……」
 目を上げたイザークは、キラの潤んだ瞳を見て困惑した。
「……おい、どうしたんだ」
 キラははっと我に返ったようだった。
「ごめ、ん……」
 キラは軽く目尻を擦った。
「ぼく、駄目なんだ。こんな風に、ずっと泣き虫で、弱くて……アスランにも迷惑ばっかりかけて……そのたびに、アスランはぼくを助けてくれて……」
 なのに、ぼくはその半分もアスランに返してあげられるものはなかった。
 それが今は、敵味方となって、再会することになって……。
 過酷な現実を改めて思い知らされる。
「――ぼくに、アスランは殺せない……そんなこと、できるわけない……!」
 拳を握り締め、彼は張り裂けそうな胸をぐっと堪えた。
 そんなキラの様子を、イザークは不安げに見つめた。
「……ころ、す……?」
 唇が、震える。
 どうして、友だちを殺さなければ、ならない……?
 そのとき、突然ぱたぱたと聞こえてきた羽音が、イザークを驚かせた。見上げると、天井をぐるぐる回りながら、飛んでくる緑色の小鳥が目に入った。
「トリィ?」
 小鳥は、キラの肩に上手く止まると、小首を傾げてまた一声鳴いた。
 近くで見るとそれが本物ではなく、精巧に造られた機械鳥なのだということがすぐにわかった。
「……鳥……?」
「おいで、トリィ」
 キラは僅かに微笑むと、肩に止まった鳥に向けて片手を差し出した。
 トリィはすぐに肩から手の甲へと飛び移った。
「アスランが、造ってくれたんだよ。上手くできてるだろう?」
「ロボット鳥、か……」
 イザークは感心したように、鼻先に突き出されたその緑色の機械仕掛けの鳥をまじまじと眺めた。
 近くで見るとわかるが、首を傾げたり、嘴を動かす仕草など、まるで本物そっくりによくできている。
「ずいぶん器用な奴なんだな。おまえの友だちは」
 イザークがそう言うと、キラは真面目に頷いた。
「うん。凄いよ、彼は。米に字、書けちゃう人かもね……」
「……コメ?」
 イザークがきょとんとした表情で繰り返すと、キラはあっと口に手を当てた。みるみる頬に朱が差す。
「あ、ごめん!……わ、わかんないよね……」
「……植物の実の米、か?」
「あ、う、うん……」
 キラはしどろもどろに、それでも何とか説明を試みた。
「――アジアで昔、いたそうなんだ。米に、ちゃんとした文章を書けちゃうような人が……。あんなちっちゃい米粒に、スゴイな、って思って。だからきっと、それくらい器用なんだろうな、って思って、アスランにそう言ったことあるんだ。でも、アスランにも何言ってんのかわからない、って呆れられたけど……」
 そんな風に弁解しながら、なぜ今そんなことを言ってしまったのかとキラは半ば自分自身に呆れていた。まるであの頃に返ってしまったかのように……。
 そこでふと、気付いた。
 こんな風に、気軽に会話を交わすことすら、最近では殆どなくなっていたということに。
 最後に誰かと笑い合ったのは、いつのことだろうか。
 ちょっとした冗談や、ささいな言葉のやり取り……。
 ごく普通の会話。
 ごく普通の日常風景。
 それが、いつの間にか、自分には普通ではなくなっていた。
 戦闘に巻き込まれて以来、四六時中神経を張りつめた中で、ちょっとしたことにも苛立ちが募り、仲間と話す時もどことなく皮肉めいた口調や、刺々しい言葉のやり取りが多くなっていた。
 今、こんな風に自然に話せている自分が不思議だった。
(何で、ぼくは……)
 我に返ると、急に恥ずかしくなった。相手にわかる筈もない昔話を、一人で勝手にぺらぺらと喋り続けて……。
「……わけわかんなくて、ごめん……」
「いや、わかるさ」
 真面目に答えたイザークに、キラは驚きの目を向けた。
「え――」
「おまえの言うことは、明瞭だ。米粒に文字を書けるほど、器用だということなんだろう。よく、わかる」
「……う、うん……」
 キラは、目を瞬いた。
 相手の真剣な面持ちに少し戸惑いながらも、何となく嬉しくなる。
(――米粒に文字なんて書いて、何か意味あるの?)
 呆れたように呟いたアスランの顔を思い出して、キラはくすりと忍び笑いを洩らした。
「何だ?」
 不審気に問い返すイザークに、キラは笑って何でもないよ、と答えた。
 同じ話なのに、相手の反応はまるで違う。いつの間にかそれを、楽しんでいる自分に気付く。
 もっと話したい、と思った。
 関を切ったように、口を開く。
「……機械弄りにかけては、彼、とにかく凄かったから。どんなに複雑な構造のものを扱っても、いつも正確で、速いんだ。ぼくは細かいもの作ったり、弄ったりするのが全然駄目だったから、学校の課題もずっと彼に頼りっぱなしだったよ。厳しくって、よく叱られたけど、結局最後まで付き合ってくれて……」
「……………」
 イザークは黙って相手の話に聞き入っていた。

 ――アスラン。
 キラは、このアスランという友のことを余程大切に思っているのだろう。
 アスランのことを嬉しそうに話すキラを見て、イザークは不思議に思った。
 友だち、だと言った。
 しかし、殺せない、と。
 なぜ……。
 友だちなのに、なぜ殺さねばならないのか。
 そして、その友だちと自分は仲間なのだ、という。
 ということは、つまり……。
「キラ……」
 イザークは重々しく切り出した。
「……イザーク?」
 キラは相手の険しい表情を見て何かを察したのか、不意に話すのをやめた。
「どう、したの……」
 キラの顔が僅かに強張る。
 奇妙な緊迫感が漂った。
 イザークは躊躇いながらも、口を開いた。
「……俺たちは……敵、なのか」
「………………」
 キラの顔色が変わるのがわかった。
 それだけで、充分だった。
「そう、か……」
 キラの答えを待たずに、イザークは頷いた。
 深い溜め息が口をついて出る。
 敵、なのに……こうして俺たちは向かい合って、何事もないように、他愛もない昔話に興じていたりする。夢か現かわからぬような、この偶然の巡り合わせをイザークは不思議な気持ちで受け止めた。
「……いいのか」
 イザークは、静かに問いかけた。
「いい、って……何、が……?」
 キラの声はぎこちない響きを帯びていた。
「こんな風に、俺を生かしておいて、いいのか……」
 イザークの瞳が真っ直ぐにキラを見つめる。
 キラは、息を呑んだ。
 その、瞳の強さに。
 いたたまれないほど真っ直ぐで、何の汚濁もない、澄み切った空のような青い色に、圧倒された。
 記憶がなくても、彼は、本来の彼その人なのだ。
 イザーク……。
 この人は、一体どんな人なんだろう。
「……俺はおまえたちの敵、なんだろう。殺さなくて、いいのか」
 イザークは淡々と続けた。
 乾いた口調は、まるで他人事のような白々しさを感じさせた。
「俺は、おまえたちの仲間を殺してきたんじゃないのか。俺の手は、おまえたちの仲間の血で汚れているんじゃないのか。こんな俺を……どうして生かしておく。どうして俺を――」
「――止めろっ!」
 キラの叫び声が、イザークの声を遮った。
 キラの声に驚いたように、鳥がぱあっと宙に舞い上がる。
 鳥はくるくる旋回しながら、さりげなく後ろへ飛んで行き、イザークの視界から消えた。
「……そんな、こと……ッ……!」
 激しい怒りをぶつけてくるキラを、イザークは静かな瞳で見つめた。そこには、ほんの僅かな戸惑いと躊躇いが、あっただろうか。
「キラ……」
「そんな、こと……言わないで……っ!」
 キラは俯いた。
「そんな、風に……」
 この人は、死にたがっている……。
 そう感じた瞬間、彼は軽いショックを受けた。
 死ぬことを、何とも思っていない者の、目。
 死ぬということに無関心であるだけなのか。それとも、本当に死にたいという気持ちを無意識下に抱いているのか。
 理由はわからない。しかし……そう、なのだ。
 たぶん、自分でも知らないうちに、自らそれを求めている。
 そんな、気がした。
 それが、無性に切なくて、悲しくて……たまらない気分になった。
「……あなたを殺すつもりなら、とっくにそうしている……!こんな風に、助けたりなんか、しない……!」
「………………」
 真剣に見つめる菫色の瞳。少年が一生懸命吐き出す一言一言が、痛いほど伝わってくる。
 あまりに純粋すぎる言葉に、怖れすら感じた。
「ぼくだって……」
 キラの声は、震えていた。
「……本当は、ぼくだって……もう、何人も、人を殺してる……守れなかったものも、ある……」
「キラ……」
 イザークは息を吐いた。
 肩を震わせて、必死で何かに耐えようとする少年を見ていると、自分の中でも何か同じような感情が沸き起こってくるような気がした。
 ただの、共感……?それとも……?
 もしかすると、自分も……そんな風に思ったことがあったのかもしれない。
 痛恨と悔い。強い自責の念に苦しめられ……。
 守りたかったのに……。
 守れなかった……。
 自分にも、そんなものがあったのだろうか。
 守るべき、何か。
 そんな、大切なものが……。
「――馬鹿なことを、言ったな。悪かった……」
 イザークはそう言うと、震えるキラの肩にそっと手を置いた。
 少年は驚いたように、顔を上げた。
「……だが、おまえこそそんな風に自分を責めるのは、やめろよ」
 イザークの瞳が、泣きそうな顔の少年の姿を映す。
 魅入られたように、呆然と見つめ返す少年の顔。
「……守れなかったのは、おまえのせいじゃないだろう……」
 大切なもの。
 守りたいもの。
 それは、誰にでもある。
 しかしそんな思いも、時に運命の力に抗しきれないときもある。偶然の悪戯に、翻弄され……人知の力ではどうしようもないことも、ある。
 誰が悪いわけでもない。
 人の運命、というものはそれぞれ偶然によって繋がっている。
 自分一人の力でどうにかできる、などと思うのは却って傲慢、というものだろう。
 ただの人である限り、その偶然を受け容れて、生きていかねばならないこともある。
「……確かに、守れなかったものもあるだろう。だが、それだけじゃない……」
 キラの瞳が不思議そうに瞬く。
 期待と不安に満ちた表情が真っ直ぐにイザークへ降り注ぐ。
 イザークはそれを力強く受け止めた。
「……守れたものだって、ある筈だ」
 イザークの言葉が、キラの苦渋に満ちた表情を徐々に解していく。
「ぼく、が……?」
「ああ、そうだ。現におまえは、こうして……」
 勇気づけるように注がれる青い瞳に、キラはなぜか自分の心臓の鼓動が速まるのを感じた。
「――おまえは、俺を助けてくれた……」
 言葉が、胸に響く。
 そこに込められた、誠実な思いが伝わってくる。
 嬉しいような、恥ずかしいような気持ちになって、キラは俯きながらのろのろと答えた。
「……ぼくは……あなたを、敵だとは……思って、ないから……」
 キラは、肩に置かれた手に、自分の手をそっと重ねた。
 生きた人間の温もりが、繋がる。
 意外だった。
 この人から、こんなに優しい温もりを感じることができるなんて。
 最初に出会ったときの、あの氷のような冷たい瞳を思い出す。
 自分に向けられたのは、恐ろしく激しい憎悪の視線だった。
 それが、今のこの人は、まるで別人だ。
 キラはそれを喜んでいいのかどうか、躊躇った。
 彼は今、一時的に記憶を失っている状態なのだ。
 それまで彼が抱いてきたキラ・ヤマトへのイメージは綺麗に抜け落ちている。
 だから、彼はこんなに優しい目で自分を見る。
 でも、本当は……違うのだ。
(……本当は、ぼくは……)
 彼の目には、自分はどう映っていたのだろう。
 最初に会ったとき、彼はなぜあんな目で自分を見たのか。
 恐らくは、知らない方がよいことなのだろうが、それでも気になった。
(彼は、なぜぼくを憎んでいるのか……)
 消えてなくなったわけではない。
 まだ、彼の内には、自分へのあの深く激しい憎悪の念が眠っている筈なのだ。
 そう思うと急に背中から凍りつくような寒気を覚えた。
 そんなひそやかな恐怖を振り切るように、キラは無理ににっこり微笑んだ。
 少なくとも、今の彼は怖い存在ではない。
「……大丈夫だよ。アスランが、迎えに来るから」
 ほろ苦い思いが広がる。それがどういう感情なのかはわからない。
 アスランが、この人を連れて帰る。
 だから、もう心配は要らないのだ。
 失った記憶も……一時的なものだから、きっと何とかなるだろう。プラントの技術は、あらゆる面において、ここ地球より遥かに進んでいるのだから。
 そう思いながら、心の中はどうもすっきりしない。
 無論この人を帰したくない、などと思っているわけではない。それほど、自分はこの人のことを知ってはいないし、そんな風に思う理由もない。
 しかし……。
 キラは戸惑いながら、その思いを認めざるを得なかった。
(ぼくは、この人のことを……)
 
 ――この人のことを、もっと、知りたい。
 
 単なる好奇心、なのか。それとももっと違う何か……?
 ふと、自分がこだわっているのは、アスランなのか、この人なのか、よくわからなくなった。
 肩に置かれた、手の温もり。
 触れているうちに、またさわさわと胸がざわめき始めた。
 間が悪くなったのか、イザークの手がすっと離れていこうとする。それを、思わず引き留めていた。
「……おい」
 イザークが困ったように声をかけるまで、自分のしていることに気付かなかった。
「――放せよ」
「あっ、ああ……ご、めん……」
 ようやく自分の手がイザークの手首を掴んでいることに気付いて、キラは顔を赤くしながらその手を放した。
 イザークはそんなキラを不思議そうに見つめた。
「変な奴だな。どうか、したのか」
「あ……うん。別に……」
 キラは曖昧に言葉を濁した。
「……何だよ」
「……その、ぼくは……」
「……ん?」
 イザークは、ふと眉を顰めた。
(キ、ラ……)
 頭の奥でその名前を繰り返す。
 すると、なぜか……どこからか、こだまのように違う声が返ってくることに気付いた。
 それは……
 誰の、声だったろう。
 
 ――キラ……。
 ――友だち、だったんだ。
 ――大切な、友だち……。
 ――殺したく、ない……。
 
 不思議なことに、それはさっき、目の前の少年の口から飛び出したものと全く同じ台詞だった。
 しかし、発している人物は違う。
 どこかで、自分はそれを聞いたことがあるのだ。
 イザークは、混乱した。
 どこで、誰が……。
 キラは、そんなイザークを見てほのかに不安げな表情を浮かべた。
(どうしたんだ……)
 イザークの瞳。
 一粒の、綺麗な、青い宝石。
 空と海に、溶け込んでいく、青。
 綺麗な、曇りのない色。
 ふ――と、突然、その美しい色に、影が差す。
「……あ……ッ……」
 急に、相手の表情が変わった。
 美しい顔が、苦悶に歪む。
「イザーク……?」
 キラはイザークの方に手を伸ばした。
 肩に触れかけた手を、強く弾かれる。
「う……あああ……ッ……!」
 イザークは呻きながら顔を両手で押さえると、そのまま後ろ向きにベッドの上に突っ伏した。
「イザーク、どうしたの!」
 キラは立ち上がると、イザークの体の上に屈み込んだ。
「……さっ、触るなっ!」
 体を触れさせまいとするイザークの激しい抵抗に、キラは愕然とした。
「イザーク……」
「……っ……!……」
 シーツに吸収される呻き声は最初何を言っているのか全くわからなかった。
「……た、い……」
 苦しげな声が途切れ途切れに不明瞭な音を発しているのがようやく聞き取れた。
「……い、た、い……」
「痛、い……?」
 キラはイザークの震える体に、再びそっと手を伸ばした。
 指先が触れた瞬間、拒絶される気配に怯えながらも、彼は意を決したように唇を噛み、その体に両手を強く押しつけた。
「……さ、わ、……る……な……ッ……!……」
「痛い、の……?」
 キラは手を放さず、その耳に宥めるように声をかけた。
「イザーク……」
 力を込めて、覆い被さるように、その体をかき抱く。
 抗う体を、慰撫するように抱き続けた。
「……暴れないで……大丈夫、だから……」
 唇が何度も繰り返し、耳元に囁く。
「……痛くない……」
「……痛、い……ッ……」
「……痛く、ないよ……」
「……う、そ、だ……っ……」
 痙攣し、震える体を、辛抱強く、抱き続けた。
「……嘘じゃ、ないよ。……痛く、ない……」
「……ほん、とう……に、……?」
「……うん……」
 銀色の髪を指で漉くように撫でながら、発作が鎮まるのを待つ。
 顔を少し上向かせて、包帯に手で触れてみたが、再び出血している様子はなく、キラはほっとした。
「……イザーク……」
 おとなしくなった体を、それでもキラはまだしばらくは手の中から放そうとはしなかった。密着する体温を、その息遣いを生々しいほどにその手の内に感じる。
 もう少し、抱いていないと、不安になる。
 あの、強い生命力を感じる生き生きとした青い瞳の色。
 強い、人だ。
 そう、思った。
 この人は、強い。……筈なのに。
 時々感じるこの脆さや危うさは、何なのだろう。
「……痛く、ないよ。……痛くない……」
 赤子をあやすように、繰り返す。
「……痛く、ないから……」
 イザークは、何も答えようとはしなかった。
 キラの腕の中で、いつしか安心したようにその乱れた呼吸はゆっくりと元のリズムを取り戻そうとしていた。
「……キ、ラ……」
「……何も考えない方が、いい」
 キラは素早く相手を制した。
 ――考えると、また痛みがあなたを苦しめる。
 そう言いかけて、ふと不思議に思った。
 そんなにも彼を苦しめるその痛み。
 それは本当に傷からくる痛みなのか。それとも他に何か理由があるのだろうか……。
 いや、しかし今はもうそんなことはどうでもいい。
 そうだ。今は、何も考えない方がいい。
 キラは自分で自分の暗い思考を振り払った。
 自分は今そう言ったではないか。
「……今は、何も考えないで……」
 相手に、同時に自分自身にも言い聞かせるようにそう呟くと、彼はイザークを抱く手に力を込めた。
 衝動、が駆け抜ける。
 もう、駄目だ、と思った。
 拒めない。
 磁力に引き寄せられるように……。
 運命なのだ、と思う。
 きっと、これは……。
 きっと……。
 銀色の髪を掬い上げる。
 瞬く瞳を見つめながら、唇に触れていた。
 もう、偶然や言い訳は通用しない。
 それは、はっきりとした、意図的なくちづけだった。

                                      (to be continued...)


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