呪  焔
 (16)










 夜の静けさに包まれた、野外区画を歩くのは、少し勇気が要った。それでもキラは、ひっそりと建物の影を伝いながら、目指す方向へ向かって歩いた。
(本当に、来ているのだろうか)
 言われた通りに、彼一人で……。
 少し不安になる。
 たとえ、幼馴染だったとはいえ、今は相反する陣営に分かれて戦っている身なのだ。
 しかも自分などとは違って、向こうは己の強い意志と信念に従って軍人としての責務を果たそうとしている。彼は決して偶然や運命などに左右されない。
 昔からアスランは、そうだった。
 表面上は穏やかに笑っていても、中身は決してそうではない。その不屈の意志と、実行力。そこには中途半端な感情は、微塵も入る隙間がない。いったんこうと決めれば、それが何であろうと最後まで必ずやり遂げた。
 そして、優柔不断な自分の背中をいつも最後に押してくれるのは、彼だった。そうでなければ、キラはいつまでも入り口で立ち止まっているままだったろう。
 それが、必ずしも全て正しかったのかどうかは、わからない。でも、そのお陰で随分彼に助けられてきたのは事実だ。
 だから……。
 キラの足取りはいつしか頼りなくなっていた。
 ――彼は、こんな風に、迷ったりしない。
 今、彼の目に映っているのは、連合軍の軍人としての自分。
 ストライクのパイロット。倒さねばならない相手。
 それなのに、自分は……。
 感傷に浸っているのは自分だけで、もしかしたら自分は酷く滑稽で愚かなことをしようとしているのではないか。
 急に、アスランに会うのが怖くなった。
(――話が、したい……)
 そう、自分は言った。
 話……。
 何の、話をしようというのだ。
 キラは立ち止まった。
 躊躇いが、生じる。
 ――今さら話なんかして、どうなる……?

(――キラ、おまえも一緒に来い!)
 
 あのとき……。
 ラクス・クラインを彼の元に返したとき。
 アスラン・ザラの最後の叫びが、未だに耳の奥に焼きつくように残っている。
 差し伸ばされた手を拒んだのは、自分だ。
 思えば、いつも優柔不断な自分が、なぜあんなに思い切ることができたのか……。不思議な気もする。
 以前の自分なら、アスランのあの強い誘いを、とても拒みきれなかっただろう。
 なぜ……。
 迷いがなかったといえば、嘘になる。
 自分自身の居場所など、どこにもないということは、最初からわかっていた。
 しかし、だからといって、ザフトに行けばそれが見つかったのだろうか。
 答えは……今でもわからない。
 ただ、コーディネイターだというだけで。
 それだけが、自分の存在意義であるかのように。
 そんな考えに、我慢できなかった。
 自分は好きでコーディに生まれたわけではない。自分には何の選択権もなかったのだ。
 そして、何よりナチュラルであろうとコーディであろうと……自分は、自分だ。
 そんな強い思いが……相手の手を撥ね退ける意志を生んだ。
(駄目だ)
(ぼくは、きみと一緒には、行けない)
(アスラン、ごめん……)
 あのとき、自分ははっきりと彼を拒絶したのではなかったか。
 それがどれだけ彼を傷つけたのか、わかっていて、それでも自分には……ああするしかなかった。

 キラは、自己を憐れむように、軽く息を吐いた。
 もう、終わったのだ。
 自分たちは、既に袂を分かった。
 次に行き着く所は、たぶん……。
 ――視界の端に、微かにちらつく光がよぎる。
 彼は慌てて目を上げると、暗い中を前方へ真っ直ぐ視線を凝らした。
 今度は、ちかっ、と光が閃くのをはっきりと確認する。
(……アスラン……!)
 それが相手からの合図だと確信した。
 もう、迷っている余裕はなかった。
 気付けば、駆け出していた。
 フェンスの近くまで来たとき、ようやく我に返って立ち止まった。
 落ち着かなげに周囲を見回す。
 暗闇の向こうから、おぼろげながら人らしき輪郭が現れたかと思うと、
「――キラ」
 ひそやかに、しかしはっきりとした呼びかけが、キラの耳膜を打った。
「……アス――ラン……」
 近づいてくる人影に、昼間以上に胸が騒いだ。
 夜の濃い影が、現実を覆い隠す。
 闇に溶け込む紫紺の髪の下から、厳しい瞳がこちらを睨むように凝視していた。
「……イザークは?」
 間断なく視線が動く。
 求める人物の姿を捉えられなかった瞳が、僅かに見開かれるのがわかった。
「――いない、のか?」
 驚きと同時に不審に満ちた声。
「……あ――う、ん……」
 曖昧な答えに、アスランは目を細めた。
「……何か、あったのか」
 鋭く問いかけてくる相手に、キラはますます返答に詰まった。
「――話が、違う」
 アスランは目を背けると、小さく息を吐いた。
「彼がいないなら、来た意味がない」
「彼は、いるよ」
 弾かれたように、キラは答えた。
 突然の強い返答に、アスランは目を見開いた。
「……嘘を吐いたわけじゃない。本当に、あの人はここに――」
「キラ……」
 アスランの顔が皮肉に歪むのが見えた。
「おまえ、何がしたいんだ」
「え……」
 改まった問いかけに、キラは戸惑った。
「……俺と話がしたい、なんて……今さら何言ってる?いい加減にしろよ。もう俺たちは月にいた頃の俺たちじゃないんだ。俺たちは、今、敵同士なんだぞ。本当なら、顔を合わせた瞬間に撃ち合いになったっておかしくはないんだ」
「そ、そんなこと、わかってる……けど――!」
「俺は、おまえと戦いたくはなかった。だから、何度もおまえにこの戦いから抜けるように言ったろう。おまえは、ナチュラルじゃない。俺たちと同じコーディネイターなんだ。しかも、軍人でも何でもない。俺たちと戦う必要なんて、まるでないのに。それなのに、おまえは……」
 アスランは唇を噛んだ。
「……民間人のくせに、あんな連合のモビルスーツに乗って……。どうせ、コーディネイターの力を連合軍の奴らに利用されているだけなんだろうに。何でそれがわからない。仲間を守る為だとか何だとかくだらない正義感に踊らされて……結局、人殺しの片棒を担がされてるだけじゃないか。――今まで、何人殺した?おまえ、俺たちの仲間をどれだけ殺したか、わかってるのかよ?……だから、あんなに、言ったのに。こうなる前に、おまえを引き戻そうとして、俺は何度もおまえを……何でおまえは、言うことを聞いてくれなかったんだよ。こんなことになる前に……くそっ……馬鹿だよ、おまえは……本当に、どうしようもない、馬鹿だ!……キラっ……!」
「……やめ、ろよ……アスラン……」
 今、きみの口からそんな言葉を、聞きたくはない。
 相手の苦渋を振り絞るような声をもはやそれ以上聞いていられず、キラは途中で耳を塞ぎたくなった。
 優しかった友だち。
 小さいときからいつも、一緒だった……。辛いとき、苦しいとき、自分のすぐ傍にいて、あんなに励まし、助けてくれた優しい友だちが……。
 今、友だちの目の中にあるのは、憎しみと怒り。そして……やるせないほどの悲しみの色。
 まともに見ていられなくて、目を背けた。
「俺をちゃんと見ろよ、キラ。……おまえ、俺と話がしたかったんだろう。だったら、逃げるなよ」
 アスランの声が、覆いかぶさるように響く。おそるおそる視線を戻した。
 翡翠の瞳と、目が合った。
 もはや、背けることはできなかった。
 ――もう、後戻りはできないのだ。
 相手の瞳はそう、明確に物語っていた。
「……おまえも、俺もお互いに大切なものを失ってしまったんだ。もう、二度と取り戻すことはできない。そして、おまえは俺の手を拒んだ……。そうしたのは、おまえ自身の選択だ。そのことで俺はおまえを責めようとは思わない」
「……………」
「――だが、今さらおまえの甘ったるい感傷に付き合わされるのは、御免だ。最後に俺が言った言葉を忘れたわけじゃないだろう。次に会うときは、敵としておまえを撃つ、と……あのとき、俺はそう言った筈だ」
「……忘れては、いないよ……」
 最後に、開いたコクピットの中から言い放たれた言葉。
 後悔は、しない。
 そう思いながらも、惜別の痛みに胸を突かれた瞬間だった。
「――おまえに、それを言いたかった。だから、ここまで来た。おまえの言う通り、誰も連れて来ていない。俺一人だ。これで、満足したか?」
「……………」
 自分は今、泣きそうな顔をしているだろうか。
 唇を痛いほど噛み締めながら、キラはそう思った。
 相手にそんな顔を見せたくない。
 今さらそんな弱い自分の姿を、アスランの前で晒したくはない。憐れみの目で見られたくはない。
「……キラ――?」
 アスランの瞳がふと、意外そうな光を浮かべる。
「……おまえ、泣いてない、よな……?」
「……なっ、何っ……!」
 キラは慌てて否定した。ついでに目を大きく見開いて何度か瞬きを繰り返す。
「ば、馬鹿言うなよ。ぼくは何も……!」
 ふ……と、アスランの引き結ばれた唇が僅かに緩むのを、今度ははっきりと確認した。
 自然に零れた吐息。
(アスラン……?)
 キラは不思議そうに、相手を見つめ返した。
「……おまえ、全然変わってないんだな」
 ほんの少し、声が和らぐ。
 昔のアスランみたいだ、と思いながら、キラはそんな風に思う自分を戒めた。
 ――今は、もう……。
「……おまえを苛めに来たわけじゃないんだ。――すまない」
 アスランは素直に謝った。
 そんなアスランの様子を見ながら、キラは涙が出そうになるのを、必死で堪えた。
 アスラン……。
 変わってないのは、自分だけじゃない。
 アスラン。きみだって、昔と同じ、アスランだ……。
 そうなんだろう。
「……イザークが、世話になった」
 アスランは、ぽつりと呟いた。
「――あいつを助けてくれたことには、礼を言う」
「……あ、あ……いい、んだ。そんな、こと……」
 キラは、ぎこちなく答えた。
「――本当は、その為に呼んだのに。馬鹿だね……ごめん」
 声が普通に出たことにほっとした。
 アスランと、話がしたかった。
 二人だけで、もう一度、会いたかった。
 それだけの為に、イザークを利用しただけだったのだ。
 そんな自分は、つくづく未練がましくて鬱陶しい人間だ。
 しかし、こうして会って話せたことは、やはり良かったのだと思う。
 結局は、優柔不断な自分を叱咤してくれたのも、昔のままのアスランだ。
 キラは、軽く息を吸い込んだ。
 引き返すことはできない。
 悲しいけれど、現実と向き合うしかない。それも本当のことだ。
 でも、まだ……。
 ひょっとしたら、未来は変わるかもしれない。
 今はそう、思うしかない。
「……えっと、その、ことなんだけど……」
 不意に今置かれている状況を思い出して、キラは困ったように言い淀んだ。
 イザークが、あんな風になっていることを、まだ話していなかった。
 そして……。
 急に、顔が火照るのを感じ、キラは自分たちが闇に包まれていることに感謝した。
 自分が、彼に対して抱いた一瞬のあの衝動的な感情。
(ぼくは、少しおかしくなっていたんだ……)
 アスランのことで、動揺していたせいかもしれない。
 合理的とも思えぬ言い訳だったが、そうとでも思わねば説明がつかない。そう、思い込もうとした。実際に、彼のいない今は、それで納得がいくような気がした。
 それでも、自分のした行為を思い出すと、途端に恥ずかしくなった。
 アスランが知れば、何と思うだろう。
 自分のことを、さぞや不埒で変態な奴だと軽蔑するだろうか。
 どう、しよう……。
 あの人が、そんなことをぺらぺら喋るとも思わないが。
 アスランには、絶対に知られたくない、と思った。
 それでも、記憶障害のことだけは説明しておいた方がいいと思い、口を開こうとしたとき――
「――あいつ、大丈夫だったか……」
 アスランが先に切り出したため、キラはそのことを言い出せなくなった。
 しかし逆にその懸念に満ちた顔を見て、相手が既にイザークの状態を知っているのかとキラは一瞬訝った。
「大丈夫、って……」
 相手の顔を窺うように、そっと聞き返す。
 アスランの口調は一転して歯切れが悪くなった。
「……あいつ、ストライクには、その……いろいろと因縁があって……」
 一瞬の躊躇いの後、彼は思いきったように、続けた。
「――あいつの、顔の傷……見たろう?」
「あ……うん。それ、は……」
 どきりとした。
 あの傷……。
 最初から、目についた。
 綺麗な顔に走る、一筋の凄惨な傷跡。
 たいしたものじゃない、といわんばかりに傷に触れながら、不敵に笑っていた彼。それが――
 突然痛がり始めたときは、本当に驚いた。
 そして、乾いた傷跡から噴き出した、生々しい鮮血……。
 胸騒ぎが、した。
 アスランは、何を言おうとしている?
 その先を、聞いてよいものかどうか、僅かな迷いが生じた。
 何か……
 取り返しのつかないことを聞いてしまうような、恐ろしく嫌な予感がする。
「……あの傷は……ストライクとの戦いでできたものなんだ」
 キラは、息を呑んだ。
 ――ストライク……?
 ということは、つまり、あの傷をつけたのは……。
「……ぼ、くが……」
 あの人を……。
 だから、初めて会ったとき、あんなに怒った瞳でこちらを睨みつけていたのだ。
 向こうは、最初から知っていたのだ。
 ストライクのパイロットが、自分だということを。
 でも、それじゃあ……。
 新たな疑問が生じた。
 一体、いつ、どこで……?
 どこで、彼と邂逅していたのだろう。
「おまえは、既にヘリオポリスで俺たちの大切な仲間を殺した。……俺にも辛いことだった。けれど、それが、イザークにとっては特に……」
 アスランの言葉はいったん途絶えた。
 ――仲間を、殺した……。
 キラには勿論わからないことだ。
 戦場で当たり前に戦った結果、負けた相手が必然的に命を落とした。ただ、それだけのことだ。キラには相手が誰なのかなど、わかってはいない。誰であっても、顔の見えない敵にいちいちそんな感情を残すほどの余裕はない。
 しかし……。
 その事実が、イザークをあれほどまでに追い詰めた。ストライクを追うことだけに、恐ろしいほどの執念を燃やし……。そしてその結果……。
「……知らなくてもいいことかもしれないが」
 キラの疑問に答えるように、アスランは静かに言い継いだ。
「イザークが乗っていたのは、連合から俺たちが奪取した例の機体の一つだ。Xナンバー……X102(デュエル)といえば、わかるな」
「……な……っ……?」
 何だって……という言葉さえ最後まで言うことができなかった。
 喉が、渇く。
 酷く、渇く。
 声を出すことができなくなった。
 言葉が、消える。
 頭の中のスイッチが不意に消えてしまったかのように。
 真っ暗になった。
 思い出したくもない、映像。
 宇宙のあの、音のない空間の中で……。
 赤い、残像。
 目の前で、大きく弾けて散っていく、あの光の華が、再び網膜を焼いた。
(嘘だ……)
 信じたく、ない。
 思い出したくないことを、無理に思い出させる相手が恨めしくなり、目の前の少年を睨みつけた。
「キラ……?」
 アスランが少し驚いた顔をする。
 自分の表情の変化に気付いたのだ。それがわかった。当たり前だ。自分はそれを隠そうとさえしていない。そんな余裕はない。
 胸の中を、嵐が荒れ狂う。
 自分でもどうしようもないほどの、凄まじい嵐が……。
 どうすれば、いいのかわからない。
 人を憎むということが、どういうことすら、わかってはいない。だが、これは……。
 この、感情は……。
 正も負も、全て飲み込んでいく。
 感情の波の激しさに、気が遠くなる。
「……キラ……大丈夫、か……おまえ……?」
 アスランが、急に遠くなる。
 もう、どうでもいい。
 何もかも、忘れた。
 大きな声で、笑いたくなった。
(ぼくは、一体何をしていたんだ……?)
 こんなに、近くにいたのに。
 自分の大切なものを、壊した存在。
 守ろうとした、小さな命。それを、無惨に奪い取っていったもの。
 それが、こんなに近くに……。
 なのに、ぼくは……。
 自分が何をしたいのか、何をしようとしているのか、わからなかった。
 ただ、じっとしてはいられなかった。
 自分の心の奥底で、思ってもいなかった何かが動き出す。
 それを、感じた。
「……アスラン……」
 乾いた声が、機械的に相手の名を呼ぶのがわかった。まるで、自分でないものが喋っているかのような、無味乾燥な声が不気味に響く。
 しかし、それを止められない。
 銀色の髪。青い瞳。
 綺麗な、顔。
 時折見せる、あの縋るような切ない表情に、騙された。
 
 イザーク、イザーク、イザーク……。
 あなたは、どうして……。
 どうして、ぼくの前に現れた……。
 
 キラは目を閉じ、やがて諦めたように、全ての感情を締め出した。
 
「……アスラン――悪いけど、イザークは、まだ返さないよ」

                                      (to be continued...)


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