呪  焔
 (17)











 ――悪いけど、イザークはまだ、返さない……――
 
 淡々と吐き出された言葉には、感情の欠片も入ってはいない。
 アスランは、目を瞠った。
 自分が聞き間違えたのか。
 キラの口から出た言葉とは、到底思えない。
 その凍りつくような冷たい響きに、ぞくりと悪寒が走った。
「……どういう……――」
 聞き返そうとしたときには、目の前にいた顔は既に向こうを向いていた。
「……アスラン……ごめん――」
 小さな声がそんな風に呟くのが耳に入った。
(ごめん、って……)
 嫌な予感に、身が竦んだ。
(何に、謝っているんだよ)
 どうして、こちらを向かない?
 募る焦燥と、不安。
 キラの様子が、おかしい。
 一体、どうしたんだろう。
 
 ――イザークを、返さない……。
 その言葉だけが、まるで何かの警鐘のように、いつまでも頭の中を回っている。
 返さない、だと……?
 イザークを返さない、と今、こいつはそう言ったのか。
「待てよ!」
 背中に向かって叫ぶ。
 微風が、少し強くなった。
 潮の匂いが鼻を突く。
 目の奥が、じわりと痛んだ。
 それでも、瞬きすらすることができなかった。一瞬でも目を閉じれば、忽ち相手の姿が闇の中に消えていきそうで、ただそれが怖いがゆえに。
「――約束が、違う」
 声が風に攫われていきそうだった。
 相手は反応する気配すら見せない。
「イザークを返すから、俺をここへ呼び出したんじゃなかったのか!」
 
 ――まだ、返さない……
 
 返事をしない背中は、無言で同じ言葉を繰り返しているように見えた。
(どうしたんだ……)
 急に態度の変わった相手に、アスランは戸惑うばかりだった。
「おいっ、キラっ!」
 キラは振り返らなかった。
 アスランは、柵に手をかけた。
「戻って来いっ!まだ話は終わっちゃいないだろう!」
 
 ――イザークを返さない、って……
 
 冗談じゃない。
 何で、そんな……
「イザークを、返せよ!」
 歩き出す相手の背中に、たまらず感情が爆発する。
「……あいつを……返してくれ!」
 懇願に近い声も、相手には届かない。
 アスランは拳を握り締めた。

 返す、と言ったはずなのに。
 
(――あ……っ……!――)
 
 アスランは激しい不安と恐慌に襲われている自分自身に気付き、愕然となった。
(……俺、は……)
 自分が事態をいかに甘く見ていたかということを、改めて思い知らされたかのようだった。
(俺は、一体何を考えていたんだ……?)
 
 ――俺たちは、今、敵同士なんだぞ。
 
 自分が今しがたキラに向かって言い放ったばかりの台詞が、甦る。
 それをわかっていなかったのは、本当は自分の方ではなかったのか。
 どこかで、甘い追憶に浸っている自分自身がいなかったか。
 だから、のこのこと呼び出しに応じて……。
 本当は、自分も……。
 イザークのことより、むしろキラと会って話すことの方に、妙な期待感を抱いてここに来たのではなかったか。
 キラがイザークを助けてくれた。
 そうとわかった瞬間、イザークは大丈夫だと思った。
 それよりも、それをきっかけに、まだキラと話すチャンスができたのだということに奇妙な高揚感を抱いていた自分。
(俺は……馬鹿だ)
 これは、戦争で。
 相手はかつての幼馴染だったとはいえ、今ははっきりとした敵側の人間で……。
 実際に連合のモビルスーツに乗って、自分たちの仲間を何人も殺している。
 イザークは、敵の領内にいる。彼は、敵の手に落ちたのだ。
 それを、自分はわかっていなかった。
 自分は、何て……。
 アスランは自分自身に対する怒りで弾けそうになる心を必死で抑えた。
 そうしている間にも、相手は目の前から遠くなっていく。
 本気だ。
 キラには、本当にイザークを返す意志がない。
(……イザーク……!)
「キラーっ!」
 夜の静けさの中で響く声の大きさにも頓着せぬほど、アスランは度を失っていた。
 振り返ることもなく、歩き去っていくかつての幼馴染の冷たい背中を見送りながら、アスランはどうすることもできない自分に歯噛みした。
 柵を握り締める手に、力が入る。
 建物の影に隠れて見えなくなったとき、アスランはちら、と頭上を見上げた。
 柵の高さはさほどでもない。
 だが……夜間は特に侵入者用のシールドが張られている危険性がある。
 普通考えれば当然のシステムだろう。
 それでも……。
(何とか……何とかできないのか)
 すぐ、目の前だというのに。
 一歩も踏み込むことができない、なんて。
「――やめとけよ。下手すりゃ、中に入る前にあの世行きだぞ」
 いきなり背後から声がかかり、アスランはぎょっとその場に居竦んだ。
 振り返る目の先に、二つの影が飛び込んでくる。
 薄闇に包まれていても、すぐにわかった。
「その柵を乗り越えるのは無理ですよ、アスラン。上は、電磁波でしっかりシールドされていますから」
「――ニコル……ディアッカ……」
 アスランは近づいてくる二人を見て、おもむろに眉を顰めた。
「おまえら……ついてくるな、ってあれほど……」
「リーダーが挙動不審だと、信用しろって言われても、そりゃあ、無理だろ……」
 ディアッカは悪びれもせず、にやりと笑った。
「今日、ここに来たときから、明らかにおまえ、変だったもんなー。イザークを迎えに、なんておまえ一人に任せられるかよ」
「ぼくも、どうしても気になって……すみません、アスラン。信用してないわけじゃなかったんですけど。何しろここはオーブ領内ですし……何か面倒なことになったら、と思って。悪いんですけど、ディアッカと一緒に後をつけさせてもらいました」
 ニコルはそう言うと、真剣な顔で付け足した。
「アスラン……何かトラブルがあるなら、ぼくたちにもちゃんと話して下さい。イザークのことだって、あれだけの説明じゃ、一体何がどうなっているのか……」
「………………」
 アスランは、厳しい表情のまま、黙って顔を背けた。
「――イザークを、返せー!……って?」
 ディアッカの口調には、僅かな苛立ちが混じっていた。
「……おまえ、確か、さっきそう叫んでたよな?」
「イザークを引き取りに、って言ってませんでしたか?イザークは、どうなったんです?まさか……」
 ニコルはそう言うと、不安げな眼差しで工場の建物群を見つめた。
「イザークは、まだ中に……」
「……そもそも何であいつが、中にいるんだよ!」
 ディアッカは苛立たしげに足で地面を蹴った。
「……ったく、どうなってんの?さっぱり、わかんねー」
 彼は再びじろりと、アスランを見た。
「――さっきのあいつ、さ。おまえ、知ってるんだろ?どういう関係なんだよ?俺たちに説明したときも、イザークは大丈夫だ、なんて妙に自信たっぷりだったけどさ。おまえのその根拠のない自信はどっからくんの?」
「………………」
「すかしてる場合じゃねーぞ。黙ってねーで、何とか言え!」
 痺れを切らしたディアッカが、アスランの胸元を掴み上げると、ニコルが慌てて中に入った。
「ディアッカ、ちょっ……やめて下さい!」
「……イザークがどうなってもいいのかよ!」
 ニコルの制止を振り切り、さらにディアッカはアスランを問い詰めようとした。
「ちゃんと説明しろよ、アスラン!」
 アスランは抵抗もせず、されるがままに任せていたが、ディアッカの追及に、ようやく口を開いた。
「――個人、的なこと、だ……だから、話したく、なかった……」
 その言葉が余計にディアッカの怒りを煽った。
「……てっめえ……そんなことで済まされるわけねーだろ!何が個人的だ。実際に俺たちみんなを巻き込むトラブルに発展してんだろーが!現にイザークがっ……!」
「――キラは……さっきの、あいつ、は……っ!」
 アスランはディアッカと目を合わせると、強い瞳で相手を見返した。
 アスランの襟首を掴んでいたディアッカの手の力が少し緩む。
「……俺の……幼馴染だった……あいつが、あの白いモビルスーツの、パイロット、なんだ……」
「……なっ……」
 ディアッカはぽかんと口を開けた。
 一度に流れ込んできた情報を処理しきれない、といった風だった。
「……お、おい。ちょっと待てよ……。ってことは、だから……なのか。おまえが、やけに自信持って足つきがここにいる、って言い切った理由」
「………………」
 頷くアスランを見て、ディアッカははあ、と軽く息を吐いた。
「――んで、そこに何でまたイザークが絡んでくんだよ?」
「……イザークも、それを知っている」
 アスランは、苦々しい表情のまま、答えた。
「――奴が、ストライクのパイロットだ、ということを。それだけで、十分だろう」
「まさか、イザーク……!」
 ニコルは言いかけて、はっと口を押さえた。
 ニコルが言わなかった言葉を、アスランは素早く頭の中に思い浮かべた。
 私怨……。
 わざと残した傷痕。
 ストライクへの彼の執着は、誰の目から見ても明らかだった。
「くそっ!……面倒なことになったな」
 ディアッカは吐き捨てるように言うと、アスランを乱暴に放した。
「どうするよ?イザークを、どうやってこっから出す?」
 ディアッカは忌々しげに目の前の鉄柵を見やった。
「ちょっと前までは、こん中にどうやって潜り込もうかって言ってたのに、何か妙なことになっちまってるよな」
「……工場の出入り口を見張って、入り込む隙を見つけるしかないですね」
 ニコルが緊張した面持ちで、呟いた。
 あまり具体的な方策を思いつかぬまま、三人は取り敢えず関係者用の門の前まで移動し、様子をみるということで、合意した。
「カーペンタリアには……」
「バッカ!んなこと、言えるわけねーだろ!」
 言いかけたニコルを、ディアッカが一蹴した。
「俺たちで、何とかするしかねーよ」
 ディアッカの瞳は深刻だった。
「……いくら任務が完了してるからって、イザークを置いて、帰還はできねーからな。――そうだろ、隊長?」
「……ああ」
 そう答えたアスランの視線は、ただ真っ直ぐに鉄柵の向こうへと注がれていた。
 
 
 
(……ストライク……)
 どこまでも伸びる薄暗い廊下を、歩く。
 歩きながら、胸の中で同じ台詞を呆けたように呟く。
(……ストライク……ストライク……ストライク……)
 息が切れて、呼吸が苦しい。
 なぜこんなに走ったのか、わからない。
 声をかけられたせいもあるが、それ以上に、あの場所から逃れたい……その一心が自分を追い立てた。
 心臓が爆発しそうなほど、波打った。
 同時に胸を締めつけられるかのような、苦痛と息苦しさに襲われた。
 『あれ』を見た途端――
 さながら自分の中の何かにスイッチが入ったようだった。
 いけないものを見てしまったかのように、全身が恐怖に竦み上がった。
 どこへ行けばよいのかわからず、迷路のような通路を闇雲に駆けた。お陰で、元いた部屋がどこだったのか、先程までいたあの格納庫の位置すらわからなくなっていた。
(どう、しよう……)
 よろよろと覚束ない足取りで歩きながら、イザークは途方に暮れていた。
 自分は、ここでは敵なのだ。ここにいては、いけない人間だというのに。
 こんな時間帯に、ふらふら歩いているところを誰かに見つかりでもすれば……。
(落ち着け)
 イザークは胸を押さえ、呼吸を整えようとした。
(……周りをよく見て……自分の走ってきた方向を思い出して……)
 次の角を通り過ぎた瞬間、不意に背後に人の気配を感じた。
 あっ、と思う間もなく、後ろから伸びてきた手に口を塞がれ、そのまま体を羽交い絞めにされる。
「……っ……!」
 突然の攻撃に、必死でもがくが、がっちりと後ろから体を捕えられて、どうしても逃れられない。
「……んーっ……!」
「――こら!そんなに暴れるなって……」
 激しく頭を振って相手の手から逃れようとするイザークの耳元に、聞き慣れた声が叱責するように囁いた。
 その声を聞いた途端、イザークはもがくのを止めた。
 同時に、口を押さえていた相手の手が緩む。
「俺だよ、俺!」
 ひそひそと、それでも聞こえるような強さで囁く声に、ゆっくりと顔を動かした。
「やーっと、捕まえたぞ。……ったく、手間かけさせやがって」
 金色の髪の男が、にんまりと笑いかけてくるのと目が合った。
「あ……――」
 フラガを見ているうちに、なぜか一度緩みかけた緊張が、また急速に高まってくるのを感じる。
(……あ、あ……)
 ――この、男は……
 さっき見たばかりの光景が脳裏に浮かぶと、イザークの頭の中は再び混乱を障した。
 白い機体。
 ストライクの中に、この男が……!
 そう、結びついた瞬間――
 治まったはずの恐慌が、再び押し寄せる。
「……は、な……せっ……!」
(俺に、触る、な……っ……!)
「……どうした?」
 イザークの表情の変化に気付いたフラガが不審気に眉を顰めたとき――
「おい、イザー……――?」
 全身の力を振り絞って、腕の中から飛び出したイザークを、虚を突かれたフラガは抑えることができなかった。
「イザーク……!」
 後ろから追いかけるフラガの声が、微かな緊張感を帯びる。
 しかし、逃れることで精一杯のイザークには、そんなことに気を回す余裕はなかった。
「……止まれ!そこは、立ち入り禁止区域で――……」
 ぴかっ、と赤い警告ランプが光るのが見えたときには、遅かった。
(……………!)
 耳をつんざくような、電子ブザーの警報音が鳴り響く。
 驚くほど、自分の体の反応が遅い。
 瞬く間に、光の網の目の中に捕えられていた。
 目の前に、白い焔が閃いた。
 全身を、衝撃が包む。
 一瞬、意識が弾け飛んだかと思った。
(……ああああ……っ……!)
 自分が叫んだのかどうかさえわからない。
 声のない、悲鳴。
 何も考えずに、そのまま意識を沈めてしまえば、苦痛から逃れられるのに、なぜかそれを許されなかった。
 それどころか、意識がどんどん浮き上がってくる。
 苦痛と一緒に、いろいろなものが一挙に体の底から甦ってくるかのようだった。
 頭の中で、警鐘が鳴り響く。
 それは、馴染みのある感覚だった。
 ほんの僅かな時間、それを手放していただけなのに、なぜかそれが戻ってきた今、あまりの重圧と圧迫感に、押し潰されそうな苦しさを感じた。
 
 
 なぜ。
 なぜ、こんなときに。
 俺は、それを思い出す……?
 
 
 忘れていた方が、良かったのか。
 いや、そんな筈はない。
 でも……。
 
 
 それは、さほど長い時間ではなかっただろう。
 むしろ、衝撃を受けたのは、一瞬の間でしかなかった筈だ。
 実際、その証拠に、意識を失う間もなかった。
 頭の中はこんなにはっきりしている。
 それでも……
 その一瞬で、また何かが、変わった。
 変容が、心を蝕む。
 
(この、感覚は、なん、だ……)
 
 固く冷たい床からゆっくりと顔を上げたとき、心配そうに見下ろしてきた相手と目を合わせたその青い瞳は、再び業火の焔の色を宿していた。

                                      (to be continued...)


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